一竿風月
一蓑煙雨
家在釣台西住 家は
売魚生怕近城門 魚を売り
況肯到紅塵深処
潮生理櫂 潮 生ずれば
潮平繋纜 潮 平らかなれば
潮落浩歌帰去 潮 落つれば
時人錯把比厳光
我自是無名漁父 我は
〔韻字〕住、処、去、父。
〔詞牌〕 鵲橋仙は双調で、56字と88字の二体がある。陸游のこの詞は前者。前闋、後闋とも四、四、六(前半)、七、七(後半)という句式から成り、それぞれ2ヶ所ずつ仄字で押韻する。陸游の作品としては、この詞を含めて3首が伝わる。
○一竿 一本の釣り竿。漁師を象徴する。
○風月 清風と明月。疾風著『陸放翁詩詞選』(一九五八年四月、浙江人民出版社)は、「一竿風月」の句を「詩詞における特殊な修辞技法。実際には、風の中、月の下で、手に一本の釣り竿を持って魚を釣ることをいう」と解説している。
○一蓑 一枚の蓑。やはり漁師を象徴する。
○煙雨 濛々とけぶるように降る雨。前掲『陸放翁詩詞選』は、「一蓑煙雨」の句を「けぶるように降る雨の中、身に一枚の蓑をまとい、漁師としての生活を送る」と解説している。
○家在~住 ~に家を構えて住んでいる、の意。「家在~」は、「家は~にある」の意。
○釣台西 厳光ゆかりの釣台の西側。「釣台」は本来は普通名詞だが、ここでは固有名詞。浙江省を流れる富春江に臨む高台で、その昔、後漢の厳光がここに隠居し、釣りをしたという伝説がある。厳光については、後の「厳光」の項目を参照のこと。陸游は、淳熙十三年(1186)七月から淳熙十五年(1188)七月まで権知厳州軍州事として厳州(今の浙江省建徳)に赴任した。厳州は釣台の西側にあるので、「釣台西」と言う。『輿地紀勝』巻八「厳州」の項によれば、釣台は桐廬県の西三十里、浙江(富春江)の北岸にあり、桐廬県は厳州の北一百五里の所にある。
○売魚 魚を売って生活する、の意。
○生怕 「只怕」「唯恐」に同じ。ただひたすら恐れる、の意。「生」は強意の字。
○近城門 町の入口の門に近づく。中国の都市はまわりを城壁で囲まれているのが普通であり、したがって「城門」と言えば町に入る門をさす。城門に近づくのを恐れる漁師は、普段は当然城壁の外側に住んでいるのである。陸游の詞の「城門」は、文脈から厳州の城門をさすと考えられる。厳州の長官として赴任した陸游が、厳州の城門に近づかなかったはずはないが、ここでは自分を一介の漁師に見たて、虚構の世界に心を遊ばせているのであろう。
○況肯~ ましてや、どうして~したりするものか、の意。「況」は反語を表し、「豈」に同じ。「肯」は、承知して~する。
○到紅塵深処 世俗の塵埃の深い場所に行く。「到」は、行く。「紅塵」は、世俗の塵埃。俗塵。後漢・班固の「西都賦」に「紅塵四合、煙雲相連(紅塵四もに合し、煙雲相い連なる)」とある。したがって「紅塵深処」は、多くの人の集まるにぎやかな都会をさす。つまり「売魚」の二句は、漁師である自分は厳州の町の城門にすら近づきたくないほどなのに、ましてや、なおさら世俗の塵埃にまみれた町の中心部になど、どうして行ったりするものか、とうたっているのである。
○潮生 潮が満ち始める。この詞が厳州を念頭に書かれているとすれば、「潮」は当然富春江の水をさすであろう。
○理櫂 楫を整備する。転じて、舟を漕ぎ出す、の意。「理」は、修理、整備。「櫂」は「楫」と同じで、舟を漕ぐ道具。ここでは舟そのものを象徴する。河上肇氏は、「潮満ち始むれば、櫂をととなへて漕ぎ出る」と解説している。
○潮平 潮がいっぱいに満ちる。「平」は、潮が満ちて岸辺と水平になる、の意。
○繋纜 船のともづなをつなぐ。河上肇氏は、「潮満つれば舟をつないで魚を釣るなり」と解説しているが、いろいろな用例を見ると、舟をつないで陸に上がることを意味する場合が多いようである。
○潮落 潮が引く。川の水位が下がること。
○浩歌 大声で歌をうたう。
○帰去 帰って行く。
○時人 同時代の人々。当時の人々。
○錯把比~ 間違って(私を)~に比較する、の意。「錯」は、間違って。「把」は、~を。現代中国語と同様の用法で、後に「我」が省略されていると考えられる。「比」は、くらべる。比較する。
○厳光 後漢の隠者の名で、『後漢書』巻八十三「逸民列伝」に伝がある。厳光、字は子陵、一に名は遵、会稽余姚(浙江省)の人。若くして高名があり、劉秀(後の後漢の光武帝)と共に遊学した。その後劉秀が皇帝になると姓名を変えて行方をくらましたが、光武帝はその賢人であることを思い、手を尽くして捜し出した。再会した後、光武帝と寝台を共にし、その腹の上に足を乗せたという逸話がある。諌議大夫に任命されたが従わず、富春山にこもって農耕生活を送り、後世の人は彼が釣りをした場所を厳陵瀬と名づけた(以上『後漢書』による)。
○我自是~ 私はおのずと~である、の意。「我」は、私。「自是」は、おのずと~である。
○無名漁父 名もなき漁師。『荘子』の雑篇に「漁父篇」があり、また『楚辞』に屈原の作と伝えられる「漁父辞」がある。このように古来漁師は、道家的な哲理を体得した隠遁者のイメージをまとって詩文に登場する。陸游のこの詞も、そうした伝統の延長上にあろう。詞では、陸游に先んじて唐・張志和に「漁歌子」詞五首があり、また北宋・蘇軾にも「漁父」詞四首がある。これら漁父の詞の系譜については、村上哲見著『宋詞研究 唐五代北宋篇』(一九七六年三月、創文社)所収の附論二「漁父詞考」に詳細な考察があるので、参照されたい。
《鵲橋仙》 その一
そよ吹く風と明るい月の下、一本の釣り竿で魚を釣り、
けむるように降る雨の中、一枚の蓑にわが身を包む。
厳光の釣台の西側に、家を構えて住んでいる。
魚を売って暮らし、町の城門に近づくことをただひたすら恐れている。
ましてや、どうして世俗の塵埃の深い場所に行こうとしたりするものか。
潮が生じれば楫を整えて舟を漕ぎ出し、
潮がいっぱいに満ちればともづなをつなぎ、
潮が引けば大声でうたいながら帰って行く。
当世の人たちは、私のことを間違って厳光に比べたりなどしているが、
私はおのずと名もない漁師にすぎないのだ。
本詞はみずからを漁翁になぞらえ、閑適の生活の楽しみをうたう。厳光や釣台がうたわれていることから、陸游の厳州時代の作とする注釈書が多いが、陸游は厳州から帰郷した後もしばしば同じ題材をうたっており、それだけの根拠で厳州での作と断定できるかどうか疑問である。