記憶は定かでないのですが、私が携帯電話というものをはじめて購入したのは、今から20年あまり前、前世紀の終わりの頃だったように思います。数年前にはスマートフォンに買い替えて、わからないことがあったらネットに接続して調べたりしています。現金があまりないことに気づいたので、近くのコンビニに駆け込んで、ATMからいくらか引き出しましたが、昔は郵便局に行くしかなくて、土日にお金がない時はひと苦労したことを思い出しました。もっとも現代はキャッシュレスの時代で、いつのまにか私も支払いにカードを使うようになっていました。いろいろな道具やシステムがつぎつぎに生み出されて、信じられないくらい便利な世の中になったと、つくづく思います。
技術の進歩はめざましく、ついていくのがたいへんですが、世間で起きていることがらに目を向けると、「人間の本質はあまり変わっていないのではないか」と感じることがしばしばあります。いじめや差別の問題はなくならないし、詐欺まがいの手口も横行していて、やりかたも巧妙になっています。世界の各地ではさまざまな対立が再生産され、戦闘行為も繰り返されています。生活は便利になったけれども、人間や社会にかかわる問題は山積されていて、なかなか複雑です。ネット環境が整ったことによって情報があふれかえり、何がほんとうなのかわからない。こういう時代の中で、心身のバランスをとりながら生きていくのは、けっこう大変なことなのかもしれません。
ぼーっとテレビを見ていると、よくできたクイズ番組がこのごろ多いことに気づきます。誰かが作った「正解」が用意されていて、出演しているメンバーが、いろいろな回答をして、誰が速く正解できるか競い合うというパターンのものです。それなりに面白いのですが、考えてみると、現実の世界ではこういう場面はあまりないように思います。たとえばある会社で新製品を考案するというケースでみてみると、「これは必ずヒットする」という商品ははじめから用意されているわけではなくて、社員が集まって考えながら生み出すものです(はじめからヒット商品が決まっていたら、会議をする必要もありません)。ふつうに生活していく中でもいろいろの問題や悩みごとが起きますが、どうしたらうまく解決するか、「正答」が用意されているわけではありません。困ったらネットで調べればいい、というわけにはいかないのです。
こうした時代の中で、心身の健康を保ちながら生きていくために、必要なものは何なのでしょうか。よくはわからないのですが、しいていえば、「そこそこの知識」と「あれこれ自分で考え、工夫する力」、そして「ほかの人の話をよく聴いて、場合によっては自分の考えを改めることもいとわない、頭脳と心の柔軟性」といったことがあげられるのではないかと思います。そしてこうしたことがら(能力)は、「いろいろなことをやってみる」ことによって身につくもののようです。大切なのは、知識を蓄え思考を鍛える経験を重ねることなのです。
長い年月をかけて科学の研究は大きく進み、自然現象も説明できるようになりました。人間の体のしくみも解明され、多くの病気が治療可能になっています。私たちはそうしたありがたい時代を生きていますが、それでもなお「よくわからない不思議なこと」がたくさんあるように感じているのではないでしょうか。「自分の気分がこんなふうに変わっていくのはなぜなのか」「人々が集まると、どうしてこういうことが起きるのか」「あんな言葉を使ってしまったけれども、そもそもその言葉はどのように生まれ、広まっていったのか」…こうした「ささいなこと」に気づいて、あれこれ考えてみるというのは、実をいうととても大切で、意味のあることかもしれないのです。そして「大学の文学部で学ぶ時間」というのは、まさしくそういう経験を積む場だといえます。
愛知大学文学部は人文社会学科・歴史地理学科・日本語日本文学科・心理学科で構成されていて、それぞれの学科の中に「専攻」というものがあります。全部で13の専攻があり、哲学・文学・歴史学・地理学・社会学・心理学というように、「人間」「社会」「ことば」「環境」といったさまざまな問題に切り込む広汎な学問分野を配置しています。1年次には幅広い学問にふれて基礎的な知識と素養を身につけ、2年次からは専攻に属して、特定のことがらについて深く学び、自分であれこれ考えながら分析を進めていきます(うまくいけば、誰も気づいていない「新たな発見」ができるかもしれません)。
自分のまわりに広がっているいろいろな現象に目を向け、楽しみながら深い学びを経験してみるのもいいかもしれない。そうお考えの方がいましたら、ぜひ「文学部の扉」を開いてみてください。お待ちしています。