『「天衣無縫」の外交家と「用心深い」政治家』
97E2343 中村 理恵
1898年3月5日江蘇省淮安で、周恩来は生まれた。父親が自分の出世を期待する気持ちを込めて「恵みの到来」という意味の「恩来」と名付けたのである。父の周貽能は下級官吏であった。しかし、父方の伯父たちは皆出世している。出生後、伯父の養子になってから10歳そこそこで“4人”の親を亡くしている。生母は、中国婦人の伝統的教養に優れていて、洗練された女性であり、一方の養母はほとんど教育を受けておらず、また、子供らをひどく叱りつける人であったが、当時「紅毛人」と呼ばれた西洋人宣教師を家庭教師として雇っていた。そんな性格の異なる2人の母のもとで育ち、10歳前後からは、もう「家長」の役割を果たさなければならなくなった。周恩来の人間関係調整力は、幼少期から鍛えられたのである。周恩来と接触したことのある人々の多くは、彼について、穏和、謙遜、平静などという言葉で表現する。確かに、周は他の指導者に比べて、調和、妥協、自己批判が多い人であり、2つの勢力闘争においては、調和的で、中間の立場をとるときが多かった。良く言えば穏健で寛容的であるが、悪く言えば曖昧な態度をとっていた。
青年期
1910年、瀋陽(当時の奉天)の伯父の家に身を寄せ、関東模範学校に入学し、13年天津南開中学に入学、在学中に学業の優秀を認められ、2年次から学費、諸雑費の免除という先例のない措置を受けた。
当時の周は、背が低く、色が白く、華奢な子であったため、演劇活動では、封建的習慣上、男女が一緒の舞台に立ってはいけないため、そんな容姿の周は、女役を演じることが多かった。
1914年、第1次世界大戦がはじまった。首都北京への玄関口であった天津は、大陸進出を狙う日本や欧米の諸国の前に激しく揺れていた。その2年前に、清朝が滅び、辛亥革命を発火点とした中国革命の火があがっていた。祖国が大国の食い物にされてたまるかという思いが、近代国家への夢に駆り立てられた若者たちの胸を揺さぶっていた。
その当時の日本は、日清、日露戦争の2つの戦争に勝ち、朝鮮半島や樺太を支配して、一気に経済発展を遂げ、世界の大国の仲間入りをし、連合国側について、ドイツが支配していた中国山東省の一角、南洋諸島を手に入れ、ますます大国意識をもつようになっていった。その一方、国内では社会の自由と平等に目覚めた知識人や青年たちが労働運動や、婦人運動といったさまざまな社会運動にかかわっていく。これが後に大正デモクラシーといわれる時代の幕開けになっていった。
南開中学卒業後の1917年(大正6年)、周恩来は天津から日本を目指した。このころ強い影響を受けていたのは愛読していた雑誌「新青年」であった。当時の中国で最も進歩的な若者向けの雑誌で、論文を寄せた知識人や編集者たちは、日本留学の経験者が多く、「現代文学の父」魯迅や、「中国革命の父」孫文もやはり日本の地を踏んでいた。東京に着くとすぐに、東亜高等予備学校へ籍を置いた。この学校は中国人留学生のための私立の受験予備校で日本語の習得と受験勉強を教えていた。留学生は第一高等学校や高等師範など、指定された学校に合格すると、中華民国から官費留学生となる道が開かれていたので、周も必死になってその恩恵を受けようと努力し、1日13時間半勉強に費やしていた。日本に来て彼が特に関心を持ったのは、日本人の“市民制”である。まだ近代国家の形を成し遂げていなかった中国では市民意識や人々の文化や活力が育っていなかったので、富山で起こった米騒動や地主や問屋への民衆運動などにはことさら関心が高かった。彼は、河上肇(注1)の「貧乏物語」、エンゲルス・マルクスの本など、時代を先取りする書物を読み、下宿代が本に化けていったため生活は貧しく、家賃を滞納したり、天津にいる知人や留学生の友人に援助を受けたりしていたのであった。
周恩来が来日した大正6年から翌7年にかけて、中国人留学生は日本の対中国政策に不満をもっていた。第1次世界大戦で、山東省に権益を拡大した日本は次第に軍事的圧力をかけてきたからである。時の中華民国政府は日本の言いなりになっていて、それに憤慨した彼らは抗議行動を起こし、日本の警察は常に監視の目を光らせていた。そのころ、同じ支那留学生(=中国人留学生・当時はそう呼ばれていた。)の抗議行動によって、つぎつぎに捕まり、取調べを受ける事件が起こり始めていた。
周恩来は予備学校での勉強に集中できなくなってしまい、東京師範学校の入学に失敗し、第一高等学校の試験も失敗してしまった。祖国中国では大きな抗議運動(後に五・四運動と呼ばれるものに発展)が行われていた。心中穏やかではなかったのである。
帰国前、周は京都に行った。京都帝国大学には河上肇がいたからである。京都では河上肇創刊の雑誌『社会問題研究』を熱心に読んだ。また嵐山、円山公園にも遊び、口語自由詩をつくり、嵐山には詩碑がある。
そして1919年(大正8年)4月、周恩来は祖国中国に帰国したのであった。
五・四運動(注2)
1919年北京に何千という学生が政府と大国の外交公館への抗議デモをし、軍警がこれを蹴散らしたので、激しい抗議運動が中国全土に燃え広がった。天津にもどった彼は南開大学に入学し、天津学生連合会の指導活動に参加し、「学生連合会会報」を創刊、編集長となり、健筆をふるった。9月に、男子学生10人と女子学生10人で革命団体「覚悟社」を結成。後に周恩来夫人となるケ穎超もその仲間だった。周も1920年1月請願デモを組織し、逮捕されてしまい、7月に釈放されたのだった。
フランス留学 1920〜1924
1919年〜20年にかけて1600人以上の中国人留学生がフランスへ渡った。その中には、中国共産党の指導者となったケ小平や陳毅らも多く含まれていた。
当時、「勤工倹学」(注3)のスローガンのもと、フランスに留学する運動が盛り上がっていた。1920年11月、22歳だった周は、中国社会を変革したいという志を持ってパリに行き、シャトー・ティエリーのフランス語学校に入った。パリでの最初の数ヶ月間に精読したのは、ベール著の「カール・マルクスの生涯と思想」の英語版である。余白は書き込みでいっぱいになった。中国人が、フランスで、ドイツ人の書いたものを英語で読んでいた。彼のパリでの生活は質素なもので、何十年後に、パリを訪れた際に周は、つけで飲んだコーヒー100杯の勘定を精算し、もう一つの店のコーヒーのつけは、中国煙草300本で払ったという。
1921年7月、上海では「中国共産党」が結成された。
1922年6月、パリで「旅欧中国少年共産党」が成立し、周恩来は共産党に入党して、趙世炎、李維漢とともにこの中央執行委員会委員になった。同年、中国共産党中央からの通告で「中国共産主義青年団ヨーロッパ支部」と改称、すでに入党している党員は「中国共産党ヨーロッパ支部」を組織した。周恩来は支部の責任者であった。また「中国共産主義青年団ヨーロッパ支部」書記にも選出された。ヨーロッパ支部は『少年』という機関誌を創刊、周恩来は編集責任者となった。
祖国では、孫文の率いる国民党が、国民革命のリーダーとしての立場を確立していた。孫文は、新しく生まれたソビエト連邦に物質的援助を求めた。ソ連はこれに応じ、クレムリンは、コミンテルンを通して、中国共産党に対し国民党との論争を止め、中国統一のための全国民的計画に協力するよう求めた。そして、中国共産党指導部は周や彼の同士に対し、国民党と協力するだけでなく、実際に国民党に入党することを指令してきたので、周のヨーロッパでの最後の数ヶ月間、二重党籍になっていた。国共両党は同盟関係を強め、彼は国民党の中央執行委員になっていた。ヨーロッパで入党し、後々まで生き残った中国共産党指導者たちのほとんど全員が、周の政治家としての生涯を通して彼を支持している。陳毅、李富春、蔡暢らであり、中国共産党で長く影響力を保った。3年半の西ヨーロッパ滞在を通じ、周は、マルクス主義を認め、彼なりに受け入れていった。そして1924年6月20日、彼は、パリを後にした。
国民党と共産党
1924年6月、孫文は、黄埔に軍官学校を開設し、革命軍の新たな基地とした。この学校を運営していたのは、孫文のもとで、軍事を担当していた蒋介石だったが、彼は、共産党嫌いであった。にもかかわらず、帰国した周は軍官学校の政治部副主任に任命された。彼は、共産党だけでなく、国民党のためにも働いていた。国民党は彼を中央軍事委員会訓練部の責任者にし、反帝国主義闘争を明確にして、中国共産党と連携した。これが第1次国共合作である。
しかし1925年3月、孫文が死去し、国民党内の左右両派の対立が深まり右派の反共行動は、ますます活発になった。その夏、香港のイギリス人から資金援助を受けた軍閥たちが広州で反乱を起こしたが周は、農民や労働者の加勢を得、鎮圧に成功して革命政府を救った。当時、広州の国民党内で活躍していた中国共産党員に1人に毛沢東がいた。
この年、周は4年ぶりにケ穎超と再会し、結婚した。周が27歳、ケが21歳であった。ちなみに、当時、周恩来はハンサムな青年だったという。ケ穎超は、人気者でほとんどのデモや宣伝活動で活躍していた。結婚後、彼女は、仕事の面では、周の有能な助手であるとともに、家庭ではよき妻として彼を支えていた。
共産党員は、共産党嫌いの蒋介石が自分の力を誇示し始め、ファシズム的匂いを漂わせていることを覚った。しかし、共産党にとって、北伐の指揮者として蒋介石が必要であったと同様、蒋介石も北伐を成功させるにはソ連の武器を必要としていたので、両党は、気まずい合作を続けた。1926年7月、国共両党は、上海、北京の奪取を目指して北伐を開始した。
1926年10月、翌27年2月末と上海の労働者たちは武装蜂起を開始した。周は第3回目の蜂起を指導した。周の軍隊の労働者たちは、上海の軍閥の軍隊を撤退させたがすぐに奪還されるのを恐れ、軍事的作戦の経験のない周ら共産党は、政治的な手で蒋介石に圧力をかけたのである。周は、当時、国民党左派のスターであり、国民政府主席であった汪兆銘に会い国共両党の結束を再確認させた。だが蒋介石は、自分の地位を脅かした共産党員の一掃を狙い、5000人の共産党員を殺害した。周恩来は、逃れ、上海を離れた。一説によれば、彼は、太い眉を剃り落とし、あごひげを伸ばし、青白い頬に詰め物をして逃げたという。共産党指導部の未熟さを知らされる結果となった周は武漢へ逃れて、他の共産党指導者たちと合流した。こうして国民党と共産党との蜜月は終わったのだが、国民党内の左派と右派との間でも終わることとなった。蒋介石は南京で右派と優勢な軍隊を支配することになり、一方、汪兆銘は武漢で劣勢な左派を指揮することになった。そして周は国民党籍を放棄し、共産党に全力を注ぎ、第1次国共合作は崩壊した。
上海は、いともたやすくのっとられてしまった。1927年4月共産党指導者たちは、武漢で敗因を分析した。トップリーダーの陳独秀は、国民党が軍事上優位にある以上、共産党は政治活動に専念すべきだと考えた。夢見る詩人、瞿秋白や、一筋縄ではいかない農民、毛沢東はその意見を批判。周恩来は瞿や毛も意見に同調しながら、陳独秀にも反対せず、権力の座を巡る闘争には中立でいた。周は中央委員会政治局のメンバーの席は49年間死ぬまで辞退しなかった。
1927年8月の共産党の南昌蜂起も失敗してしまった。共産党指導部が支援を重視していた、張発奎将軍が敵に回ってしまい、共産軍はいくつかにわかれて退却した。このことが何十年も後にいたるまで共産党の政治に影を落とすことになる。共産党は3日間南昌を制圧しただけであった。中国共産党は現在、8月1日を人民解放軍の「建軍節」としている。
長征
1931年の「九・一八事件」(満州事変)による日本の侵略に対し、蒋介石は「安内攘外」(まず国内を平定してから外敵と戦う)路線をとり、5回にわたり共産党包囲攻撃を行い1934年春、共産党の一掃を目指す最後の作戦、第5次囲剿が開始された。周は江西省の瑞金にとどまったが、江西撤退となり、新たな根拠地を求め、北へ向かった。いわゆる「長征」の始まりである。10月、周は紅軍の中央縦隊を率いていた。貴州省に入って、周が泊まっていた家が敵に放火され、猛火の中から救い出され、九死に一生を得ている。奥地に進んだが穀物がなく飢えに悩まされた。あるとき周の護衛兵が闇の中でつまずき、周の弁当をひっくり返してしまった。残ったのは焦げ飯で、食べられるかなといった表情でそれを食べた。後に周は「歴史上最も暗黒の時代だった」と回想している。そして北部の町、遵義で行った1935年1月の“遵義会議”で毛沢東がついに党のナンバー・ワンになった。周は毛沢東を強く支持した。
この長征中、日本軍は東北(満州)に陣地を固めていた。周は抗日のため、国共は協力すべきだと考え、1936年4月張学良に会い、抗日民族統一戦線の結成に向けて努力を重ねた。
1936年12月、西安事変(注4)がおこった。日本と戦う前に共産党を一掃しようと考えていた蒋介石は、張学良に対し、東北軍が延安の紅軍根拠地を一掃しないのなら、東北軍を南方の福建省に移動させ、自分が忠実な部隊を他から連れてきて剿共戦をやるまでだと脅していた。しかし、張は抗日には共産党の協力が必要だと考えていた。12日未明、東北軍将校たちは蒋介石が泊まっていた西安の史跡「華清池」の宿舎を包囲した。蒋介石を殺せば蒋の支持者の混乱を招き、彼が敵になるかもしれないと周は考え、張の勇気をたたえる一方で「内戦停止と抗日要求」を蒋に突きつけた。
1937年7月7日盧溝橋事件が起こり中国北部駐屯日本軍部隊と中国軍との衝突で日中戦争が始まった。8月、日本軍の上海占領後、周恩来は共産党が抗日戦争で積極的役割を果たすようになれば、党の政治的地位は上昇するだろうと主張した。毛沢東は、紅軍の完全な独立の保持を主張した。皆は周の意見を支持した。9月、国共両党が対等な立場で協力する形で第2次国共合作が成立し、抗日民族統一戦線が成立した。共産党の紅軍は、蒋介石の名目的な指揮下で、華北では八路軍、華中では新四軍と編成された。
周が中国共産党代表として1940年半ばから1943年半ばまで中国国民政府の戦時首都、重慶に住んだ。周は、国民政府内にポストを与えられた。その一方で、周は、中国共産党南方局の書記として、国民党支配区における共産党の地下活動の指揮をとっていた。すなわち、彼は、北方で抗日のための人心獲得に従事しつつ、重慶を中心とする南方では、国民党に対抗するための人心獲得につとめていた。
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して抗日戦争は中国側の勝利に終わった。同年に国共内戦が再開したが、国民党軍は点(都市)と線(幹線交通路)しか支配できず1949年1月、状況が悪化し、アメリカの支持を得ていながら蒋介石総統は退陣せざるを得なくなり、共産党軍が“勝者”となった。国民党はこの年の終わりには台湾へ撤退することとなったのであった。
新中国成立
1949年10月1日、新しい中華人民共和国を正式に誕生させた。周恩来は51歳で国務院の総理兼外交部長に任命された。彼は、病気や疲労のためやむを得ず短期間休んだのは2,3回で、1日20時間働くほどの絶え間ないデスクワークであったので、周りの皆は彼の体を心配した。疲れを感じると、額に万金オイル(タイガーバーム)をすりこんだという。そして新政権発足時には、何千人もの共産党以外の知識人や専門家に手紙を書き、政府の下で働いてくれるよう要請をする用心深さがあった。
中華人民共和国は、成立後1年も経たないうちに朝鮮戦争によって中国はアメリカと敵対関係になった。しかしソ連からの経済援助を受けるようになった。
外交部長として、周恩来は1954年5月のジュネーブのインドシナ会議(注5)に出席、途中で、ニューデリーを訪問しインドのネルー首相とともに「平和共存の5原則」(注6)をとなえ、戦後世界に新風をもたらした。これはその後何十年のもわたり、米ソどちらとも提携を望まない国々の政策となった。しかし、これは、後に中印国境紛争(注7)で問題となる。1955年4月のバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議では人種・言語・風俗の差異を越えて、すべての植民地主義や帝国主義に反対する平和10原則を宣言した。この会議がインドネシアで行われたことで、インドネシアとの間に在住する華僑の身分に関する協定を結ぶことができた。このころから、周が率いる行政実務家および専門家のグループと毛沢東および劉少奇が率いる階級なき社会を早急に実現しようとする熱狂的イデオローグたちとの間で対立が起こり始めたのであった。
これまで8年間の中国経済は、テクノクラート(注8)たちが、ソ連人顧問・専門家に従い先導して歩んできたが驚嘆すべき結果は得られなかった。“15年でイギリスに追いつく”という目標で58年の第2次5カ年計画が始まるや「大躍進」運動を呼びかけた。国力と国情を無視した急ぎすぎた理念の追求、高すぎた目標、人災の側面の強い3年連続の「自然災害」や、ほぼ同時期の中ソのイデオロギー対立でソ連の技術者の引き揚げなどの多くの原因が重なり「大躍進」は失敗に終わってしまった。これに対し、周は「実事求是」(現実をありのままに認識する。)という立場から、それを是正する姿勢を打ち出していった。
プロレタリア文化大革命と最後の外交
党内の実権は、「大躍進」挫折後は、劉少奇とケ小平ら、官僚主義者と「走資派」(注9)が支配していった。そして、批判の声が今だ高い文化大革命の始まりは、『海瑞罷官』(注10)という話が合図になったといわれている。毛沢東主義の左派は、66年から紅衛兵を先頭に、実権派を排撃し、68年には、当時の国家主席の劉少奇が追放された。周は「学問、教育、報道、芸術、文学、その他のすべての文化的部門においてブルジョワ思想を打倒しプロレタリア思想を強化していかなければならない。」と演説した。しかし一方で、紅衛兵たちが、軌道をはずれ、目標を見失って、運動全体の信用を落とすことのないよう説得に努力し、不必要な破壊から、人間や制度、財産を守っていたのであった。
1971年1月、毛や周と対立していた林彪は、毛沢東暗殺失敗の後、ソ連へ逃亡中墜落死した(と伝えられている)。
1971年のピンポン外交(注11)により米中は接近し、キッシンジャーの極秘訪中そして、1972年2月のニクソン米大統領訪中で共同声明を発し、米中の国交は正常化した。共通するのは両国ともソ連への警戒心であった。そして同年9月には田中角栄日本首相の訪中で、日本との国交正常化に貢献した。周恩来は戦争終結後、日本に戦争賠償を求めないことを決断したり、中国に収監されていた日本人戦争犯罪者をいち早く釈放するようにと計らったのである。そして、ニクソンが中国を離れた数日後に自分の体がガンに侵されていることを知ったのであった。
周恩来は、1973年中国共産党第10回全国代表大会で、党中央副主席に当選した。
1974年初め江青の背後の左派は周を権力の座から引き下ろす「批林批孔」などを展開し、“文革をだめにしている最大の儒教官僚”というレッテルを彼につけた。新しい産業を始めるためにプラントを輸入しようという周の政策すら、「外国崇拝」「卑屈な買弁根性」の例として非難されたが四人組(注12)は周を排除できなかった。
1975年1月、病を押して第4期全国人民代表大会第1回会議に参加、中国共産党を代表して中国において「工業・農業・国防・学技術の現代化を実現せよ」との偉大な呼びかけを行った。いわゆる「四つの近代化」で、この政策は近年でも続いているものとなった。
しかし、何回ものガン治療も効果がなく、1976年年1月8日、周恩来は78歳で永遠の眠りについたのであった。「葬儀は地味に、骨は中国の海(大地)に」これが、彼の遺言であった。
周恩来の印象
ヘンリー・キッシンジャーは、周恩来を、表情に富む顔で、ぎらりとひかる目がもっとも印象深くそのまなざしには緊張と静寂、注意と静かな自信が混ざり合っていた、と回想している。かつてジュネーブ会議の時、アメリカの国務長官ジョン・フォスター・ダレスは、以前から公然と周の人格を疑う発言をしていて、周が求めてきた握手を拒否したというエピソードがある。ヘンリー・キッシンジャーは大げさに彼の前に手を差しだした。周は彼を見てほほえみ、手を握り返してくれたという。それは、過去の遺物を乗り越える第一歩だった。
周恩来はキッシンジャーが会ったうちで最も印象の深い2、3人のひとりだった。彼は、洗練されており、限りなく忍耐強く、ずば抜けて頭がよく、繊細だったと回想している。
首相周恩来
周の日常生活は、衣服や食べ物に関しても節約していたという。使い古した洗面タオルはしばらく体を拭くタオルに使い、そのようにもたないほどになると、靴磨きの布として使ったといわれている。彼の没後、展示された繕いだらけの靴下は、首相になる以前から死のときまで30年という信じられがたい年月にわたって履き続けられたものだという。
ある時、周は突然の豪雨で濡れてしまった家の警備兵にレインコートを着るように、そして雷のときは木の下は危険であると妻を通して伝えたり、兵士が敬礼をしたときは、「われわれは皆同志だ。だから私に敬礼しないでほしい。」と気遣ったという。そんなやさしさ、謙遜さを持っている人であった。
周恩来は胸の前にいつも、長方形の赤い小さなバッチをつけていた。そのバッチは、周恩来が、病に倒れ、最後の息をひきとるときまでずっとその胸についていた。バッチの中には、毛沢東の姿が、浮き彫りにされており、その下には、毛沢東の筆による「為人民服務」(人民のために服務する)という文字が、配られていた。どれほど毛沢東を深く尊敬していたかということ、毛沢東思想を強く意識していたというのがわかる。
周恩来の死去から3ヵ月後、清明節をむかえ、彼を記念する北京市民が、天安門広場の人民英雄記念碑に花環や追悼の詩を捧げた。しかし当局がこれを撤去したため、広場に来た民衆が騒ぎだし、4月5日、「第1次天安門事件」になった。
周恩来は、民衆にすごく愛されていたことは聞いたことがあった。彼が毛沢東を支持していなかったらどうなっていただろう。(あまり歴史に“if”を使うことはよくないかもしれないが…。)彼は、怒鳴るということがなく、諭すことが多く、穏和な人物だと思う。そして、中立的立場をとってきている。しかし、大躍進期や、文革期でも、決して消極的でなく、また、政策路線が誤ってしまわないように努力したり、誤ってしまったときは、そこから目を反らさずに、中国を陰で支えていた。私は、彼に対して“中国を陰で支えた「縁の下の力持ち」”と言う言葉が浮かんだ。
周恩来(しゅうおんらい) 年譜
1898年 |
江蘇省淮安県で生まれる。出生後、叔父の養子になり、その死後、生母の実 |
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家で、生母、養母と暮らす。 |
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1907年 |
生母が死去、養母の実家に移った。まもなく養母も死去、9歳で2人の弟と共 |
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もに取り残される。 |
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1910年 |
瀋陽(当時の奉天)の叔父の家に身を寄せ、関東模範学校卒業。 |
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1913年 |
天津南開学校に入学。 |
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1917年 |
日本に渡る。東京の東亜高等予備学校で日本語を学ぶ。 |
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1918年 |
「中日共同防敵軍事協定」を密約、反対運動に参加。 |
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日本の官憲の弾圧を受ける。 |
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1919年 |
5月、五・四運動が発生。6月に天津に戻って、天津学生連合会の指導活動に参加。 |
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1920年 |
1月、請願デモを組織、逮捕される。周恩来、ヨーロッパ留学。 |
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1922年 |
旅欧中国少年共産党が成立、中央執行委員会委員。 |
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(後に、中国共産主義青年団ヨーロッパ支部と改称) |
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1924年 |
6月中国に帰国。 |
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1925年 |
ケ穎超と結婚。周恩来27歳、ケ穎超21歳。 |
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1927年 |
上海で武装蜂起。 |
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1934年 |
長征始まる。後に今までで1番苦しい時期だったと語っている。 |
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1935年 |
1月、貴州省遵義会議で毛沢東を支持する。 |
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1936年 |
西安事変発生。 |
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1937年 |
抗日民族統一戦線を引く。7月7日廬溝橋事件発端で日中戦争勃発。 |
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1949年 |
10月1日中華人民共和国成立。国務院総理、外交部部長を兼任。 |
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1950年 |
朝鮮戦争勃発で中国VS国連軍(米軍)の関係に。 |
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1954年 |
インドのネール首相とともに「平和共存の5原則」を唱える。 |
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1958年 |
「大躍進」運動が発令される。 |
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1966年 |
プロレタリア文化大革命(〜1968)が発生。毛沢東と劉少奇の権力闘争では、毛沢東を支持したが、江青、林彪の排斥をうける。 |
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1971年 |
ピンポン外交で米中接近。林彪が飛行機で国外に逃亡をはかったとされる 事件には機敏に対応、ついでに経済、教育のたてなおしを計る。 |
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1972年 |
ニクソン訪中で毛とともに会談し米中国交回復。 |
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そして、日中共同声明発表。ガンを発病。 |
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1975年 |
病を押して第4期全人代第1回会議に参加、中国共産党を代表して、「中国に |
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おいて、工業・農業・国防・科学技術の現代化を実現せよ」と呼びかける。 |
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1976年 |
1月8日 ガン治療もむなしく、北京で死去、周恩来78歳の生涯。 |
*参考文献及び資料映像*
・「周恩来−不倒翁波瀾の生涯」時事通信社 /著・ディック・ウィルソン/訳・田中恭子・立花丈平
1987年1月10日発行・1987年3月15日3刷
・「周恩来の実践 指導力の秘密」潮出版社 /著・新井宝雄
・「キッシンジャー秘録B北京へ飛ぶ」株式会社 小学館 /著・ヘンリー・キッシンジャー/監修・桃井眞 /桃井眞 /訳・斎藤彌三郎・小林正文・大朏人・鈴木康雄 1980年3月25日発行
・「中国百科 改訂版」株式会社 大修館書店 1997年12月1日発行
・「日本史B用語集」株式会社 山川出版社 1995年2月28日第1版第1刷・96年1月10日第1版第5刷発行
・「精選世界史図表」第一学習社 1991年2月20日初版・95年1月10日改訂8版
・隣人の肖像「周恩来−日本滞在日記」制作・テレビ東京(テレビ愛知1999年10月3日放送)
◆LeeSeminar‘s
飲み会◆
(注1)「河上肇」…「貧乏物語」で奢侈の根絶による貧乏廃絶を説き、雑誌『社会問題研究』を創刊。マルクス主義経済学の最高権威となった。
(注2)「五・四運動」…1919年5月4日、パリ講和会議で21カ条の要求解消要求が拒否されたことから学生デモが北京で発生。中国全土で反帝国主義の愛国運動が広がり、日本人と日本商品の排斥運動を開始した。
(注3)「勤工倹学」…アルバイトをしながら学ぶ。
(注4)「西安事変」…張学良が蒋介石を捕らえるというクーデター。
(注5)「インドシナ会議」…1946年から始まったフランス植民地軍とホー・チミンの共産党を中核とするベトナム民族主義者との戦争を終結させるために開かれた会議。
(注6)「平和共存の5原則」…@領土・主権の相互尊重A相互不可侵B相互の内政不干渉C平等互恵D平和共存
(注7)「中印国境紛争」…チベットとインドの国境線を無視した中国側に対してのインド側の反論と、チベットのダライ=ラマのインド亡命がもとでの中印の小競り合い、そして周恩来とネルーとの互いの疑惑の念を深めた問題。
(注8) 「テクノクラート」…技術者や科学者出身の高級官僚、行政官。
(注9) 「走資派」…資本主義の道を歩む者。
(注10)「海瑞罷官」…戯曲で(海瑞、免官さる)のことで明朝の皇帝が農民から土地を取り上げるなどの暴政を行ったので、高潔な大臣、海瑞が諫言し、そのために皇帝の怒りを買って、職を免ぜられるという話でこれは暗に毛沢東の人民公社政策を批判し、毛の怒りを買った彭徳懐の復活を求めたものといわれている。
(注11) 「ピンポン外交」…名古屋で行われた第31回世界卓球選手権大会で、アメリカ選手グレン・コワンは、中国選手団主将の荘則棟に話しかけた。そして、アメリカ卓球チームは訪中し、周恩来の直々の歓迎を受けている。これらは、周恩来の演出で、アメリカとの関係改善を求める象徴的な措置である。
(注12)「四人組」…江青・張春橋・姚文元・王洪文ら4人の政治グループ。江青は、毛沢東夫人。