劉克荘 Liu Ke zhuang (南宋)

劉克荘(1187~1269)、字は潜夫。号は後村居士。興化軍莆田(福建省莆田)の人。嘉定二年(1209)、建陽(福建省建陽)の県令となったが、やがて宝慶年間(1225~1227)、『江湖小集』(陳起が刊行した江湖派詩人の叢書)に収めるかれの集『南岳詩稿』中の「落梅」詩が、宰相史弥遠を謗ったと非難されて、しばらくの間官界を逐われた。淳祐年間(1241~1252)のはじめ、許されて同進士出身の資格を賜り、秘書少監、中書舎人から龍図閣学士に進んで致仕した。その間、史嵩之の罪状を公言して正直の名があがったという。没後、文定と諡された。江湖派最大の詩人といわれるかれは、はじめ永嘉の四霊の影響をうけたが、のち中・晩唐の詩を学んで独自の詩風をつくりあげ、近体詩の律詩絶句を得意とした。淳祐の初めに特に賜同進士出身、除秘書少監兼中書舎人。累官して至工部尚書兼侍講、煥章閣学士として致仕した。官吏としては敢直言、南宋の政権が妥協し苟安していることに不満であり、民生の疾苦に関心を持ち、詩詞は感慨時事の作が多い。詩は晩唐の諸家の長所を学び、好んで用故実、対句は工妙で、「江湖派」の中で最大の作家である。しかしまたある種の詩は典故を敷き並べて篇を成し、油滑機械的で、詩味は多くない。『後村居士詩集』
『後村先生大全集』がある。
  

 
戊辰即事  
    
詩人安得有青衫  詩人 安んぞ青衫有るを得んや
今歳和戎百万縑  今歳 和戎 百万縑
従此西湖休挿柳  此れより西湖 柳を挿すを休め
剰栽桑樹養呉蚕  剰く桑樹を栽えて 呉蚕を養わん

〔形式〕七言絶句  〔韻字〕衫、縑、蚕

○戊辰 寧宗の嘉定元年(1208)。 
○青衫 『宋史』「輿服志」に、「宋は唐の制に因り、三品以上は紫を服し、五品以上は朱を服し、七品以上は緑を服し、九品以上は青を服す」とある。青衫は本来、下級の役人の服の色であることがわかる。ここでは広く上着をさす。 
○和戎 宋・金の和議をさす。 
○〓 二本の糸で織りあげた細絹。

 戊辰の年、事に触れて

われわれ詩人は、もはや青いひとえの上着を着ることができなくなるのではなかろうか。
今年、戎狄と和睦するために百万匹の絹を提供することに決まった。
今後は西湖に柳を植え付けるのはやめて、
もっぱら桑の木を植えて蚕を飼うことになるだろう。 


寧宗の開禧二年(1206)五月、詔を下して金を伐ったが、失敗して終わりを告げた。三年四月、双方は和を議した。十一月、「嘉定の和議」が締結され、金人が提示した厳しい条件をすべて受けいれることになった。「戊辰即事」は、この事をうたったものである。莫大な賠償のために、詩人は着る上着もなくなるであろうと、作者は皮肉を込めてうたっている。