巻頭の言葉

~オリンピックと私、そして北京五輪~

200888日午後88分)

 

DSC01965  監修者 李 春利

           (愛知大学経済学部教授)

 

   一、オリンピックと私、そして北京五輪

この前の子(ね)年のことである。当時、私はまだ愛知大学に赴任していなかった。

その年の夏、アメリカMITの招聘でブラジルへ飛んだ。サンパウロで開催される国際会議でプレゼンテーションを行うためであった。サンパウロと東京の時差はちょうど12時間、私は地球の真裏側に来たのである。米国での乗り換え時間を除いてもまるまる一昼夜の飛行時間であった。

帰途、アトランタにいる友人に電話した。彼はアトランタ・オリンピックの取材で日本から来ている。NHKの取材協力で、主に中国選手団のオリンピック活動を取材するためである。「せっかくなので来ないか」と誘われたので、私もついにアトランタへ飛んでいった。五輪期間中はホテルも満杯だったので、そのまま彼の部屋に泊めてもらった。かくして、私は彼のアシスタント(ボランティア)になったのである。

彼の名は楊昭。今もNHKの中国番組を制作中で、最近の傑作は「激流中国 小皇帝の涙」、私も授業の教材として放映したい番組である。彼は私の中国の大学院時代の同級生でルームメイトでもあった。今年の北京五輪期間中もきっとNHKの番組制作で活躍するに違いない。

アシスタントとして見た最初の試合は、卓球だった。中国の国技ともいわれるこの競技は、「負けたら太平洋に飛び込め!」といわれるぐらい国民の金メダルへの期待が高く、中国チームが絶対負けられない種目である。北京五輪でもきっと同じだろう。その中国がアトランタである強敵に遭遇した。

日本である。エースは小山ちれ。その2年前の広島アジア大会の女子シングルス・チャンピオン。彼女は1日のうちに、バルセロナ五輪の金メダリストで中国のエースでもある鄧亞萍(とうあひょう)やソウル五輪の金メダリストである陳静など3人もの世界チャンピオンを打ち負かした強者である。上海生まれの彼女は、中国名は何智麗。1992に日本に帰化、池田銀行所属の卓球選手になった。日本代表として金メダルへの期待がもっとも高い選手である。

準々決勝では、彼女の相手は中国ナンバー2の喬紅(きょうこう)選手。日本応援団が会場を埋め尽くした中で、中国人らしき人はわずかだった。試合が始まる前に、私の周りに座っている日本人は一斉に上着を脱ぎ、なかの服は全部“Drive Koyama!”と書かれており、なんと池田銀行の応援団だった。

さすが、ジパング!経済力がある。日本応援団の人数の多さに圧倒されていたが、負けていられない。私は席を立ち、中国チームのいる場所に移動した。

「日本の応援団はすごいね。中国の応援団はいないの?」と話しかけたら、「いないよ。われわれ選手団は応援団にはなれないから、君がオルガナイズしたら?」。

かくして、中国選手団のアドバイスで、私は試合の土壇場で臨時の応援団長になった。

その後は大変!急いで会場にいる中国人らしい人を口説いては中国選手団の近くに集めたが、それでも10数人にすぎなかった。中国に返還される前の香港人から、大きな五星紅旗と応援団用の小さな赤い旗をもらった。その国旗はいまでも私の研究室に保存してある。

ところが、場内の試合はもう白熱状態。静かなタイプの喬紅は小山の猛攻に耐え切れず、すでに1ゲームを落としている。攻撃型の小山は勢いに乗ってますます攻撃に出る。彼女の監督を務めているご主人の小山英之はその後ろに構えており、中国卓球チームの代表監督で名選手でもあった張燮林とにらみ合っていた。われわれの応援団もボルテージを限界まで上げていたが、大勢の日本応援団に圧倒されっぱなしだった。

中国人はあまりにも少なかったので、今度は近くにいるアメリカ人を口説くことにした。おおらかなアメリカ人のいいところは弱そうな人を応援するから、あれこれがんばった結果、ようやく20数人の中米混成チームができあがった。われわれは「中国隊」と呼んだら、中国人もアメリカ人も「加油!」(がんばれ!)と唱和する。手をたたくだけでは音が小さいので、足も踏む。あれだけ声がかれるまで叫んだのは生まれて初めてであり、最初で最後でもあった。

われわれの切なる思いが喬紅に伝わったのか、それとも彼女は小山の戦術に慣れてきたのか、小山の攻勢がだんだん食い止められてきた。第2ゲームはやっとのことで喬紅が勝ち。第3ゲームは小山、第4喬紅といったように膠着状態が続く。勝負はファイナルゲームに持ち越された。血圧があがり、心臓も止まりそう。喬紅が負ければ、小山は決勝に進出する。中国の宝選手である鄧亞萍は2年前に小山に負けていた。1970年代から守り続けてきた卓球の金メダルを失いかねない。祈るような気持ちでありったけの声を絞り切って、無我夢中になって応援していた。

最後の最後に、勝利の女神が微笑んでくれた。小山は手を緩めたのか分からないが、ミスがだんだん増えてきた。最後のボールが遠い彼方に飛んでいった瞬間、楊昭君も私も思わず高く飛び上がった。中国卓球選手団団長の李富栄や代表監督の張燮林、世界チャンピオンの劉国梁(今の中国卓球チーム代表監督)と孔令輝も駆けつけてきて握手を求められた。「応援団は本当にお疲れ様でした!」とねぎらってくれた。

後で知ったのだが、なによりうれしかったのは、この天王山となったもっとも熾烈な試合は、中国の中央電視台(CCTV)によって中国全土で生中継された。楊昭君と私が中国の国旗をもって飛び上がったあの応援シーンは、中国にいる親戚や学校の恩師たちも見ていた。私がアトランタに行ったことを知らなかったので、みんなびっくりしたという。そのシーンはのちに、アトランタ・オリンピック報道番組のタイトル映像のひとコマにもなった。

鄧亞萍は次の決勝戦で台湾の陳静を下し、アトランタの金メダリストになった。われわれの目の前国際オリンピック委員会IOC)のサマランチ会長は授賞式で彼女の首に金メダルをかけた。その翌年、彼女は24歳で現役を引退したが、サマランチ会長の要請で国際オリンピック委員会委員になった。現在、彼女はケンブリッジ大学で経済学のPh.D.の取得を目指している。彼女はオリンピックで合計4つの金メダルを獲得、18回世界チャンピオンになった。鄧亞萍は北京五輪招致の際も大活躍し、20017月にモスクワで開催されたIOC委員会でプレゼンテーションを行い、2008年の五輪開催地を“City of Beijing”に導いた功労者の一人でもあった。

 

1 アトランタ・オリンピック卓球のメダル受賞者

種目

男子シングルス

中華人民共和国の旗劉国梁

中華人民共和国の旗王涛

ドイツの旗ヨルグ・ロスコフ

男子ダブルス

中華人民共和国の旗劉国梁and 孔令輝

中華人民共和国の旗呂林and 王濤

大韓民国の旗李哲承and 劉南奎

女子シングルス

中華人民共和国の旗鄧亜萍

チャイニーズタイペイの旗陳静

中華人民共和国の旗喬紅

女子ダブルス

中華人民共和国の旗鄧亜萍and 喬紅

中華人民共和国の旗劉偉and 喬雲

大韓民国の旗朴海晶and 柳智恵

出所:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、「アトランタ・オリンピック」

 

アトランタ五輪では、中国は16枚の金メダルを含む50枚のメダルを獲得、米、ロ、独に次ぐ第4位のメダル受賞国となり、スポーツ大国への助走が始まった。2000年のシドニー五輪では米ロに次ぐ第3位に、2004年のアテネ五輪では米国に次ぐ第2位になった。

アトランタでは、卓球のほかに、郎平監督が率いる中国女子バレーの試合も見た。中国対ブラジル戦だったので、カーニバルさながらの格好をしたブラジルファンたちがイエローとグリーンでスタジオを埋め尽くした。私は奇抜な服装を着たあるグループに記念撮影を申し込んだところ、「何人?」と聞かれて、「チャイニーズ」と答えたら、「だめ」とさっぱり断られた。実はアトランタ五輪では、ブラジルのサッカー男子チームは日本に負けて、女子チームは中国に負けてしまったのだ!「サッカーは第二の太陽」ともいわれるブラジルの人々にとって、常勝チームのブラジルが無名の日本と中国に負けたという事実は実に耐えがたい屈辱で、ファンが不機嫌になったのも仕方がない。そういう流れで、サッカー応援団の大軍が次の有力なメダル候補種目である女子バレーの試合に殺到した。

サンバもラテンダンスも情熱的で実に楽しかった。ラッパや太鼓の音が天を衝くなかで、郎平監督は中国チームを率いて入場した。現役時代にエースとして「鉄のハンマー」の異名をもつ彼女は、代表監督になると一変し、その師匠である袁偉民監督に引けをとらないぐらいの冷静沈着ぶりを見せた。ブラジルチームは熱烈なファンの盛大な応援を受けながら相当がんばったが、最終的に1:3で中国に負けてしまった。最後に、郎平は優勝チームを代表して挨拶した。「感謝球迷!」(ファンのみなさん、ありがとう!)と中国語で話しかけてくれた。いま米国在住の郎平は、今回の北京五輪には、アメリカナショナルチームの代表監督として参加するといわれている。中国が得意とするスポーツの分野では、中国は輸出大国になりはじめている。

 

2 2000年夏季オリンピック開催地投票

都市

1回目

2回目

3回目

4回目

シドニー

20px-Flag_of_Australiaオーストラリア

30

30

37

45

北京

20px-Flag_of_the_People%27s_Republic_of_China中国

32

37

40

43

マンチェスター

20px-Flag_of_the_United_Kingdomイギリス

11

13

11

ベルリン

20px-Flag_of_Germanyドイツ

9

9

イスタンブール

20px-Flag_of_Turkeyトルコ

7

 

 

出所:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、「シドニー・オリンピック」

 

北京が夏季オリンピックの開催地に立候補したのは2回目だった。2000年夏季オリンピックの開催をめぐって、北京はシドニーと激突し、3回の投票を勝ったにもかかわらず、4回目の決選投票で4345と接戦の末、2票差で惜敗し、20世紀最後のオリンピックの開催地がシドニーに決まった。その決選投票の現場(モナコ)で楊昭君が取材していたのである。のちに、アフリカ出身のIOC委員2名がシドニー五輪招致委員会のメンバーに買収されたことが暴露された。サマランチ会長の退任、IOCの抜本改革、買収されたIOC委員の除籍といった一連の不祥事が続いた。北京オリンピックは中国にとってまさに悲願の達成である。200888日午後88分から、その熱いドラマが幕を切って落とされる。中国でも8は縁起のいい数字である。

その詳細については、この論集の第1部「北京オリンピック特集」の坂本、許、服部のレポートを参照されたい。北京、東京、ソウル五輪の国際比較は実に興味深い。

 

二、李ゼミ、BRICs研究へ

 

ゼミ論集も第9号の発行を迎えた。ここにたどりつくのは長い道のりであった。10年前、ある偶然のきっかけで始まったこの「小さな教育実験」に、よくもこれだけ多くの学生が参加し、これほど煩雑で面倒くさい作業をコツコツとこなしながら、ここまでついてきてくれた。論集第9号の「風鈴会の頁」でOB/OGたちの多大な協力を得て、その足跡を振り返ることにした。

★「ゼミ論集@公園 第1号~第8号(19992007年)」(by 桜井美紀〈2期生〉、114本)

★「ゼミ論集@本編 第1号~第4号(19992002年)」(by 長浜貴子〈1期生〉&竹内大樹〈9期生〉、レポート56本)

★「ゼミ論集@本編 第5号~第8号(20032007年)」(by 小川秀司〈8期生〉&立岩紗知9期生〉、レポート47本)

まず、「ゼミ論集@本編」には、第1号から第8号まで収録されたレポートは103本。それにこの論集第9号のレポート15本を加えたら、合計118本になる。さらに、論集の「公園欄」や「ゼミ活動の記録」およびOB会である「風鈴会の頁」等に収録された各種エッセイは114本、それに論集第9号のエッセイ17本、および私が書いた「巻頭の言葉」9本を加えると、140本になる。本編の118本と合計すると、ゼミ論集にはこれまで258本の原稿が収録されており、その総頁数は2300頁を超えている。重複投稿分を差し引いても、著者の数は130人を超えている。愛知大学生の実力と情熱を綴った長編の連続ドラマのようなものである。その全文は李ゼミHPhttp://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/から閲覧可能である。

 その内容についてみると、論集の共通論題は年々多様になってきている。そこに一つの流れを見出すことができた。すなわち4年ごとに研究のフロンティアが変わってきたということである。

まず、第1号から第4号までは、研究の対象は中国自体か周辺国との国際関係であった。

1号『多様性の中国:一人一省中華人民共和国建国50周年記念号』(1999年)は多様性に富んだ中国の地域に焦点をあて、第2号『中国の肖像:人物で振り返る20世紀~ミレニアム特集~』(2000年)は中国を動かしてきた人物にスポットをあてた。さらに、第3号『周辺から見た中国:China@World21世紀特集』(2001年)は中国を取り巻く国際環境に光をあて、第4号『気がつけば、中国は世界の工場中国WTO加盟記念号』(2002年)は、念願のWTO加盟を実現した後の中国経済の様々な側面を浮き彫りにしている。

5号から8号までは、偶然ながら、ぎくしゃくしていた日中関係の進展にあたかも呼吸を合わせたかのように、年々のタイトルのニュアンスも微妙に厳しさを増してきた。

5号『アジア・太平洋の中の日本と中国:パートナーかライバルか~日中国交正常化30周年記念号~』2003年)、第6号『永遠の隣人:引越しのできない日本と中国~愛知大学同窓会奨励賞受賞特別記念号~』2004年)、第7号『目をそらすな!日中のジレンマ~戦後60周年記念特集~2006年)8号『歩み寄れるか?新日中関係~日中国交正常化35周年記念特集~2007年)。日中関係もようやく息苦しい長いトンネルを抜けてきたような感じだった。

そして、9号『BRICsが塗り替える世界地図~2008年北京オリンピック記念号~』からは、李ゼミ一同は新しい地平を開拓しようとしている。これまで積み上げてきた日中比較や多国間国際比較に関する研究成果に加えて、BRICs研究へとハンドルを切ったのである。

ブラジル、ロシア、インド、チャイナ。21世紀の世界の潮流を左右するかもしれないこの4つの新興大国は、いま世界地図を塗り替えようとしている。

 まずは、その人口の多さが際立っており、4ヶ国合計で273000万人、世界の人口の約42%を占めている。それから国土面積。4ヶ国合計で世界の約29%を占めている。さらにGDP。ここ10年の間に、この4ヶ国は平均で年間6%の成長を遂げており、なかでも中国は10%以上の経済成長、インドも78%の高い成長率を達成している。“Elephant vs Dragon”、日本では「巨象対巨龍」とよばれる「中国とインドの比較研究」はいま世界的なブームになっている。中国は名目GDPでイギリスを追い抜き、世界4位となり、3位のドイツにキャッチアップしようとしている。インドも世界10位にランクインしている。

 その一方で、CO2排出量も中国は世界1位の米国に次いで第2位、インドは世界5位となっている。この3ヶ国だけで実に世界のCO2排出量の半分を占めており、しかもいずれも京都議定書に参加していない。21世紀の地球温暖化問題はこの3ヶ国をぬきにして解決できそうもない。また、中印両国の石油需要の伸びは、世界全体に占める比率が8.2%と3.2%(2004年)だったが、2030 年にはそれぞれ11%5%になると予想されている。

 これまでの世界はいわゆるG7、すなわち先進7ヶ国(日、米、英、仏、独、伊、加)が先導集団として牽引してきたが、これからはおそらくBRICsをぬきにして新しい世界システムの構築が難しいだろう。当面、ポスト京都議定書の枠組作りが最大の山場になるだろう。

論集第9号に収録された多様多彩なレポートをいちいち講評することは難しいが、9期生の15本のレポートは実に中身が濃く、完成度の高いものが多い。研究テーマも空間的な広がりをもつばかりでなく、時代の息吹が感じられるものが多い。あえて誤解を恐れずに言うならば、愛大生の潜在力と可能性を感じさせる1冊であるといっても過言ではないだろう。

 

三、李ゼミ10周年と風鈴会大集合

 

 李ゼミは10周年を迎えた。昨年に続き、2007121日(土)、李ゼミ結成10周年を記念して、1期生から9期生が集まるという「風鈴会大集合@名古屋」が行われた。この盛大なパーティーは昼夜の2部構成で行われ、現役時代の学園祭と変わらぬように飲んで騒いで、みんな結構「完全燃焼」したもよう(?)。卒業以来会っていない子もいたが、時間の経過の速さに驚いたと同時に、みんな性格が変わっていないことにもまた驚いた。

 地元の東海地方の学生に加えて、遠方の石川、富山、福井、神戸、東京からもOB/OGたちが駆けつけてくれた。本当に感動した。みなさん、大変お疲れ様!これからも毎年一回はぜひ集まろう!総幹事の星野博昭君(2期生)、本当にありがとう!そして、運命のめぐり合いとも言うべきだろうか、なんと1期生の総代ともよばれる内藤圭一君(1期生風鈴会会長)は、ゼミ10周年記念の風鈴会大集合が行われた日に偶然にも節目の誕生日を迎えた。幸せをかみ締めている内藤君に、ゼミを代表して心からおめでとう!

また、特にうれしかったのは、「悪友」の美称をもつ3期生の清水秀和君と南亮平君はそろって、国家試験に合格したことだ。通称「やべっち」の清水君は2002年に卒業して以来、専門学校に通い続け、5度目の正直でついに公認会計士試験に合格!5回も難しい試験に挑戦し続けてきたその精神力に本当に脱帽した。ところが、本人は楽しかったと言っている。同じ3期生の南君も4年越しで理学療法士の国家試験に合格!昼間に勉強、夜は働く。愛大生の根性と可能性を身近なところで改めて感じさせられた出来事である。「悪友」の二人に、心からおめでとう!

李ゼミ10周年を記念して、1期生の長浜貴子、2期生の桜井美紀、8期生の小川秀司、9期生の竹内大樹と立岩紗知は、苦労を厭わず、これまで発行してきたゼミ論集の第1号~第8号を読み返して全部要約してくれた。歴代のゼミ生を代表して、みなさんの努力に感謝する。

論集第9号のハイライトは9期生の山之内悠さんがまとめてくれた「李ゼミ第5回就職セミナー・スペシャル」とその後の「李ゼミ・ボーリング大会&2007年忘年会」である。今年で5回目となる李ゼミの就職セミナーが、234年生と大学院ゼミ生の合同参加で最後のゼミ時に愛大研究館会議室で盛大に行われた。講師に李ゼミOBで綜合警備保障株式会社(ALSOK)採用部東海採用センターの天野健太郎氏(2期生)と加藤幹正氏(7期生)、アドバイザーに愛知大学キャリア支援課課長の成瀬英典氏をお迎えして、講演会と学年別の模擬面接、講評とQAといったように内容の濃い時間を過ごすことができた。風鈴会とゼミの縦のつながりの強さと、先輩と後輩の仲の良さという李ゼミの最大の特徴を表す象徴的なイベントである。3年連続講師役を引き受けてくれた天野君、それから3年連続就職セミナーに参加してくれた加藤君、本当にありがとう!

 

四、愛知大学、名古屋駅に進出

 

2008年年明け早々、愛知大学は、名古屋市保有の笹島地区再開発をめぐるコンペを勝って、豊田通商グループと共に最優秀提案と認定されたのを受け、名古屋駅周辺に新しいキャンバスを建設することが決まった。豊橋校舎からは経済学部と国際コミュニケーション学部、名古屋校舎(三好)からは法学部、経営学部と現代中国学部は、2012年に新校舎への移転が決まった。

名古屋市の「国際歓迎・交流拠点」と名古屋の玄関口という開発のコンセプトが、愛知大学の建学の精神、すなわち「世界文化と平和への貢献」、「国際的教養と視野をもった人材の育成」、「地域社会への貢献」とが合致していることが大学側の最大の理由に挙げられている。愛知大学の中国研究と国際研究、および関連教育の資源が集中し、主力の法経3学部が結集する形で名古屋中心部に進出することになった。大学にとっては、ひとつの大きな挑戦の機会をつかんだと同時に、大きな試練に直面することにもなる。今後、関連の情報は後を絶たないと思うが、慎重かつ大胆に事業を展開することが必要である。現役もOB/OGも注意深く見守ってほしい。

それはまた、この論集の巻頭を飾る第1章「北京オリンピック~機会と挑戦~」のタイトルに相通じる意味合いが含蓄しているともいえる。大学にとっては、2008年からはまさに機会と挑戦なのである。ちなみに、第1章の著者である坂本真悟君(9期生ゼミ長)は愛知大学陸上競技部のキャプテンであり、トップランナーでもあった。(完)