台湾と中国大陸の関係
『台湾のニューリーダーの素顔』
98E2459 南 亮平
【一 台湾と大陸の関係の歴史】
台湾の歴史を振り返ってみるならば、7世紀初頭の隋によって台湾の武装偵察が行われたあたりからである。役所などが置かれるようになったのは元末の1360年、澎湖島に巡検司を置いて福建省同安県に組み込まれたのが最初だと言われている。その後オランダによって1622年に澎湖島、1624年には南部台湾を占領された。この動きに対してスペインは1626年に北部の基隆、淡水を占拠するも1642年オランダ軍の攻撃によって事実上台湾全土がオランダの支配下に入った。ところが明が滅びた後、その遺臣である鄭成功が「抗清復明」を唱え、台湾からオランダ軍を撤退させ、その拠点とした。大陸を追われた明の残党が台湾に集まり、鄭成功が大陸から締め出されて台湾を根拠地にする1661年には2万人を超したと言われている。そしてこの年鄭成功は2万5千の軍勢を率いてオランダ支配下の台湾を占領し「抗清復明」を唱えたが望みかなわず、翌1662年陰暦5月8日に病死している。この後1683年まで鄭成功の後継者が台湾を経営し続けるが、遂に福建省に隷属させられてしまい、清国支配の拠点として台南に台湾府が置かれる。
この後、台湾は反乱軍の根拠地ということもあり、渡航制限がかけられるが、18世紀後半から輸出用の農産物需要の増加などの要因で開拓が急速に進むのである。そして阿片戦争の結果1858年に結ばれた天津条約の取り決めにより、台南と淡水港開港され富の蓄積が顕著となる。
そして日本は1871年八重山島民の漂着の際54人が殺され、1873年には、岡山の船が漂着してその際4人が略奪を受けたことを受け、日本政府は清国へ抗議を申し入れたが、清国外務当局は台湾原住民は「化外」であり、清国の統治の外にあると述べて責任を回避した。しかし日本は明治6年の政変の最中であり、国内は政治的に危機に見舞われている状態であり、そこで国内の不満を外に向けるために、化外の地であるなら平定しようと1874年に台湾征討に踏み切ることにした。1874年4月参議大隈重信を台湾蕃地事務局長官とし、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命し出兵準備に入るが、英・米の駐日公使が出兵反対の意向を示し、これに基づき政府は中止を決めるが、西郷は兵3000を率いて独断で出兵を強行した。結果としてはマラリヤで大量の被害をだすも台湾を制圧し、日清両国互換条例款が結ばれ、一応の決着を着けた。
しかしその後日清戦争で日本に割譲することとなり、台湾民主国建国運動、西来庵事件、台湾議会設置運動、霧社事件などの抗日運動が続き、1945年の日本敗北により、中国の領有するものとなるが、国共内戦の激化により1949年中華人民共和国の成立により蒋介石政権は台湾への撤退したことにより、その後中国大陸における共産党と国民党の内戦は大陸の中華人民共和国と台湾の中華民国の争いに転化した。さらに台湾は朝鮮戦争の勃発により共産党勢力を食い止めるための「不沈空母」として世界が注目するほどの経済発展をとげることとなる。
朝鮮戦争をきっかけとしたアメリカの介入により台湾の武力統一の出鼻をくじかれた毛沢東は50年代に台湾海峡で二度、国民党軍に戦争をしかけている。一度目は54年秋から翌年の初めにかけて金門島を砲撃、続いて浙江省沖合いの大陣島にたてこもる国民党軍を攻撃、駆逐した。二度目は58年に二ヶ月にもおよぶ金門島砲撃である。その後共産党側は米国側に「中国人民は米国と戦争する気はない。極東、特に台湾地域の緊張緩和のために米国との話し合いを望む」と呼びかけ、周恩来は全国人民代表大会で「もし可能であれば、中国政府は台湾の地方当局と平和統一の方法を話し合いたい」と語り、武力統一政策を一変させて第三次国共合作を提起した。しかしこの周恩来を前面に押し出した平和共存外交は、一連の軍事作戦によって得た戦果を固めそのあとの外交によって「台湾統一」という政治目的に近づくための手段であった。このような急進的な作戦に出たあとの平和的政策というサイクルは程度の差こそあれこの後の中国共産党の基本的なパターンとなった。
その後も台湾両岸問題は現代にいたっても存在するのであるが、56年間にわたる国民党の支配から新しい時代を到来させた民進党の陳水扁総統がどのように台湾を導き、どのような歴史を創っていくのか注目するところである。
【ニ 陳水扁の生い立ちと出世街道】
[1]われわれの見るところ、これからの時代、これからの新世紀は、和解の時代であり、協力の時代であり、さらには平和の時代である。中国との間でも、建設的な対話と話し合い、ひいては交渉を、積極的に進めたいと考えている。テーマにはこだわらない。政治的テーマを含めることにも喜んで応じる。これと平行して、効果的で民主的な対話のメカニズムを補強する第二、第三のチャンネルを設定することについても、楽観している。それだけでなく、軍事面での相互信頼を築くための対話メカニズムを設けるべきである。
(陳水扁 談)
国民党の時代に終止符を打ち、台湾の新リーダーとなった陳水扁。これからの時代は平和の時代であると言う彼は今後中国・台湾関係をどのようなものにしていくのであろうか?
[2]1950年旧暦9月(戸籍では1951年2月)に後の台湾総統陳水扁は粗末な瓦葺の家で生まれた。家は貧しく父も母も学はなかったが、父は家族を食べさせるために労を惜しまず、仕事を選ばすに働いた。しかし両親は陳水扁に勉強に専念できる環境を整え、陳水扁にとって勉強とは「将来に可能性を持つこと」であり、貧乏から這い上がるための一つのチャンスであった。[3]1969年台南一中を首席で卒業した後台湾大学商学系工商管理組に合格、しかし1969年末、当時台北市長であった黄信介の演説に敬服し法政の道へ進むことを決意した。台湾大学法律系に再入学をはたし、大学3年で司法試験に合格し弁護士の資格を得、大学4年には弁護士として開業した。[4]大学卒業後に結婚して子供をもうけ、生活にも困らなくなった。
1979年12月「美麗島事件」が起こった。大学時代の先輩であり、民主政治を求める活動をしていた林義雄等が国民党によって逮捕され、処刑に処せられる反乱罪を犯したとされたことに憤りを感じ、この事件の逮捕者である黄信介、陳菊の弁護人を引き受けることにした。結果は敗訴であったが、弁護活動を展開する中で台湾の民主運動に接触し、弁護士から政治の道へすすむ新たな道を見出した。
1981年、第4回台北市議選挙が行われることになったある日、蘇貞昌にすすめられて台湾省議選挙に出馬した。陳水扁、謝長廷、林正杰の3人が手を組み、当時は「三剣士(三銃士)」と呼ばれた。出馬から投票日までわずか一ヶ月ちょっとしかなかったが、徐々に民主化運動を支持する人々が増えていった。台湾大学の先輩にあたる国民党の趙少康が同じ選挙区内で出馬しており、「先輩が後輩を教え諭す」といったプロパガンダを展開したため。陳水扁の支持者が燃え上がり、選挙のボルテージはさらに上がった。結局、陳水扁は最高得票数で台北市議に当選した。こうして陳水扁の政治家の第一歩が踏み出された。
市議となった陳水扁は鋭い質問と汚職の摘発で国民党を困らせた。このために払った代価として1984年陳水扁が社長を務める雑誌「蓬莱島」に馮滬祥教授の論文「新馬克期主義批判(新マルクス主義批判)」は翻訳を盗作しているという文章を載せたところ、誹謗罪で告訴された。「北米台湾人教授協会」の七人の鑑定でも容易にその結果に達したのだが、1985年1月12日台北地方裁判所は陳水扁等「蓬莱島」関係者三人を一年の実刑に処し、二百万元の賠償金の支払いを命じた。
1985年1月28日、陳水扁は台北市議を辞めて上訴は行わずこれに従う決意をした。同年9月28日に党外共同推薦を受け、台南県長選挙に出馬した。この選挙では「阿扁旋風」が巻き起こり数万人を動員した光景に国民党の度肝をぬいたが、結局は高得票数ながらも落選した。
同年11月15日、「阿扁に妻を失う苦しみを与えてやる」と言う脅迫状が届いた。当時国民党以外の民主化運動家で脅迫状を受け取ったことがない者はいなかったのでこれを単なる脅しだととっていたが、1985年11月、妻の淑珍が三輪トラックに轢かれ、バックした後もう一度轢き逃げ去っていった。この事件(白色テロ)発生後の司法過程は法理に違背したものであった。淑珍は二度の大手術で一命は取り留めたが、下半身は不随となった。このことは陳水扁が政治家となったことによる一番の代価であっただろう。
[5]1986年9月28日、陳水扁の獄中生活の最中に民進党が結成された。1987年2月10日に出獄した陳水扁は、立法委員である淑珍の特別アシスタントとなり立法院の質疑をより専門的で効率的にするために優秀な人材を多く雇った。その後自分自身が立法委員となり、約八年間を立法院ですごした。この時立法院はすでに台湾全体の政治の中心となっていた。
1993年陳水扁は第一回民選省市長選挙への出馬を決意しその準備を開始した。その準備として「陳水扁市政センター」を設立した。これは国民党には資金も人材もそろっており選挙で勝利するには、知名度だけにたよらず、市政の企画を立てて、市民のニーズを理解する必要があったからだ。1994年7月17日に民進党内の第一次台北市長公認候補選挙で当選した。当時、民進党は常に衝突を起こす「暴力党」だと中傷されていたために陳水扁等は選挙中の衝突をできるだけ回避し、「喜び、希望、陳水扁」を選挙のスローガンとして「台湾−新しい故郷」の理念を掲げた。陳水扁は六十万五千票余り(獲得、得票率は43.3%)を獲得して台北市長に当選した。
1994年12月25日、陳水扁は台北市の行政に着手した。当時、台北市は交通渋滞が深刻で、街は不衛生で、風俗業が氾濫していた。陳水扁は新市政府運動の施政方針として「一に原則、二に強化、三に改革」を打ち出し、「市政府は行政推進に関して手を抜かず、リベートを受け取らない」という規範も教化して、クリーンで有能かつ効率的な行政機関を目指した。「原則」とは市民主義、市民参加を原則とすることで、「強化」とは、市民の文化、娯楽、社会福祉を強化するということで、「改革」とは、教育改革、交通改革、都市の改造を優先的に推進することを示している。
陳水扁は市庁に入って最初にするべきことは「観念改革」だと判断した。台北市は多くのリソース、素養の高い公務員を持ちながらも施政を推進できないのは公務員の意識に問題があると感じたからである。狙いは政府を企業、つまりサービス企業のようにすること(例えば市役所でお茶が出るようになった。)であった。4年にわたる市長任期中に陳水扁と職員は子細に計画を立て、勤勉に執行したため多くの不可能とされた任務を成し遂げた。4年のうちに市政府は市民に対して礼を尽くし、市民の便宜を考え、効率的な作業を行うようになった。新交通システム(モノレール地下鉄、バス優先道路)も安全に連衡され、一年に一本ずつというペースで新しい路線を開通させた。台北の住宅区における風俗営業やゲームセンターはほとんど姿を消し、交通も以前とは全く異なる様相を呈している。さらに「青少年保護措置」も推進し、深夜十二時以降、十八歳未満の青少年を家に帰して台北を安全な都市とした。さらに女性に対する配慮も行い、仕事場における女性の権利の平等と保護を推進した。弱者に対する社会福祉にも力を入れ、教育改革ではさまざまな入学の道を開いた。都市開発に関しても、特色あるコミュニティーづくりを推進した。日本の「阪神大震災」の復旧状況を視察し、台北市の救援装備やシステムの完備にも着手した。
4年にわたる「台北経験」の成功の理由は、明確な目標と理念、そして優れた執行能力にあったといえる。1998年第二期台北市長選挙の前に、台北は「アジアウィーク」誌の「住みやすいアジアの都市」第五位に選ばれた。これは陳水扁の市政の成功を証明したものであり、陳水扁の今後に大きな自信と希望を与えるものになることは間違いないだろう。
[6]1998年の冬、トリプル選挙(台北・高雄市長選挙、台北・高雄市議選挙、立法委員会選挙)で陳水扁は国民党の馬英九に敗れ落選した。この市長選挙での失敗は陳水扁の政治人生の最盛期に遭遇した大きな挫折であった。その夜、陳水扁のもとに次々と陳水扁の支持者が集まり陳水扁の落選を悲しんだ。陳水扁は民衆へ「進歩するグループに非情でありえたことは、偉大な都市の証である」と述べた。
陳水扁は落選後の反省として、陳水扁は各方面の声に耳を傾けた。施政に対する満足度が高くとも、市民から市政に対する高い評価を得ても、結果的には負けてしまった。その大きな原因の一つとして「省籍(出身地)」構成の問題があったと思われる。その後数回にわたって行われた夜の集会「感謝の夜」で陳水扁は外省籍の人々に意見を求めた。本省籍人(台湾原籍者)と外省籍人(大陸原籍者)との間に社会的な溝や「統独問題(台湾が独立するかどうかという問題)」、イデオロギー、台湾の前途などの問題について、コンセンスを十分に得ることができなかったため、施政への満足度が高くとも、人々は最終的に陳水扁に対して一票を投じなかったのだとわかった。陳水扁は市長時代の市政の推進には自信を持っている。政策の推進にしても、「省籍」による差別は全く行っていなかったからである。しかし、この「省籍」の問題はセンシティブで深刻なものであり、これこそ台北市民だけでなく、全国民の焦燥と不安の核心だといえる。陳水扁は今後もこの問題に立ち向かい、よく話し合い、コンセンスを得る必要があるといえる。
「両岸関係(台湾海峡両岸の関係)」についてもその問題に触れるたびに多くの外省籍人が民進党に対して不安や恐れを抱いてきた。それは国民党が選挙のたびに台湾独立を主張しないため「安全」であるということを強調して勝利し、暴力団との癒着を続けてきた一因ともなっている。公共工事の談合、地方都市の議長による殺人、国土と公共の安全の破壊…台湾がすでに「黒金(暴力団との癒着と金権政治)共和国」という名の国ではないかと思われるほどである。陳水扁の今後の課題の一つに「黒金」の根絶というのが不可欠であり、それには政権の交代が必要であるということは人々も頭ではわかっているが、実際には民進党を全面的には信頼することができていないのである。これも民進党の抱える大きな問題である。そのような課題、目標をふまえた上で陳水扁はより台湾に対する理解を深めるために台湾各地、地方へ、都会へ、そしてサイエンスパーク(ハイテク企業が集まる工業区)へ行き、各方面の指導を受けた。陳水扁は一時の失敗でレールから外れたが、逆に多くのことを見て学んだ。そして陳水扁は2000年総統選挙へと向かうのである。
[7]総統選挙では国民党の支持層の票が李登輝の懐刀であり福総統であった連戦氏と国民党から離党して親民党を結成した宋楚瑜氏に分裂し、世論調査では宋楚瑜氏が有利と言われていたが三人の候補者の支持率は直前まで20〜25%の間で団子状態であった。陳水扁は二人が票の削り合いの漁夫の利を取る形になったことに加えて選挙直前に民進党が伝統的に堅持してきた台湾独立をしないと公言したことによりさらに票を集め当選した。これにより中華民国創立以来、台湾を支配してきた国民党の政権に代わり民進党が政権を握ったのである。
【三 今後の両岸関係】
[8]李登輝登場以前の両岸関係の構図は、国民党政権が自ら中国大陸の統治者として「反攻大陸」を目標としていた。李登輝登場(1988年)以降、「反攻大陸」を捨て、大陸とは「特別な国と国の関係」とし、「二国論」を唱えていた。つまり中国本土とは「敵対関係」ではなく台湾に土着化し、中国と台湾を別の国であるという認識のしかたである。陳水扁総統誕生はこの「二国論」の延長上にあるようだが、支持基盤の弱い(得票率39%)陳水扁は正面を切って「二国論」をとなえた李登輝よりは柔軟に対応するものと考えられる。
[9]陳水扁の総統就任演説についてであるが、各マスコミや中国銭副首相は「中国が軍事介入を行わない限りは台湾は独立を宣言しない」「『一つの中国』の問題については未来に解決するべき問題である」という言葉に対し、一定の評価と賛同を示す一方で両国の関係をぼやかしているという批判をしている。
戦後50年以上も続いた国民党の支配体制が終結した今、台湾の「戦後」というものがようやく終結したとも言える。陳水扁が「戦後」をきり抜けた台湾をどのように導くかに注目するとともに、台湾のさらなる発展に期待し、その発展が中国との関係にとどまらず、世界により良い影響を与えることを期待する。
【四 感想】
このテーマで感じたことといえば陳水扁は初の国民党以外の政党からの総統なだけに乗り越えなければいけない壁やいくつもの難しい判断が迫られる政治家であると感じた。支持基盤の少ないことも影響しているであろうが実際、陳水扁の立たされている立場というのは微妙なバランスによって成り立っている場所のような印象が強く、陳水扁が初めにしなくてはいけないことは自分は中台関係に対する答えを出すよりも優れた治世を行い彼自身の支持基盤を築くことにあると思う。
しかし陳水扁の様な勤勉な人物が頂点に立っているかぎりは各方面で明るいニュースが続くのではと期待してしまうところである。
1360年 |
元 巡検司設置。 |
1622年 |
オランダ 膨湖島占拠。 |
1624年 |
オランダ 南部台湾占拠。 |
1661年 |
鄭成功 台湾を占拠し「抗清復明」を唱える。 |
1683年 |
福建省に隷属 台湾府設置。 |
1874年 |
日本 西郷による遠征。日本に割譲。 |
1945年 |
日本敗戦 中国に返還。 |
1949年 |
中華人民共和国成立。蒋介石、台湾へ撤退。 |
1950年 |
陳水扁出生。 |
1954年 |
金門島砲撃。 |
1958年 |
金門島砲撃。 |
1979年 |
美麗島事件。 |
1986年 |
民進党結成。 |
1988年 |
李登輝、総統就任。 |
2000年 |
陳水扁、総統就任。 |
【参考文献】
『陳水扁の時代』 藤原書店 丸山 勝 著
『台湾之子』 毎日新聞社 陳水扁 自伝
同ゼミ生 斉 宇君 レポート
朝日新聞