〔伝記〕
陸游(1125~1209)(1)字は務観、越州山陰の人。12歳で詩や文を作ることができ、蔭補(2)によって登仕郎となった。鎖庁試(進士科の予備試験)では第1位に推薦されたが、秦檜の孫の秦塤がたまたまその次席になっていた。このため秦檜は怒り、試験の監督官を処罰するに至った。その翌年、礼部の試験を受けたところ、試験の監督官は再び陸游を上位に置いた。秦檜は、露骨にこれを落第させた。孝宗が即位すると、進士出身相当の資格を賜り、地方に出て通判建康府(3)となり、それから間もなく隆興府に転任となり、免職されて故郷に帰った。しばらくして、通判夔州となった。王炎が四川・陝西方面の宣撫使となると、陸游を招いて幹辦公事とした。陸游は王炎のために進撃の方策を述べ、中原を攻略するには、必ず長安から始め、長安を奪取するには必ず隴右から始めるべきだと主張した。范成大が蜀の長官となると、陸游はその参議官となった。詩文によって交際し、礼儀作法にこだわらなかった。人がその放埒な態度をそしったので、みずから「放翁」と号した。
その後、江西常平提挙、厳州の知事などを歴任した。嘉泰二年(1202)、孝宗、光宗両朝の実録及び三朝史(4)がまだ完成していなかったため、勅命によって陸游を権同修国史実録院、同修撰とし、間もなく秘書監を兼ねることになった。嘉泰三年、歴史書は完成し、こうして宝章閣待制に昇進し、致仕(隠退)した。嘉定二年に亡くなった。享年85であった(『宋史』巻395の陸游伝(5)より抄録)。
陸游と
汲古閣の『宋六十家詞』には『放翁詞』一巻があり、呉氏双照楼の『景宋元明本詞』には『景宋本渭南詞』二巻がある。
(1)陸游の卒年月日は、西暦に換算すると1210年1月26日である、というのが、通説である。銭鍾書氏の『宋詩選注』は、陸游の生卒年を「1125~1210」としている。
(2)蔭補 一定の地位に達した官僚の子または孫が、その恩恵を受けて官位を授けられること。
(3)通判建康府 正しくは、通判鎮江府。
(4)三朝史 小川環樹氏の『中国詩文選20 陸游』(1974年2月、筑摩書房)によれば、おそらくは南宋の高宗、孝宗、光宗の三代の本紀のこと。
(5)『宋史』巻395の陸游伝 注(4)に引いた小川環樹氏の書に、『宋史』陸游伝の全訳及び解説が掲載されている。
(6)陸淞 陸游の長兄。銭仲聯氏の『剣南詩稿校注』(1985年9月、上海古籍出版社)の「山陰陸氏世系」によれば、陸游は4人兄弟の三男にあたる。
(7)『鶴林玉露』巻四 題は「陸放翁」。引用されている陸游の詞は「長相思(橋如虹)」の前半で、原文は「橋如虹、水如空、一葉飄然煙雨中、天教称放翁」。
〔集評〕
南宋・劉克荘は、次のように言う。「放翁(陸游)の長短句(詞)のうち、激昂し慷慨しているものは、稼軒(辛棄疾)もこれを越えることができない。飄逸で高妙なものは、陳簡斎(陳与義)や朱希真(朱敦儒)と肩を並べている。流麗で綿密なものは、晏叔原(晏幾道)や賀方回(賀鋳)の上に出ようとしている。しかしながら、これを歌う者は非常に少ない(『後村大全集』巻180「詩話続集」)。
(劉克荘は)また次のように言う。「放翁と稼軒は、繊細で艶麗な作風を一掃し、こと細かに字句を彫琢することをしないが、ただしばしば書物から多くの言葉を引用し、学識をひけらかそうとするのが、どうしても気になる癖である」(『詞林紀事』巻11より引用)。
明・毛晋は、次のように言う。「明・楊用修(楊慎)は、『放翁の詞は、繊細で華麗な所は淮海(秦観)に似ており、雄渾で慷慨している所は東坡(蘇軾)に似ている』と言っている。私が思うに、超然として爽快な所は、更にその上稼軒に似ている」(『放翁詞』跋)。
清・劉熙載は、次のように言う。「陸放翁の詞は詩歌の正統に安んじ、清らかで内容が充実しており、その最もすぐれたものは、蘇(軾)と秦(観)の間にある。しかしながら、超然とした風致、天性の気韻に乏しいため、人はその結末を予測できる)」(『藝概』巻4)。
清・馮煦は、次のように言う。「剣南(陸游)は繊細で艶麗な風格を排除し、彼独自の風格を樹立した。その多彩で沈鬱な風格は、これと同じものを宋代のその他の諸家の作品に求めても、まず比較すべきものが見当たらない。『四庫全書』の「提要」が『詩人の言葉は結局のところ詩歌の正統に近く、一般の詞人たちの艶麗なうたいぶりとは違っている』と評するのは、正しい。(しかしながら)『(陸)游は東坡と淮海の間に馬を乗りいれようとし、それゆえその長所をすべて兼ね備えているが、それでいていずれもその極みには達することができなかった』とまで言っているのは、あるいは放翁にとっては不本意なのではなかろうか」(『宋六十一家詞選』例言)。