陸游 Lu You (南宋)
陸游(1125~1210)、字は務観。号は放翁。越州山陰(浙江省紹興)の人。祖父の陸佃は王安石の弟子で、父の陸宰(1086~1147)は一万三千余巻の書物をもつ蔵書家であった。陸游はその第三子である。紹興二十三年(1153)、科挙の省試に応じ、秦檜(1090~1155)の孫の塤と首位を争い一位で及第し、秦檜のうらみをかった。翌年の殿試でもやはり成績は一位であったが、秦檜の妨害で落第させられ、かわって秦塤が首席で合格した。以後しばらく任官もままならなかったが、秦檜死後の紹興二十八年(1158)、ようやく福州寧徳(福建省寧徳)の主簿につくことができた。同三十年、都に帰り、やがて孝宗が即位すると進士出身の資格をうけ枢密院編修にとりたてられる。しかし孝宗の側近の専横を批判したことがあだとなって再び地方に出され、鎮江通判を経て隆興(江西省南昌)通判となる。このとき、三年前に北伐の軍をおこして死んだ張浚を支持する意見を公表、弾劾され免職処分をうけ、故郷に帰り鏡湖の三山に居をかまえて住んだ。
乾道五年(1169)の暮に夔州(四川省奉節)通判に任命され、翌年赴任してから8年間、蜀の各地を転々とする。中でも、四川宣撫使の王炎に招かれて金軍と対峙する興元(陝西省南鄭)の駐屯軍に参加したことは、抗戦派陸游の最も充実した時期として、終生かれの心の中に生きつづけた。その後、成都では四川制置使范成大の幕客となり、階級をこえた文学上の交際ぶりが人びとに非難されて官を辞したが、そのときみずから「放翁」と号して非難に答えた。淳熙五年(1178)、都に召還され、蜀を離れる。同年の秋には提挙福建常平茶塩公事となり、ついで提挙江南西路常平茶塩公事に転じて撫州(江西省臨川)に赴任する。撫州在任中、水害で官米を出したのをとがめられ、職を免ぜられ帰郷する。淳熙十三年春に厳州知事に任命され、淳熙十五年まで厳州に赴任。ここで20巻本の『剣南詩稿』を刊行する。その後臨安に赴き朝廷で勤務するが、友人の周必大が失脚すると、これに連坐して失脚。韓侂冑の招きで1年ほど臨安に出たことをのぞけば、以後没するまでの20年間、ほぼ故郷で過ごす。嘉泰三年(1203)、79歳のときに就任した宝謨閣待制を最終官とする。韓侂冑の北伐を支持したために名誉を剥奪され、失意のうちに世を去った。祖国恢復の情熱を最後までもやしつづけた陸游は、愛国主義者として知られると同時に、律詩を中心とするはば広い詩作活動により南宋最大の詩人と讃えられている。友人の楊万里・范成大と「南宋三大詩人」の一人であり、尤袤を加えた「四大家」の一人でもあるが、かれを第一に推すことに、ほとんど異論はない。また多作の詩人としても名高く、詩集『剣南詩稿』85巻には9000余首が収録され、散文集『渭南文集』50巻とともに、『陸放翁全集』の大著にまとめられている。『文集』中、紀行文の『入蜀記』、『天彭牡丹譜』等、別行する書も多い。詩は、そのあまりの分量のため、早くから選本が編まれており、他にも選集・注釈書・伝記・年譜類が多く公刊されている。幼少の頃から家庭の愛国思想の影響と文化詩書の薫陶を受けて育った。二十歳の時にはすでに「馬に上りて狂胡を撃ち、馬を下りて軍書を草す」という雄心壮志を樹立した。彼は朝廷の官と地方官になり、また身を軍隊生活に投じ、実際的な行動によって祖国の山河を回復したいと願った。しかし官位は低く、また投降派の排斥と攻撃を受けて何度も罷免されたため、救国の志はついに実現できず、臨終の際にも「帝王の軍隊が北方の中原を平定する」ことを願ってやまなかった。中国文学史上の偉大な愛国詩人である。詩風は三変した。初期は巧妙、中期は雄大、後期は平淡である。総じて、壮麗奔放が主調である。彼は多作な作者で、九千首余りの詩が残されており、中国古代の詩人の中で、残存する作品量が最も多い一人である。大量の悲憤慷慨の愛国詩の他に、質朴清新で閑適細膩な作品も存在する。『剣南詩稿』がある。
剣門道中遇微雨 剣門の道中にて微雨に遇う 陸游
衣上征塵雑酒痕 衣上の征塵 酒痕を雑え
遠游無処不消魂 遠游 処として 消魂せざるは無し
此身合是詩人未 此の身 合に是れ詩人たるべきや未や
細雨騎驢入剣門 細雨 驢に騎りて 剣門に入る
〔詩形〕七言絶句 〔脚韻〕痕、魂、門(上平声・元韻)
○この詩は乾道八年(1172)冬に作られた。当時陸游は南鄭(漢中一帯)から成都府安撫司参議官に赴任し、途中剣門を経過する所であった。
○剣門 またの名を剣閣、剣門関。剣州(四川省剣閣)の大剣山・小剣山の間にあり、閣道三十里があって、形勢は険要であり、四川・陝西の間の主要な通路だった。
○征塵 旅の途中で染み付いたほこり。
○酒痕 酒のしみ。
○消魂 ここでは、人をうっとりとあこがれさせ、詩興を引き起こす意味。
○此身 詩人自身をさす。
○合是 「応」に同じ。きっと当然~であるべきである。
○未 疑問を表す語気助詞。「否」と同じ。
○騎驢 唐代の詩人には、ロバに乗って詩を賦したという故事が少なくない。李白はロバに乗って華陰県を通り過ぎ、杜甫は「騎驢三十載」、李賀はロバに乗って詩句を求め、孟郊はロバに乗って苦吟した、など、いずれも詩壇の佳話として伝えられている。陸游は雨の中をロバに乗って蜀に入り、格別に一番の滋味があり、自然に連想を引き起こし、それゆえ「此身合是詩人未」という自問を発したのである。後に、「細雨騎驢入剣門」は、少なからぬ画家の画題となった。
《剣門の旅の途中で小雨にあう》
上着についた旅のほこりには、酒のしみもまじっている。
遠方への長旅の間、どこへ行っても、魂を奪われるような思いばかり。
このわが身は、やはり詩人として生きるべき運命なのだろうか。
小雨の降る中、ロバにまたがって剣門へと入って行く。
陸游は、川陝宣撫使王炎の幕僚となり、西北の南鄭の抗金の前線にあり、正に中原を回復するという雄心壮志を実現する準備をしている所であった。図らずも、王炎は突然臨安に呼び戻され、陸游は成都府参議官に任命された。彼は、戦場を駆け巡る戦士から、驢馬の背中で行吟する詩人に変身し、その心情はおのずと憤懣やるかたないものがあった。この詩は、詩人のこのような心情の反映である。沈鬱で悲壮な心情は、諧謔と機智に富んだ言語によって調和され、鑑賞に堪えるものとなっている。