黄庭堅 Huang Ting jian (北宋)

 黄庭堅(こうていけん)(1045~1105)、字は魯直(ろちょく)。号は山谷道人(さんこくどうじん)、また涪翁(ふうおう)洪州分寧(こうしゅうぶんねい)(江西省修水)の人。英宗の治平四年(1067)に進士に合格し、葉県(しょうけん)(河南省)の尉を最初に、地方の小官を転々とする。政治的には蘇軾(そしょく)と同じく旧法党に属し、このため党争に翻弄された。元豊八年(1085)には中央に呼び戻され、秘書省校書郎、著作佐郎などを歴任するが、紹聖元年(1094)、新法党が復活すると黔州(けんしゅう)(四川省彭水)に流され、以後四川の各地を転々とする。徽宗(きそう)の崇寧(すうねい)元年(1102)春、罪を許され、長江を下り四川を離れるが(下の詩を参照)、崇寧二年(1103)にはまた宜州(ぎしゅう)(広西壮族自治区宜山)に流され、最後は同地で没した。
 黄庭堅は蘇軾門下(蘇門)の高弟として、秦観(しんかん)晁補之(ちょうほし)張耒(ちょうらい)の3人とともに「蘇門四学士」と総称される。なかでも黄庭堅は蘇軾と実力伯仲し、「蘇黄」と並び称された。作詩においては杜甫を尊崇し、読書と学識を重んじ、「点鉄成金(てんてつせいきん)」「換骨奪胎(かんこつだったい)」を提唱。典故を多用し、奇抜で生硬な風格を追求した。当時その方法論は多くの追随者を生み、北宋末から南宋初頭にかけて大きな影響を及ぼした。黄庭堅が江西の出身であることから、この一派を「江西詩派(こうせいしは)」と称する。この他黄庭堅は書家としても名高く、また蘇軾とともに日本の五山文学にも少なからぬ影響を及ぼした。『山谷集』がある。

雨中登岳陽楼望君山    雨中(うちゅう) 岳陽楼(がくようろう)に登りて君山(くんざん)を望む

投荒万死鬢毛斑  (こう)(とう)じて 万死(ばんし) 鬢毛(びんもう) (まだ)らなり
生入瞿塘灔澦関  
生きて()る 瞿塘(くとう)灔澦関(えんよかん)
未到江南先一笑  
(いま)江南(こうなん)(いた)らずして ()一笑(いっしょう)
岳陽楼上対君山  
岳陽楼上(がくようろうじょう) 君山(くんざん)に対す

〔詩形〕七言絶句 
〔脚韻〕斑、関、山(上平声・刪韻)

○岳陽楼 湖南省岳陽にある三階建ての楼閣。洞庭湖(どうていこ)のほとりにある。唐の張説(ちょうえつ)が建て、北宋の滕子京(とうしけい)が再建し、范仲淹(はんちゅうえん)がこれを記念して「岳陽楼の記」を書いたために、大変有名になった。
○君山 洞庭湖の中にある小島。古代の帝王である(しゅん)の妃が死後湘水(しょうすい)という川の女神(湘君(しょうくん))となったという伝説があり、これにちなんで君山という。
○投荒 辺鄙で荒れ果てた場所に流される。流罪の身となったことをさす。
○万死 文字通りの意味は、一万回死ぬこと。絶体絶命の境地を誇張していう。流された作者が、これでもう絶対に生きては帰れないと、死を覚悟したことを意味する。やはり僻地に流された唐・柳宗元(りゅうそうげん)の「舎弟の宗一に別る」詩に、「一身 国を去ること六千里、万死 荒に投ずること十二年」とある。 
○鬢毛斑 耳元の髪の毛が、白髪まじりになる。「斑」は、白黒が入りまじっていることをさす。
○生入 生きて帰って来る。『後漢書』「班超(はんちょう)伝」に「臣 ()えて酒泉郡(しゅせんぐん)(いた)ることを望まず、()だ願わくば生きて玉門関(ぎょくもんかん)に入らんことを」とある。
○瞿塘 瞿塘峡(くとうきょう)。長江の三峡の一つで、四川省奉節(ほうせつ)の東南にある。 
○灔澦関 灔澦堆(えんよたい)。瞿塘峡の水面に突き出した大きな岩のかたまり。両岸は断崖絶壁で、川の流れは激しく、船はしばしば暗礁に乗り上げて沈没した。古来四川に出入りする時の水上の関門であったことから、江関ともいう。
○江南 作者の故郷は、宋代の行政区画では江南西路に属していた。

 《雨の中、岳陽楼に登り君山をながめる》 

辺鄙な土地に流されの身となり、もうこれで生きては帰れないと覚悟して、鬢の毛は白髪まじりになってしまったが、
幸いにも九死に一生を得て、生きたまま瞿塘峡灔澦堆の難関をくぐり抜けることができた。
まだ江南の地にたどり着いてはいないが、まずは一笑し、
岳陽楼の上から洞庭湖の湖面の君山を眺めている。

 黄庭堅は六年の長きにわたって都から遠く離れた四川に追放され、数々の苦難を経験しました。崇寧(すうねい)元年(1102)春に赦免され、江西の故郷へと帰る途中、詩人は岳陽を通り過ぎ、岳陽楼に登って君山をながめながら、この詩を書きました。詩は2首の連作で、ここに紹介したのは第1首です。第2首もあわせて読めば、その味わいは一段と深まることでしょう。