中国と日本                                21世紀真の友好到来を願って〜1920世紀を振り返る〜』

 

982444 京角 理恵

 

 

日本にとって中国はお隣の国であり、日本が最も影響を受けてきた国である。日本が初めて中国から影響を受けたのは、紀元前3〜2世紀ごろに稲作が伝わったというところまでさかのぼる。中国と日本は二千年にもおよぶ友好往来の歴史がある。しかし、近代百年の歴史はおおむね対立と抗争、侵略という暗い歴史である。ここでは、日本が現代に入り明治政府が国を動かすようになった頃から1978年の日中平和友好条約を締結するまでと、現在の日中関係についてみていきたい。

 

1、中国との国交開始

 日本は江戸幕府時代約260年間、中国と公式の国交はなく、長崎貿易があっただけである。そこで日本政府は、清国に条約の締結を求め、日清修好条約を締結した。この当時、清が欧米諸国と結んだ諸条約はいずれも不平等条約であったが、この条約は対等の地位におかれた平等条約であった。1

 

2、対立の始まり=日清戦争

 明治政府の対外政策は、まず朝鮮半島に目をつけた。朝鮮半島を日本のものとするためには、朝鮮に対して隠然たる影響力を行使していた清国と一度は対決し、これをうち破らねばならないという認識が政府内にわき起こった。

 そこへ起こったのが、1894年東学党の乱2である。困惑した朝鮮政府は清に救援・鎮圧を依頼する。日本はもし清国が反乱鎮圧のために出兵するようなことがあれば、すかさず日本も出兵し、長年望んでいた朝鮮出兵のきかっけをつくろうと身構えていた。両軍は出兵し、8月1日にはともに正式に宣戦を布告しあって、日清戦争の火蓋が切って落とされた。これが、日中間の近代における不幸なる断絶の出発点となった戦争である。

 戦争の経過は日本軍の圧勝であり、1895年清は降伏し、下関条約が結ばれた。この条約の

主な内容は、@朝鮮を完全な独立国として承認する。A遼東半島・台湾および澎湖列島を日本に割譲する。B賠償金として銀2億両支払うなどであった。

 しかし、日本の一方的な権益の拡大を諸外国が許すわけがなかった。ロシアは南下政策を進めており、日本の大陸進出を防ぐため、フランスとドイツとともに遼東半島を中国に返還するよう要求してきた。(三国干渉)日本は遼東半島を領有することを放棄した。

 日本は日清戦争勝利で国際的地位を高め、大陸進出の基礎を築いた。一方中国は欧米諸列強に重要地を租借され始めた。

 日本はその後、ロシアの南下政策に備えて日英同盟を結び、1904年には満州・朝鮮をめぐる対立から日露戦争を開戦。ポーツマス条約でロシアに韓国における日本の優越的な地位を認めさせ、1910年には韓国併合を行い、植民地とした。

 

3、中華民国と21ヶ条の要求

 1911年中国で孫文を中心に辛亥革命が起こり、翌年には中華民国が成立し、袁世凱が大総統として独裁政治を展開し始めた。1914年には第一次世界大戦が起こり、日本は日英同盟を理由に連合国側について参戦。山東半島にあったドイツの租借地を制圧、占領すると同時に日本は袁世凱政府に対し、21ヶ条の要求を突きつけた。内容はドイツが山東省において持っていた権益をすべて日本に譲り、あわせて南満州及び東部内蒙古を日本の半植民地的な支配の下に置くことを要求したものであった。ヨーロッパ諸国が大戦で夢中になっている隙間を狙って、いわば火事場泥棒式に、中国を侵食しようとするものだった。日本は軍事力を背景に大部分を認めさせた。

 1918年、第一次世界大戦終了。翌年パリで平和会議が開催された。中国側はこの国際会議で21ヶ条の要求を無効にすることを狙ったが、日本側の工作が効を奏して、日本の青島等における既得権益は事実上そのまま国際的にも承認されることとなった。中国外交の完敗である。

 

4、泥沼の始まり

 袁世凱の死後、軍閥は絶え間のない抗争を繰り返していたが、一方孫文は中国国民党を結成し民主的な中国統一を実現しようと努力していた。しかし、1925年孫文は死去し、後を継いだ蒋介石は1928年北伐を成功させ、国民政府による中国統一に一応成功している。このような状況の中国に対し、日本は「満州と蒙古を中国本土から切り離し日本の支配下におく」ことを目的として、1931年関東軍は奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破し、中国軍のしわざとして戦争を仕掛けた。つねづね満州占領の具体的計画を練っていた関東軍は迅速に行動を起こし、満州全域を占領した。32年には、清朝最後の皇帝溥儀をかつぎ出して「満州国」を建設し、日本が政治・軍事・経済の実権を握った。

 こうして日本の中国侵略政策はとめどもなくエスカレートしていくのだが、その行きつくところは日中二千年の交流史中の最も悲惨な一頁である日中戦争、8年間にわたる日中間の全面戦争への突入であった。3

 

5、日中戦争

 この頃の中国の情勢は、国民党軍と共産党軍が中国統一をめざして必死の戦いを続けていた。しかし、共産党は日本軍がことを起こす前に国共合作を行い、抗日にあたるべきだと考えた。西安事件4で、蒋介石は内戦停止を受け入れ、抗日統一戦線ができあがった。

 1937年、華北で対立していた日中両軍は北京郊外の盧構橋で衝突し、ついに全面戦争に突入した。緒戦においては日本軍の攻撃は破竹の勢いであった。まず、北京・天津を制圧。数ヶ月のうちに華北の要衝をほぼ占領し終わった。華中においては若干苦戦したが、杭州湾に大部隊を上陸させ、上海を背後から衝いて、これを占領。さらに12月には国民政府の首都であった南京を陥落させた。このとき数万人の民衆を虐殺している(南京大虐殺)。38年8月には、長江中流の武漢を制圧、華南においても広東などを占領し終わった。開戦1年余りで、日本軍は中国の重要都市の大半を占領、支配した。しかし、破竹の進撃はほぼここまでであった。こののちも「三光作戦」と称する“みなごろし”作戦を試みたり、戦争末期の1944年には「大陸打通作戦」を敢行したりしているが、大局的にみれば、8年間にわたった日中戦争は、日本軍の立場からいうと最初の1年間で獲得した点(都市)と線(鉄道)とをいかにして維持するかという戦いであったといえる。

 また1941年12月以降、日本はドイツ・イタリアとの連帯のもとに全面的な世界戦争に突入していく。そしてまた、緒戦における太平洋での勝利も束の間、アメリカ軍に圧倒されて次第に後退を余儀なくされ、中国大陸の泥沼状態ともあいまって、絶体絶命の窮地に追い込まれていく。その結果が、1945年8月のポツダム宣言受諾であった。

 8年間にわたる戦いで、日本軍は中国人を約1千万人殺したと言われている。流血と破壊のみが残った日中交流史上、最悪の8年間であった。5

 

6、中華人民共和国成立

 日中戦争で、国共合作を行い抗日にあたっていた国民党と共産党であったが、日本敗戦後再び内戦が勃発した。初めのうちは、国民党の方が軍隊の数も多く優勢であったが、戦いが進むにつれて共産党が優勢となり、軍配は共産党にあがった。内戦に敗れた国民党は台湾に逃げ、1949年毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立した。

 

7、日華平和条約

 日本の無条件降伏によって、日本は連合国軍に占領された。

  その頃の世界情勢は、米ソ対立いわゆる「冷たい戦争」が激しさを増していた。中華人民共和国が成立してから毛沢東はアメリカと日本の脅威に対抗するため、ソ連を後ろ盾とした安全保障の確保を望んだ。そして1950年中ソ友好同盟相互援助条約をむすび、中国の軍事的保障と政治的安定、弊害した経済再建のための資金を供給することを約束した。そして東西冷戦の構造のまっただなかに中国も組み込まれることとなった。東ヨーロッパ諸国の社会主義国、ソ連、中国の結びつきが緊密になる一方で、アメリカは反ソ・反中国「封じ込め政策」を打ち出した。こうして冷戦はいよいよ激化していった。

1950年には朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍中心の国連軍は韓国軍を援助し、中華人民共和国は北朝鮮軍を援助した。

 朝鮮戦争は、アメリカに対日講和条約を急がせた。単独講和を結んで、1日も早く日本を自由諸国の一員として迎え入れようというのである。日本の国内ではソ連や中国を含めた全面講和を結ぶべきだという意見も多かったが、アメリカとその与国によって一方的に単独講和を押しつけられ、吉田政府は甘んじて受諾した。

 また、サンフランシスコ平和条約発効の日、台湾の蒋介石政権(中華民国政府)との講和条約「日華平和条約」が結ばれた。これはまったくアメリカに追随し、中華人民共和国政府に敵対する条約であった。したがって、1972年の日中国交正常化にいたるまで、中華民国政府を中国唯一の合法政府と認め、「二つの中国」という不正常な関係を続けたことになった。これは、平和と友好を求める日本国民の意思ではなかった。6

 

8、民間レベルでの交流の始まり

 アメリカの強力な影響下に置かれていた日本の中華人民共和国との関係は民間レベルで突破口を見出す以外になかった。1952年、高良富・帆足計・宮腰喜助の3人はソ連経由で中国を初めて訪問し、中国国際貿易促進委員会と第1次民間貿易協定を結び、民間レベルでの人的・経済的交流が開始された。これは、日本人民の中国人民に対する感情がいかなる政治力でも左右できるものではないことを説明している。

 その後も民間の交流はたえず拡大し、友好往来の発展は日中国交正常化への国民運動の発展につながった。7

 

9、日中関係の危機

 民間・人民の交流はさらに拡大発展していくように思われたが、1957年に岸信介内閣が成立し、日中関係は危機を迎えることとなる。岸は反ソ反共・親米派の策謀家で、日本をアジアにおける反ソ反共の防波堤にしたいというアメリカの期待を一身に担って行動した。一例をあげてみると、台湾・アメリカ・インド訪問の際の「中共非難」や「長崎国旗事件」8である。陳毅副総理は「岸内閣の中国敵視はもはや我慢できない。この結果についての責任はすべて日本政府にある。」と宣言し、この声明が合図となって、貿易関係機関はいっせいに日本側との契約を破棄し、ここ数年来民間方式によって積み重ねられてきた諸交流は、基本的に中断される事態となってしまった。9

 

10、日中交流の再開

 1959年から石橋湛山・松村謙三らの人々の絶えざる努力で、日中の友好は次第に回復した。石橋・松村らが中国を訪問している間、日本国内は日米安保条約改定に反対する安保闘争が激化していた。結果的に岸内閣は総辞職に追いこまれ、次いで池田勇人内閣が1960年に成立した。 池田政権のもとで、日中関係は順調に進んだ。友好商社は増加し、取り引き物資を積んだ船の出港入港のたびに相互理解は深まり、「日中国交正常化せよ」という声は高まるばかりだった。

 1962年には松村謙三と周恩来首相の会談が行われ、これを受けて高碕達之助の訪中と廖承志との間の協定によってLT貿易(両者のイニシャルをとってLT)が発足することになった。LT貿易の発足は日中貿易の拡大のみならず、日中関係正常化にとっても大きな斬新であった。

 これに対してアメリカは、「中国は膨張主義的好戦的共産主義権力である」と罵り、「これを封じこめるための日米の合作が必要である」と日本側の協力を求め、LT貿易などもってのほかであると内政干渉してきた。しかし池田内閣は「倉敷」ビニロンプラント輸出に輸出入銀行の資金を使い、中国が日本からの輸入する最初のプラントとなることを正式に諒承し、アメリカの干渉にうちかってLT貿易は順調に発足した。10

 

11、2度目の危機

 LT貿易も発足し、日中国交回復も今度こそ遠からずと思われていた矢先、池田首相が病気で倒れ、次いで1964年佐藤栄作内閣が成立し事態は一変した。佐藤は岸信介の実弟であり、日米安全保障条約に兄とともに狂奔した大の反ソ反中国のやり手だった。佐藤首相は1965年に訪米し、米大統領ジョンソンと会談の際、日本が台湾の蒋介石グループを支持することを求められると、佐藤首相は即座に応じて、蒋介石と“正規の外交関係”を保持し、「中共に対しては政経分離の政策をとる」ことを言明した。

 さらに2月には、池田内閣がせっかく開いたLT貿易への輸出入銀行融資による延べ払いの道を閉ざしてしまった。「LT貿易なぞつぶしても構わぬ」と佐藤首相は公言して憚らず、中国敵視政策を明確にした。

 1967年に入ると、佐藤首相の中国敵視の言動はさらにエスカレートした。9月佐藤は人民の強い反対を顧みず、岸に倣って台湾を訪問した。このことは、さらに日中関係を悪化させた。

 1969年、ニクソン米大統領と佐藤首相との日米共同声明が華々しく「沖縄返還」をうたいあげた反面には、日本がアメリカから背負い込まれた重い荷物が隠されていた。それは、70年代において、日本がアメリカの核のカサの下で、米帝国主義の忠実な助手として、そのアジア支配の軍事的・経済的肩代わりを義務づけるものであった。11

 

12、米中接近

 佐藤内閣が「沖縄返還」を錦の御旗に軍備拡張、アジアにおけるアメリカの肩代わりと中国敵視政策でせっせとアメリカの点数稼ぎに懸命であった時、アメリカは密かに中国との接近を進めていた。1968年アメリカ大統領に当選したニクソンは、大統領補佐官に任命したキッシンジャーと図って、新たな世界戦略をうち建てて、ベトナム戦争の泥沼から抜け出す道を求めていた。中ソ対立を利用して、米中接近を図り、ベトナム戦争の解決に有利な条件を作りたいと考えていたのである。

 1971年4月中国はピンポン外交を展開し、アメリカのピンポン・チームの訪中を歓迎した。これが米中接近のきっかけとなり、7月にはニクソン大統領の意を受けてキッシンジャー補佐官が極秘訪中した。

 11月には中華人民共和国は台湾の国民政府に代わって、国連における合法的地位を回復した。中国が国連の合法的地位を回復したことは、中国の平和共存の外交政策が世界のますます多くの国々の支持を得ていることを示すものであった。

 1972年2月には、ニクソン大統領が中国を訪問し、共同声明を発表した。

 ニクソン訪中と共同声明の発表は、日本政府に大きな衝撃を与えた。佐藤首相らが忠実にアメリカに追随して、中国敵視政策をとってきたにもかかわらず、アメリカ政府が日本政府を親しいパートナーと見なさず、“頭越し外交”によって、日本と事前協議することなく、突然中米関係改善の行動をとったことは日本にとってショックだった。アメリカにべったり追随していても、日中国交正常化には何の利益も無く、かえって自分自身が孤立してしまうと認識したのであった。一刻も早い国交正常化にむけて努力することを日本は強く決心したのであった。12

 

13、日中国交正常化

 日中国交樹立の客観的条件が熟してきたその時に、日中友好を主張する田中角栄内閣が佐藤内閣の総辞職後登場したことは、日中両国の国交正常化に重要な促進材料となった。1972年田中首相は大平正芳外相とともに北京を訪れ、周恩来首相ら中国側と話し合った。この会談の中で中国が主張する「戦争状態」と日本が主張する「戦争は日華平和条約で終結した」という認識のズレは日中共同声明第1項の「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は終了する」という表現に落ち着いた。ここに、日中国交正常化という歴史的意味が付加されたのである。そして、中華人民共和国政府を唯一の合法政府とし、台湾が領土不可分の一部であるという中華人民共和国政府の表明を日本政府は理解し、尊重するということになった。

 日中両国政府は共同声明により、戦争状態の終結を宣言した後、一連の協定を結んで、国交正常化を実現したが、法的手続きからいえば、声明や協定は条約にとって代わることはできない。共同声明では、「日中双方が平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。」とあり、共同声明のこの精神に基づき、両国政府は締結に向けた交渉に着手した。13

 

14、日中平和友好条約

スムーズにいくかと思われた交渉だが、交渉は難航した。中国側は共同声明第7項の「反覇権条項」を条約草案に盛り込むことを主張したが、日本側はこれに異議を唱えた。以後、「反覇権条項」の取扱いが双方の交渉の対立点となった。中国政府は、平和友好条約が共同声明の基礎から後退するなら、締結の意義を失うと考えた。本来、覇権主義反対の原則から言って、共同声明第7項をそのまま条約の成文に書き込むべきものであった。日本は共同声明の第7項では覇権主義反対を書くことに同意しておきながら、なぜ平和友好条約では反覇権条項を入れることに躊躇するのか。それはソ連が日本に圧力をかけ、牽制していることと関係していた。中ソ対立が激しい当時、ソ連は日本が中国と友好関係になるのを恐れた。ソ連は日中両国が反覇権を明記した条約を締結するならば、これに対応する措置として、ソ連は「対日政策を見直すことになろう」と述べたり、海軍を日本近海に出動させて武力威嚇を行ったりしてきた。日本は「日本が中ソ対立に巻き込まれれば、アジアの不安定化と緊張をもたらす」と考え、条約交渉を中断させた。

 1978年、ようやく転機が訪れた。福田赳夫が三木武夫に代わり首相となった。福田が首相に就任後、日本国内では条約締結を求める呼び声が高まった。アメリカ政府が友好条約に賛同したことがさらに拍車をかけ、ようやく再開にこぎつけ、合意に向かい日中平和友好条約が締結した。日中平和友好条約の締結により、正式に法律上から1世紀もの二国間の不正常な状態を終結し、日中間の前途に輝かしい展望が切り開かれた。14

 

15、現在の日中関係

日中国交回復から28年になるが、相互不信はかつてなく深刻な状況にある。経済関係の目覚しい発展にもかかわらず、政治面では摩擦が絶えず、最近は、両国民の間に相互嫌悪の感情さえ募っている。

 

<江沢民の歴史認識発言>

その最大要因の1つは歴史問題である。199811月、江沢民は日本政府の招きに応じて中国の元首として初めて日本を公式訪問した。この時江沢民は、中国国内の世論を意識して歴史問題で日本の反省を迫り、圧力をかけた。これに対し日本国内では、中国はまだ歴史問題を外交カードに使うのかと言う声が高まり、中国への政府開発援助(ODA)の見直し論が高まった。

 

<朱鎔基首相の日本公式訪問>

20001012日からの6日間にわたる朱鎔基首相公式訪問前の会見で、朱首相は歴史問題について「日本国民は対中戦争に対し、当時も今も責任はなく、中国は日本国民を刺激すべきでない」と述べ、対日政策の修正をうかがわせた。ODAに関しては、「日本の協力によって中国の改革・開放が増進した。次の世紀の友好協力促進にプラスになる」と感謝の意を表明した。そのうえで「(中国)国民に対する宣伝が不十分であり、これからは日本のODAのアピールを強化していきたい」と述べた。

 中国の柔軟な対応にはいくつかの理由があるだろうが、日中関係の悪化は中国の経済発展に不利だというのがその1つだろう。朱首相来日直前に開かれた中国共産党の第15期中央委員会第5回全体会議(5中全会)で、2001年から2005年までの第105ヵ年計画の政府に対する提案が採決された。計画を進め2010年の国内総生産(GDP)を2000年の2倍にする目標を掲げている。その経済発展のカギが「西部大開発」である。日本企業の投資を期待しているが、投資環境がよくないと腰は重い。日中関係が悪化すれば、足はさらに遠のく。

 公式訪問中には民放の特別番組に出演し、「日本が公式文書で中国に謝罪したことはない」と首脳として初めて公に不満を表明した。しかし、16日の記者会見では不満の真意を問われ、朱首相は日本の公式文書による中国への謝罪のないことを再び指摘したが、同時に「中国は一貫して1995年の村山首相によるアジア人民の(侵略と植民地支配に関する)談話を高く評価していると述べ、村山談話を文書謝罪に準ずるものと受け取っていることを示唆。われわれの目的は謝罪を求めることではなく、歴史を鑑とし、未来に目を向けることだ。」と強調し、今後謝罪要求を外交問題にしない考えを述べた。朱首相が不満を表明した背景には、中国指導部は中国の反日世論の圧力を受けており、歴史問題で軟弱な態度はとり難い状況がある。さらにその背景には、中国政府が対日外交に歴史カードを使い、愛国主義教育や日本軍国主義批判などを続けてきたことがある。

 朱首相の発言に対し、官房長官は「1995年の首相談話など、さまざまな形で痛切な反省の意と心からのおわびの気持ちを表明してきており、さらに文書にすることは考えていない」と述べ、新たな文書のよる謝罪表明に否定的な見解を示した。

 

<朱首相公式訪問中の中国側の報道>

中国の国営や共産党系のマスコミは朱首相の日本での動向を連日報道した。中国外務省報道官は、朱首相の訪日について「日本側の広範な各界人士と意見を交流することで中日両国間の理解と信頼を強化した」と述べた。

 しかし、中国マスコミは歴史問題について、朱首相の「日本国民を刺激しない」という言葉は一切報じず、また民放の特別番組の録画撮りで「日本国民に謝罪を要求しないことで中国内で批判されている」という告白もまったく伝えなかった。ODAについては、朱首相が「中国側の宣伝不足」を認めたことなども報道されなかった。15

 

16、将来展望と今後の課題

中国側は、中国の世論に沿っていることは報道し、沿っていないことは報道しないという態度は改めるべきである。日本を「敵役」にしている限り、真の友好を築くのは無理である。

日本は歴史をしっかりと踏まえつつ、日本外交の基本は中国との友好協力関係の増進であって中国を敵視してはいないことをあらゆるレベルで訴えていく必要がある。中国の主張にあいまいな態度をとらず、率直に日本の立場をぶつけ理解を深め合うことが大切である。

 中国は日本とさらに「相互信頼」を築いていくためには、経済交流において、国際ルールにのっとった中国の誠実な取り組みが求められる。これまで、日米などの外国企業は税制や外国為替管理、通関手続き、法的根拠のない規制などで中国政府に振り回されてきた。中国進出企業の間では、2001年にも予想されるWTO正式加盟でこうした国際ルールに反した規制、商慣習が消えるのではないかと期待している。したがって、中国のWTO正式加盟により、「相互信頼」が生まれ、日中貿易、対中投資はさらに活発になるのではないかと予想される。

 

感想

 日中二千年の交流史中の最も悲惨なところである日中戦争のところを私がペンを進めていた時、自分が日本人であることが嫌になりそうなくらいの憤りを感じた。日本は中国に対して、つぐなっても、つぐないきれないほどのことを中国にしたと思う。「日中共同声明」締結時に、周総理は「中国人民は賠償の苦しみを深く味わったことから、日本人民が同じ苦しみにあうことを希望しない。また中国は莫大な損失をこうむったが、これは日本軍国主義者が責めを負うべきであり、日本人民もまた被害者であり、両国人民永遠の友好のため戦争賠償要求を放棄する。」と明らかにした。私は賠償請求しなかったことは知っていたが、周総理がどういう思いで賠償請求しなかったのか初めて知った。このことを知った時、周総理の温かさ寛大さに大変驚いた。そして、日本は周総理の寛大さにその後答えることができているのだろうかと考えさせられた。日本は自国本位のところがあり、ご都合主義のところがあると思う。もちろん自国は大切だが、歴史を踏まえつつさらに友好的になれたらいいと思う。

 私は去年の夏、中国の北京へ旅行に行った。その時はパスポートとビザで中国に出入国できることはあたりまえだと思っていたし、当然の権利であると思っていた。しかし、出入国できなかった時代があり、今こうして当然と思えるようになるまでの日中国交回復には幾度もの波乱があり、なみなみならぬ努力のおかげでできることと知った。

 これからはさらに日中がお互いの国を思い合って、相互信頼を築き上げ、発展していくことができたらすばらしいと思う。

 

日中関係史 年表

1871

日清修好条約締結

1894

日清戦争勃発

1895

下関条約締結

190405

日露戦争勃発

1910

韓国併合

1911

辛亥革命

191418

第一次世界大戦

1931

満州事変

1937

盧溝橋事件  日中戦争勃発

1945

ポツダム宣言受諾

1949

中華人民共和国成立  国民政府台湾に移る

1950

朝鮮戦争勃発

1951

サンフランシスコ平和条約  日華平和条約締結

1952

第一次民間貿易協定

1958

長崎国旗事件  日中貿易全面中断

1962

LT貿易開始

1971

キッシンジャー極秘訪中

中華人民共和国国連復帰、国民政府追放

1972

ニクソン大統領訪中

日中共同声明、日中国交正常化

1978

日中平和友好条約締結

 

参考文献

「日本と中国の二千年」 中村新太郎 東方出版 1972

「日中交流二千年」 藤原禮之助 東海大学出版会 1988

「シリーズ知っておきたい中国U」 青木理人 歴史教育者協議会1996

「戦後日中関係五十年」 島田政雄・田家農 東方出版 1997

「近代日中関係史研究入門」 山根幸男ら 研究出版

「日中関係簡史」 楊正光 五月書房 1984

「戦後日中関係史」 林代昭 柏書房株式会社 1997

200066日 北日本新聞

19991116日 日本経済新聞

2000103日、4日、10日、13日、17日、18日、19日 産経新聞

200010月10日、13日、17日、18日、19日 中日新聞



1 中国との国交開始」は「日本と中国の二千年」P539P540を参考とした。

2 東学信徒を中心とする農民反乱

3対立の始まり=日清戦争」「中華民国と21ヶ条の要求」「泥沼の始まり」は「日中交流二千年」P205206P213216、「日本と中国の二千年」P564,572を参考とした。

4西安で蒋介石が張学良に共産党を倒すことよりも、国共合作を行い、抗日にあたるべきだと要求をつきつけられ軟禁された事件。

5 日中戦争」は「日中交流二千年」P216P217を参考とした。

 

6 「日華平和条約」は「シリーズ知っておきたい中国U」P147,P176、「戦後日中関係五十年」P134を参考とした。

7 「民間レベルでの交流の始まり」は「近代日中関係史研究入門」P368、「日中関係簡史」P229を参考とした。

8長崎で、1暴漢が展覧会場にかけられた中国国旗を引き降ろすということが起きた。しかし警察はこの犯人をすぐに釈放し、日本政府は一言も遺憾の意を表さなかったという事件。

9日中関係の危機」は「戦後中日関係五十年」P152159を参考とした。

10 日中交流の再開」は「戦後中日関係五十年」P207P211を参考とした。

 

11 2度目の危機」は「戦後中日関係五十年」P216P217P242、「戦後日中関係史」P180を参考とした。

12 米中接近」は「戦後中日関係五十年」P206P207P216217P248P249を参考とした。

13 「日中国交正常化」は「シリーズ知っておきたい中国U」P177、「戦後日中関係史」P217,P235P248を参考とした。

14 日中平和友好条約」は「戦後中日関係五十年」P235P244を参考とした。

15 「現在の日中関係」「将来展望と今後の課題」は200066日北日本新聞、19991116日日本経済新聞、20001016,17日中日新聞、2000103,4,10,13,17,1819日産経新聞を参考とした。