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『遼東半島と日露戦争と日清戦争』


都築 尚子

 遼寧省は、旅順、大連、奉天(現在の審陽)、錦州、遼陽、撫順など、日清戦争・日露戦争・満州事変(「九・一八」事変)の舞台となった町が多くあり、日本と非常に関係の深い省である。日清戦争・日露戦争を通して、日本が遼東半島をどのように侵略していったのか、をみていきたいと思う。
 旅順は、日清戦争において激戦地となり、日本軍による「旅順虐殺」が行われた場所である。日清戦争は、一八九四年に朝鮮全土に起こった一揆、甲午農民戦争(東学党の乱)がきっかけとなって、日本と清朝の間で起こった。李朝(李氏朝鮮)を支配したい日本と、もともと朝鮮を「属国」とみていた清国との勢力争いが発端であった。
 一九八四年七月、日本軍は宣戦布告前に牙山・成観を奇襲し、宣戦布告後、九月平壌を攻撃し、同じ頃"黄海の海戦"が開始された。清国軍は、連戦連敗し、旅順に退却した。日本は講和をより有利に進める事ができるようにするため、旅順・大連の占領を進めた。朝鮮半島からは、退却する清国軍を追って、山県有朋を司令官とする第一軍が、北からは、乃木希助を前衛司令官とする第二軍が、黄海からは、大山巌を軍司令官とする新編成の第二軍が連合艦隊と協力して、一斉に旅順口を目指していた。
 旅順攻撃は、同年十月二十一日未明に始まった。この攻撃で両軍の砲撃は熾烈をきわめたが、午後には旅順市街の残敵掃討に入っていった。この時日本軍によって、一般の市民・婦女子に対する虐殺が行われた。この虐殺の模様は、多くの外国の海軍武官や新聞特派員が目撃しており、この事件は世界に報道された。現在、海軍武官や特派員の目撃談から推測して、その犠牲者は「三千名内外」ではなかったかとも言われているが、中国では「三万名」と推測している。現在、中国大連市旅順口区九三路二十三には、萬忠墓が建っている。
 旅順・大連占領の後、日本軍は山東半島に上陸して北洋海軍の基地威海衛を攻略、残っていた艦船を降伏させた。
 一八九五年下関条約が調印によって、日本へ軍事賠償金二億両(約三億円、清国の歳入の約二年半分)を七カ年以内に払うこと、旅順・大連を含む遼東半島を日本に割譲する事などが決められた。ところが、不凍港を求め、朝鮮・東北三省への進出をねらっていたロシアを中心とした、フランス、ドイツの三国によって遼東半島の返還が求められた(「三国干渉」)。日本は武力でロシアと対抗できる力はなかった。遼東半島は、清国が日本に還付の代償金三千万両(約四千五百万円)を払うということで、清国に返還されることになった。つまり、清国が日本から三千万両で遼東半島を買い戻したのである。
 ところが、旅順・大連を含めた遼東半島は、一八九八年にロシアによって占領、租借されてしまった。互いに朝鮮・東北三省侵略の野心を持つ日本とロシアは、その足がかりとなる遼東半島をめぐって対立を深めた。
 一九〇〇年義和団事件が起こった。天津で、義和団とこの反乱を支持した清朝に対して連合国が攻撃している頃、ロシアは密かに軍隊を増やして、東北三省を一挙に占領した。そして、遼東半島を関東省と名付け、旅順を実質的な省都にし、軍事基地化を押し進めた。ロシアは、鉄道の保護を名目に出兵していたが、義和団事件がおさまっても、東北三省を占領したまま撤退しようとしなかった。
 こうして、一〇九四年日本とロシアは遼寧省全域を巻き込んだ日露戦争に突入していった。
 遼寧省内では、特に遼陽、旅順、奉天( 陽)が大激戦地となった。一九〇四年八月二十八日、遼陽総攻撃が始まった。韓国の義州から対岸の九連城・鳳凰城を占領してきた第一軍、錦州・南州を占領してきた第二軍、新たに編成された第四軍は、三方向から遼陽に迫り、攻撃を開始した。戦闘は、ロシア軍の遼陽撤退で日本軍が勝利したのだが、六日間の戦闘は死闘の連続で、兵士は疲れきり砲弾も底をついていた。それに対してロシア軍は奉天の一大決戦を計画していたので、遼陽を整然と撤退していった。
 旅順港のロシア艦隊を壊滅させることを目的に、旅順攻略戦は始められた。第一回総攻撃は、八月十五日乃木希典の率いる第三軍によって始められ、旅順要塞への攻撃となった。乃木希典は、日清戦争において旅順要塞で清国軍と戦っていたが、当時とは違いロシア軍によって、鉄骨とコンクリートで造られた巨大な要塞に変わっていた。そのため、日本軍は6日間にわたって死傷者多く出し続けた。参加兵力五万余名にうち死傷者は一万五千余を数え、攻撃は断念された。そこで軍司令部は、港内砲撃に最適な二〇三高地を第二回総攻撃の目標とした。しかし、これもまた悲惨な結果に終わったため、再び第三総攻撃を旅順要塞正面に戻した。結果は多数の死傷者を出しただけとなった。次の総攻撃の作戦指導には総参謀長の児玉源太郎があたった。そこでやっと、日本軍は一進一退を繰り返しつつも二〇三高地を占領することができた。日本軍は山頂から港内を攻撃し、要塞を次々と占領していった。一九〇五年一月一日、第三軍は旅順市内に一斉砲撃を始めた。その二時間後ロシア軍指令部の屋上に白旗があげられ、翌一月二日に降伏交渉が行われ、百五十余日の旅順の戦いは終わった。
 奉天での戦いは奉天大会戦といわれ、日本軍二十五万名、ロシア軍三十六万七千名余の大軍同士の戦いとなった。戦力比は、日本が二に対しロシアは三で、圧倒的にロシアの方が勝っていた。しかし、一週間後ロシア軍の一部が退却し、日本軍は奉天占領に成功した。
 日本軍は日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅状態にし、完勝した。
 こうして、日本は日露戦争に勝利し、一九〇五年のポーツマス条約で、大連・旅順を含む遼東半島の租借権をロシアに変わって持つことになり、長春・旅順間の鉄道の諸権益を譲渡されることになった。
 しかしここで注意しておかなければいけないのは、このポーツマス条約で決められた権益の授受は、中国国内のことであるにも関わらず、清国政府抜きで勝手に決められたということである。従って、この諸権益の授受も清国政府の承認を条件とされた。
 しかし、この条件もあってないようなもので、戦後日本が清国と無理矢理結んだ「満州における日清条約」(北京条約)では、既定事実の他にもさらに多くの利権を提供させられた。また、清国は、この日露戦争で自国の領土を戦場とされ、人的・物的に多くの被害をうけながらも一言の抗議もできず、中立を宣言するほかなく、講和に際しても事後承諾を強要された。清朝の主権の喪失は、日露戦争によってまざまざと見せつけられた。そして、日本をはじめとして各国から、名目上の主権さえも無視された。
 日本は、こうして、東北三省の足がかりをつくった。ポーツマス条約締結後、日本政府は関東州(東北三省につけた別名)守備の軍隊や兵 業務、民政一般を統括する天皇勅令の関東総督府を設置し、総督府のもとに軍政署を置いて統治を始めた。一九〇七年には満鉄が営業を開始し、日本は、偽「満州国」建国に向けて動き出していく。

*注釈*
・甲午農民戦争(東学党の乱)
   …不正官僚の糾弾に端を発した反政府暴動。この暴動を鎮圧するため、日本軍と清国軍が朝鮮に駐留することになった。
・義和団事件
   …義勇兵団(義和拳とも呼ばれ、十万人の団員を持つと言われた宗教色の強い一種の民団)でもある義和団が、「扶清滅洋」すなわち欧米帝国主義打倒をスローガンに山東省で蜂起した事件。この背景には、日清戦争の日本への賠償金支払いのため税金が高くなったこと、欧米列強(日本も含む)列強が、租借地で自国の商品を中国市場にながしてきたために国内の零細な手工業が破壊されたこと、水害続きで農作物に大きな損害を被っていたことなど、住民は二重の困窮生活を強いられていた事があげられる。
・「満州における日清条約」(北京条約)
  …一九〇五年、日本側は、ポーツマスから帰ったばかりの小村寿太郎外相と駐清公使の内田康哉、清国側は袁世凱等他二人のあわせて三名で、北京で行われた。日本が清国の抵抗を押し切ってようやく調印にこぎつけた。日本は、ロシアが保持していた遼東半島南端の「関東州」の租借権を正式に引き継ぎ、東清鉄道の長春・旅順間、日本が日露戦争時に敷設した安東・奉天線(安奉鉄道)などの日本への譲渡が正式に決まった。

*参考文献*
・ 「中国現代史」(改訂版) 
     岩村三千夫・野原四朗著  岩波新書(青版)
・ 「中国の歴史 14 中華の躍進」  
     陳舜臣著  平凡社
・「図説 満州帝国」 
     太平洋戦争研究会著  河出書房新書
・「人民中国への道 新書東洋史五」
    小野信爾著   講談社
・「中国の歴史 8 近代中国」
   佐伯有一著   講談社