中国とヨーロッパ大陸

                                  

『帝国主義の犠牲となった国』

 

98E2520清水秀和

はじめに

 今日では、改革開放路線によりめざましく発展している中国であるが、過去には苦汁を飲まされていた日々があった。そこでヨーロッパ大陸、特にドイツ、フランス、そしてEUに焦点をあて、第一次世界大戦からWTO合意までをおってみることにする。

一、ドイツと中国:「二十一ヵ条要求」の着火点

 1914年に勃発した第一次世界大戦は、中国をめぐる帝国主義列強の権益争奪戦の様相を一変せしめた。[1]英・仏・露・独各国が欧州戦線に力を集中して、アジアを顧みる余裕を失ったことが、中国を、日本の独壇場としたのである。中国政府はすでに8月6日に局外中立を宣言して、大戦が中国に飛び火するのを避けようとしたが、日本がそれを無視して膠州湾一帯の占領作戦を開始した。

 膠州湾一帯は、ドイツ人宣教師の殺害の代償として、1898年の「膠州湾委付に関する条約」によって、ドイツが清朝政府から租借したもので、極東におけるドイツの最大の軍港であり、その中心都市青島は、同じ条件でドイツが獲得した、山東省内の鉄道敷設権、炭坑、鉱山の採掘権、山東省に関する経済優先権などいわゆる「山東権益」の要をなしていた。

 9月3日、日本軍は山東半島の北岸竜口から上陸した。これは、要塞化された青島を正面から攻撃することを避けるという軍事的な意味もあったが、主要な狙いは、膠州湾にとどまらず山東省全域を支配することにあった。山東鉄道に沿って作戦行動を展開した日本軍は、10月6日には省都済南を占領、山東鉄道および沿線のドイツ人経営の鉱山をすべて接収した。この間、中国政府は二度にわたって中立侵犯に対する抗議を行ったが、日本政府は、労山湾から上陸したイギリス軍と合同して青島総攻撃を開始、11月7日、ドイツ守備軍の降伏によって、青島および膠州湾租借地全体を接収した。11月19日、日本軍当局は、占領地全域に軍政を布いた。

 この既成事実をもとにし、袁世凱政府の弱腰を見極めて、日本政府はかねて準備していた対中国権益の要求を一挙に提出したのである。それが「対華交渉案」いわゆる二十一ヵ条要求である。

二十一ヵ条要求の内容

第一号(山東権益)

第一条   支那国政府は独逸国が山東省に関し条約その他に依り支那国に対して有する一切の権利・利益・譲与等の処分に付、日本国政府が独逸国政府と協定すべき一切の事項を承認すべきことを約す。

第二条   支那国政府は山東省内もしくはその沿岸一帯の地又は島嶼を何らの名義を以て するに拘らず他国に譲与し又は貸与せざるべきことを約す。

第三条   支那国政府は芝罘又は竜口と膠州湾より済南にいたる鉄道等連絡すべき鉄道の敷設を日本国に允許す。

第四条   支那国政府はなるべく速かに外国人の居住および貿易のため自ら進んで山東省における主要都市を開くべきことを約す。その地点はべつに協定すべし。

第二号(南満州・東部内蒙古における日本の優先権)

第一条     両締約国は旅順・大連租借期限ならびに南満州および安奉両鉄道各期限を、いずれもさらに九十九箇年ずつ延長すべきことを約す。

第二条     日本国臣民は南満州および東部内蒙古において各種商工業の建物の建設又は耕作のため必要なる土地の賃借権又はその所有権を取得することを得。

第三条     日本国臣民は南満州および東部内蒙古において自由に居住往来し各種の商工業およびその他の業務に従事することを得。

第四条     支那国政府は南満州および東部内蒙古における鉱山の採掘権を日本国臣民に許与す。その採掘すべき鉱山はべつに協定すべし。

第五条     支那国政府は左の事項に関してはあらかじめ日本国政府の同意を経べきことを承諾す。

一、         南満州東部内蒙古において他国人に鉄道敷設権を与え又は鉄道敷設のために他国人より資金の供給を仰ぐこと。

二、         南満州および東部内蒙古諸税を担保として他国より借款を起こすこと。

第六条     支那国政府は南満州および東部内蒙古における政治財政軍事に関し、顧問教官を要する場合には、必ず先ず日本国に協議すべきことを約す。

第七条     支那国政府は本条約締結の日より九十九箇年間、日本に吉長鉄道の管理経営を委任す。

第三号 (漢治萍公司の合弁)

第一条     両締約国は将来適当の時機において漢治萍公司を両国の合弁となすこと、ならびに支那国政府は日本国政府の同意なくして同公司に属する一切の権利財産をみずから処分し又は同公司をして処分せしめざるべきことを約す。

第二条     日本国資本家側債権保護の必要上、支那国政府は漢治萍公司に属する諸鉱山附近における鉱山については、同公司の承諾なくしては、之が採掘を同公司以外のものに許可せざるべきこと、ならびにその他直接間接同公司に影響を及ぼすべき虞れある措置を執らんとする場合には、先ず同公司の同意を経べきことを約す。

第四号 (領土不割譲)

支那国政府は、支那国沿岸の港湾及び島嶼を他国に譲与しもしくは貸与せざるべ   きことを約す。

第五号 (いわゆる希望条項)

一、   政治財政および軍事顧問として、有力なる日本人を傭聘すること。

二、            支那内地における日本の病院および学校に対しては、その土地所有を認むる事。

三、            従来日支間に警察事故の発生を見ること多く、不快なる論争を醸したることも尠か  らざるにつき、此際必要の地方に於ける警察を日支合同とするか、又はこれら地方における警察官庁に日本人を傭聘し、以て一面支那警察機関の刷新確立を図るに資すること。

四、            日本より一定数量の兵器の供給を仰ぐか、又は支那に日支合弁の兵器廠を設立し、日本より技師および材料の供給を仰ぐこと。

五、            日本国資本家と密接の関係を有する南昌九江鉄道の発展に資するため、かつ南支鉄道問題に関する永年の交渉に顧み、武昌と九江南昌線とを連絡する鉄道および南昌杭州間、南昌潮州間鉄道敷設権を日本に許与すること。

六、            台湾との関係および福建不割譲約定との関係に顧み、福建省における鉄道鉱山港湾の設備(造船所を含む)に関し、外国資本を要する場合には先ず日本に協議すること。

七、            支那における日本人の布教権を認めること。

 この要求は、日本の既得権益を確定強化するだけでなく、もし全部が実現されたならば、中国を完全に日本の保護国の地位に置くものであった。しかもそれが、戦勝の結果と言うならともかく、全く無関係な中立国に対して提出されたことに、この要求の異常さがあった。したがって日本政府は交渉開始にあたって特に北京駐在公使に「支那側に対し、本件は絶対にこれを秘密に付すること、相互のために極めて必要になるにつき、支那側においても直接間接とも断じてこれを外間に洩らすが如きことなきよう致したき旨、厳重申し入れ置かるべし」と訓令したのであった。

 このような歴史をたどってきたドイツと中国ではあるが、今日では、中国にフォルクス・ワーゲンが進出するなどドイツとの経済、文化交流がさかんにおこなわれている。これからも改革開放政策が進められることにより、多くのドイツの企業が進出できることを期待します。

 

二、フランスと中国:「援蒋ルート」をめぐる攻防

 第二次世界大戦前後のフランスと中国の関係は日本を通してみてみるとよくわかる。1937年7月7日に発生した盧溝橋事件に端を発する日本と中華民国との紛争は、日本政府の不拡大方針や事態収拾の努力にもかかわらず早期解決に失敗、8月には戦火は上海に飛び(第二次上海事変)、戦局は拡大の一途をたどった。この事態に際し欧米諸国は、はじめこそ不介入の立場をとったが、次第に日本に対する態度を硬化させていった。[2]

 たとえば、10月5日、ローズヴェルトは遊説先のシカゴでのちに「隔離演説」として知られるようになる有名な演説を行い、間接的ながらナチス・ドイツや日本の行動に警鐘を発した。また、11月には「九カ国条約」会議がブリュッセルで開催された(日本は不参加)。同会議の意図するところは日本を牽制しつつ、日中紛争を平和に解決する方法を模索することであった。そして、12月13日に中華民国の首都・南京が陥落すると、米英(仏ソ)は援蒋活動を本格化させる。

 蒋介石政府軍への支援物資を輸送するためのいわゆる「援蒋ルート」には、大きく分けて、@香港、マカオ、広州湾など中国沿岸部から内陸へ入る「中・南支ルート」、A北部仏印のハイフォンで物資を揚陸し、雲南鉄道で雲南省の昆明に至るルートとハノイ付近のジャラムで分岐して仏印・中国国境近くのランソンに至り、そこでトラックに荷を積み替えて(もしくは揚陸後、直接、トラックに積載して)国境の鎮南関を通り広西省の南寧へ向かうルートの二経路からなる「仏印ルート」、B英領ビルマのラングーンから昆明に至る「ビルマ・ルート」、そしてCソ連国境から中国に入る「西北ルート」があった。そのなかでも、とりわけ仏印ルートは中国領内まで鉄道による大量輸送が可能であったため、当初から援蒋ルート中、最大の輸送能力を誇っていた。

 中国と対峙する日本は、欧米諸国の援蒋行為が長期抗戦を呼号する蒋介石軍を物心両面から支えていると早くから認識していた。したがって、紛争を早期に解決するためには援蒋ルートを遮断しなければならないと考えたのである。その海軍力で完全とは言えないながらも中・南支ルートを遮断しつつあった日本は、最大かつ最重要の仏印ルートを禁断すべく、フランスとの外交交渉を開始した。

 仏印ルート禁絶に関する日仏交渉は、1937年9月27日、仏印経由での中国向け武器輸送の禁止を申し入れたことに始まる。[3]この時、フランス側は、一月前の8月25日に閣議で確認されていた政府の立場に基づいて、宣戦布告がなされていない状態においては、日中双方に対する武器輸出は自由であり、仏印経由での武器輸出を禁止する義務はないと回答した。とはいうものの、実際にはフランスはすでに9月23日の時点で、国営工場で生産された航空機用品の対中輸出を禁止していたのである。その理由は日中間の軍事バランスの均衡を保つためというものであった。そして、10月に入るとフランス政府の援蒋に対する姿勢は大きく揺れ動く。13日の閣議で、フランス製であると否とにかかわらず仏印経由での中国向け武器弾薬の輸送を禁止するとの決定を下した。

 このフランス政府の決定を知って当惑したのは、中国であり、アメリカであった。[4]18日にフランス外務省から仏印ルート禁絶の報を受けた顧維鈞駐仏中国大使は、即座に、フランス政府の決定は同月6日に国際連盟総会が採択したばかりの「日華紛爭に關する決議」に反すると抗議した。しかし、フランス側は11月にブリュッセルで開催が予定されている九カ国条約締結国会議において、各国から仏印の防衛に協力するという合意が得られれば仏印ルートを再開する用意があると答えるのみであった。20日、顧はイヴォン・デルボス外相と会談して仏印経由での援蒋軍需物資の輸送禁止決定を確認したうえで、「中国にとって死活問題である」と訴え、決定の再考を強く求めた。それにより、22日に防衛関係官僚のみが集まって開かれた会議で、例外措置が設けられた。それは、武器弾薬の類であっても7月15日以前に受注したものと、10月13日以前に輸出したものに関しては、仏印の通過を認めるという措置であった。さらに付け加えれば、フランスは、糧抹、トラック、ガソリンなどを軍需物資とは考えておらず、輸送禁止の対象にしなかった。この点で後日、日本との間で見解の相違が生じる。こうした例外措置やグレー・ゾーンの存在によって、仏印経由での援蒋物資輸送は続行された。

 1938年4月10日、フランスでは人民戦線内閣が瓦解し、エドゥアール・ダラディエを首班とする内閣が成立した。[5]のちに対日宥和を志すようになるダラディエも、この頃はまだ「日本は対仏印攻撃が可能な状態にない」と楽観的に構えていた。実際、雲南鉄道を使っての軍需物資の輸送は続いた。また、この時期、形式的には民間レベルの話ではあるが、フランスの銀行数行と中国側との間で、ハノイと南寧を結ぶ鉄道路線を完成させるために、総計一億五千万フランの借款を中国に与える契約が成立している。同借款は、「すべての財源を国防に費やすときに、二億フラン近い金を最大の脅威に直面している国に危険を冒してまでつぎ込むのは時宜に適っていない」と主張する財務当局の反対を押し切って、外務省が推進したのである。

 日中紛争は1939年に入っても解決の目処がいっこうに立たず、泥沼化の様相を呈してきた。[6]日本海軍が「対中国経済封鎖を強化して援蒋ルートを断つという軍事目的から」海南島攻略作戦を実施したのは同年2月10日であった。これはフランスが再び対中支援に向けて動き出そうとしていた矢先の出来事であった。さらに、翌3月末、日本は新南群島の領有を宣言した。盧溝橋事変勃発以来、フランスが恐れつづけてきたことが、現実となったのである。

 この頃、中国はさかんにフランスへの接近を試みている。[7]3月下旬、中国外交部長・王寵惠は蒋介石の命令でアンリー・コスム駐中フランス大使に、中国は日本が仏印を攻撃してきた際にはフランスと協力して防衛にあたりたいとという強い希望を抱いている旨を申し入れている。同様の申し入れは4月にもくり返しなされた。また、中国はイギリスに対してはシンガポールと香港に関する同種の防衛協力を提起した。そして英仏の反応が良ければ、アメリカにも提案するということであった。

 中国の提案はボネ外相の関心を引いた。ボネは以前からアメリカが関与しなければ戦争は必死であるという考えを抱いていた。中国が提案する極東防衛協力構想にアメリカが参加することで、アメリカが集団行動という考えに慣れてくれればとボネは思ったのである。ボネは外交ルートを通じて米英に働きかけ、極東における米英仏の協力体制を構築しようとした。

 しかしながら、結局、同構想は実現しなかった。それは、イギリスがまだその段階にないとして消極的であったためである。特に、この1939年春という時期は、ヨーロッパ情勢が極めて混沌としており、極東どころではないというのが正直な話ではなかったろうか。フランスでも海軍が、東地中海の制海権を失うことに比べれば、極東で一時的に防御姿勢をとることの方が望ましく、シンガポールの喪失は「大打撃」となろうが、ヨーロッパでの戦争に負ければ「悲惨」であると考えていた。こうして、中国提案は立ち消えとなった。

 フランスは盧溝橋事変が発生して間もない頃から仏印が日本の脅威に晒されていると考え、主として米英に対してそれを訴えつづけた。[8]ヨーロッパ情勢が混沌としている最中、フランスは単独では日本に抗し得ないとの認識から、米英の協力を得ようとしたのである。しかし、両国とも極東での紛争に軍事的に関与することには消極的であった。そうしたことからフランスは毅然とした態度を示しつつも、日本を過度に刺激しないよう心掛ける一方で、中国への支援物資を、例外措置による軍需物資を含めて輸送し続けるという二律背反の姿勢をとった。この場合、仏印防衛という観点から日本との関係に配慮することには何の不思議もない。問題は日本の度重なる抗議や仏印周辺での軍事行動にもかかわらず、援蒋行為を完全にとめようとはしなかったことである。

 援蒋を続けた理由には、経済的なものと、外交的なものとが考えられる。経済的な理由として、まず想起されるのは中国との貿易である。仏印は米、石炭などを中国へ輸出し、中国からは錫、紙、生糸、野菜、果実などを輸入していた。しかし、仏印の対中貿易は収支が不安定であった。反対に、日本との貿易は常に仏印の大幅な黒字であった。それでも中国との貿易で、フランスはおそらく関税や鉄道輸送などで無視し得ない収益をあげていたものと思われる(但し、援蒋軍需物資に関しては、フランス製はもとより関税免除、他国製も特別措置が講じられていた)。雲南からの輸入品の中には仏印経済や住民の生活と縁の深いものもあったことは確かである。例えば、仏印は錫を雲南から輸入して加工し、それを再輸出することで利益を得ていていたし、雲南産の馬鈴薯もフランス人の食卓に欠かせなかった。また、中国との経済関係では、1930年代末、フランスが華南への経済的影響力の拡大を目論んでいた点に注意する必要がある。対中援助の名を借りて、ハノイと南寧を結ぶ鉄道の未完成部分を敷設するために、危険を承知で中国と借款契約を結んだのはそのためであった。

 次に外交上の理由である。フランスが援蒋を継続したのは、蒋介石を支援するという文字通りの意味のほかに、援蒋を行うことによって、結果的に仏印を救うことにも繋がるという期待を抱いていてからである。フランス政府首脳の間では米英、とりわけアメリカの協力なくしては、極東はもちろんのこと、ヨーロッパにおいても安全が保障されないと考える傾向が強かった。アメリカが日本を敵視し、中国に親近感を抱いていることは明らかであった。そうした状況で、フランスが日本の意を容れて援蒋を完全に停止してしまえば、アメリカが機嫌を損ね、フランスに対する不信の念を強めるであろうことは想像に難しくない。第二次世界大戦が始まってからはなおさらフランスはそうした考えを強めたことであろう。

 フランスはヨーロッパや極東の平和にアメリカが関与してくれることを切に願っていた。[9]とりわけ仏印の防御にまで手を廻す余裕のなかったフランスは、アメリカが主導する対中支援において仏印が重要な役割を果たしていることを示すことによって、アメリカの助力を得やすいように、あるいは少なくとも、アメリカが断りづらいようにしようとしたのではないだろうか。

 しかし、現実はフランスのこのような思惑とは裏腹に、期待していたアメリカの関与を引き出すことはできず、援蒋を継続したことによって、かえって日本の南進を招いてしまった。仏印・中国国境には日本陸軍きっての精鋭部隊である第五師団が迫り、また、トンキン湾を隔てることわずか約200キロメートル対岸の海南島には日本海軍が地歩を築くに至ったのである。これは仏印の防衛にとってまさに最悪のシナリオであった。

 フランスは、第二次世界大戦中も中国とは良い関係にあったが、世界大戦終了後もどこの国よりも早くから友好関係をもった。それは、アメリカが中国と国交を樹立したのが、1979年に対して、フランスは1964年にド・ゴール大統領のもとで対外自主外交を行っていたことから、中国と国交を樹立したことからもわかる。これからもこのような友好関係が続くことを期待したい。

 

三、EU諸国と中国:WTO加盟をめぐるEUと中国の攻防

 今の中国のもっともHOTな話題といったら、なんといってもWTO加盟が認められるかどうかだろう。中国はもうほとんどのWTO加盟国の承認をえている。アメリカにも1999年11月に承認され、大きな難関として残っていたEUにも承認された。中国のWTO加盟を巡る中国とEUの2国間交渉が5月19日に北京で妥結された。[10]EU側代表である欧州委員会のラミー委員と中国の石広生・対外貿易経済協力相が合意文書に署名した。中国はスイスなど5カ国と2国間交渉を残しているが大きな問題はない見通しで、各国との2国間交渉は事実上終了した。

・農産物など関税下げで譲歩

 交渉決着後のEU側の記者会見などによると、中国側が以下の条件で合意した。

@携帯電話での外資出資比率を49%まで高められる時期を、米中合意より2年前倒しして加盟三年後とする

A農産物の輸入関税を引き下げる

B衣料品や陶器、革製品など150品目の関税を概ね8から10%に引き下げる

C欧州の損害保険会社と生命保険会社計7社に新規参入を認める

 EUが強く求めていた携帯電話や保険、自動車の分野での外資の出資比率を51%以上に引き上げることについては中国が拒否した半面、EUの重要な輸出産品に対し中国が市場を一段と開くことで決着した形だ。

・重要3分野で防戦に成功

 中国はWTO加盟を巡るEUとの交渉を、焦点となっていた携帯電話や保険、自動車の3分野では限定的な譲歩で乗りきった。EUが得意とする3品の関税率引き下げで幅広い譲歩に応じ、EUの歩み寄りを引き出した。中国はEU交渉の妥結でWTO加盟への流れを加速し、国有企業、金融の改革に一段の弾みをつけたい考えだ。

 合意は中国が重要3分野で防戦に成功する半面、EUが「広範な分野で譲歩を得た」(EUのラミー委員)、痛み分けの内容といえる。昨年11月の米中合意に比べ中国側の粘りが目立った。EU側が得たのは、欧州企業7社に対する保険免許付与などEUに限定した“果実“に集中した。

 中国では、米中合意での批判がくすぶっており、朱鎔基首相は将来の重要産業である通信と保険、自動車でこれ以上譲歩できない事情があった。一方で、加盟のメドが立たないことで市場開放に備えた国有企業、金融改革の機運がさめるおそれがあり、大規模な関税下げに応じた。

・シェア確保狙い持久戦もにらむ

 EUが中国のWTO加盟交渉でギリギリまで譲歩を引き出そうとした背景には、中国市場でのEU各国のシェアを確保したいと言う思惑があった。とくに、欧州勢が強い携帯電話、保険、流通、化粧品などの分野の市場開放を引き出す必要があった。加えて、米国が受け入れればすべてが決着と言う世界的なムードを変え、EUの存在力を示すことで、今後のWTOの自由化交渉などでの主導権を確保する狙いもあった。

 EUが中国と交渉を開始した時点では、中国は「米国と合意した内容以上には市場開放しない」と一歩も譲歩しない姿勢を示していた。米国の関心事項とEUの関心事項は「8割が同じだが、2割は違う。その2割の市場開放を迫る必要がある」とラミー欧州委員は指摘していた。

 中国はWTO加盟を熱望しており、EUにとっては今しか中国から譲歩を引き出すチャンスはないと判断。「早期決着」を促す米国からの圧力を受けながら、持久戦の体制を取った。

 一方、EUは今回のWTO交渉で簡単に妥協すれば、自由化交渉でも「軽い存在になる」との危険感を高めた。

 そして、この翌週に米下院本会議における対中最恵国待遇(MFN)恒久化法案の採択に焦点が移されたが、これは可決された。これにより、中国のWTO加盟は2000年内にも実現する見通しとなり、中国は歴史的大きな第1歩を踏み出すことになる。

おわりに

 このように中国は長い間、帝国主義の犠牲となってきた。しかし、戦争がなくなった今日では、中国はどこの国からの支配も受けずに、独自の改革開放などの政策により着実に経済発展をしている。そして、今年、ついにEUにもWTO加盟の合意を得た。これにより、中国のWTO加盟はほぼ確実になるわけだが、それにより、いっそう市場が開放され、多くの外国企業の進出が期待できる。それにより、さらなる経済発展が予想される。これからの中国は目が離せなくなるだろう。

1914

7.28

第一次世界大戦勃発

 

8.6

中国 第一次大戦局外中立を宣言

 

9.2

日本軍 山東省に侵入しドイツ軍攻撃

1915

1.18

日本 対華二十一ヵ条を要求

 

5.9

中国政府 二十一ヵ条を受諾

1918

11.11

第一次世界大戦終結

1937

7.7

盧溝橋事変

1941

7.28

日本軍南部仏印進駐

 

12.8

太平洋戦争始まる

1945

7.26

ポツダム宣言

 

8.14

日本無条件降伏を通告

1949

10.1

中華人民共和国建国宣言

1964

10.13

中国 フランスと国交樹立

1978

8.12

日中平和友好条約調印

1979

1.1

中米国交正常化

2000

5.19

EU 中国のWTO加盟承諾

参考文献

立川京一『第一次世界大戦とフランス領インドシナ』、彩流社、2000年発行。

丸山松幸『五四運動:中国の黎明』、紀伊國屋書店、1981年発行。

日本経済新聞、5月20日朝刊。



[1] 以下の記述(1914年〜であった。)は断りがない限り、丸山松幸『五四運動:中国革命の黎明』、紀伊國屋書店、1981年、序章第1節に基づいている。

[2] 以下の記述(1937年〜開始した。)は断りがない限り、立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ』、彩流社、2000年、第1部第1章第1節に基づいている。

[3] この段落の記述は立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ』、彩流社、2000年、29頁〜30頁を参考にした。

[4] この段落の記述は、立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ』、彩流社、2000年、31頁〜32頁を参考にした。

[5] 以下の記述(1938年〜したのである。)は断りがない限り、立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ』、彩流社、2000年、第1部第1章第4節に基づいている。

[6] 以下の記述は(日中紛争は〜なったのである。)は断りがない限り、立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ』、彩流社、2000年、第1部第1章第4節に基づいている。

[7] 以下の記述(この頃、〜となった。)は断りがない限り立川京一『第二次世界大戦』、彩流社、2000年、第1部第1章第4節に基づいている。

[8] 以下の記述(フランスは〜ことであろう。)は断りがない限り、立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ』、彩流社、2000年、第1部第1章おわりにに基づいている。

[9] 以下の記述(フランスは〜であった。)は立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ』、彩流社、2000年、第一部第1章おわりにに基づいている。

[10] この章記述は、日本経済新聞、5月20日朝刊、第9頁を参考にしている。