小倉正恒と簡斎文庫
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簡斎・小倉正恒

簡斎・小倉正恒像
(『愛知大学 漢籍分類目録』より転載)


簡斎文庫は、小倉正恒によって形成さた漢籍コレクショである。本項では、小倉の生い立ち、経済界での業績とともに、彼の中国とのかかわりに焦点を当ててその生涯を概観する。

 生い立ち

簡斎は、1875年石川県金沢市の旧加賀藩士の家に生まれた。小学校の同級に泉鏡花がおり、ほかにも徳田秋声、西田幾多郎、鈴木大拙らと同郷で年齢も近い。第四高等中学校時代に漢学者・三宅真軒の教えを受け、漢詩を学ぶ。こののち『史記』を愛読し、折に触れて漢詩で述懐をなす。1897年、東京帝国大学法科大学を卒業し内務省に入った。英法科に学び、のちに欧米に遊学もしたが、思考の基礎は漢学にあったと思しい。また漢詩によって思いを述べることができたことからすれば、漢籍に親しみ、それを使いこなす能力を身に着けていたことは疑いない。

住友での活躍

戦前の住友財閥は、現在のような緩い結束の企業グループではなく、住友本社のもとで一体となって企業活動を行っていた。また住友家の当主はほとんど実際の運営にはかかわらず、総理事が全体を統括していた。小倉は1930年より1941年までその地位にあった。この時期は、別子銅山に起源をもつ住友が日本を代表する企業集団になった時期と重なる。財界人としての活躍を記すことは本展の趣旨ではないので、詳細は参考文献として掲げた諸書をご覧いただきたいが、個人評伝が4種も刊行されていることからもその見識と人望がしのばれよう。


現代中国との関り

小倉は、住友退任とともに近衛内閣で大臣を務めた後、南京国民政府全国経済委員会最高顧問となり、それに伴って南京に赴いた。1944年のことである。敗戦を南京で迎え、そのあと上海に徙り、1946年帰国した。以後は教育・文化面での日本復興に勤めることになる。石門心学・修養団・懐徳堂などにかかわる仕事である。なかでも精力を注いだのは郭沫若在日中の蔵書を基礎とする「アジア文化図書館」の創設であった。1948年の簡斎文庫の愛知大学への移譲と合わせ、文化理解の基礎としての図書事業を重視していたことがうかがわれる。また上海の拠点を失った東亜同文書院大学は、戦後新制大学の愛知大学としてのスタートを切ることができたが、その際此の簡齋文庫は礎となった。

簡斎・小倉正恒略年譜

1875年:322日 石川県金沢市に加賀藩士の長男として生まれる。

1880年:金沢養成小学校入学。同級に泉鏡花。

1892年:第四高等中学校本科に入学。三宅真軒の教えを受ける。

1894年:東京帝国大学法科大学英法科入学。学友に美濃部達吉。日清戦争

1897年:大学卒業、内務省に入る。

1899年:住友に入る。

1900年:商務研究のため英仏独米へ出発。1902年帰国。

1904年:日露戦争起こる。大徳寺に参禅。

1913年:住友総本店支配人。

1916年:中華民国、満州、朝鮮視察。

1927年:懐徳堂記念会理事長。

1929年:中華民国、満州、朝鮮視察。

1930年:住友合資会社総理事。

1932年:満州国成立。大阪府立図書館商議員。

1933年:貴族院議員。

1937年:株式会社住友本社代表取締役、総理事。

1941年:太平洋戦争起こる。総理事退職。近衛内閣国務大臣、大蔵大臣。

1943年:東亜同文会理事。この年、上海、南京、北京、新京歴遊。

1944年:南京国民政府経済最高顧問として訪中。

1945年:敗戦。8月上海へ移る。

1946年:3月、上海より帰国。貴族院議員ほか政治経済関係諸役員辞任。

1947年:公職追放。(1951年解除)

1948年:住友本社解散。簡斎文庫を愛知大学に移譲。

1952年:石門心学会会長。

1956年:沫若文庫(アジア文化図書館)建設委員長。

1961年:1120日歿(87歳)。法謚、正覚院殿恒心簡斎大居士。青山墓地に葬らる。