『波乱の歴史に翻弄された「ラスト・エンペラー」』
97E2024 天野 健太郎
幕開け
1906年2月7日清朝第二代醇親王載灃と満州正白旗人・爪爾佳氏栄禄の娘から生まれた男子、後に清朝最後の皇帝となる満州正黄旗人は「溥儀」と命名された。彼の祖父・醇賢親王は清朝第六代皇帝・道光帝の第七子で、父・載灃は醇賢親王第五子だった。溥儀が生まれた1906年の皇帝は醇賢親王第二子の載湉が伯母である慈禧太后(西太后)の命令により宮廷入した光緒帝であった。つまり伯父が皇帝という家柄に誕生した。名字は愛新覚羅。愛新は女真語(満州語)で黄金の意味、覚羅は古い家柄を示す。清朝では伝説上の祖先ブクリュンシュン以来の姓と称するが、事実はもと柊(とう)という姓で1616年太祖ヌルハチが後金国を建てた時、十二世紀の金国に縁付けようとしてこの姓を名乗ったと考えられる。
中国最後の王朝 清
満州族は嘗て十二世紀に金国を建てた女真族の後裔であり、中国の東北地方に住み明朝の間接的支配を受けていた。清朝創始者である太祖ヌルハチ(弩爾哈斉、奴児哈赤)が挙兵したのは1616年蘇子河畔ヘトアラ(興京)で国号を後金と称した。19年明は討伐の為大軍を動員するがヌルハチは得意の機動戦で大勝した(サイフの戦)。彼は数年で東北ほぼ全域を制圧、25年都を瀋陽に移し翌26年明の拠点寧遠城を攻めるが明軍の火器に敗れ、同年死亡。後を継いだ太宗ホンタイジ(皇太極)は始め兄、従兄らと四人共同統括を計ったが、36年単独でハン及び皇帝の位に就き国号を<大清>と改めた。やがてモンゴルや朝鮮を屈服させるが、明朝との戦争状態のままホンタイジは没し、彼の子福臨が即位し世祖順治帝に就く。この時明朝は政治的腐敗・経済的疲弊が頂点に達し、20年代に勃発した李自成の反乱は40年代に勢いを増し44年反乱軍が北京城を占拠、毅宗崇禎帝の自殺で明朝は滅亡し清朝が正統の王朝となった。この後聖祖康熙帝・世宗雍正帝・高宗乾隆帝の三代にわたり十八世紀末まで最盛期を迎える。清朝は一面では※八旗制度の様に満州族独特の制度を持ちその維持につとめたが、他方明朝の制度を大幅に継承する二重体制の国家でもあった。
最盛をうたわれた乾隆時代の終焉とともに勃発した白蓮教の反乱は清朝支配の基底を確実に動揺させたが、1846年のアヘン戦争は2000年の歴史を誇る中華帝国の崩壊の出発点となった。専制帝国を維持する為の鎖国制度が敗戦の後始末として締結された※南京条約によって崩され、中国は世界に向かって門を開くこととなった。いわゆる半植民地化の開始であった。ほとんど崩壊寸前だった王朝支配体制を建て直すべく、清朝政府は西太后新政とよばれる政治改革に乗り出さざるをえなくなった。
ラスト・エンペラー
1908年西太后と光緒帝の病が重くなると、溥儀は西太后の意によって宮廷に入った。溥儀の宮廷入りから2〜3日の間に西太后と光緒帝が相前後して亡くなり、旧暦11月9日満三歳にも満たない溥儀が遺言により清朝第十代皇帝として即位した。年号は宣統と改められ、父・醇親王が宣統帝の摂政王となった。摂政王載灃は袁世凱が足の病で歩行困難な事にかこつけて彼を故郷に帰し、自ら陸海軍の大元帥を代理し、弟の載洵と載濤をそれぞれ海軍大臣、軍諮大臣(参謀総長)に任命し、朝廷の権力を手中に集めた。
1911年、孫文らの指導する中国同盟会が辛亥革命をおこし翌12年2月12日、溥儀は袁世凱により退位を余儀なくされ、2月22日皇帝の称号を廃止せず宮中に住み毎年400万両を経費として支給されるという優待条件のもと退位を宣言し、267年続いた清朝の滅亡と同時に中国の2000年余り続いた皇帝制度に終止符を打った。南京では孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が誕生。その後北伐軍閥の巨頭袁世凱が革命派をおさえて大総統になり政権を握った。
1915年日本は中国に二十一か条要求をつきつけた。尚内容は次の通りである。
二十一ヵ条の要求 (抜粋)
第一号 山東省に関する件 第一条 支那国政府ハ独逸国カ山東省ニ関シ条約其他ニ依リ支那国ニ対シテ有スル一切ノ権利、利益、譲与等ノ処分ニ付、日本国政府カ独逸国政府ト協定スヘキ一切ノ事項ヲ承認スヘキコトヲ約ス
第二号 満州及び東部内蒙古に関する件 第一条 両締約国ハ旅順、大連租借期限竝南満州及安奉両鉄道各期限ヲ何レモ更ニ九十九ヶ年延長スヘキコトヲ約ス
第三号 漢冶萍公司に関する件 第一条 両締約国ハ将来適当ノ時機ニ於テ漢冶萍公司ヲ両国ノ合弁トナスコト竝支那国政府ハ日本政府ノ同意ナクシテ同公司ニ属スル一切ノ権利財産ヲ自ラ処分シ又ハ同公司ヲシテ処分セシメサルコトヲ約ス
第四号 沿岸不割譲に関する件 支那国政府ハ支那国沿岸ノ港湾及島嶼ヲ他国ニ譲与シ若クハ貸与セサルヘキコトヲ約ス
第五号 希望条項 懸案その他解決に関する件
一、中央政府ニ政治財政及顧問トシテ有力ナル日本人ヲ傭ヘイセシムルコト
三、…必要ノ地方ニ於ケル警察ヲ日支合同トシ、又ハ此等地方ニ於ケル支那警察官庁ニ多数ノ日本人ヲ傭ヘイセシメ以テ一面支那警察機関ノ刷新確立ヲ図ルニ資スルコト
第五条の希望条項を含めて、その内容は中国の主権を著しく侵すものであった。列国の批判もあって第五条は保留したものの、日本は軍事力を背景に5月9日この要求を強引に受諾させ、中国民衆はこの日を「国恥記念日」と呼んで激しい抗議行動を展開した。その後、日本は第四次日露協約や石井―ランシング協定を結び中国での権益を確保した。
1916年袁世凱の死後、軍閥混戦の中17年7月1日張勲が北京に入り突如復辟を実行し溥儀を復位させるがわずか10日余りで失敗に終わり7月12日溥儀は二度目の退位を余儀なくされた。
溥儀は1911年五歳から宮中で学問を始め儒教の古典を主に歴史や満州語を学び19年からはイギリス人ジョンストンから英語を学んだ。ジョンストンから西洋文明の一端を学んだ溥儀はやがて留学を思い描くようになる。22年12月満州正白旗人・郭布羅氏栄源の娘、婉容を皇后に、額爾徳特氏端恭の娘、文綉を淑妃として迎え翌23年3月紫禁城を脱出し国外雄飛を計画するが失敗。同年夏宮中に入った鄭孝胥と会い清朝復辟を願う彼に信頼をよせ意見を聞きながら復辟への財政的基盤作りの為、内務省の整理を手掛けるが失敗に終わる。第二次奉直戦争の最中1924年10月、馮玉祥による突然の北京における首都革命で清室「優待条件修正案」の突き付けにより溥儀は皇帝の尊号を廃され、紫禁城から追われ翌25年2月天津の日本租界に移り住むこととなる。天津で溥儀は復辟に向けて尚、事態打開の道を探り同年6月当時軍閥の大物将軍の一人であった張作霖に期待を寄せ面会し、奉天系の将軍の抱き込み工作に特に力を入れた。又、ロシア人セミョーノフの満蒙地域奪取計画にも期待し資金援助を行った。一方で日本との関係もさらに深めた。だが当時日本の首相であった田中義一は中国に対して積極政策をとり権益確保と日本人居留民保護を名目に27年、山東省に出兵。同年田中内閣は東方会議を開き「満蒙を日本人の安住の地にする事、同地方の特殊の地位と権益を守るためには武力行使も辞さない」方針を固め、満蒙を支配していた軍隊張作霖を利用しようとするが1928年6月関東軍が張を爆殺してしまう(張作霖爆殺事件)。溥儀は同年鄭孝胥を渡日させ復辟支援の対日工作を行う事を許し翌29年3月弟の溥傑と妹の婿・潤麒を日本に留学させた。後7月日本租界内の静園に移り住み31年には淑妃文綉と離婚。
康徳帝と溥儀
満州では民族主義の立場から国権回復運動が起こり、満州鉄道並行線の建設等の独占的経営への反発が強まり、又世界恐慌の影響から経営は悪化の一途をたどっていた。日本軍内部にはこのような動向に危機感を抱き「満蒙問題」を武力解決しようとする動きが高まり、政党・財閥・大新聞や民間右翼がこれに共鳴、「日本の生命線満蒙」の危機を高唱した。では何故満蒙は日本の生命線なのか、ある関東軍参謀の考え方はこうである。
政治的価値
一、「満蒙」はまさに、わが国発展のための最も重要な戦略拠点である。
二、朝鮮の統括は「満蒙」をわが勢力下におくことにより、はじめて安定するだろう。
三、わが国の実力をもって「満蒙」問題を解決し、断乎とした決意を示せば、日本は支那の統一と安定を促進して、東洋の平和を確保する事ができるだろう。
経済的価値
一、「満蒙」の農作物は、わが国民の食糧問題を解決することができる。
二、鞍山の鉄や撫順の石炭などは現在のわが重工業の基礎を確立するのに必要である。
三、「満蒙」における日本企業は、わが国現在の失業者を救い、不況を打開できるだろう。
なんと自分本意の意見であったか。
1931年9月18日夜、関東軍は奉天郊外で満鉄線路を爆破し、これを中国の行為だと主張し、張作霖の息子・張学良の軍隊を攻撃、翌日には奉天城を占拠する事件が起こった。世に言う柳条湖事件である。第二次若槻内閣は不拡大方針を唱えるが関東軍は計画的に戦線を拡大し、開戦半年後には満州の主要部分を占領した。これを満州事変と言い、日本と中国はこれより15年に及ぶ十五年戦争へと突入していくことになる。11月2日関東軍の奉天特務機関長・土肥原賢二と会見した溥儀は満州に帰り新国家の元首となる様要請される。11月10日溥儀はひそかに天津を脱出し18日旅順に入る。32年1月及び2月、関東軍参謀・板垣従四郎と会見し復辟でなく新国家「満州国」の執政となる旨を要請され、激怒するが後結局これを承諾する。同年3月1日満州国が成立し年号を大同、首都を長春(15日新京と改称)とする事が定められ、溥儀は暫定一年の条件で3月9日執務に正式就任した。しかし国政の実権は関東軍が掌握していた。3月10日に出された溥儀の関東軍司令宛書簡は次の通りである。
書簡ヲ以テ啓上候。此次満州事変以来貴国ニ於カレテハ満蒙全境ノ治安ヲ維持スル為ニ力ヲ竭サレ、為ニ貴国ノ軍隊及人民ニ均シク重大ナル損害ヲ来シタルコトニ対シ、本執政ハ深ク感謝ノ意ヲ懐クト共ニ今後弊国ノ安全発展ハ必ス貴国ノ援助指導ニ頼ルヘキト確認シ、茲ニ左ノ各項ヲ開陳シ貴国ノ允可ヲ求メ候。
一、 弊国ハ今後ノ国防及治安維持ヲ貴国ニ委託シ、其ノ所要経費ハ総テ満州国ニ於テ之
ヲ負担ス。
ニ、弊国ハ貴国軍隊カ国防上必要トスル限リ、既設ノ鉄道、港湾、水路、航空路等ノ管理竝新路ノ敷設ハ総テ之ヲ貴国又ハ貴国指定ノ機関ニ委託スヘキコトヲ承認ス。
三、弊国ハ貴国軍隊カ必要ト認ムル各種ノ施設ニ関シ極力之ヲ援助ス。
四、貴国人ニシテ達識名望アル者ヲ弊国参議ニ任シ、其ノ他中央及地方各官署ニ貴国人ヲ任用スヘク、其ノ選任ハ貴軍司令官ノ推薦ニ依リ其ノ解職ハ同司令官ノ同意ヲ用件トス。
前項ノ規定ニ依リ任命セラルヽ日本人参議ノ員数及ビ参議ノ総員数ヲ変更スルニ当タリ、貴国ノ建議アルニ於テハ両国協議ノ上之レヲ増減スヘキモノトス。
五、右各項ノ趣旨及規定ハ将来両国間ニ締結スヘキ条約ノ基礎タルヘキモノトス
大同元年三月十日 溥儀
この後1932年9月15日、日満議定書が取り交わされ満州国は日本の傀儡国家の色彩を濃くしていった。
日満議定書
一、満州国ハ将来日満両国間ニ別段ノ約定ヲ締結セサル限リ、満州国領域内ニ於テ日本国又ハ日本国臣民カ従来ノ日支間ノ条約、協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ権益利益ヲ確認尊重スヘシ
ニ、日本国及満州国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ、同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確認シ、両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルヘキコトヲ約ス。之カ為所要ノ日本軍ハ満州国内ニ駐屯スルモノトス
日満議定書は満州国における日本の一切の権益の尊重と、日満共同防衛のための日本軍の満州駐屯の二つの項目を主な内容とした。この二項のほかに、付属の秘密協定・文書があり、日本軍が満州国領域内で軍事行動上必要な自由・保障・便益を享有することを約し、また関東軍が任免権を持つ日本人官吏の任用、鉄道・港湾等の提供、航空会社の設立、鉱業権の設定等に関する協定が引き続き有効である事を確認している。※リットン調査団による報告書の提出をひかえ、日本の「満州国」承認を既成事実化するため調印が急がれたものである。満州国建国に当たる日本の理想は「王道楽土」と、日本・満州・中国・朝鮮・モンゴルの「五族協和」で、それをあらわす五色旗が国旗とされた。満州国は国務総理・各部大臣・地方省長に満人を当てたがしかし、実権は日本人官僚や関東軍がにぎり産業・国土開発は全て日本の手中に有り、特に満州重工業開発株式会社(満業)創立以来日本資本の進出は著しく、農業開発に日本の満蒙開拓青少年義勇軍が送られた。
1934年3月1日満州国は執政から帝政に移行し、年号は康徳と改められ溥儀は皇帝に就任、康徳帝となった。翌35年4月に初めて日本を訪れる。同年冬、弟の溥傑が日本留学から帰国する。溥傑が37年4月関東軍の勧めにより日本の華族出身であった嵯峨浩と結婚した事により溥儀の対日不信は強まるばかりであった。同年溥儀は譚玉齢を貴人(祥貴人)に迎えるが彼女は42年に急死する。関東軍が日本人の血を引いた帝位継承者を望んでいた事を察知していた溥儀は譚玉齢の死に疑い持ち、日本人を妃にという関東軍の勧めを断わり44年李玉琴を貴人(福貴人)として迎えた。皇帝となってからも溥儀に出来た事と言えば、以前の執政時と変わらず日本軍の意向に従ってその役割を演ずる事のみであった。1940年6月には二度目の訪日をし、帰満後は長春に建国神社を建てた。43年4月当時首相であった東条英機が渡満、溥儀は聖戦支援を明言した。
皇帝から市民へ
1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近で日中両軍の衝突事件が起こり(盧溝橋事件)さらに8月には上海でも両軍の衝突があり、9月中国で第二次国共合作が正式に決定したこともあり、日本は戦線布告の無いまま全面戦争へと突入していった。
1938年10月日本軍は武漢・広東作戦によって中国の主要都市をほとんど占領下においたが、しかし占領地は「点と線」(都市と鉄道沿線)にとどまっていた。中国戦線での打開策が無いまま日本軍はソ連に対しても仮想敵国視し1938年ソ連国境の張鼓峰で日本軍とソ連軍が衝突(張鼓峰事件)。翌年5月には満・蒙国境のノモンハンでソ連軍・モンゴル軍と関東軍が衝突(ノモンハン事件)日本の大敗に終わる。ノモンハン事件最中の8月、ヒトラー率いるナチスドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結し9月ポーランドを侵攻、結果9月3日第二次世界大戦が始まった。日本はドイツ・イタリアと三国軍事同盟を結んだ為、日米関係は悪化した。この事態を改善すべく日米交渉を行うが1941年12月8日、日本政府は開戦に踏み切り陸軍はイギリスの植民地であるマライ島北部のコタバル泊地に奇襲上陸し、海軍はハワイ真珠湾を奇襲した。同日日本政府はアメリカ・イギリスに戦線布告し太平洋戦争を開始した。開戦後日本軍は1942年5月までに香港・マライ半島・シンガポール・ビルマ・オランダ領東インド諸島・フィリピン諸島などを占領した。だが1942年6月日本海軍のミッドウェー海戦敗北、翌年2月ソロモン諸島ガダルカナル島からの撤退から日本軍は戦局の主導権を失いやがて日本本土に空襲を受け、いよいよ敗戦色が濃くなり1945年8月6日広島に世界初の原子爆弾が投下され、同月8日ソ連が日ソ中立条約をやぶり日本に戦線布告、9日には満州・朝鮮に侵入し関東軍を壊滅させた。同日長崎にも原子爆弾が投下された。天皇制維持の確証をめぐって敗戦の決断をのばしていた政府・軍部も8月14日、無条件降伏し翌15日正午、昭和天皇のラジオ放送という異例の手段で敗戦を国民に知らせた。日本の降伏と共に溥儀は満州国皇帝を退位する。19日、日本へ逃走する途中でソ連軍に捕えられ、チタからハバロフスクの収容所に送られここに5年間拘留される。この間の46年8月極東国際軍事裁判に出廷、日本人を非難する証言を行い日本との結託については自らの意向と認めなかった。
1950年ソ連から中国政府に身柄が引き渡され、撫順の戦犯収容所に送られたが10月末ハルビンに移される。翌1951年父・載灃が死亡。溥儀は自伝の執筆を始め、労働の傍らレーニンの「帝国主義論」などを学習した。
1954年3月撫順に戻され56年6〜7月に日本人戦犯の証人として瀋陽に出向く。翌57年李玉祥と正式に結婚、同年秋には石炭運びを58年には医療助手等の仕事に従事した。59年12月4日特赦となり同9日、35年ぶりに北京に帰る。
1960年中国科学院植物研究所の北京植物園に配置され、6月には日米安全保障条約反対運動に参加。11月26日晴れて中華人民共和国の選挙権を得て投票に参加した。つまりこの時点で溥儀は中華人民共和国の市民として認められたのである。61年3月全国政治協商会議文史資料研究委員会専門委員となり、翌62年看護婦の李淑賢と結婚。64年自伝「我的前半生」を出版する。同年11月政治協商会議全国委員会委員に選出される。この頃より身体に異常を覚え入退院を繰り返し、66年から始まった毛沢東率いる文化大革命の中で「我的前半生」も批判され心身ともに打撃を受ける。1967年10月11日、北京の人民病院で腎臓癌のため波乱に満ちた人生の幕を静かにおろす。享年61歳。
彼の人生は時代と歴史の大変革期にあり、自らも意思を持ち計画・実行するが時流には勝てずに流されてしまった。周囲の支配に抵抗を見せながらも結局は暗き道へと導かれ、やがて自由をその手にしたのは人生も終わりに近くなった齢53の時であった。皇帝という一見華々しい身分と思われがちだが、一つの時代が終わるとき成す術もなくただ滅び行くのを見守るのは当人にとって非常に残酷なものである。それでも事態打開に向け自分の信じるものに尽力した彼に私は敬意を表する。
※八旗制度…もともと狩猟の方式であり又戦闘体制でもある。八旗の基本単位はニル(牛彔。満州語で<矢>の意)とよばれ、騎馬兵10人で組織され、これに雑兵、農耕を担当する壮丁300人が所属する。1旗は25ニル、騎馬兵250人で組織される。皇帝が旗主である黄旗を最上位に紅・白・藍の4旗とその各色を縁取りした4旗で、黄旗2旗を除く6旗は、親王すなわちヌルハチ一族の子弟が旗主となり、それぞれ総官大臣1人、佐官大臣2人を置いた。各旗には旗地が配分された。ホンタイジの時代には、満州八旗の他にモンゴル八旗・漢軍八旗が増設されてあわせて24旗となったが、モンゴルと漢軍の16旗は皇帝に直属した。
※南京条約…1842年に調印。アヘン戦争の講和条約。香港の割譲、広州・上海など5港の開港、多額の賠償金支払い、協定関税制、片務的最恵国待遇、領事裁判権などを定めた不平等条約。
※リットン調査団…日本の満州侵略行動を非難した中国の提訴にもとづき国際連盟派遣の現地調査団。1932年1月発足、イギリスのリットン卿が団長、米・仏・独・伊各国委員からなる。3〜6月、日本・満州・中国を実情調査、報告書が10月に公表。
1906年2月7日 |
誕生 |
1908年11月9日 |
清朝第十代皇帝(宣統帝)として即位 |
1911年 |
辛亥革命勃発 |
1912年2月22日 |
退位 |
1917年7月1日 |
復位するが10日で退位 |
1923年3月 |
紫禁城脱出失敗 |
1924年10月 |
皇帝の尊号を廃される 紫禁城より追われる |
1925年 |
天津の日本租界張園へ |
1931年11月18日 |
旅順へ |
1934年3月1日 |
満州国皇帝(康徳帝)として即位 |
1935年 |
初訪日 |
1945年8月15日 |
日本軍の敗北により皇帝退位 |
19日 |
ハバロフスクの収容所へ |
1950年8月 |
ソ連から中国に身柄引渡し 撫順へ |
10月 |
ハルビンへ |
1959年12月4日 |
特赦 |
9日 |
北京へ帰る |
1960年 |
中国科学院植物研究所 北京植物園に配置 |
11月26日 |
中華人民共和国の選挙権を得て投票 |
1961年3月 |
全国政治協商会議文史資料研究委員会専門委員に |
1964年 |
「我的前半生」を出版 |
11月 |
政治協商会議全国委員会委員に選出 |
1967年10月17日 |
腎臓癌のため永眠 |
参考文献
世界大百科事典 1988年4月28日初版発行 1995年印刷 下中弘 平凡社
近代中国人名辞典 1995年9月1日発行 山田辰雄 近衛通隆 霞山
資料日本史 荒井裕晶・長田勝宏・西沢宏・平林明 星沢哲也 東京法令出版