中国と朝鮮半島

                               

『“分断”という名の大きな傷を抱える朝鮮半島。そして

今、統一に向けての第一歩を歩み出した』

 

                                              

98E2245 野々村由里

 

“朝鮮半島でなにがおこったのか”いつの時代もこの事を語る上で、中国の存在を無視することはできない。中国は、朝鮮半島で起こる様々な出来事に関与し、その中で、北側である朝鮮民主主義人民共和国とは固い絆を築いた。

 しかし近年その友好関係は、南側である韓国を含む周辺諸国の変化と共に少しずつ変わってきている。また、南北に分断された朝鮮半島内も今、変わろうとしている。温故知新という意味で、朝鮮半島をめぐる国際関係のめまぐるしい変動を振り返ってみたい。

 

T:朝鮮半島が受けた三度にわたる傷

(1)豊臣秀吉の朝鮮出兵

 16世紀末、その時代の日本を統一していた豊臣秀吉によって、2度に渡る朝鮮半島への出兵が行われた。1度目が1592年の文禄の役、2度目が1597年の慶長の役である。

 日本国内における数々の難戦に勝利し、そして天下人へと登りつめた秀吉にとって、全国統一直後に行った朝鮮半島への出兵は何を意味したのか。

 現在このことに関して、大きく分けて3つの見解がある。1つ目は、日本全国に知れ渡った豊臣秀吉の名を国外にも広く及ばせ、自らの功績を世界の歴史に遺すためであったという見解である。2つ目は、国内の反豊臣政権に触れることなく財政源を獲得するためであったという見解である。元々秀吉は、堺の商人や千利休らからによる借金による経済力によって小さい軍をカバーし、勝利を治めてきたということからも、この見解は裏付けられる。経済力を非。そして3つ目は、代議名文とも取れるが、当時西洋からの支配を受けていたアジアを解放するためであったという見解である。                                                                            

いずれにせよ、この3つに共通している秀吉の目的は、最終的に明に侵入し、征服することであった。朝鮮出兵は、そのための道づくり=足ががりだったといえよう。

 そしてこの朝鮮出兵・侵略は、当時の朝鮮半島の外敵に対する備えや力を考えると、成功する可能性は非常に高かった。実際、早期決戦を目指していた日本軍は1592年の出兵直後、一時は漢城を攻め落とし、豆満江まで到達した。しかしその勢いを止めたのが、秀吉の意図を察知した明だった。

 明の参戦は朝鮮軍に立て直す時間を与え、そして日・明が戦火を交えている間に朝鮮軍は自衛力をつけ、李舜臣の率いる朝鮮水軍が頑丈な「亀甲船」を使って日本の補給路を絶ったことにより、日本軍は戦う術を失った。危機迫った日本軍は漢城にて明との講和交渉を開き、明使・沈惟敬の策などにより、占領した城郭・土地、そして捕虜とした王子・陪臣を返還し、朝鮮半島からの撤退を約束した。 しかし、この結果に満足いかない秀吉は、再び出兵することを決意する。このようにして、1597年慶長の役が起こる。

 秀吉は侵略に向けて14万の兵を朝鮮半島に送るが、一度目とは違いその勢いを見せること

なく、秀吉の死によって撤退、終戦となった。

 このような秀吉の二度にわたる出兵は、朝鮮半島と明に多くの影響を与えた。まず戦場となった朝鮮半島は当然の事ながら、日本軍の侵入そして明の参戦により半島内全体がロボロになり、その不安定な社会は1945年まで続く日本による植民地時代をもたらし、また清による朝鮮進出のきっかけをつくってしまった。そして明は、朝鮮救援のための出兵で国内の力を急速に弱めたことにより、後に女真族によって滅ぼされ、新王朝“清”の誕生をもたらした。またこの一件で最も注目しておかなければいけないのは、中国が朝鮮の危機を救ったことにより、両国間に友好関係が築かれたということである。

 

(2)日清戦争

 1894年、朝鮮半島内で日本と清朝による戦争が起こった。まずはそこに至るまでの朝鮮半島内で起きた出来事をたどりたい。

 そもそも、すべての始まりは1875年の江華島事件だ。明治新政府は朝鮮に国交の樹立を求めたが、断られたためこの事件を起こした。そして翌年、日朝修好条規を結び、当時鎖国をしていた朝鮮を開国させ、釜山・元山・仁川の3つの港を開港させた。このことで朝鮮国内の親日勢力である閔氏一族が日本接近を推し進めるが、それに反発した大院君が1882年軍隊を引き連れて反乱を起こし(壬甲事変)、またそれに呼応した民衆が日本公使館を包囲するという事件を引き起こした(壬甲軍乱)。そして2年後の1884年、再び日本公使館の援助を得た改革派の金玉均らが、朝鮮国内の改革をねらいクーデターを起こす(甲申事変)。しかし朝鮮と友好関係にあった清国の援軍によって失敗に終わる。そして翌年1885年清国全権・李鴻章と日本全権・伊藤博文が天津条約を結び、日・清両国は朝鮮半島から撤退した。またその条約の中で、今後朝鮮に出兵する時は、お互い通知することを約束した。

 しかし日本は天津条約締結後も、朝鮮における力の回復を目指した。そして日本の経済的進出に反対する朝鮮政府との対立を強めた。また軍事力において、朝鮮政府を支えてきた清との対立も同時に強まった。そして10年あまり続いたそのような状況の中で、1894年2月15日、東学党に入道していた全捧準指揮の下、全羅道古阜郡で農民蜂起が起こった。これが甲午農民戦争の始まりだ。元々この地域は日本への米穀輸出による経済的変動の影響を大きく受けており、これは朝鮮政府、そして日本政府に対する抵抗だった。やがてそれは全羅道一帯に広がり、巨大化した反乱農民は5月31日遂に全州を攻撃した。それに対して李朝は、清国軍にこの反乱への介入を要請し、清・日両軍の出兵によって騒動は鎮圧され、朝鮮半島全土に及んだ農民蜂起は終わりを迎えた。そして、それですべてが終わったかのように見えた。しかし、清が出兵の際に日本にその通知をしなかったことが、天津条約にふれるとして、日本軍は朝鮮出兵を決意し、1894年8月1日、日・清両国が同時に宣戦布告、日清戦争が始まった。

 まず日本軍は王宮に侵入し、王妃である閔妃の身柄を確保した。また他方で、あらゆる方法を使って大院君の政権復活を果たした。そして朝鮮兵は完全に武装を解除し、日本軍の制圧下におかれた。

 その後、日清の間で数々の戦いが行われたが、「眠れるライオン」と欧米諸国、そして日本に恐れられていた清国は意外にも連敗をし、日本軍に降参した。そして1895年、両国の間に「下関条約」が締結された。これは清国にとって非常に不利なものであった。その主な内容は、以下の通りである。

@朝鮮を完全な独立国として承認する。

A遼東半島・台湾および澎湖半島を日本に割譲する。

B賠償金として庫平二億テール(両)=三億円を七ヶ月間で支払う。

C片務的な最恵国待遇と、開港場における日本人の工業企業権を認める。

 また清国の敗戦の理由としては、政府内に日本との交戦を推す者と、和平を目指そうとする者の両方が存在し、大半の国民は参戦しなかったこと。そして近代化した武器は使用したものの、軍自体は充分な訓練がされてなかったというように考えられている。

 これ以降、朝鮮戦争によって敗戦するまで、日本の朝鮮半島支配は続くこととなる。

 

(3)朝鮮戦争

1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏したことによって、第二次世界大戦はその幕を閉じた。そして、それまで36年間にわたり日本の支配を受けてきた朝鮮は遂に解放され、朝鮮人民に自由と平和が取り戻された。しかし、それは長く続きはしなかった。米・ソ両国は1ヶ月もたたぬうちに北緯38度線を境界線として、朝鮮半島を南北に分割した。 そして1948年、北では資本主義国家である大韓民国、南では社会主義国家である朝鮮民主主義人民共和国が建国された。

当時の中国は、国共内戦での勝者である共産党政権であり、同じ社会主義で隣国であるソ連とは同盟国となっていた。そして、北朝鮮もまた、本格的に社会主義建設を進めると共に、「民主基地」路線を推し進めていた。そもそもアメリカが第二次世界大戦終戦後、朝鮮半島の確保に乗り出したのは、アジアに広まりつつある社会主義に対する拡大防止策の一つであった。

 1950年1月、米・韓が相互防衛援助協定を結んだのに続き、2月、中・ソが中ソ友好同盟相互援助協約を結び、西側と東側の関係は緊張感を増した。そして6月25日、北朝鮮が韓国を攻撃し、朝鮮戦争は始まった。北朝鮮はソ連の武器による圧倒的な軍事力によって、わずか一ヶ月ほどの期間で韓国軍を釜山周辺まで押し込んだ。その後国連軍は直ちに韓国に軍を送り、参戦する。それが中国を刺激することになる。そもそも中国は、“朝戦戦争”を“朝鮮半島の内戦”と解釈していた。しかし、中国・ソ連などの東側諸国にとって脅威であるアメリカが参戦したことで考えは一転、“アメリカの侵略”へと変わっていった。そして中国の朝鮮戦争参戦へと至る。

しかし実際、中国もこの戦争への参加をさいさんにわたって悩んだ。6月25日開戦から約3ヶ月間、北朝鮮はこの戦争を有利に進めてきた。しかし、国連軍の参戦により再びその戦線が38度線付近まで来ると、北朝鮮外相、朴憲永は、北京を訪れ、中国軍の出兵を要請した。しかし、中国側は、開戦前の北朝鮮の中国に対する態度が粗悪だったのもあり、すぐに応えることはできなかった。だが、日が経つにつれ中国は自国の安全保障を考えるようになり、毛沢東と最高幹部たちは会議を開き、朝鮮戦争への参戦について何度も話し合いを重ねた。その時、毛沢東と数名の最高幹部は参戦を主張したが、残りの多くの幹部たちは反対だった。反対論を掲げた者たちの反対理由として、

@     中国の所有する武器では、ソ連に援助をしてもらったとしても、アメリカの近代化された武器には勝ち得ないから。(アメリカは核も所有していた。)

A     長年にわたる内戦により国内の財政も困窮しており、幹部、一般兵士たちの間に戦争を回避しようとするムードが高かったから。

B     台湾やチベットがまだ統一されておらず、また新政権基盤もしっかり確立されていないため、まずは国内問題を解決すべきではないのか。

という、3つの主な理由を挙げた。しかし、毛沢東はアメリカが朝鮮戦争に勝利し、いずれは中国の安全をも侵される危険があるということを主張した。そして、最終的に中国は、アメリカが中国軍の参戦に気づき、さらに攻撃力を増すことをさけるため、

@       中国国家の軍ということを隠し、民間のものであるというイメージにするため「義勇軍」と名付ける。

A       義勇軍は中朝国境付近の地域に制限して出兵させる。

B       アメリカに出兵がばれぬよう、完全な隠密行動をとる。

 という3つのことを徹底し、最終的に10月15日、毛沢東は義勇軍の出動命令を出した。

そして、10月25日義勇軍は中国と北朝鮮の国境付近に達した国連軍と遭遇、人海戦術によって38線の南に押し戻すことに成功した。しかし決定力に欠けていたため、戦線はやがて膠着状態となった。その後、国連総司令官マッカーサーの中国に対する原爆使用発言を聞き中国・ソ連との前面戦争を恐れたトルーマンは、マッカーサーを解任し、朝鮮半島の戦局の収拾を図った。そして1953年7月27日、38線近くの板門店で休戦協定が結ばれ、朝鮮半島は今日に至るまでその土地を二分している。

 この朝鮮戦争によって中国はさまざまな影響を受けたが、詳しい内容は斧研レポート『中国とロシア』・朝鮮戦争での中ソ関係を参照してください。

 

U:90年代における中・朝・韓・日・米の関係

(1)中・韓国交樹立

 1992年8月24日、朝鮮戦争停戦以降39年ぶりに、中国と韓国の間に正式な国交が樹立された。しかし、中国は実に20年あまりも前の1970年代から、韓国の経済発展五ヵ年計画による経済成長に目をつけていた。しかし、北朝鮮との友好関係を壊すことなく韓国との友好関係を築くには、長期戦をとるのが一番だった。また70〜80年代の中国の国内情勢を考えると、ケ小平による改革開放政策や1989年の天安門事件など、対外政策に力を入れるのは困難であっただろう。

 以上のように、国内外の様々な問題を乗り越えてやっと結ばれた、歴史的にも、周辺の国々にとっても大きな意味をもつのが、この中・韓国交樹立だ。

 

(2)北朝鮮の世界からの孤立

 1980年代も後半になると、北朝鮮の世界からの孤立は一層進んでいった。その背景には、朝鮮戦争停戦以降およそ20年もの間対立・敵対期にあった中国とソ連が、1989年5月ゴルバチョフ書記長の訪中により完全に国交正常化したこと、また同年ハンガリーが社会主義国として初めて韓国との国交樹立したこと、そしてそれに引き続き東欧諸国・モンゴル・ソ連も韓国と国交を樹立したことなどがある。またこのように韓国が多くの国と国交を結び、北朝鮮が孤立化していく中で、1991年北朝鮮・韓国の国連加盟の際も、南北を一国として加盟することを主張した北朝鮮に対し、国連が韓国の主張する南北同時加盟を支持したことにより、北朝鮮の孤立化はますます進んでいった。

 もちろん北朝鮮の孤立による暴走を防ぐための対策もとられた。中でも注目すべきものは、日・朝国交交渉だ。しかしこれも、中国の期待もむなしく失敗に終わった。そして1992年中・韓国交樹立により、この問題はさらに悪化した。また、それから数年後、北朝鮮には「核保有疑惑」がもちあがり、この時北朝鮮は中国の説得を無視して、国際原子力機関(IAEA)の特別査察要求を拒否、その後一時は核不拡散条約(NPT)からの脱退を宣言するという事態が起こった。 

 しかしこの一件で北朝鮮は、極めて悪い経済状況において、唯一の友好国である中国に依存せざる得ないことを再確認した。そしてまた世界も、北朝鮮問題において中国が国際的にどれほど大きな意味を持つかを知った。

 

(3)中国と北朝鮮の歴史ある友好関係

 中国と北朝鮮には、国境を隔てた隣国ゆえに様々なつながりがあった。

 朝鮮戦争においては、中国はソ連軍率いる北朝鮮に義勇軍を送り共に戦った。そして1960年代における中ソ対立においても、中国を支持した数少ない社会主義国の一つが北朝鮮だった。また、さかのぼること30年、中国国共内戦においても、北朝鮮は、開戦当初負けていた中国人民解放軍(後にこの内戦に勝利し、中華自民共和国を建国する毛沢東の率いる共産党)に対し国境付近に避難所を設け、物資などの援助を行った。そしてこれは、ただ単に隣国だからという理由だけではなく、共通の政治的背景をもっているということにも起因している。中国も北朝鮮も社会主義国家だということだ。また北朝鮮の初代首相である金日成は、1920年代半ば日本に支配されていた時代の中国東北部・満州に移住し、そこで教育を受け、後に中国共産党に入党したという経緯を持つ人物である。そのことも、中国と北朝鮮の政治的つながりの強さに大きく影響しているにちがいない。

 また、中国台湾、北朝鮮は韓国、というように、お互い国家の正当性を争う国をもっているということも、両国の協力関係をつくる一因となったのだろう。

 以上に述べたように、中国と北朝鮮はあらゆる面でかかわりあってきた。

 

(4)変化する極東アジアと米国の関係〜朝鮮半島南北統一に向けて〜

 1992年以降の中・韓は政治面・経済面ともに着々と関係を深め、数年後にはアメリカが警戒するほどまでになった。また中国は他方で、北朝鮮に対する大規模な食糧援助も行ってきた。

 97年12月、韓・朝・中・米による全三回にわたる四者会談が開かれた。これは、朝鮮休戦協定の平和協定への変更、そして朝鮮半島の恒久的平和体制の確立に向けて、米・クリントン 韓・金泳三によって提起された。本会議に先立って行われた8月・9月の予備会議では、米・韓の考えに反し北朝鮮は、まず先に朝米平和協定を優先的に処理すること、そして在韓米軍を撤退させること、また長期にわたる大規模な食糧援助などを強く主張したため、話し合いのされぬまま物別れに終わった。この際中国は北朝鮮に対する刺激を軽くするために、朝鮮問題に関しては北朝鮮に同調した。そして11月、三回目の予備会議を経て、12月ジュネーブで本会議が開かれたのだが、それは米・韓が予想した通り実質的な進展はなく、朝鮮問題は長期戦の様相をみせた。そして98年3月の第二回会議へと続く。

 第二回会議では、より実質的な話し合いをするために、米・韓が分科委員会の設置を提案したが、北朝鮮側がその前提条件として「在韓米軍の撤退」と「米・朝平和協定の議論」を要求したため、再び話し合いのされぬまま終わってしまった。

 そしてその年の6月22日、韓国領域内で北朝鮮の潜水艇が漁船の網にかかって漂流するという事件があった。またそれから間もない8月31日、北朝鮮は弾道ミサイル・テポドンを、日本列島を横切る三陸沖に試射するという事件が起こる。この出来事に関しては、日本国内はもちろんのこと、アメリカをも驚嘆させ、戦域ミサイル防衛(TMD)・米本土ミサイル防衛(NMD)の開発に掻き立てた。そのような北朝鮮の行動で周辺諸国が揺れる中、第三回会議は10月開かれた。これもまた、実質的な進展はなかったものの、米・韓は、北朝鮮の主張する在韓米軍撤退問題の議題化に関し、軍隊の再配置も議論できるとの妥協を示し、それを中国が支持したことから北朝鮮も譲歩し、2分科委員会の設置で合意した。

 いずれにせよ北朝鮮に関する問題は、先を急がず時間をかけて解決するという姿勢が望ましいようだ。

W:南北統一に向けて

(1)韓国・北朝鮮、南北首脳会談

 2000年6月13日・南北首脳会談が開かれた。そしてそれに先駆けて5月30日北朝鮮・金正日総書記は中国を非公式訪問、6月8日韓国・金大中大統領は日・米両国首脳との個別会談を行なった。

 まず金正日総書記の訪中では、江沢民中国国家主席との事前の意見交換がされた。これは、韓国国交樹立以降悪化したと見られていた中・朝関係であったが、やはり北朝鮮は中国との関係を重く考えているということだ。また、この訪問が数日後公表された理由としても、アメリカとの関係を持つ韓国、そしてアメリカに対して、北朝鮮には中国という後ろ盾があるということをアピールし、また中国も日・米に対し、朝鮮半島問題に関する自国の重要性をアピールすることができるからだったのだろう。

 一方、金大中大統領の日・米との会談は、故小渕恵三首相の政府・自民党共同葬儀の後に開かれた。米・クリントン大統領との会談では、事前の意見交換が行われ、クリントン大統領は、北朝鮮の核などの大量破壊兵器についても取り上げるように伝えた。しかし、韓国で、在韓米軍による事件・事故が相次ぐ中、世論が反基地に傾いているのも事実だ。

 そして、日本・森首相との会談でも同じく事前の話し合いに加え、北朝鮮の「日本人拉致疑惑」についても話をするよう伝えた。単に「民族の一大事」と考える韓国にと、自国の問題も軽視できないアメリカ・日本との間には、南北首脳会談の成功を祈る気持ちは一緒だが、多少のずれがあったように思われる。

 そしてアメリカは、92年中韓国交樹立以降、両国の関係の深まりを懸念しており、朝鮮半島問題における中国の影響力増大、自国の後退も気にしていた。また日本も、アメリカが北朝鮮に対して経済制裁を緩和したこと、また金正日総書記が事前に中国を訪問したことで、日本の北朝鮮との関係改善に焦りを見せていた。

 そして6月13日韓国金大統領が北朝鮮の首都ピョンヤンを訪れ、3日間にわたる南北首脳による会談が始まった。世界が注目する中、朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者である金正日

が韓国・金大統領を空港まで出迎えるという驚くべき演出でこの首脳会談は幕を開けた。

 初日、第一回目の会談では、双方とも随行委員会を伴っての話し合いがなされた。2人は、両国の首脳同志の連絡が他国や他の機関を通さずに直接伝わるよう、両国間のホットラインの設置で合意した。そして何よりも、民族の和解と協力を図っていくことに同意し、まずは金総書記の韓国訪問が要求された。

 そして2日目、金総書記が、韓国への亡命者や、北朝鮮出身者について意見を述べたり、その夜開かれた金大統領主催の晩餐会に総書記自ら出席するなど、緊張感の解けた一日となった。そして両国は、以下の4つに同意した。

@       和解と統一

A       緊張緩和と平和定着

B       離散家族の再会

C       経済・社会・文化など、多方面での交流協力

 ただ、1972年7月4日の七・四南北共同声明や、1991年12月の南北基本同意書などは、実質的役割を果たさなかったため、今回は両国の同意内容に基づく実践が最も重要な課題である。そしてまた、南北交流の妨げとなっていると韓国側が考える北朝鮮の“国家保安法”についても、北朝鮮・金永南委員長は国会で改正案をかけていることを伝え、また「核ミサイル問題」 「日本人拉致問題」についても話し合いがなされたようだ。

 そして15日、金総書記直接の空港での見送りで金大統領は韓国へ帰国、2泊3日の訪朝は幕を閉じた。

 

(2)「米朝共同コミュニケ」発表

 先日10月12日、北朝鮮・金正日小書記の特使であるショウ明録国防委員会第一副委員長が訪米し、「米朝共同コミュニケ」を発表した。その中では、1953年に結ばれた休戦協定を強固な平和保証協定に変えること、そしてそのために互いに敵対心をなくし、全力を尽くすこと。また経済的協力と交流を発展させるために、早い時期に双方の経済専門家を訪問させること。そして「核ミサイル」問題解決がアジア太平洋地域の平和と安全につながるということを認識し、その協議継続中は遠距離ミサイルを発射させないこと。最後に、互いの自主権を尊重し、内政不干渉を基本とすることなどが表明された。また米大統領の年内訪朝の準備も行われることとなった。

 この米朝関係正常化は、単に両国間の関係改善だけでなく、朝鮮半島内の平和、そして昨年以降中断していた米・中・朝・韓の4カ国会議が再開されるなど、アジア・世界の平和につながることである。しかし韓国にとっては、韓国抜きの安保・軍事の話し合いには懸念があるし、あまりにも話が早く進みすぎていることも気になるところだ。まもなく新・米大統領が決まる。この「米朝共同コミュニケ」によって、今後の南北朝関係がどう進むか、注目したい。

 

X:今後の東アジアとその周辺諸国について

 6月13日から3日間開かれた、朝鮮南北首脳会談で、両国の南北統一に向けての協力が約束された。この先、南北統一が実現するのも、そんなに遠い話ではないかもしれない。そうなると、民族はまた一つとなり、離散家族も再び同じ国の国民として一緒に生きていくことができるだろう。また、韓国は北朝鮮の生産技術を高くかっており、南北統一にかける期待も大きい。

 しかし、それと同時にさまざまな問題が生じる可能性があることを忘れてはいけない。現在、韓国と北朝鮮の間には大きな経済格差がある。このままいけば、韓国経済は更に成長し、逆に北朝鮮の経済問題は更に悪化するだろう。そんな状態で統一がされたら、北にたくさんの失業者が出る可能性高いと推測する人もいる。それは、1989年の東ドイツ・西ドイツ統一を例に言うことができるだろう。

 それを防ぐために、先ずやるべきことは、韓国の北朝鮮への大規模な経済援助ではないだろうか。現時点において日本は50万トンの、韓国は60万トンの食糧援助を決定している。またさらに韓国は北朝鮮を経済活動に関するあらゆる方法でバックアップし、雇用の増大に努め、北朝鮮国内の経済力を強化し、そして国際的競争力をつけることが重要ではないか。またここで気を付けなければいけないのは、現在ある国営企業を決してつぶさず、そのためにどのような対策をとるかということだ。

 また、政治的・社会的な面でも問題が生じるであろうと考えられる。歴史的に、資本主義国家が社会主義方向に転換したという例は見当たらない。とすると、北朝鮮が資本主義化するのか、または中国と香港のように一国二制度でいくのか…・。このことに関しては、周辺諸国(同じ社会主義国である中国、また世界で大きな力をもつアメリカなど)との関係のも関わるがゆえに、大変難しい問題である。

 このように様々なことを考えると、南北が統一するまでにやらなければいけないこと、解決しておかなければいけない問題は山ほどあり、韓国・北朝鮮両国は、周辺諸国の助けをかりつつ先を急がず時間をかけてクリアーしていくべきだろう。

 

Y:感想

このゼミ論集作成に向けて歴史の苦手な私は、まず関連する文献を読むことから始めた。その中で私は、たくさんのことに気づき、歴史を学ぶことの楽しさを初めて感じた。例えば朝鮮戦争を例に言うと、「“もし仮に中国が参戦を決意しなかったら”と考えると、朝鮮軍は国連軍の近代的作戦により敗戦し、朝鮮半島は一国となり、現在大きなニュースとなっている南北統一問題も存在しなかったのではないか。」というようなことだ。つまり、長い時代の流れの中には歴史的転換点があるという事、そして現在起こっている事柄は、その転換点での或る決定によって生まれてきているという事、またその現在歴史として残っている事実とは別に自分なりの決定を仮定し、現実とは違う現在を想像することが出来るという事だ。この発見は、私がこの課題をやる上でとても励みになった。

 そもそも私がなぜ数あるテーマの中で、この“中国と朝鮮半島”を選んだかというと、一昨年の春休みの韓国旅行で、南北分断の地である統一展望台と板門店に行ったことが強く印象に残っていたからだ。この2ヶ所への訪問は、それまでの私の考えを大きく覆すものだった。それまで私は、朝鮮半島の休戦状態を、どこか終戦したかのように捉えていた。しかし、統一展望台周辺の海岸線に沿って張られた金網、そして迷彩服を着てあるく人々。またソウルから板門店までのバスで見た、北朝鮮の攻撃に備えて北緯38度線に平行に作られている壁。そこを突き抜けるためのトンネルを通る時に日本語ガイドが言った、「この壁の中には、爆弾などの武器が入ってるんですよ。」という言葉。また板門店内で見たアメリカ軍キャンプ。そして、決して超えることのできない北緯38度線。そのような様々なものを見て、またその場の空気を感じて、「この国はまだ戦争をしているんだ。」

ということを始めて認識した。

 そして今、北朝鮮と韓国は統一に向けて第一歩を歩み始めした。その中で中国・日本・アメリカ・ロシアは何をすべきか?今も残る従軍慰安婦問題・離散家族問題を考えると、特に日本・アメリカ・ロシアは、自国のメリットを追うばかりでなく彼らに残した傷の大きさをきちんと認識し、朝鮮半島統一に向けて、できる限りを尽くすのが誠意と言うものではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中国と朝鮮半島の関係年表

1368年

漢民族が王朝明を建国する

1392年

李成桂が高麗を倒して李氏朝鮮を建国する (〜1644)

1636年

清軍が朝鮮に侵入する

1637年

朝鮮は清に服属し、王子を人質に出す

1644年

皇帝毅宗が自殺し、明朝が滅亡する 清国の成立

1894年

甲午農民戦争がはじまる

1897年

国号を朝鮮から大韓帝国にあらため、独立主権国家であることを明確にする

1912年

中華民国が成立する(孫文が中華民国臨時大総統の地位に就く)

1943年

カイロ宣言によって、朝鮮の独立が規定される

1948年

朝鮮半島南部に大韓民国、北部に朝鮮民主主義人民共和国が成立する

1950年

朝鮮戦争が始まり、国連軍と中国人民義勇軍が参戦する

「南北分断」が固定かされ、休戦協定が締結される(1953年)

1991年

北朝鮮と韓国が国連に同時加盟する

1992年

中・韓国交樹立

1997年

12月 韓・朝・中・米による4者会談、第一回会議が開かれる

1998

3月 第二回会議

6月 第3回会議

2000

6月 南北首脳会談が開かれる

10月 ショウ明録北朝鮮国防委員会第一副委員長訪米

 

 

《参考文献など》

@「アジアの歴史」南雲堂 編:藤家禮之一助 

A「論集日本史6・織豊政権」有精堂出版 編:論集日本史刊行会 

B「東アジア史としての日清戦争」立風書店 著者:大江志乃夫 

C「中国の二千年(下)」

D「中国と朝鮮戦争」勁草書房 著者:平松茂雄 編:石橋雄二

E「歴史群像シリーズ61緒戦戦争(下)学習研究社

F「詳説日本史」山川出版 著者:石川進ほか 編:代表者野澤伸平

G「地域から見る世界歴史年表」聖文社 著者:宮崎正勝 

Hhttp://www.st.rim.or.jp/lining/li9611/ko9611.html

Ihttp://r20.root.or.jp/junpei45kana/odaseihou3.rtm

Jhttp://www3.justen.ne.jp/mokorin/chosen.htm

K朝日新聞朝刊 69日・13日・14日・15日付

L「知っておきたい中国U」歴史教育協議会 1996年発行