楊万里 Yang Wan li (南宋)

 楊万里(1127~1206)、字は廷秀。号は誠斎。吉水(江西省吉安)の人。紹興二十四年(1154)の進士で、秘書監・太常丞・宝謨閣直学士に任ぜられた。金に対抗することを強く主張したために宰相の韓侘冑を怒らせ、官を辞して閑居すること15年、最後は憂憤を発して死んだ。吉州吉水(江西省吉水県)の人。紹興二十四年(1154)進士に及第、贛州(江西省贛県)司戸に任命され、ついで永州零陵(湖南省零陵)の丞に転じた時、その地に流されていた抗戦派の張浚(1097~1164)から「正心誠意の学」に努力すべきことを教えられ、生涯その教えを守った。書斎を誠斎と名づけ、誠斎野客と号したのは、そのためである。孝宗の時、中央に召され、国子監博士、太常博士などを歴任。淳熙十一年(1184)には宰相王淮(1126~1189)の問いに答えて、朱熹・袁枢等60人の人材を推薦した。その間、しばしば時政を論じ、抗戦を主張して権力者にうとまれ、地方に出されることが多かった。寧宗が即位すると、宝文閣待制にのぼって致仕し、故郷に隠退した。当時、韓侂冑(1152~1207)が権力を握り、政治をほしいままに動かしていたが、その専横をかねてから憎んでいた楊万里は、侂冑の無謀な北伐の消息を耳にすると、急いで紙筆をもとめ、侂冑の罪状を書きつらね、妻子への別れの言葉を記して、息をひきとったという。もともと貧しい家に生まれた彼は、一生を清貧に甘んじ、質素な生活を送った。死後、光禄大夫の位を贈られ、文節と諡された。楊万里は、南宋の著名な「中興四大詩人」の一人(他には范成大・陸游・尤袤の三人)である。その詩は初め黄庭堅に学び、後に陳師道・王安石に学び、更に転じて晩唐の詩人の絶句に学び、最後に独自の道を切り開き、新鮮活発・平易自然・霊活円滑な詩風を形成し、当時の人はこれを「楊誠斎体」と称した。『楊誠斎集』がある。陸游・范成大とともに「南宋三大詩人」と呼ばれ、それに尤袤を加えて「四大家」とも称される。はじめは江西派に学んだが、のち独自の詩風を開き、日常おりおりのことを自由にうたい、陸游につぐ多作の詩人である。現存の4200余首の作品は、生前みずから官をうつるごとに一集ずつにまとめられ、『江湖集』『荊渓集』『西帰集』『南海集』『朝天集』『江西道院集』『朝天続集』『江東集』『退休集』の九集が成立した。彼の死後、息子の長孺が詩文を合わせて『誠斎集』133巻を編定、さらに門人の羅茂良が校定を加えて刊刻した。詩だけをまとめた集に、二十世の孫振鱗が編み、清の乾隆六十年(1795)に刊刻した『楊文節公詩集』42巻がある。

 過松源晨炊漆公店  松源を過ぎ漆公の店にて晨炊す

莫言下嶺便無難  言う莫れ 嶺を下れば便ち難無しと
賺得行人錯喜歓  行人を賺(すか)し得て 錯(あやま)りて喜歓せしむ
正入万山圏子裏  正に入る 万山 圏子の裏
一山放出一山攔  一山 放出すれば 一山 攔(さえぎ)る


〔詩形〕七言絶句  〔韻字〕難、歓、攔(上平声・寒韻)

○松源 地名。今の江西省の北部にある。 
○晨炊 火をたいて朝食を作る。 
○漆公店 漆という姓の人が開いている旅館。 
○莫言 言ってはならない。 
○賺得 だまして。

 松源を通り過ぎ、漆公の旅館で朝の炊事をした時に

 「峰を下れば、もうこれで難儀はない」などと言ってはならない。
それは、旅人をだまして、間違って喜ばせることになる。
今まさに、万山の圏子の中に入ったのだ。
一つの山から抜け出したと思ったら、また一つの山につかまえられる。


 山歩きをしたことのある人は、誰もがこのような体験をしたことがあるだろう。しかし、詩人が一たび詩の言葉を用いてそれを伝達すると、また格別に情趣がある。一山越えてまた一山。一難去ってまた一難。この詩は山々の中を歩き回る情景を表現しているのみならず、ある種の人生の哲理を説いてもおり、理趣に富み啓発的である。