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マイケル・ムーアの執念と50万人反ブッシュ大デモ@NY
ボストンで聞いたもう一つの講演は、有名なドキュメンタリー映画『華氏911』 (Fahrenheit
9/11)の監督として名を馳せたマイケル・ムーア(Michael Moore)であった。2000年大統領選でゴアの支持者だったムーアは、打倒ブッシュに執念を燃やしていた。会場で接した彼の勇猛な風貌と豪快な笑い声は『三国志』の中で曹操を憎み続けた猛将・張飛を思い出させる。
(写真:マイケル・ムーア@民主党大会, Boston, 2004年7月27日, 李春利撮影)
『華氏911』は、ムーアが2004年に発表した、アメリカ同時多発テロ事件へのブッシュ政権の対応を批判するドキュメンタリー映画であり、2004年大統領選ではブッシュの大統領再選を阻止する目的で公開された。いわゆるネガティブ・キャンペーンの一環でもある。この映画は01年9月11日の同時多発テロ事件をめぐり、ブッシュとビンラディン家を含むサウジアラビア王族との密接な関係を描き、ブッシュ政権を批判する内容となっている。04年、カンヌ国際映画祭で最高賞パルム・ドールを受賞し、各国でヒットとなる。日本でも全国で公開された。
その後、ムーアはブッシュ批判のボルテージを上げていく。そのピークは04年8月29日にニューヨークで行われた反ブッシュ50万人大デモ(Dump Bush’s
demonstration)である。5番街でスタートした50万人大行進の先頭に、ムーアはイラク反戦のために柩を担いだ行列の前頭に立ち、1960年代のベトナム反戦運動を呼び起こすほど迫力満点だった。
(写真:反ブッシュ50万人大デモ@New York, 2004年8月29日, 李春利撮影)
その日、私はちょうどワシントンからニューヨーク経由でボストンに戻る途中だった。偶然ながら、ニューヨークでこの世紀の大行進に遭遇した。昼食後、日曜日なのに繁華街の5番街が通行止めになったことに気がついたものの、まさか50万人の大デモとは想像もつかなかった。後で知ったのだが、今回のデモは情報化時代にふさわしく、インターネットや携帯メールを通じて呼びかけた結果、数百のNPOやNGO、各種政治団体、市民団体がいわゆる反ブッシュ・イラク反戦の連合体が作りあげられ、雪だるま式にデモ隊が膨れあがっていった。
なかでも特に印象的なのは、若者の参加が多いことだった。日本とは違って、若者たちの政治への参加意識が強く、進んで選挙ボランティアをする人が多い。ボストン民主党大会の現場で実際目撃したことだが、ある地方からの参加者が「フィラデルフィアで選挙キャンペ-ンを行うので、往復交通費だけ提供するから、ボランティアを募集している」と呼びかけたところ、さっそく多くの若者たちが集まってきた。草の根民主主義の凄さを感じた瞬間だった。
バラク・オバマの初舞台@ボストン
民主党全国大会2日目の7月27日、一人の若い政治家が全米の注目を集めた。大統領選と同時に行われる上院議員選挙に出馬予定のイリノイ州からのバラク・オバマだった。聞きなれないこの若者の登場に会場はざわめいていた。彼は当時まだ43歳だった。
大会のメイン会場であるフリートセンターには入場できないものの、ボストンにおける民主党支持派の総本山であるハーバード大学ケネディ行政大学院の大ホールで大会の様子が一部始終ビッグスクリーンで生中継されていた。
だが、そこにも大きな看板を掲げた共和党支持者がいた。看板には「ケリーは最高司令官にふさわしくない」(Kerry is not a
commander)と書かれており、まわりの民主党支持者からの罵声を浴びながら看板をしっかりと持ち続けている。単騎、敵地に突入したこの勇者には、思わず脱帽した。軍の指揮ができないという意味の、民主党大統領候補に付きまとうこの耳痛い言葉は、共和党陣営の作戦であると同時に、実は民主党のアキレス腱でもあったのだ。
ハーバード大学では、私は経済学部とビジネススクール両方の授業を聞いていたので、家からビジネススクールに行く途中、必ずケネディスクールの正門前を通る。そこに選挙期間中にこの看板を掲げて一人突っ立っているお年寄りをしばしば見かけた。通りかかる人は、彼に罵声を浴びせる。それをまったく気にせず、まるで托鉢の高僧のようにただそこに突っ立ったまま。アメリカ型民主主義に秘められた情熱と社会的公正の一面を垣間見たような気がした。
(写真:ケネディ家の支持を取り付けたオバマとエドワーズ・ケネディ上院議員、ウィキペディア)
ジョン・ケネディの名前が冠されているだけに、重要なイベントにはその弟であるエドワーズ・ケネディ上院議員がよく出席していた。また、ジョン・F・ケネディ・ジュニア・フォーラムと名づけられた公開講演会では、外国の元首や大臣など世界中の著名人がよく講演していた。
例えば、現台湾“総統”である馬英九の演説をそこで聞いたことがある。馬英九もオバマ夫妻と同じくハーバード大学ロースクールの出身である。ロースクールは自分の家から歩いて5分もかからないところにあったので、そこの広々とした図書館を愛用していた。
オバマに運命の転機が訪れたのは民主党大会の一ヶ月前だった。イリノイ州を遊説中に、民主党大統領候補ケリーの選対本部長から電話がかかってきた。彼らはカリスマ性があって感動的な演説ができる人物を探していた。電話を切った後、オバマは興奮気味に言った。
「自分のこれまでの人生を壮大なアメリカの物語の一部として話したいんだ。」
かくして、7月27日の夜、政界では無名に近いオバマは、民主党全国大会のメインの基調演説者になった。文字通りのダークホースだった。
「この舞台に立てたことは名誉です。普通ではありえないことです。
私の父は、ケニアの小さな村から来た留学生でした。母はカンサスの町で生まれました。」
母親は中西部で育った。彼女にとってオバマの父は予想外の世界から現れてきた人物だった。彼女はハワイ大学のロシア語のクラスでアフリカから来た留学生と出会った。
「両親は困難の多い愛を貫き、この国から与える可能性を信じました。」
二人はすぐに結婚した。8月にオバマが生まれた。1961年のことである。黒人の父バラク・オバマ・シニアと白人の母アンの物語である。
ストーリー性と民族融和、国民融和はオバマの一貫した政治戦略である。彼はこの初舞台の時から自分のユニークさとアイデンティティを十分に意識していた。1995年出版の自伝“Dreams from
My Father”(和訳『マイ・ドリーム』)の中でオバマは次のように書いている。
「(当時)白人と黒人の結婚はアメリカの半数以上の州ではまだ重罪だった。南部だったら、母をじっと見つめていたというだけで、父は縛り首になっていただろう。」
時代背景はそのとおりである。1960年代の公民権運動は、20万人の参加者を集めた1963年8月に行われたワシントン大行進で最高潮に達した。この時、マーティン・ルーサー・キング牧師がリンカーン記念堂の前で “I Have a
Dream” という歴史に残る名演説を行い、人種差別の撤廃を訴え、幅広い共感を呼んだ。公民権運動の結果、1964年7月に民主党のジョンソン大統領が公民権法(Civil Rights
Act)に署名した。これにより、建国以来200年近い間、アメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げることになった。
オバマが3歳の時だった。彼は語り続ける。
「私の人生はアメリカの壮大な物語の一部であり、私は先人たちに借りがあります。ほかの国だったら、私はここまで来ることができません。」
「全ての人は生まれながらにして平等であり、自由、そして幸福の追求する権利を持つ」という独立宣言を行った国、アメリカ合衆国だからこそ、自分のような人生があり得たのだ、と彼は述べた。
ざわめいた会場は静まり返った。
「私はここで言いたい。リベラルなアメリカも保守のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。黒人のアメリカも白人のアメリカも、ラテン系のアメリカもアジア系のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。」
(I say to them tonight, there is not a liberal
America and a conservative America — There is the United States of America.
There is not a black America and a white America and Latino America and
Asian America — there's the United States of America.)
「イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”なのだ。」「私たちは皆、星条旗に忠誠を誓い、ともにアメリカ合衆国を守っているのです。」
(We are one people, all of us pledging allegiance
to the stars and stripes, all of us defending the United States of America.)
会場は沸き返っていた。拍手喝采が鳴りやまなかった。泣いていた人もいた。妻のミシェルも涙を流していた。歴史が作られる瞬間だった。
オバマは国民にメッセージを投げかけた。
(写真:2004年11月2日、妻ミシェル、娘のマリア、サシャと一緒に上院選の結果を待つ
オバマ候補@シカゴ【AFP=時事】http://www.jiji.com/jc/v?p=presidential-election08)
われわれは共和党や民主党の一歩先を行こう。私はイデオロギーだけでなく、従来あった人種的な分断を乗り越えてみせる。そして自らのメッセージを体現してみせるのだ。
黒人政治家として初の民主党大統領候補になったジェシー・ジャクソンは立ち上がって拍手した。彼は公民権法施行後に代表的な黒人活動家となり、キング牧師らと親交を持った。
ヒラリー・クリントンも立ち上がって拍手した。この時、彼女は4年後の民主党大統領候補選でオバマと死闘を繰り広げることを予想したのだろうか。この大会では、ヒラリーは公式な演説者としてではなく、夫のビル・クリントン前大統領を紹介する役柄として登壇した。
会場にいるみんなが立ち上がって拍手と喝采を送り続けた。その模様が全米に広く中継されるとともに、オバマ人気が一夜にして一気に高まった。
「彼は出世する。タイガー・ウッズのように…」
「約束も分断も超越する人物」
「彼は初の黒人大統領になれる人物」
全米のマスコミはこの希望の新星の誕生に祝福を送り続けた。
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