台湾(Tai Wan)kawai.gif (16951 バイト)
『独立との戦い』


河合 博之

台湾の地理的環境と原始社会
台湾島・ほうこ群島及びその近辺の諸島は、太平洋上の東南アジア地域に位置し、大小七九の島から成っている。総面積三五・六九一平方キロメートル、東西一四二キロメートルで、そのうち、台湾本島が九九パーセントを占めている。
地図で見ると、真ん中が膨らんで南北端が細くなっているので、ちょうどサツマイモが太平洋上に漂っているようであるのが特徴である。
台湾の最も早い、第一の主人は五千年前つまり新石器時代にすでに台湾で生活を営んでいた。これらの人々はいったいどこから来たのであろうか。現在有力視されているのは、台湾がどこかと陸続きの頃歩いてやってきたという説である。地質学的に台湾は華南地方とつながっていたと推測されている。
一九九〇年には二千万人を超える人口を有しており、およそ千七百万人の漢族系台湾人と二十万以上のマラヤーインドネシアン系原住民の台湾人から成っている。

オランダ人の南部入植
大航海時代を経たヨーロッパの海洋諸国は、すでに東アジアでの拠点を求めて互いに争う時代に入っていた。ここにオランダが登場する。
オランダ人が最も早く目を付けたのは、やはりルソン島であった。そこはしかし、スペイン人が先に占拠し、オランダ人に付け入る隙を与えなかった。次に目を付けたのはマカオであった。ところがここもポルトガル人がすでに占拠し、要塞を構築している。オランダ人は六隻の艦船を擁してマカオ攻略に向かった。だが、ポルトガル人の要塞を抜くことはできなかった。オランダ艦船は海洋に逃れた。その時、同乗していた漢人の通訳で、ほうこ島の存在を教える者があった。艦船はほうこ島に向かった。
明朝政府は、当初、これを重視していなかった。だが、上陸したオランダ人がそこに軍営や住居を築き、永住の構えを見せ始めたことを知り、軍を整え交渉に入った。
オランダ艦隊は彼我の戦力に差のあることを覚り、この時はしぶしぶ撤退に応じた。しかしオランダ人はほうこ島を諦めたわけではなかった。一六六二年、オランダ人はこんどは一七隻から成る大艦隊を擁してほうこ島に突如上陸し、漢人移住民や漁民千五百人を要塞構築にかりたて、このうち千三百人が病餓死し、生存者や更に調達された男子二百七十人が奴隷としてバタビアに送られ、航海中に半数が死に、目的地に着いたのは百三十七人だったといわれる。
明朝政府は一六二四年、ようやくほうこ島に兵を入れた。勢力は明軍が勝っており、八ヶ月におよぶ交戦の末ようやくオランダ軍は降伏した。しかしここで政府はとんでもない過ちを犯した。ほうこ島から撤退し、台湾を占拠することに異議を唱えないとする協定を結んだ。オランダ人の中世台湾支配の幕開けであり、五千年の歴史を持つ中国社会とは異なる新しい台湾社会のスタートである。
後の一六六一年オランダ軍は清朝によって撤退させられることになる。

忍び寄る日本の足音
台湾が なる人物の時代、一八九四年、日本の年号では明治二七年、五月に朝鮮半島で「東学党の乱」が発生し、日清両国は出兵して八月にはそれが日清戦争へと発展した。この時 は台湾の防備を固めるどころか本国に帰ってしまった。後を受けたのは
の配下であった であった。戦場は朝鮮半島から遼東半島にかけてであり、台湾が直接戦場になることはなかった。
台湾の住民に、日清戦争が戦争としてのある程度の実感をともなったのは、皮肉にも李鴻章が清国全権として下関におもむき、日本の伊藤博文首相らと講和談判を開始してからであった。第一回会議が開かれてより三日後、日本軍がほうこ島に上陸して三日間の戦闘でそこを占領したのである。
ほうこ島陥落より四日後、伊藤博文と李鴻章との間に休戦協定が成立したが、その休戦の範囲に台湾は含まれていなかった。台湾は動揺した。しかしこの後、清朝は台湾に対し講和会議の経過を隠蔽した。そして休戦協定より十八日後、台湾にとっては寝耳に水の下関講和条約が締結された。その第二条に「清国政府は日本に遼東半島、台湾、ほうこ列島を割譲する」とある。台湾住民は、ただただ愕然とするばかりであった。

台北の混乱と台湾民主国
台湾の治安はじりじりと悪化の方向をたどっていた。そのような時、台湾に朗報がもたらされた。ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉の発生である。日本の大陸進出を警戒したロシアが独仏を誘って、日本へ遼東半島を清国へ返還せよと迫った。台湾の有力者たちは、この干渉を台湾にも誘致しようとした。しかし、三国干渉は遼東半島のみに限定されていた。それでも北部の有力者らは、数ヶ月でも戦って持ちこたえれば、干渉してくる国もあろうと考え、総統に を担ぎ、独立宣言を行った。もはや清廷とは関係なく、一個の独立国として列強と手を結ぼうというのである。その国名を'台湾民主国'といった。軍隊としては海軍力はすでになく、旧清国正規兵の約三万五千人と、各有力者に率いられた台湾現地の義勇兵約十万人である。なお、この時期の台湾総人口は一八九五年の『台湾通志』によれば、二百五十四万六千人であった。

日本統治の始まり
明治二十年八月十五日正午、台湾でも終戦を告げる玉音放送が聞かれた。
玉音放送より約半月後の九月二日、日本国全権の重光葵外務大臣がマッカーサーに詔書を手交し、降伏文書に署名した。これにより終戦の法的手続きは整い、即日、GHQは日本に対し、「中国、台湾および北緯十六度以北の仏領インドシナにある日本国の先任指揮官、ならびに一切の陸上、海上、航空及び補助隊は蒋介石総統に降伏すべし」という一般命令
第一号を出した。台湾は「中華民国台湾省」となった。

始まった李登輝の時代
一九八八年、当時総統であった蒋経国の突然の死去が報じられ、憲法第四十九条の規定に従い、李登輝副総統が総統に昇格した。この波紋は大きかった。国民は台湾が根本的に変化するであろうことを感じ取り、新総統による変化への期待は高まった。
李登輝総統は台湾の外交が「中華民国体制」という旧来の建前論から「実務外交」へ移行する端緒となるものをつくり、その第一歩として一九八九年、シンガポールを公式訪問した時、シンガポールは「中華民国総統」の呼称を使用せず、「台湾から来た総統」と表現した。これについて李登輝総統は「中華民国は一つの独立した主権国家である」と主張した。このころから独立へ向けての戦いが始まったといってよいだろう。

はてしなく遠い両岸問題
李登輝総統は就任演説で「平和と寛容は、対立と恨みを解きほぐす唯一の手段」と述べ、「中華民国は本来から主権国家である。海峡両岸は民族と文化の間に問題は存在しない。存在するのは制度と生活方式における争いのみである」と、台湾が争点とするところを示した。あくまでも対等の立場における交渉を望み、台湾における中華民国政府は常に「中国は現在分裂・分治の状態にあり、海峡両岸に二つの異なる政治実態が存在する」と主張している。
だが北京は「一つの中国」を標榜し、台湾にも香港形式の「一国二制度」を適用すると主張し、台湾を「対等の政治実態」として認めようとせず、あくまでも台北当局を中華人民共和国の「一地方政府」と見なす姿勢を崩していない。そして台湾の実務外交や台独世論の高まりを、「二つの中国」あるいは「一つの中国、一つの台湾」への動き、つまり「祖国分裂」活動として武力の使用すらほのめかしているのである。
こうした北京の動きに対し、李登輝は「台湾は『中華人民共和国』の一省であると主張しているが、この種の理論を我々は絶対に受け入れることはできない」と言明し、「我々は両岸関係の安定を望んでおり、両岸双方はそれぞれに経済発展と政治改革を含む各種の改革を進めるべきである」と強調した。
台湾海峡両岸の道程は、はてしなく遠く険しく、これからも両岸双方にとって厳しい試練が続いていくであろう。

台湾トリプル選挙と二〇〇〇年総統選挙に向けての争い
行政院直轄により中央任命制であった台湾省主席と台北・高雄両市長の民選が正式に決定されたのは、一九九四年七月七日公布による「省県自治法」と同七月八日公布の「直轄市自治法」においてである。この三大地方自治首長の民選実施は、台湾の民主化が一段と進んだことを意味する。
台湾省長と台北・高雄両市長の選挙は一九九四年十二月三日、告示は十一月八日であったが、実質的には各党とも法令発布の時よりすでに選挙戦に入っていた。国民党は、省長に現台湾主席の を立てて中央と省の連携を強調し、「安定」と「安全」をスローガンに有利な戦いを展開していた。これに対し民進党は立法委員の陳定南を立てたが、公共施設や総合的な開発プロジェクトなど具体的な施設においては国民党におよぶものではなかった。新党も立法委員の朱高正を立てた。結果は国民党の が当選した。
台北市長戦では、国民党は現職市長の黄大洲を立てていたが、これがかえって台北市内の交通渋滞、新交通システムの設計ミスや工事の遅れなどを自陣営の悪材料としていた。一方、民進党は陳水扁を立て、また新党も趙少康を立てた。結果は陳水扁が当選し、民進党の市長が誕生した。
高雄市は、国民党は現職市長の呉敦義、民進党は立法委員の張俊雄、新党は弁護士の湯阿根を立て、戦いは省長戦と同様の展開を見せていた。結果は国民党の呉敦義が当選した。
国民党にとって台湾省と高雄市では順当であったが、台北市で新党にも敗れたのは大きなショックとなり、党内で党改革を叫ぶ声をいっそう強めた。
四年後の今年、一九九八年十二月五日、二〇〇〇年の総統選挙の行方を占う統一選挙(台北・高雄市長選、立法委員選)が行われた。台北市長選では、現職市長の陳水扁と与党・国民党から出馬した馬英九元法務部長、高雄市長選では、現職市長の呉敦義と民進党の謝長廷の一騎討ちとなった。結果は、馬英九が台北市長の座を奪い取った。高雄市長選では、民進党の謝長廷が市長の座を獲得した。
これは国民党にとって、総統・副総統に向かっての前進であるが、一方民進党にとってはエースである陳水扁が敗れたことで次期総統選挙での政権交代の夢は遠のいた。

馬英九のプロフィール
甘いマスクに高学歴。若い女性層に抜群の人気を誇る国民党のネオニューリーダーの一人。党の専従幹部の家庭に生まれ、七二年に台湾大学を卒業。米国に留学してハーバード大で法律の博士号を取得した。
八一年に帰国後、故蒋経国氏時代の総統府で副局長、秘書を務めた。その後、行政院の大陸委員会副主任などを経て九三年から二年間法務部長を勤めたが、辞任し兼任していた政治大学での助教授職に専念していた。
本籍は中国の湖南省。ジョギングが趣味の四八歳。