中国とロシア
『友好〜対決〜和解口そして、新・蜜月時代へ』
98E2405 斧研貴子
1、 はじめに
中国とロシアは、東北に黒竜江(アムール河)、東にウスリー江を国境としていて、古くから国境問題の絶えない隣接国である。公海に囲まれている日本にとっては、なじみの薄い問題だろう。また両国は、社会主義国として共通点を持っている。戦後の中露の関係は、まずは同盟を結び良好だった(良い関係の時代を蜜月時代という)。しかしこの関係はその後一変し、世界中が注目する対立国となった。そして今日のパートナーシップの強調をとる関係に至るまでには、どのような道のりがあったのか。
2、
戦前の領土戦争
・支配の第一歩 =シベリア鉄道の敷設
もともと帝政ロシアは、「東方進出」政策の一環としてアジアへの進出を企図し、1891年にはその企図を具体化するためにシベリア鉄道の建設を開始した。同時にロシアはチタ・ウラジオストク間の短縮を図るためアムール川(黒竜江)の迂回を避け、満州里・ハルビン・綏芬(ソイフー)河間の線路敷設を計画し、1896年清国との間に協定を結んでこの鉄道の敷設権を獲得した。
この鉄道には短縮線としての機能だけではなく、ロシアの中国東北(満州)を支配する目的もあった。そして大連と旅順の2つの不凍港を建設し、太平洋進出のための経済的・軍事的拠点にした。これらにより極東に対するロシアの影響力は格段に強化された。(注1)
・日露戦争での領土争い
日露戦争はつきつめていえば、日本とロシアが朝鮮、満州をめぐって戦った再分割戦争であった。
この戦争の背景には、ロシアがシベリア鉄道を完成させることにより、勢力が強化されるのをおそれた日本が、中国東北(朝鮮)に足場を築いておきたい、という意図があった。ロシアは軍事面でこの地域を支配していた。この勢力は日本にとって大きな障害であり、日本はロシアの経済的支配よりも、むしろ軍事的支配を除去したかった。
日本は日清戦争で朝鮮半島から清国を排除しようとし、その結果、遼東半島は日本に割譲されることになった。ロシアは中国東北を独占的に支配したかったので、露仏独三国干渉により日本に遼東半島を返還させ、その後も、この地方に鉄道や軍事基地の建設を行い、完全な支配権を確立しようとした。
しかしこれが日本を怒らせ、日露戦争の遠因になった。一方清国は、下関条約による多額の賠償金の支払いに苦しんでいたため、ロシアはフランスの協力を得て多額の資金を貸しつけ、かわりにシベリア鉄道の敷設権を得た。
ロシアは中国での勢力を拡大し、つづいて朝鮮に目をつけた。日本にとってもこの地域は、中国本土への最短ルートとして関心があったため、日本は朝鮮と満州の支配権をロシアと分割しようとした。しかしロシアは独占的に支配したいと考えていた。ロシア政府は日本をみくびっていた。ロシアは兵力増強こそしていたが、日本が先に開戦してくることはない、と考えていた。そのため、対日戦争の作戦準備をしていなかった。一方日本は、シベリア横断鉄道が完成する前に開戦するほうが有利だと考え、戦闘準備を進めていた。このようなこともあり、不意をつかれたロシアは、新興勢力の日本に敗北した。
日露戦争の結果、日本は目的としていた朝鮮支配の道を開き、また満州にあったロシア利権の多く(サハリンの南半分と遼東半島の租借権、さらにはシベリア鉄道の旅順・大連・長春間を継承した。
一方米国は、中国東北への進出を企図していたため日露戦争に際しては日本を支援した。日露戦争には、この米国や、その他英国の利害(ロシアの南下政策に対するインド防衛)の代理戦争というもう1つの側面があった。(注2)
3.友好と同盟の時代
・毛沢東とスターリンの同盟締結
1949年中華人民共和国が成立し、毛沢東が主席になると、毛沢東はまず3ヶ月もの間、ソ連に滞在してスターリンと軍事同盟の締結を急いだ。これはアメリカと日本の脅威に対抗するため、ソ連を後ろ盾とする安全保障の確保のためであった。 毛沢東の粘り強い交渉により、1950年2月14日にヴィシンスキー外相と周恩来外相との間で中ソ友好同盟相互援助条約(期限30年)が締結された。
この条約は第1条で「締約国のいずれか一方が日本もしくは日本の同盟国(アメリカ)から攻撃を受けて戦争状態に入った場合は、他方の締約国はただちに全力をあげて軍事上およびその他の援助を与える」と規定する強固な攻守同盟であった。また条約とともに中国長春鉄道(旧、満鉄)の返還、ソ連の対中経済援助などの諸協定が結ばれた。これにより、中華人民共和国存立の軍事的保証と政治的安定、疲弊した経済再建のための資金確保が約束された。
しかし、すでに中ソを軸とした社会主義世界体制と、アメリカを中心とした資本主義社会体制で対決する東西対立がおこり、冷戦のまっただなかにいたため、中国もその中に組み込まれることとなり、アジアにおける東西対立を激化させる結果となった。(注3)
・朝鮮戦争での中ソ関係
第2次世界大戦の終結にあたり、朝鮮半島は北緯38°線にそって分断された。そしてその南北分断に際し、北をソ連軍、南をアメリカが占領したことは、一時的な臨時措置に終わらず、朝鮮の分断は今日までずっと続くこととなった。
アメリカは朝鮮半島の確保に対し、もともとはそれほど注目していなかった。しかし当時アジア情勢が急激に進展してきたことから重要視し始めた。中国は共産党の勝利によって、ソ連軍の同盟国となった。東南アジアでは、民族自決と社会主義勢力が拡大してきた。アメリカにとってこのことは共産主義革命を引き起こす危険性があると考えられた。そこで朝鮮半島の社会主義化を防ぎ、社会主義国に対する防波堤を東南アジアに築きたいと考えたのである。
1950年、朝鮮半島をめぐり、金日成はソ連の軍事的経済的支援をあおぎ、電撃作戦によって朝鮮半島統一に乗り出した。それに対して李承晩政権はアメリカの援助を受けて大韓民国を樹立した。
アメリカのトルーマン大統領は、原爆を使用しようとした最高司令官のマッカーサーを解任し、中国・ソ連との全面戦争を回避した。そして1953年7月、38°線近くの板門店で、休戦協定が結ばれた。
朝鮮戦争による中国への影響はいくつかある。まず1つに超大国アメリカに対しては、建国したばかりの中国軍が互角にわたりあったことから、勝利に等しいものと考えられ、さらに的確な政策判断を下した毛沢東への個人崇拝が高まった。2つ目に、朝鮮の防衛に成功したことにより中国の国際的な発言力が増大したことがあげられる。そして3つ目に、ソ連に対しては、スターリンが中国空軍の援助の要請を断ったことや、ソ連が提供した軍事物資の代金の支払いを要求してきたことにより、失望と反発が芽生えた。このことが後の中ソ対立の遠因となった。ちなみに中国は北朝鮮に対し、戦争中の援助を一切無償にすると金日成に約束している。4つめに、国家存亡の危機という認識を中国の指導層の強烈に植え付けたことがあげられる。(注4)
・中ソ間に生じた亀裂
友好同盟期は、長くは続かなかった。中国はソ連の援助により第1次5カ年計画を遂行したが1959年に中ソ間の関係が目にみえて悪化した。第2次世界大戦中の中国革命は、日・独・伊に対する反ファシズム・レジスタンス運動でもあった。そのため、ソ連とともに米・英・仏など連合国の動向に左右された。また、戦後から中華人民共和国の建設過程において、中国共産党の対外政策は米ソの対立を中心とした冷戦体制に影響を受けた。特に中国革命の遂行には、ソ連共産党支援やスターリンの指導がプラスにもマイナスにも影響を与えた。 社会主義革命を進める中国とソ連の立場は一致していなかった。スターリンは中国共産党に対して、誤った指導をし、干渉した。
4.対決の20年
1960年〜1980年の20年間の中ソ関係は対立敵対期である。
1957年後半、ソ連ではフルシチョフがアメリカと平和共存を目指して動き出した。1959年ソ連は「国防新技術供与に関する協定」を突然破棄し、中国に原爆のサンプルと技術資料を渡すことを拒んだ。自国の安全保障に関わることであったため中国は大きな痛手を負った。それから核を作るのに莫大な費用と時間がかかることとなった(中国の第一回核実験は1964年10月)。
1959年の夏に中国とインドの間でチベットをめぐる武力紛争が起こった。しかし中国と同盟を結んでいるはずのソ連は中国の期待に反して中立の立場をとった。これによって、中国のソ連に対する失望は一層深いものになっていった。
さらにソ連は、1960年に中国の建設援助に派遣していた1300人余りのソ連人技術者を引き上げ、数百の協定・契約を破棄し、物質と設備の供給を停止して、中国に圧力をかけた。また、1963年に米ソ間で結ばれた部分的核実験停止条約は、中ソ関係をさらに悪化させた。
ソ連のフルシチョフは平和共存を路線にしていた。フルシチョフは、スターリンの独裁と個人崇拝に対し批判していたため、スターリンを国際共産主義運動における偉大な指導者として、高く評価してきた中国にとっては納得できないものだった。この当時中国は第3世界外交を進めていた。フルシチョフの考えはこれを根本的に否定するとし、中国の考える第3世界諸国は米ソの平和共存原則に従うことになり、第3世界の指導者として自認している中国を無視することだとした。中国はソ連を修正主義と批判し、それに対しソ連は中国の毛沢東指導部を批判した。64年にフルシチョフの失脚により争いは、一度は一段落したが、両国の対立はその後さらに深まっていった。
1969年には中ソ国境のウスリー河のダマンスキー島(珍宝島)で中ソ武力衝突が起こった。(注7)この衝突をはじめとし、毛沢東とフルシチョフの、力のぶつかり合いなどの様相から、20年間の中ソ対立となった。1970年代には中国とソ連は対立国としてモンゴルを含む7000キロに及ぶ国境を挟んで対立した。
中ソ友好同盟相互援助条約の満期1980年を控え、1979年4月に中国はこの条約の期限を延長しないことを決定した。延長しない理由の1つに中日関係があった。
同条約にはいわゆる対日敵視条項が含まれていた。78年8月に調印された日中平和友好条約の交渉過程でこのことが問題になっていた。ケ小平副総理は、「同条約は79年4月までに新華社声明のような形で廃棄を宣言する」と約束した。これに対しソ連は「敵対的行為」とうけとめ「条約の効果停止に対する一切に責任は中国側にある」と非難した。また中国と日本およびアメリカの接近により、中ソ条約に対する攻撃は強まったとも批判した。(注8)
5.和解への道のり
1981年初期はまだ「凍結状態」が続いていた。中ソ間には外交関係や通商関係も一応存続していたが両国はお互いに厳しい批判をし、完全に断絶したままの党関係はもとより、国家関係も冷え切ったままだった。わずかに中ソ国境に再開のきざしが見え始めたのは1981年末だった。
中国側はソ連の脅威について@中ソ国境とモンゴルへのソ連軍大量配備、Aベトナムのカンボジア侵略への支援、Bアフガニスタンへの武力侵略、のいわゆる〈三大障害〉について、「誠意を持ちこれらの脅威を取り除く実質措置をとるならば中ソ関係は正常化に向かう可能性がある」と指摘した。厳しい条件を出しながらも改善に積極的に取り組む姿勢を見せた。こうして中ソ関係改善への道のりは確実に一歩踏み出した。
しかし、深刻な対立を長年にわたって続けてきただけに、正常な国家関係を確立するまでには長い道のりを必要とするだろうことは両国ともわかっていた。中国側は〈三大障害〉の除去が先決だと考えているのに対し、ソ連は中ソ2国間の問題に限定すべきだとし、第3国に関わる問題は取り上げず、両国関係の大枠を定める政治文書を作成しようとした。例えば、日中平和友好条約のような政治文書を、中ソ相互不可侵、または中ソ国境の信頼醸成措置を中心に作成し両国間の問題を解決していくことを主張した。
1986年、チェルネンコの葬儀でゴルバチョフ新書記長と中国の李鵬副首相とが会談した。これは中ソ対立後初めてのソ連の党最高首相と中国要人の会談であり、中ソ関係が新たな段階に前進したことを明確に示した。ゴルバチョフは87年に〈三大障害〉(すなわち中ソ国境とモンゴルへのソ連軍大量配備・ベトナムのカンボジア侵略への支援・アフガニスタンへの武力侵略)の除去の要求について、モンゴル駐留ソ連軍の大部分の撤退、アフガニスタンから6個連隊帰還の方針を明らかにする、などの提案を行った。
しかし中国は〈三大障害〉の中でもっとも重要視しているカンボジア問題についてソ連が触れていなかったため不満を示した。これに対し、カンボジア問題に議題をしぼった協議でベトナム軍のカンボジアからの速やかな撤退問題が討議され、双方がカンボジア問題は政治的手段により、公正で合理的に解決されるべきであり、この目標を達成するために努力することなどを発表した。これらにより全体的に友好的な雰囲気が確認された。
6.共存期突入
友好同盟期のような復活はありえないとはいえ、中国・ロシア両国首脳の相手国訪問は定例化され、その度ごとに両国の関係はよくなってきている。
中ソ関係正常化の象徴ともいえる、中ソ首脳会談開催の決定し、1989年にはケ小平・ゴルバチョフの首脳会談が開かれた。この会談に両国を動かしたのは、〈三大障害〉をめぐる中国側から見たロシアの改善だった。
アフガニスタン問題にあたっては、ソ連は8年半にわたってアフガニスタンに駐留してきた、ソ連軍の全面撤退を開始させ、1年もたたないうちに全軍を撤退させた。カンボジア問題に関しては、両国はベトナム軍の早期撤退の見解で一致していたが、ベトナムとカンボジア人民共和国の双方が、9月までのベトナム軍の完全撤退に関する声明を発表した。
・国境問題
1991年に中ソ東部国境協定が成立し、東部地区の国境確定に関する協定草案も作成したが、ソ連邦崩壊後、ロシアの中からこれに関し強い反発があったこともあり、中ロ間での正式な合意、協定まではいかなかった。その後決着をつけ、ロシア側の説明では、アムール・アングル・ウスリーの、国境河川のいくつかの島は共同利用の対象とされる、という見通しであった。
東部国境線については航行可能な河川については河川の中心線を国境線とし、航行不可能な河川については河川の中心線または、主流の中心線を国境とすることで合意された。これは、中国がソ連に対する警戒心を大幅に緩和したことを示すものといえる。
国境地帯における軍備削減は中央アジア諸国との関係にも及んだ。中国とロシアにカザフスタン・キリギスタン・タジキスタンを含めた5カ国の間で「国境地帯の兵力削減に関する協定」が合意され、各国が互いに武力行使したりせず、また一方的な軍事的優位を求めることもしないことが確認された。その結果4000kmに及ぶ旧中ソ国境地帯の緊張緩和が促進されることになった。しかしその一方で、ロシア人にとって自らの土地を中国側に譲り渡すことは、地下資源の利害、国民的誇りという点で承服できなかった。こうした考えは中国人から見るとロシア帝国主義的膨張の表われと見えてくる。したがって両国は相手国の現実的な力、内政、外交路線の行方に関して冷静な判断力を持つことが不可欠である。
・中ロの対米関係
中ロがこのような状況にありながら、パートナーシップの強調をしているのは米国をにらんでのことである。
ここ数年の中ロの首脳会議で繰り返されているのは、戦略的パートナーシップの内実の問題である。中国側にとってロシアとの経済協力はエネルギー確保の問題からも必要不可欠である。日常的にも中国はロシアに労働力と日用生活品を提供して原料を購入することに利害関心をもっている。さらに双方にとって重要なのは、ロシアから中国に対する武器輸出である。ロシアにとって武器輸出は、外貨獲得と軍事的均衡という点から不可欠であり、また中国側も軍近代化の問題も含め、ロシアの協力が必要である。
両国は米国に対し、一極主導型構造の確立をなんとしても阻止したいという点で一致している。また特定の国や地域が主導権を取ることに否定的な態度をとっているが、これはもちろん米国に対して向けられてのことだ。
しかし今日の中国の社会主義市場路線にとって、米国との密接な関係は必要不可欠である。ロシアにおいても、国内の金融危機の打開に際して米国の好意的対応に頼らざるを得なかったこともあり、親米の立場は前提的なものになっている。(注9)
7、2000年中ロ最新動向
沖縄サミットに先立ち、ロシアのプーチン大統領は訪朝し中露首脳がNMD(米国の国家ミサイル防衛)とBMD(弾道ミサイル防衛)への反対を共同文書に盛り込み、改めて協力を確認した。プーチン政権は軍縮をアピールする一方、米欧諸国に短距離ミサイル防衛網の共同構築を提案することで米国のNMD導入阻止を目指した。また、プーチン大統領の中国訪問では、米国のNMDに対する共同声明や両国の、戦略協調関係の規模拡大をうたった「北京宣言」の二文書に調印した。また、20年前に失効した「中ソ友好同盟援助条約」にかわる新基本条約、「中ロ善隣友好協力」締結に交渉開始も盛り込まれた。会談では、北京宣言など2文書のほか@中国の高速中性子炉建設での協力Aエネルギー部門での協力継続―など計4つの文書も閣僚レベルで調印された。
8.これからの中ロ関係
こういったことからも戦略的パートナーシップの宣言は、両国が問題としてあげていながらも解決していない事柄を、合理的に解決していくために必要な信頼関係を確認し合う、という程度のものになってきている。かつて軍事超大国の地位を手にしながら、現在「亡国の危機」に直面しているロシアと、軍事大国を目指す活力あふれる中国との関係であると規定できる。中国にとってロシアは指導的立場の国家であったが、国境確定作業では、中国に譲歩する形でなされたこともあり、ロシア国民、特に国境近辺では反発もでてきている。中ロ両国は確実な信頼関係を築くために、国民の意識レベルにおいても問題を解決していく必要がある。
9、結び
中国とロシアの歴史は、長い国境を挟んでいる国同士、とても関係が深い。良い面でも、悪い面でもお互いが影響しあってきた。また両国は2つとも大きな強国であるため、世界にも大きく影響を与えた。
冷戦時代、東西対立の中で朝鮮半島は南北に分断され、米国は韓国と相互防衛条約を結び、中国とソ連はそれぞれ、北朝鮮との間に中朝相互援助条約、ソ朝相互援助条約を結びそれぞれの立場で軍事支援を続けた。しかし90年代になると冷戦期の安保構造は大きく変化した。@ソ連が崩壊し承継国家のロシアは短期的には北東アジア諸国に対して軍事的脅威とは見られなくなった。Aその結果、米中露三ヶ国の関係は、競争はあるものの、相互に「戦略的パートナーシップ」と呼ぶほどの協調的関係を確立した。B朝鮮半島では、北朝鮮とソ連の相互援助条約について、ロシア、中国と政治、経済関係を確立した。などである。この結果韓国などの域内国が独自に行動できる余地が広がったといえる。
江主席は朝鮮半島の平和と安定を守る点で両国の立場は共通していると指摘し、北東アジア地域の安全保障の確立で存在感を示し米国の一極支配構造をけん制する狙いがある。一方プーチン大統領も世界の安定に向けてロシアと中国の戦略的パートナーシップを優先的に強化する方針だ。ロシアにとっては国内経済建て直しのため、中国との経済協力関係の強化も必要である。それとともにロシアはすでに中国に対し、武器を大量に売却しているが、米国に対抗するため政治、経済、軍事など幅広い分野で中国と協力する姿勢である。
近年中国とロシアの関係は、政治のおいては極めて親しく近いものになってきている。これからは貿易と経済協力においても活発なものにする必要がある。
お互いが協力し合い、伸ばし合っていくような中国とロシアの「新・蜜月時代」がくることを、私は望む。
《参考文献》
江口朴郎 『世界の歴史14』、中公文庫、1975年発行
ジョン、チャノン/ロバート、ハドソン著 『地図で読む世界の歴史 ロシア』,河出書房新社、
1999年発行
前田哲男/手島龍一 『中ソ国境〜国際政治の空白地帯〜』、日本放送出版協会、1986年
歴史教育協議会 『知っておきたい中国U』、青木書店、1996年発行
李國卿 『中、米関係の変換とソ連』、文眞堂、1988年発行
社会法人 中国研究所 『中国年鑑』、創士社
中西治 『中国とソ連』、日本工業新聞社、1979年発行
日本経済新聞
朝日新聞
*中国とロシアの関係年表*
1891 |
シベリア横断鉄道が建設開始される |
1894.8 |
日清戦争開始 |
1895.4 |
下関条約が締結される |
1904.2 |
日露戦争がはじまる (〜1905) |
1922.12 |
ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立する |
1945 |
中ソ友好同盟条約が締結される |
1947 |
冷戦時代のはじまり |
1949 |
中華人民共和国が成立する |
1950.2 |
中ソ友好同盟相互援助条約が締結される |
1950.6 |
朝鮮戦争がはじまる (〜1953) |
1957 |
国防新技術に関する協定が結ばれる |
1960.4 |
中ソ論争が表面化する |
1963 |
米ソ間で部分的核実験停止条約が締結される |
1963.6 |
全面的な中ソ論争開始 |
1969.3 |
珍宝島で中ソ武力衝突する |
1980 |
中ソ友好同盟相互援助条約の満期失効 |
1989.5 |
ゴルバチョフ書記長がケ小平と会談 |
1991 |
中ソ東部国境協定が成立 |
1991.12 |
ソヴィエト社会主義共和国連邦解体 |
1994 |
中ロ西部国境協定が成立 |
1996・4 |
エリツィン大統領訪中、「国境地域における軍事領域の信頼強化に関する協定」調印 |
1997.4 |
中ロ共同声明発表される |
1998・11 |
江主席ロシア訪問 |
1999・12 |
エリツィン大統領中国訪問、米国のミサイル防衛戦線への反対表明 |
2000・7 |
プーチン中国訪問「北京宣言」調印 |
(注1) シベリア鉄道の記述に関しては、歴史教育者協議会『知っておきたい中国U』 青木書店,1996,p114:前田哲夫/手島龍一著、『中ソ国境〜国際政治の空白地帯〜』、日本放送出版協会、1986年、p165、を参考にした。
(注2) 日露戦争に関する記述は、ジョン・チャノン/ロバート・ハドソン著『地図で読む世界の歴史ロシア』、河出書房新社、1999年、p82 :『ロシア・ソ連を知る辞典』、平凡社、1998年:『中国U』p114,115、を参考にした。
(注3) この段落の記述に関しては前揚書『中国U』p147を参考にした。
(注4) 朝鮮戦争の記述に関しては、『中国U』、p147〜p150を参考にした。
(注7) ダマンスキー島事件:1969年3月2日、ダマンスキー島で「越境と挑発」を理由に、凍結した川面を渡った中ソ両軍が交戦した。
(注8) この段落に関しては、『中国U』、p170:『中ソ国境』、p84〜p87を参考にした。
(注9)
5、共存期突入からは、社会法人中国研究所『中国年鑑』、創士社を参考にした。