小倉正恒と簡斎文庫
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愛知大学と簡斎文庫 

簡斎文庫の成立

小倉簡斎はあくまで財界人であり、漢学に関して教育・研究の立場に就くことは無かった。彼の蔵書が充実しているのは、彼自身の漢学癖だけにその理由があるのではないようである。上京までの金沢時代に三宅真軒らの薫陶を受け、生涯を通じて漢詩を折に触れて作成するだけの漢学の素養を簡斎は持っていた。そして漢詩の作成には少なからぬ書籍が手元にあることが必要なのも事実である。しかし簡斎文庫という漢籍コレクションは、それら漢詩作成の必要上という限度をはるかに超える充実を見せている。それには、漢詩の師でもある木蘇岐山が1916年に没した後、その蔵書を引き受けた(1)ことにあるかもしれない。

 

小倉正恒と愛知大学

簡斎は晩年、東京に3か所、関西には兵庫県の垂水と大阪の阿倍野に地所・建物を所有していたが、いずれも空襲などの火災を罹らなかった。蔵書は阿倍野の松風荘に置かれ、失われずに済んだ。また簡斎は様々な文化事業にかかわった。例えば以下のものが挙げられる。

1916年 財団法人懐徳堂記念会理事(1927年理事長)

1935年 東洋文庫の理事

1930年 大阪商科大学(現大阪市立大学)商議員

1931年 帝室博物館復興翼賛会監事

1932年 大阪府立図書館商議員

1943年 東亜同文会理事

簡斎は蔵書を当初懐徳堂に寄付の心づもりであったようであり(注2)、1944年には大阪市立大学の山根徳太郎に整理と蔵書目録の作成を依頼していた。山根は「難波宮」発見で知られる考古学者である。「その尽くの克明な書目解題を完成した」とされるが、書目、解題とも愛知大学には伝存していない。

1948年に、簡斎の蔵書は愛知大学に寄贈された。かつて1943年に簡斎は東亜同文会の理事となっていたし、それに先立って1929年上海訪問の際は同文書院を見学、東亜同文書院出身の上海住友洋行支配人・福田千代作が現地案内をしたりしており、東亜同文書院を意識することも多かったであろう。『愛知大学漢籍分類目録』例言には「簡斎文庫は、昭和二十三年、東亜興業社長梅村清氏(現本学監事)のご厚意により本学に譲渡された簡斎小倉正恒先生の旧蔵書である」と記す。梅村氏は、豊橋出身の実業家である。上記漢籍分類目録には、詳しくは記載されていないが、梅村氏が買い上げて愛知大学に寄贈したものらしい(注3)。また「本書の編纂には、文学部教授内藤戊申と図書館司書鈴木清水が終始その事に当たり、中途に、当時文学部副手であつた今泉潤太郎、藤井宣丸両君の参加を見、かつ新村徹君等学生諸君の助力をも得た」と記す。先に記したように、簡斎所蔵時代に山根徳太郎による書目解題が存在していたはずであるから、愛知大学への譲渡に当たっては、内藤戊申(東洋史)や図書館学の見地からの見識を加えてこの漢籍目録のかたちとなったと思しい。当時副手として編纂に携わられた今泉潤太郎名誉教授は、内藤戊申教授の綿密な仕事ぶりを今でも明瞭にご記憶である。

なお当初企図されていた懐徳堂ではなく、愛知大学へ譲渡されたことに関しては、諸書を検するも詳細は不明である。ただし「簡斎文庫漢籍分類目録」の題字は「特に懇望して小倉簡斎先生に揮毫をお願いした」とあり、簡斎自身も愛知大学への譲渡を承知し、協力的であったことは疑いない。また上海にあった東亜同文書院は、敗戦によってほとんどの資産を失った。そのほかの本土外教育機関の学生や教員が一体となって設立したのが愛知大学である。幸いに豊橋の旧陸軍師団跡に地を得ることができたが、学術資産はほぼ無きに等しかった。その状況に、かつて東亜同文会の理事も務めたことのある小倉は、支援の意を強くしたのかもしれない。長くかかわった懐徳堂のほか、東洋文庫、帝室博物館、大阪府立図書館などでなく、愛知大学に簡斎文庫が移譲されたことをありがたく思う。なお同漢籍分類目録には「写真の簡斎先生寿像は、文庫と共に本学図書館の所蔵にかかる」と記されるが、のち住友銀行の要望により、譲渡されて、現在愛知大学は所蔵していない。住友の人々の簡斎への敬慕の情のなお強いことを知ることができる。

     

注1:『(住友本)小倉正恒』169ページ

注2:『(住友本)小倉正恒』441ページ

注3:『実録 昭和太閤記ー梅村清波乱の生涯』斎藤健治 文 梅村昭允 編集・発行308ページ