陳与義 (北宋~南宋)

 
陳与義(1090~1138)、字は去非。号は簡斎。洛陽(河南省)の人。靖康の変が起こると、官は参知政事に至った。彼は北宋から南宋への過渡期における重要な詩人である。早期は蘇軾・黄庭堅の影響を受け、宋の王室が南渡した後は、国破れ家亡び、顛沛流離の戦乱生活を経験して詩風は大きく変化し、杜甫を尊崇し、時事を感懐し、沈鬱悲壮、雄闊慷慨な愛国詩を書いた。彼の詩は詞句が明暢で、音調が朗朗としていて、江西詩派とは異なる。元・方回の『瀛奎律髄』は、彼を江西詩派の三宗(黄庭堅・陳師道と併称する)の一人に数えるが、これは実際にそぐわない。『簡斎集』がある。
 先祖の本籍は眉州青神(四川省青神)であったが、曽祖父のとき洛陽(河南省洛陽)に移り住み、洛陽の人とされる。政和三年(1113)、進士に及第して文林郎を授けられ、開徳府(河北省濮陽)教授に任命された。その後、太学博士、符宝郎などに累進したが、北宋末年に陳留(河南省陳留)酒税監に流され、金軍侵入の戦乱にまきこまれた。北宋滅亡後、中国南部の各地を放浪、紹興元年(1131)、当時越州(浙江省紹興)にあった南宋政権に招かれて兵部員外郎に就き、同六年に中書舎人、翌七年には参知政事にのぼり、高宗を輔佐した。しかし、病のため翌年辞職して、没した。詩人としては、活気に乏しい南宋初期の詩壇にあってわずかに評価に足る活動を行い、江西派の三宗の一人に数えられる。詩集は、南宋・胡穉の注を施す『増広箋注簡斎詩集』30巻、『簡斎詩外集』1巻がある。

 
 牡丹  牡丹            

一自胡塵入漢関  一たび胡塵の漢関に入りてより
十年伊洛路漫漫  十年 伊洛 路 漫漫たり
青墩渓畔竜鍾客  青墩渓畔 竜鍾の客
独立東風看牡丹  独り東風に立ちて 牡丹を看る


〔詩形〕七言絶句 〔脚韻〕関(上平声・刪韻)、漫・丹(上平声・寒韻)通押

○一自 ~してから。 
○胡塵 少数民族の兵馬が進攻する時に巻き起こる塵ほこりをさし、ここでは金の兵をさす。 
○漢関 漢代の関塞。ここでは漢によって宋をたとえ、中原地区をさす。 
○十年 靖康二年(1126)、金の兵は汴京を攻めて陥落させ、北宋は滅亡した。この詩は南宋の紹興六年(1136)に作られ、それからちょうど十年だった。
○伊洛 伊河と洛河。いずれも洛陽地区を流れており、ここでは洛陽の代名詞。 
○路漫漫 路途が漫長で、また時間が長久であることをも借りてさす。 
○「一自」二句 金の兵が汴京を攻めて占領して以後、家郷が敵の手に落ちてすでに丸々十年になってしまった。路途は遥か遠く、家があっても帰ることができない。 
○青墩 鎮の名前。浙江省桐郷の北にある。 
○竜鍾 年老いたさま。 
○竜鍾客 作者の自称。 
○「青墩」二句 一人の年老いてよぼよぼになった漂泊者が青墩渓のほとりにたたずみ、春風を浴びながら牡丹の花を観賞している。

 牡丹の花

えびすの軍隊が中国に侵入して以来、
伊水と洛水のほとりにある都への道を遥かに望んで、もう十年にもなる。
青墩渓のほとりにわび住まいするこのよぼよぼの旅人は、
一人東風の中に立って牡丹の花をながめている。

 洛陽は北宋の西京で、牡丹を盛んに産することで名高い。作者は洛陽の出身であり、故郷の太平の盛況は、自然とその目で見たことがある。今では国破れ家亡び、他郷に流遇し、帰りたくても帰れず、眼前の牡丹から故郷の牡丹を連想し、今を撫して昔を思い、凄然として感傷を禁じ得ない。詩題は「牡丹」だが、純粋な詠物詩ではなく、景に託して情を抒し、含蓄深沈に故郷故国の思いを託し、光復愛国の情を渇望している。しかし、詩人はついに勝利のその日を待つことなく、この詩を書いた二年後に世を去った。