鷓鴣天(しゃこてん) 一首  陸游

家住蒼煙落照間  家して住む 蒼煙(そうえん)落照(らくしょう)の間
糸毫塵事不相関  糸毫(しごう)塵事(じんじ)()い関せず
斟残玉瀣行穿竹  玉瀣(ぎょくかい)()み残し 行きて竹を穿(うが)
巻罷黄庭臥看山  黄庭(こうてい)を巻き()わり ()して山を()

貪嘯傲        嘯傲(しょうごう)(むさぼ)
任衰残        衰残(すいざん)(まか)
不妨随処一開顔  (さまた)げず 随処(ずいしょ)(ひと)たび顔を開くを
元知造物心腸別  (もと)より知る 造物(ぞうぶつ) 心腸(しんちょう) 別なるを
老却英雄似等閑  英雄を老却(ろうきゃく)せしむること 等閑(とうかん)に似たり


〔韻字〕間、関、山、残、顔、閑。

〔詞牌〕「鷓鴣天」は双調で、全55字。前闋は4句で平字で3度押韻し、後闋は5句でやはり平字で3度押韻する。前闋の第3,4句と後闋の三言2句は、多くの場合対句とする。陸游の作品としては、この作品を含めて8首存在する。

○家住 家を構えて住む。
○蒼煙 青白いもや。
○落照 夕陽。「蒼煙落照間」は、青白い靄がたなびき、夕陽が照り輝く所、の意。
○糸毫 ほんのわずか。「糸」も「毫」も、極小、極少の意。
○塵事 俗世間のわずらわしい物事。俗事。
○不相関 ここでの「相」は「互いに」の意ではなく、「~に対して」の意。陸游、もしくは彼が住んでいる周囲の環境が、俗事に対して少しも関わらないことを表す。
○斟残玉瀣 うまい酒を飲みさしにする。「斟」は、酒などを汲む。「残」は、のこす。「玉瀣」は、隋の煬帝が造ったという美酒の名。なお陸游は他の詩でもたびたびこの酒に言及している。
○穿竹 「穿」は、すき間を通り抜けること。ここでは、竹林を逍遥すること。
○巻罷黄庭 『黄庭経』を(途中で読むのをやめて)巻きおさめる、の意。「巻」は動詞で、巻物などを巻くこと。「罷」は、~し終える、の意。「黄庭」は、道家の養生の書である『黄庭経』をさす。
○臥看山 寝ころがって山を見る。
○貪嘯傲 飽くことなく放吟を楽しむ、の意。「貪」は、飽くことなく。「嘯」は、口笛を吹く、またうそぶく。「傲」は、自由で物事にしばられないさま。
○任衰残 わが身が老いさらばえるのにまかせておく、の意。「衰残」は「衰老」に同じく、年老いて体が衰えること。
○不妨 構わない、さしつかえない、の意。
○随処 至る所。どこででも。
○開顔 顔をほころばせること、にっこり笑うこと。「不妨随処一開顔」の一句は、何の束縛も受けることのない自足の生活を楽しむ心境をうたっている。
○元知 もともとわかり切っている。
○造物心腸別 造物主の心のあり方は、ごく普通の人間とは異なっている、の意。「造物」は、造物主。天地の万物を創造した神。「心腸」は、心の中、胸のうち。なお、「心腸」の語は通常ごく普通の人間(別れを悲しむ女性など)について用いられるもので、この詞のように造物主について用いた例はきわめて珍しい。
○老却 すっかり年老いさせる。「却」は、「忘却」「滅却」のように、程度の甚だしさを強調する語で、すっかり~する、の意。
○英雄 才能や武勇が人並みはずれた人間。ここでは作者自身をさす。
○似等閑 まるで何でもないことであるかのようである、の意。「等閑」は、何でもないこと、ごく普通のこと。造物主が空しく老い行く自分をほったらかしにし、少しもかまってくれないことをさす。

 《鷓鴣天》一首

青白い靄がたなびき夕陽が照り輝く所に家を構えて住み、
俗世間の物事にはほんの少しばかりも関わらない。
うまい酒を飲みさしにして竹林の中を散歩したり、
『黄庭経』を巻きおさめ、寝ころがって山を眺めたりする。

飽くことなく放吟を楽しみ、
わが身が老いさらばえるにまかせておく。
至る所で顔をほころばせようとも、別に構いはしない。
造物主の心が普通の人間とは異なっていることなど、もとより承知の上。
あたら英雄をこうしてすっかり年老いさせておきながら、それを何でもないことのように思っているのだから。


 おそらくは、作者が故郷に隠居した晩年の作であろう。