李登輝 (Li Denghui

『台湾の未来を決める総統の「ジレンマ」』

 

972397 馬場 智美

第1章  思想

子供の頃に受けた思想的教育はその人の一生に多大な影響を及ぼす。現在60歳以上の台湾人は、日本帝国統治下の教育を受けている。1923年生まれ(現在76歳)の李登輝も、この時代の教育を受けた人である。

1894年、日清戦争が日本の勝利に終わり下関条約が締結された。この中で遼東半島、澎湖半島と一緒に台湾の割譲が決まった。台湾は翌年、日本の統治に抵抗し、「台湾民主国独立宣言」をした。しかし、諸外国の承認を得られぬままに日本軍の進撃により、ほどなくして消えていった。

第一次世界大戦頃から台湾の同化政索がとられた。日本本土と台湾の教育制度の一元化を進めた。ただし、日本語を日常語としない台湾人の児童のほとんどは、公学校に就学する。彼も地元の公学校に進学するが、父、李金龍の転勤によって、汐止公学校に入学した。この時は「岩尾政男」という日本名を名乗っていた。その後、故郷三芝捕に戻り「三芝公学校」に転校した。この時は始めて日本人の教諭「香山賢治」がクラス担当になり、「国語(日本語)」は、著しく上達した。(注1)

さらに、その一年後勉強熱心な彼は、淡水にある公学校に転校している。その後も高等科に進み、「偕医館」に寄宿していた。淡水は台北市の北にあり、ヨーロッパの風を感じる町並みが、淡水河沿いに広いがっている。「偕医館」で台湾に近代医学を伝えた故マカイ博士の息子であるマカイ博士がときどき姿を表わし、ピアノを演奏したり、聖書を読んだりして、西洋文化に慣れ親しんだ。(注2)

彼は6年間で公学校を4回も転校している。そのため、なかなか友達ができなかった。友人ができたとしても、しばらくすると父親の転勤によって交際がとぎれてしまう。こんな事から、彼は内向的で読書好きの青年になった。いろいろな本を読み、そこから知識を得ていった。

小学館から出版された「児童百科事典」は自慢の品物だった。この本にはこんな思い出話がある。「小学校の4年生の時、台北への修学旅行があった。その前日に、今までなかなかできなかったお願いを、おっかなびっくり父に言った。『とうちゃん、台北で「児童百科事典」と数学の本が買いたい。全部で4円ぐらいするんだけれども。』当事4円といえば、父親の給料の一ヶ月分だった。しかし、父は悲しそうな顔をして『そんなに、欲しいのだったら、なぜもっと早く言わない。今すぐ4円を集めるのは難しいよ。』と、父は言った。

しかし次の日、修学旅行のバスが出ようとしている時、私の乗ったバスの窓側を誰かが叩いた。父がお金を持ってきたのだ。朝早くからお金を集めてくれたのだった。」(注3)

旧制淡水中学に進学した頃は、軍国主義が色濃くなってきた。その時代に読んでいた本

(日本的思想)に大きく影響を受けている。例えば、鈴木大拙(注4)の「臨済録」だ。一心に何事かを行えば、自我は消え去り、悩みも消えるというものだ。彼は、トイレ掃除など他人がやりたがらない仕事も一生懸命行った。彼は何か自分を押さえなければいけない物があると、情熱が注がれるようだ。また、他の日本文学も数多く読んでいる。特に、夏目漱石の「三四郎」、「三太郎の日記」は、多く共感する部分があったようで、何度も繰り返し読んだそうだ。(注3)

日中戦争の始まった1937年ごろから、総督府は台湾統治を強化し、公共の場で台湾語を使う事を禁止した。初等教育には力をいれていたが、高等教育となると、台湾人より日本人の方が政治、文化の面でも優越することをみせつけるために、台湾人の通える学校の数を少なくし、ほとんどの人々は、公学校だけで進学を断念しなければならなかった。

同じ人間でありながら日本人と台湾人の待遇には、大きな違いがあった。なぜ、日本人と台湾人の間には、大きな差別があるのであろうか。なぜ機会が均等ではないのであろうか。なぜ台湾人は、中学以上の教育を受けにくいのだろうか。なぜ学業優秀な台湾人が、日本人と同じ待遇を受けられないのかと、自分の身の周りの問題に、常に疑問を抱いていた。

また、もう一つの不平等さも感じていた。地主である彼の家には、小作人がやってきて小作の継続を哀願していく。これをいつも眺めていた。そして、同じ人間に生まれながら、なぜあのような格差がうまれるのであろうか、と政治にも関心をもち、憤りを覚えていた。(注3)

幼い頃から、このような不平等感に疑問を持ち、いかにこれを解決すべきかと思い悩んでいた。

太平洋戦争末期の頃、彼は京都大学の農業経済学を専攻し、京都で生活する。ここで、植民地台湾と日本の違いを肌で感じ取る。日本の敗戦が色濃くなるなか、それでも日本の自由な空気に触れ、社会の雰囲気、設備、都市の機構、民衆の思想、官僚に対する考え方などで、台湾と落差があることを、強く認識せざるをえなかった。「台湾に帰って、行政工作に携わることがあったら、台湾の社会を作りなおさなければいけない。日本の内地のように、自由な空気をもてるようにしないと。」彼は、心に誓った。

日本が戦争に負けると、台湾に帰り台湾大学経済学部に編入した。「台湾人」として一から教育を受け直し、知識を入れていった。

 

第2章 信仰心

李登輝は熱心なキリスト教徒である。

キリスト教徒である曽文恵と結婚し、その3年後に洗礼を受けている。アメリカ留学から帰ってくると、彼は3年の間、毎週4〜5回、台北のあらゆるキリスト教会を妻とまわり、神が本当に存在するのかどうかを、考え尽くしていた。この時期の彼の心は穴が空き、何かにすがる事によって、これを埋めようとしていた。今までの自分の生き方では、幼い頃から疑問であった「社会の不平等さ」を解決できず、信仰することによって、答えを得ようとしたのである。

そして、一つの答えを見つける。人は、自我をもつ利己的なものであるが、社会という場で生きるには、お互いが愛をもって生きていくべきで、その愛が、神の愛をはっきりと表わすような深い肯定の心であれば、社会は思いやりと活力に満ちたものになる。これは、彼の政治に関する姿勢にもつながっている。(注5)

 

第3章 二つの変化

1972年老齢の進んだ蒋介石は、蒋経国を行政院長に就任させた。これで事実上、蒋経国が政権を振るうようになった。そして、彼は台湾人(本省人 )(注6)を積極的に起用した。台湾人の心をつかもうとしたのだ。行政院の農業担当の政務委員には、李登輝が任命され政治家としての第一歩を踏み出した。

しかし、この時期は台湾を取り巻く環境が国際的にも、国内的にも大きく動いた時でもあった。

中華人民共和国を国連に加盟させ、台湾(中華民国)が国連から追放されたのだ。日本と中国の、国交正常化にともなう台湾との国交断絶のように、その他の国とも国交断絶が

相次ぎ、中華民国を承認する国の数は減少をたどった。その一方で中華人民共和国を承認する国が増加していった。

中国は台湾承認国を減らし、台湾を取り巻く国際空間を狭める事によって、台湾を国際社会から孤立させようとしたのだ。また国内でも蒋介石が死去し、息子である蒋経国があとを継いだ。

この一連の衝撃的な出来事は、台湾の人々を不安にさせ、より政治運動を盛んにさせた。

1977年11月桃園県の県長選挙で、「党外」に対し、国民党政権が表のごまかしを行ったとして、怒った市民が警察署を焼きうつという、暴動に発展した。(注7)

この時鎮圧に動員された軍隊は、市民に「おまえらも台湾人だろう。同じ台湾人を撃てるのか」と、いわれて引きさがった。これは、兵士の90%を占める台湾人青年の、台湾人意識のめざめを示すものであった。(注1)

また、長年のタブーを徐々に破る形で人気を集めた雑誌「美麗島」は、党外運動の主流となり、全島に11ヶ所の支社を置き、雑誌社の名をかりた、一大大衆運動へと発展した。しかし世界人権デーの1979年12月10日に高雄での集会の際、当局は無届けを理由に取り締まり、流血事件となってしまった。これによって捕まった人達の裁判を、テレビ公開にした事によって、台湾の人々の人権意識、政治意識がさらに高まっていった。

1984年、李登輝が副総統に就任して間もない頃、「江南殺害事件」が起こった。江南(本名 劉宜良 本省人)は、アメリカに籍を置く作家で、国民党政権の内幕を暴露するなど、米国で活躍していた。「蒋経国伝」の作者であり、この本の出版をめぐり、将経国の次男である、蒋考武の命令で、国防部軍事情報局が派遣した組織により、サンフランシスコ郊外の自宅で暗殺された。国民党政権はアメリカでの裁判で、この事件との関係を否定しているが、その後慰謝料を支払い和解している。この翌年、時のレーガンアメリカ大統領は、国民党政権に圧力をかけ、民主化の推進を要求した。(注1)

これにより、その後の台湾の民主化に推進に拍車がかかり、「野党結成の容認」(注8)、「戒厳令」の解除、言論の統制策の一環で、新聞の創刊の禁止をしていた「報禁」の解除へとつながっていった。

1988年1月13日。蒋経国総統、死去のニュースが、ラジオ、テレビで報じられる。これにより、副総統だった李登輝が正式に総統に就任した。李登輝の総統就任は、台湾史上はじめて台湾人(本省人)出身の総統であり、人々はこれを歓迎した。

彼が就任してから、さらに民主国家へとなるべく台湾は歩み出した。

そして、彼の言動によって、台湾の未来が変わっていく事になる。

 

第4章 「中華民国在台湾」

    中華民国在台湾。これは李登輝がよく使う言葉で、文字どおりの意味は「台湾にある中華民国」となる。この言葉は、台湾独立の意味合いを表現上では避けつつ、台湾の所在地と「中華民国」という国名を同時に表わし、また中華人民共和国との混合をさけるために、考えられた言い方であった。

  一つの政治的意志を持った団体を表わすには、表現が弱く、あいまいな感じがするが、台湾の「中華民国」と堂々と名乗る事が難しい複雑な立場をよく表わしている。

  台湾が国際社会での孤立から脱出するには、台湾を国際社会に認めてもらう事が必要である。それは国内の組織をまず民主化する事である。

基本的人権・自由権・平等権が保証されている社会、これが民主化である。そして、これは台湾の場合は、「台湾化」に繋がっている。

台湾では本省人と外省人の対立が激しかった。なぜならば、今まで少数の外省人エリートによって政治は行われてきており、本省人にとっては、数の上では外省人を上回るものの、政治的、文化的には弱い立場だったのだ。

つまり、真の民主的な政治は行われていなかったのである。

新総統が誕生してから、新の民主化を図るべく政治システムの改革が行われた。これまでは、「国民党」が支えてこそ「中華民国」が中国の政党政権であるという考え方が前提として存在していた。その考え方のもとは、共産党との内戦の時期に中国で選ばれ、国民大会代表、立法委員、監査委員からなっっている第一次期中央民意代表(注9)にある。この国会議員は、国民党政権が台湾に流れてきてから、変更されず、「万年議員」として、国民大会代表を占め、長らく特権の中に溺れていた。彼ら「万年議員」を一掃することが民主政治の一歩である。そして、新しく選ばれた国会議員達は、もはや中国大陸とは関係ない。これが、台湾独自の政治、つまり政治の「台湾化」につながるのである。

1996年の第9代総統演説で彼は、「主権は国民にある時代だ。」と、述べている。この頃から「台湾」を強調しはじめている。それは、台湾は真に国民が主権をもつ国家として自己主張が可能になってきた、と判断したためである。

また、台湾内部の問題に対しても、「台湾は移民社会であり、早い時期から先住民の同胞を除いては、大陸から来た人が大部分です。台湾に前に来た人、あるいは後から来た人は、それぞれ異なっているが、すべてがこの土地を自分の力で耕し、同じく汗と心血をそそいで、現在の台湾を作り上げてきたのです。 誰が台湾人で、誰がそうではないか。今さら時間的な差でそれを論議することは意味がなく、また必要もないのです。台湾はわれわれのものであるという認識、そして台湾のために行う努力奮闘、これが台湾人の証なのです。」と、述べている。(注3)

これは、従来の本省人、外省人、または先住民と自分達を自分達で区別していては、台湾人としての確立はできない事の指摘であり、これからの台湾は、こうした祖先の生まれた場所が違う人達が、台湾に集まって、新しい国を作り上げていく事を導いているのである。新しい台湾人(ニュー台湾人)として、枠を取りさろうと、呼びかけているのだ。

いま大切なのは、台湾人としての確立、アイデンティティなのである。彼が、国民に訴えたかったのは、「台湾人としてのひとつの塊り、一つの意志を持つ事なのである。

「中華民国在台湾( 台湾にある中華民国)」これがこの言葉の意味である。

 

第5章 台湾初の総統選挙

1989年台湾総統となった彼が、この時中国とも台湾とも外交関係を有してなかったシンガポールを訪問する。(注10)

このとき、シンガポールのマスコミは「中華民国総統」の名称を使わず、「台湾からきた総統」と表現した。これはシンガポールだけではなく、国際社会での台湾の地位を知ることができる。

この頃から、台湾の「独立」に向けた戦いが始まった。

1995年李登輝が母校コーネル大学の同窓会に出席するために、アメリカを訪問した。これは、アメリカが台湾と国交を樹立してないが、緊密な関係である事を、アピールするためには絶好の場となった。中国側は、多いに反発した。中国側は台湾海峡で軍事演習を展開し、台湾を威嚇した。

この軍事演習による威嚇は、翌年の台湾初の直接総統選挙に対しても行われた。台湾国民だけで、「中華民国」の総統を選ぶとすれば、選ばれた総統は「中国」を代表する存在ではなくなってしまうからである。「中華民国」を大陸と切り離してしまう効果があると、中国側が受け取ったからである。また、これは民主化を進める台湾に対して、アメリカなどの国際社会の流れが、一歩踏み込んだ認知を与えるようになってきた事に対する、強い警告を与える意味もあった。

しかし、中国側の思惑とは裏腹に、台湾住民は反発し、選挙では中国との連携を求める候補への票は集まらなかった。李登輝は、予想以上の票を集めて総統に当選した。(注1)

 

第6章 中国・台湾関係

台湾がポルトガル人に発見された時から、台湾は支配される時代をずっと送ってきた。また、第2次世界大戦中の日本の支配が終わった後も、中国国民党の一党独裁体制で、台湾人全体の声が届くが政治体制ではなかった。

ここにきて初の台湾人の民選総統が誕生し、台湾独自色を打ち出し、経済的にもサイエンスパーク(新竹科学工業園区)などには世界のパソコン工場が集まっており、また半導体のシェアも上位を占め、力をつけてきた。(99年9月)(注12)

だが、中国との関係が台湾経済の足も引っ張っている。国際組織の未加入による問題だ。

台湾にとっては国際社会にアピールしていく事が必要だが、現状はアメリカやその他の生先進国のほとんどが中国大陸の市場に大きな期待を寄せているため、その結果、台湾への支持が消極的にならざるを得ない。また、台湾の国際的な会議の発言権はほとんどなく、その地位は低くなっている。この事について、1999年7月に ドイツ対外公共放送のインタビューに、李登輝がこたえている。

ここ数年、世界各国が自らの利益を基礎とし、中国共産党との経済関係を強化していることは、われわれも理解できる。しかし、台湾と米国、およびその他の西側諸国との経済関係も十分密接であり、軽視できないものとなっている。米国を例にとると、台湾は米国にとって第七番目の貿易相手である。また、中国大陸は内部の状況から見て、まだ多くの問題が存在し、構造的な問題が次々と発生している。このため将来の総合的発展にはまだかなりの不確実性があり、注意に値するものである。

大陸の不確実性に対し、台湾の発展は十分に安定している。台湾の重要性は次の二つの面にある。一つは民主と人権の保護であり、もう一つは西太平洋における重要な戦略的地位である。現在、民主と人権の重視は普遍的なものとなっており、誰しもが大陸にもこれを期待している。「民主」と「人権」は世界各国が追求している目標であり、同時に国際社会の大陸に対する普遍的な期待でもある。ここ数年、われわれは民主政治を推進し、積極的に国際社会に参加し、両岸関係の改善に努力し、国際社会から評価を得てきた。このため、台湾経験が大陸の現代化と民主化の過程において、積極的な効果を示すことになろう。

また、台湾は地理的に西太平洋における海上交通の要(かなめ)の位置にあり、米国や日本、東南アジア諸国にとって非常に重要なものとなっている。台湾は両岸関係においても地域安定の面においても、重要な役割を果たしているのである。」と、台湾が国際的に他の国々にとっても重要な国であることを強調している。その一方で中国の内部の不安定さを指摘している。

最近は、99年夏頃から、李登輝総統の発言により、緊張した関係が続いていた。

李登輝総統側は、「台湾の中国の関係は『特殊な国と国との関係』とする「二国論」を主張し、中国側は、李登輝を批判し、「一国二制度」による台湾の統一を強く主張した。お互い一歩も譲らなく、しばらくこの論争は続くと思われたが、9月21日の未明に起きた台湾を襲った大規模な震災によって状況は変わってきた。

 一連の緊張していた関係は李登輝の「二国論」発言によって引き起こされたものだが、この震災によって、幾分和らいできた。だが、中国側は「一つの中国」をアピールする絶好の機会とみており、新たな局面を迎えている。

中国側が、「台湾同胞の災難と苦痛は中国人全体の心に及んでいる。」と、同胞性を強調し、支援を申し出た。しかし台湾は、中国が申し出た人、物、金、の内、受け入れたのは、金だけだった。これは、台湾の中に中国が入ってくる事を警戒しているためだ。これを、突破口にして、台湾に中国の軍人が駐留する事もありえるわけで、恐れたためだ。

また、中国外務省のスポークスマンは、台湾の国際社会の支援に「感謝しておる」と述べ、台湾が自国の領土である事を、内外にアピールした。

台湾国民が、苦しんでいるさなかに、震災を政治的な駆け引きとして、利用したのだ。このことは、とても残念に思う。これを機に関係の緩和が期待できたのに、隙をみて「弱み」につけ込む様なやり方では、たとえ心からの申し入れだとしても、台湾は受け入れたくても受け入れることができない。

今後の中国は、マカオがの中国に返還されてから、台湾の統一問題に本腰になって力を入れてくるであろう。

だが、中国側が台湾を封じ込み政索を引き、国際舞台から引きずりだしたままでは、お互い実のある話し合いはされないだろう。もちろん、武力による威嚇は、なおさら反発心を煽るだけで、台湾には通用しない事は96年の総統選挙で証明された。

  21世紀という新しい世紀を迎えるにあたって、武力による解決ではなくて、話し合いというテーブルについて、解決する事が望まれる。これは不可能ではないと思う。

 

震災関する情報

  地震に関する情報 発生日時>

現地時間 1999921 午前145分頃

日本時間 1999921 午前245分頃

規模  マグニチュード7.7

震源地 台北から南南西145kmにある南投付近

 

   <被害状況>

             死者  2301人  (10月7日時)

負傷者  8725人(10月7日時)

がれきの下敷き  およそ140

行方不明  92人 (10月7日時)

建物全半壊  12,989 (2811)

余震  7,400回以上 (2811)

 

この地震によって被害にあわれたかたに心からご冥福を申し上げます。

 

補足

注1−「李登輝伝」伊藤 文藝春秋 1996年 より

注2―「李登輝伝」伊藤 文藝春秋 1996年 より

        淡水は1895年の天津条約によって、外国人が居住するよう

        になり、キリスト教の布教、外国人の居住が多く見られる。

        1629年にスぺイン人が建てたサント・ドミンゴ城は、16

        42年にオラダ人の手に渡り、オランダを意味する「紅毛」の

        名が今も残り「紅毛城」と呼ばれている。また、台湾に近代医

        学を伝えた馬偕博士の「偕医館」(現在は記念館)で、李登輝は

        ここで数年過ごし、キリスト教にも触れた。

注3―「台湾の主張」李登輝 PHP出版1999年より

注4― 鈴木大拙 仏教学者・思想家。禅の研究者として知られ、アメリ

       カで活躍。著「禅思想史研究」のほか英文の著作も多い。

       (18701966)

注5― 台湾のキリスト教会には、北部長老会と南部長老会に大きくわけ

       られ、彼は、南部町老会の神学院の宣教活動に従事している。ま

       た、この神学院は台湾の独立を主張していることで知られている

      「李登輝 中華民国総統の横顔とその実力」

                      松本 一男  PHP出版  1994年 より

注6―本省人とは、第2時世界大戦以前から台湾に住んでいた人々をさ

      し、外省人とはそれ以後、移ってきた人々をさす。かつては、外

      省人が、党・政府・軍の重要なポストを占めていた。お互いに敵

      対心を持っており、今も根強くこの意識は残っている。

注7―「党外」とは、当時は国民党の一党独裁支配下で、政党の結成は

       認められてなかったので、野党勢力を「党外」と表わした。

注8―これまでは、事実上の国民党の一党独裁だった。

注9―中央民意代表とは、国民大会代表、立法委員、監査委員を指し、

      まとめて国会議員に相当するもので、中国大陸時代の名残りがあ

       るものだった。

     現代アジアの肖像5経国と李登輝  大陸国家からの離脱?」

                      若林正丈   岩波書店   1997年 より  

注10―1990年シンガポールは中国と国交を樹立する。

注11―台湾史上初の直接総統選挙は1996年3月に行われ、李登輝

       (台湾独立派 国民党) 得票率 54.0%、彭明敏(台湾独立

        民進党)14.0%、林洋港(反台湾独立派)14・9%、

        陳履安(反台湾独立派) 10.0%と、台湾独立を掲げた李登

        輝の圧勝に終わった。

注12―世界の半導体生産地である新竹市も大きな影響を受けた。

<その他参考文献>

「台湾 四百年の歴史と展望」   

                     伊藤     中公新書    1993年

「台湾 ―人間性・歴史・心性―」

                     國輝    岩波新書    1988年

「中台関係史」       山本     藤原書店    1999年

「中国と台湾 統一交渉か、実務交流か―」

                      中川昌朗  中公新書    1998年

 

 

<李登輝 年表>

1923

誕生

1929

公学校入学

1935

淡水公学校尋常科卒業

1936

淡水中学へ進学

1940

台北高等学校入学

1943

京都帝国大学農業経済学科に入学

1946

台湾大学経済学部に編入

1947

共産分子として検挙される

1947

台湾大学経済学部卒業

 

曽文恵女史と結婚

 

夫人とともに台北の教会めぐり

1951

アイオワ州立大学へ

1954

台湾大学助教授

 

農林庁で経済分析係長に就任

1957

農村復興委員会に就職

1960

要注意人物として情報当局に逮捕

1965

コーネル大学で農業経済を学ぶ

1968

コーネル大学で博士号授与

1970

国連よりバンコクへ公演依頼をうけるが、

 

要注意人物のため出国できず

1971

蒋経国に認められ国民党に

1972

行政院政務委員長として農業経済責任者に

1978

台北市長に就任

1981

台湾省主席に就任

1984

第7代副総統に抜擢

1988

第7代総統に就任

 

国民党代理主席

 

総統としてシンガポール訪問

1989

第8代総統選に再選

1992

李登輝総統体制確立

1993

国連復帰にはじめて言及

1995

「一つの中国」という考えが台湾外交を阻害と発言

 

2・28事件を謝罪

 

コーネル大学で講演

 

ヨーロッパ訪問

1996

総統民選、勝利

1997

ダライ・ラマ訪台

1998

「台湾の主張」発売へ

1999

中国と「二国論」争い激化

 

台湾大地震

 
 

総統「緊急命令」発令