中国・イギリス・香港

99e2053 稲田 和典

l                  歴史

ヨーロッパと中国の貿易は16世紀以来行われてきた。しかし茶と絹に対するヨーロッパ人の需要が増えるに従い、銀での支払いを求められ、完全な輸入超過である貿易バランスはヨーロッパ人にとって次第に耐え難くなってきた。 1773年、イギリスは最初にインドのベンガル産阿片70トンを、中国に船下ろしした。そして中国人の阿片吸引者は瞬く間に増えていった。銀の中国からの流出と阿片中毒者の増加に警戒して、清朝皇帝は阿片貿易を禁止した。しかしイギリスは腐敗した中国官僚の助けを得て阿片貿易を継続した。 1839年、清朝皇帝の命を受けた欽差大臣、林則徐は、広東に赴きイギリス商人の保管している阿片2万箱以上を没収し、廃棄した。そして阿片の輸入を禁止した。これに対してイギリスは、1840年、報復として軍艦10数隻を派遣し、中国沿岸を攻撃した。これが阿片戦争である。イギリス軍は広東(今の広州)やいくつかの港を封鎖した。そして清朝を脅迫した。イギリスは中国に香港島を永久に譲渡するよう圧力をかけた。清朝はイギリスに停戦を申し入れた。しかし最終的に両者の合意は破れ、1841年、イギリスは、厦門、寧波などを占領した。 この結果、1842年、清朝はイギリスと南京条約を結び、香港島のイギリスへの永久割譲、広東、上海などの開港、賠償金の支払いなどを強いられた。1859年、イギリスとフランスの連合軍が中国を侵略した。1860年、北京に進撃した。そして中国に北京条約を結ばせた。それにより、イギリスは九龍半島南部を永久譲渡させた。1898年、イギリスは香港島での彼らの利益を守るために必須だと考え、新界地区などの99年間の租借権を得た。第二次世界大戦前、香港は 中継貿易から製造業へ次第にシフトし始めていた。この動きは1920年代の中国内戦、1930年代の日本の侵略によって、中国の資本家たちが植民地の安全な境界へ逃れてから加速した。 1941年12月、香港は日本軍によって占領された。日本軍は弾圧支配と貨幣の代わりの軍票を乱発した。それによりインフレが起こり、また食糧不足による餓死者まで出た。1945年、香港の日本軍はイギリスに降伏した。日本の敗戦後、その軍票は無価値となったが、日本政府はいまだなんの補償もしていない。朝鮮戦争の間、アメリカは中国の物資を禁輸措置にし、中国貿易の拠点である香港は干上がりそうになった。このため香港の製造業のキャパシティは増加し、銀行、保険などのサービス産業が発展した。 1949年、中国本土で共産党が国民党を打倒し中華人民共和国が樹立された。この時多くの資本家が香港に避難した。また文化大革命の間、香港では反英暴動が起こった。イギリスは、当初1997年新界の租借権がきれる時には、九龍と香港島からなる植民地を維持しようとした。しかし中英交渉の過程で中国の強行姿勢を知り、香港の全植民地を返還することに決定した。 1984年9月、イギリスと中国の香港返還交渉は、中英共同宣言で結実した。 1984年11月19日、イギリスは中国に対して香港を1997年7月1日に返還する文書に調印した。共同声明の中で中国は、香港の社会経済システムとその生活様式を尊重する旨確約した。 香港は、1997年7月1日、中国に返還され、返還後少なくとも50年間は現在の資本主義制度-社会、経済、法律制度を維持すること(一国二制度)などで合意した。しかし現実的には、中国の政治方針はいつ変更されるか解らないという不安を感じている人々が多い。1990年、中国の全人代(全国人民代表者会議)は、香港の憲法とも言える「香港特別行政区基本法」を採択した。1997年7月1日、香港はイギリスから中国に返還され、中華人民共和国香港特別行政区となった。

l                  中国の一国二制度

150年以上の英国植民地支配が終わり、香港は中国に復帰する。中国の「一国二制度」が香港、中国、アジアに大きな繁栄を生み出すと信じている。

返還前は、中国へ復帰した後の香港の将来について、楽観論、悲観論が交錯していた。社会主義と資本主義の共存が一つの国の中で可能か、言論の自由などが返還後も保障されるか、中国が国際社会に開かれた国であるのか、香港返還はその試金石であった
 香港そのものが持つ信頼性こそが、香港成長のカギである。その信頼性は株式市場や不動産市場の強さに表れている。国内だけではなく国際社会も香港に信頼を寄せる。最近の調査では、香港に拠点を構える外国企業の90%以上が、金融システムや税体系などに魅力があるとの理由から、返還後も香港に残るという。香港特別行政区が誕生した時、中国政府は、50年間不変の「高度の自治」を保障した。しかし、住民のなかには、言論の自由や繁栄が将来も保障されるのか、不安に思っていた人々もいた。あらゆる種類の集会、デモも開かれている。中国政府は、復帰前の香港の国際的な地位の維持のために政治的な配慮をしているようだ。香港は中国の経済改革の中心的役割を担う一方、中国の成長を支える国際金融センターとして繁栄を続けている。香港ビジネスが中国に徐々に広がることこそ、中国を世界経済に組み入れる最良の手法だ。また、香港の経済成長を支える様々な条件を維持すること自体が香港の持続的発展を保証しよう。
 

l                  また1997年以降の中英関係はどうなったのか?

  200125日中国を訪問中のイギリスのRichardCaborn貿易産業相は、イギリスは中国の世界貿易機関(WTO)への早期加盟を支持すると述べた。
 同貿易産業相の訪中は今回で2回目。今回の訪中の主な目的は、西部地域の投資環境の視察。同貿易産業相は、イギリス政府は中国の西部大開発戦略を支持しており、双方がこの分野でより幅広く協力することを期待していると述べた。
 中国税関の統計によると、2000年の中英二国間貿易高は99億米ドル(前年同期比約26%増)。昨年末までに、イギリス企業による対中投資プロジェクトは2800件以上、投資金額は契約ベースで169億米ドル、実際に使用された額は88億米ドルに上る。イギリスはEU加盟国の中では中国にとって2番目の貿易相手国であり、最大の対中投資国でもある。

l                  まとめ

 香港という地域が中国にとって重要な場所である事をあらためて知りました。またイギリスとの関係もよく、中国はイギリスと様々な分野でより協力する事により、お互いの国がよりすばらしいものになるのではないかと思います。これからの中国・香港・イギリスを見ていきたいなとおもいました。

l                  英中関係史年表

1829

アヘン吸飲禁止令公布

1834

イギリス政府がイギリス東インド会社の貿易独占権を廃止

1839

アヘン戦争勃発

1842

南京条約が調印される

1856

アロー号事件が起こる

1858

イギリス・フランスと天津条約を結ぶ

1860

北京条約締結

1886

英清条約締結

1922

イギリス、不当な英蔵軍事協定を結ぶ

1930

イギリスが、ネパール軍を挑発し、チベットに侵入させる

1949

中華人民共和国成立

1951

チベット平和解放17条協約調印

199771

香港返還

参考文献

l                  ゼミ論集

l                  人民日報 200126日(http://www.peopledaily.co.jp/j/i/2001/02/06/koku0004.htm

l                  History of Hongkonghttp://www.eastedge.com/hongkong/history.html

l                  アジアの未来 リー・クアンユー氏 (上級相/シンガポール)
http://www.nikkei.co.jp/topic/asia/16lee.html