欧陽修 Ou yang Xiu (北宋)

 欧陽修(おうようしゅう)(1007~1072)、字は永叔(えいしゅく)。みずから酔翁(すいおう)と号し、晩年には六一居士(りくいつこじ)と号した。廬陵(ろりょう)(江西省吉安)の人。4歳の時に父を失い、貧しい中で苦学し、天聖八年(1030)に進士に合格した。政治的には范仲淹(はんちゅうえん)らと同じく改革派の側に立ち、しばしば地方に左遷されたが、後には中央に返り咲き、枢密副使、参知政事などの要職を歴任。晩年は潁州(えいしゅう)(安徽省阜陽)に隠居し、没後に文忠と(おくりな)された。すぐれた政治家であると同時に当時の文壇の指導者でもあり、散文、詩、詞、史学、考古学、天文学などの各方面に大きな業績を残した。散文では「唐宋八大家」の1人に数えられ、曽鞏、蘇軾、蘇轍ら多くの後進を育てた。詩歌の面では唐の李白と韓愈を重んじ、質実な詩風を提唱した。『文忠集』がある。
(注)欧陽修は欧陽が姓、修(脩とも書く)が名。

  別滁  (じょ)に別る    
    
花光濃爛柳軽明  花光(かこう)濃爛(のうらん)にして 柳は軽明(けいめい) なり
酌酒花前送我行  花前(かぜん)に酒を()みて 我が(こう)を送る
我亦且如常日酔  我も()(しばら)くは常日(じょうじつ)(ごと)く酔わん
莫教弦管作離声  弦管(げんかん)をして離声(りせい)()さしむる()かれ


〔詩形〕七言絶句 〔韻字〕明、行、声(下平声・庚韻)

○滁 滁州(じょしゅう)。今の安徽省にある。同地で欧陽修が書いた「酔翁亭(すいおうてい)の記」は有名。
○花光 花の輝き。
○濃爛 色濃く目にまばゆいこと。花があざやかに咲きほこっているさま。 
○柳軽明 軽やかに明るい。ヤナギの葉が風に吹かれてひらひらとゆれ動き、また日の光を反射させているさま。
○酌酒 酒をくみかわす。
○行 出発。旅立ち。
○且 しばらくの間。
○如常日 いつものように。普段と変わらぬように。
○莫教 ~させないでくれ。「莫」は禁止の命令。「教」は「使」と同様に使役を表す。
○弦管 弦楽器と管楽器。「管弦」に同じ。
○作離声 物悲しい送別の音楽を演奏する。

 《滁州に別れを告げる》

花は春の光をあびてまばゆいばかりに輝き、柳は軽やかに揺れながらきらめいている。
滁州の町の人々は花の前で酒を酌みかわしながら、長官である私の旅立ちを見送ってくれる。
私もまたしばらくは、普段と同じように酒に酔うことにしよう。
どうか琴や笛に、もの悲しい送別の音楽を演奏させないでおくれ。

 欧陽修は、慶暦(けいれき)五年(1045)から七年(1047)まで滁州の太守をつとめましたが、翌年春に揚州(江蘇省)に転任することになりました。彼は滁州を治めてすぐれた実績をあげたので、町の人々は彼を慕い、心のこもった送別の宴を催してくれました。そこで欧陽修はこの詩を書いて滁州の人々に別れを告げ、彼の名残を惜しむ気持ちを表現したのです。第1句は春の季節の特色をうたい、第2句は送別の酒宴の情景をうたっています。後半2句は、平静を装いつつもおのずからにじみ出る別れのつらさを、婉曲に表現しています。このように、感情をストレートに表現せず、抑制的であることは、宋詩の特色の一つです。なお後半は「亦」「且」「如」「莫」「教」と詩歌ではあまり使われない助字を多く用いており、散文的な表現になっていることにも注意したいですね。散文的であることは宋詩の基本的な特色ですが、その傾向が欧陽修に端を発することは、銭鍾書氏も『宋詩選注』の欧陽修紹介で指摘しています。