生成AIの時代 ―大学で学ぶ意義―

  • 哲学専攻 下野 正俊 教授
  • 公開日: 2025年12月22日
  • カテゴリ: コラム

いろいろなところでAIや機械学習による予測・推測が利用されていますね。皆さんがスマホを開いて何かを検索したり視聴したりすれば、その内容は次の「おすすめ」に反映されていきます。どこかに出かける時、地図アプリに質問すれば、合理的な行き方だけでなく、電車の混雑状況、道路の渋滞状況まで教えてくれます。最近では、かなり自然な会話を行い、指示通りの文章や画像、動画、コードまで作成できる「生成AI」が急速に普及しています。生成AIは、まだ完全に「当たり前」の存在ではありません。けれども、検索の手助けや、翻訳、文章の下書き、画像の生成や補正など、私たちが気づかない場面で、私たちの日常に入り込みはじめています。私たちは、すでに「生成AIと共存する社会」の入口に立っているのです。

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今後、生成AIとの共存、共生はどんどん深まっていくでしょう。そうなったときに、皆さんの大学での学びはどう変わっていくのでしょうか。確かに、要約や下書きなど学習の補助にAIを使うのは有益かもしれません。けれども、だからといって講義のノートは全てAIに書かせ、要約させてしまえばいいのでしょうか?いっそのこと、レポートも、卒業論文もAIに代筆させてしまえばいいのでしょうか?だとしたら、皆さんが大学に進学して学ぶ意味とは一体何なのでしょうか?そもそも生成AIが何もかもやってくれるのだとしたら、学ぶことに意味があるのでしょうか?


あります。


かつて、人間は馬や犬との共生生活を始めました。人間は馬の移動力と犬の探知力を手に入れることで、ひ弱なサルに過ぎなかったそれまでの存在を脱して、地球上で優位に立つ生物の地位を得た、と見ることもできるでしょう。そしてその後、人間は文字を発明しました。記憶と口伝えという狭い範囲にとどまっていた情報が、時間と空間のへだたりなく拡散していくことになりました。文字として心の内容を心の外に出すことで、人間は、過去からの知識に支えられ、その場にいない人間にもそれを伝えることができるようになったのです。こうして人間は、意識がこの世界に現れたもの、すなわち文化の中に住むことになったのです。

時が経つにつれ、馬は自動車や航空機に、犬はさまざまなセンサーに換わりました。文字使用はやがて印刷術、そして今日のインターネットの世界へと繋がっていきます。人間は、身体においても精神においても、自分の機能を拡大、拡張してくれる技術を生み出し、それと一体化することを繰り返してきました。私たちが作り上げてきたテクノロジーとそれに支えられた文化は、全て私たちの身体、精神の延長です。人間は、テクノロジーによって身体と精神が拡張され作り出された世界の中に生きているのです。その中にあって、人間は、何をなすべきか(なさざるべきか)、何を命じるべきか(命じるべきでないか)を判断してきました。そうした意味では、世界とはその作り手である私たちが持つ理想や憧れや欲望を映し出す鏡でもあります。AIの時代になっても、この構造は変わりません。

だとすれば、大事なことは、鏡としての世界の中にあって、人間があくまでも主体であり続けるという意志を持つことです。もちろん、その意志は、危険にさらされてもいます。結局は便利さに負けて意志を捨てることがあるかもしれない。あるいは社会や制度が皆さんの思考能力を奪い、皆さんの意志を乗っ取ろうとするかもしれない。またはAIが作り出す偽情報に足下をすくわれるかもしれない。だからこそ、皆さんが主体であり続けるために、知識を身につけることと考え方を訓練することが必要になるのです。出典やデータといった根拠を自分で確かめ、問いを立て、自分の判断を言葉にする、こうした訓練です。言い換えれば、世界という鏡に映る自らの姿を前に、これでよいのか、このままでよいのか、と立ち止まって問い直し、もしも道が誤っていれば、方向転換を模索するための訓練です。

これからの時代を生きる皆さんが、そうした能力を身につけた先に、人間とAIが一つになって、これまで不可能だったことが可能になる未来が開かれることになります(馬や犬と共生し始めた時、人間にとって新たな世界が開かれたように)。これからの時代、皆さんが大学で学ぶ意味は、ここにあるのです。


ところで、この文章、人間である私(下野正俊)が書いたのでしょうか、それともAIが書いたのでしょうか?

人が紡ぎ出すもの。
人を揺り動かすもの。
人の歩みの標となるもの。
そのすべてが「文学部」。

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