近代経済思想史資料

(1)ホッブズからの引用

1.    ホッブズの自然法思想  (ホッブズ著永井道雄・宗片邦義訳『リヴァイアサン』中央公論社より)

(自然状態)

社会状態の外では、各人の各人に対する戦争状態にある。

 (戦争状態)

すなわち《戦争》とは、戦いつまり戦闘行為だけではない。戦いによって争おうとする意志が十分に示されていさえすれば、その間は戦争である。戦争の本質を考察するにはしたがって、天候の本質を考察する場合と同じく「時間」の概念を考慮しなければならない。悪天候とは一度や二度のにわか雨ではなく、雨の降りそうな日が何日も続くことであるように、戦争の本質は実際の戦闘行為にあるのではない。その反対へ向かおうとする保証のまったく見られない間は、それへの明らかな志向がすなわち戦争である。その他の期間はすべて《平和》である。

(自然権とは何か)

著作家たちが「ユス・ナトゥラレ」と一般に呼んでいる《自然権》とは、各人が自分自身の自然すなわち生命を維持するために、自分の力を自分が欲するように用いうるよう各人が持っている自由である。したがって、それは自分自身の判断と理性とにおいて、その為にもっとも適当な手段であると考えられるあらゆることを行う自由である。

 (基本的な自然法)

つぎのことは、理性による戒律ないしは一般法則である。「各人は望みのある限り、平和を勝ち取るように努力すべきである。それが不可能の場合には、戦争によるあらゆる利益と援助を求め、かつ此れを用いてもよい。」この法則の第一の部分は、最初の、しかも基本的な自然法を含んでいる。すなわち、「平和を求め、それにしたがえ。」第二の部分は自然権の要約であるが、それは「可能なあらゆる方法によって、自分自身を守れ」である。

(2) ロックからの引用

(A)経済的自由主義ジョン・ロック 『統治論ニ論』(1689年)、中央公論社昭和43年。

自然の状態)

「それは、人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態である。」(194)

(戦争状態)

「他人に暴力を用いたり、そういうもくろみを宣言する者があっても、救助を訴えるべき共通の優越者が地上にいない状態、それが戦争状態である。」(203)

 (所有の発生)

「大地と人間以下のすべての被造物はすべての人々の共有物であるが、しかしすべての人間は、自分自身の身体に対する所有権を持つている。これに対しては、本人以外の誰もどんな権利も持っていない。彼の身体の労働とその手の働きは、まさしく彼のもであるといってよい。そこで、自然が準備し、そのままに放置しておいた状態から、彼が取り去るものは何であれ、彼はこれに自分の労働を混合し、またこれに何か自分自身のものを付け加え、それによってそれを自分の所有物とするのである。」(208-209)

 (私有財産の不平等の発生)

「しかし、金や銀は、食物や衣服や乗り物に比べると、人間の生活にとってほとんど役に立たず、ただ人々の同意によってのみ価値を持つものだからーーただしこの場合でも、労働が概してその価値の尺度となるのであるがーー、人々が大地の不釣り合いで不平等な所有にも同意したということは明らかである。なぜなら、金や銀は所有者の手中においていたんだり、腐ったりしないために、誰にも害を与えずに貯蔵できる。そこで、土地生産物の過剰分と交換にそれらを受け取ることによって、人は、自分だけではそこからの生産物を利用しきれないほどの土地を正当に所有する方法を、暗黙の自発的な同意にによっては、発見したからである。」(223)

 (政治社会の起源)

「人がその生来の自由を放棄し、市民社会の拘束を受けるようになる唯一の方法は、他人と合意して一つの共同社会に加入し、結合することであるが、その目的は、それぞれの所有物を安全に享受し、社会外の人に対してより大きな安全性を保つことを通じて、相互に快適で安全で平和な生活を送ることである。この合意はどれだけの数の人によっても可能である。なぜなら、そのことによって他人の自由を侵害することはないからである。」(232)

 (政治社会の目的

「したがって、人々が他の人々と結合してが国家を作り、統治に服そうとする場合の大きなそして主たる目的は、彼らの所有物〔生命、自由、および資産〕の保全ということである。自然の状態においては、そのための多くのものが欠けているのである。」(271)―-ーー法、裁判官、権力がない。

 (立法権者の義務)

「したがって、国家の立法権、すなわち最高の権力を握るものは誰でも、国民に公布され周知のものになっている、確立した恒久的な法で統治を行う義務があり、にわか仕立ての法令によって統治を行ってはならない。また彼は、公平で正直な裁判官を用いるべきであり、裁判官たちはこれらの法で紛争を裁定しなければならない。そして共同社会の力の行使は、国内においては、このような法律の執行にのみ限られ、まだ対外的には、外敵から被る害悪を防いだり、その補償したりし、共同社会を侵入や侵略から守るために用いられるべきである。そしてこれらのことはすべて、国民の平和、安全、および公共の福祉以外の他のどんな目的にも向けられてはならないのである。」(274)

(B)ジョン・ロックの市民社会論

(自然の状態)

政治的権力を正しく理解し、それがよってきたところをたずねるためには、、すべての人が自然の姿でどのような状態にあるかを考察しなければならない。すなわちそれは、人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態である

戦争の状態)

人々が理性にしたがって一緒に生活し、しかも彼らの間を裁く権威を備えた共通の優越者を地上に持たない状態、此れこそまさしく自然の状態である。此れに対し、他人に暴力を用いたり、そういう目論見を宣言するものがあっても、救助を訴えるべき共通の優越者が地上にいない状態、それが戦争の状態である。そして例え攻撃者が社会の中に居り、同胞である臣民であっても、こういう訴え場所がない場合は、人にはその攻撃に対する戦争の権利が与えられる。

(社会状態を求める理由)

この戦争の状態[そこでは天以外に訴えるところがなく、相争う人々の間を裁定する権威がないので、どんな小さな意見の相違でも破滅の状態に陥りがちなのだが]を避けることが、人々が社会の状態へと向かい、自然の状態を破棄する一つの大きな理由である。というのは、地上に権威なり権力なりがあり、それに訴えればそこから救済が得られるところでは、継続する戦争の状態は取り除かれ、紛争はその権力によって裁定されるからである。

(労働所有権論)

大地と人間以下のすべての被造物はすべての人々の共有物であるが、しかしすべての人間は、自分自身の身体に対する所有権を持っている。これに対しては、本人以外の誰もどんな権利も持っていない。彼の身体の労働とその手の働きは、まさしく彼のものであるといって良い。そこで、自然が準備し、そのままに放置しておいた状態から、彼が取り去るものは何であれ、彼はこれに自分の労働を混合し、またこれに何か自分自身のものを付け加え、それによってそれを自分の所有物とするのである。そのものは、自然によっておかれた共有の状態から、彼によって取り去られたものだから、この労働によって他人の共有権を排除する何かがそれに付け加えられたことになる。というのはこの労働は労働した人の疑いも無い所有物なのであるから、少なくとも(自然の恵みが)共有物として他人にも十分に、そして同じようにたっぷりと残されている場合には、ひとたび労働が付け加えられたものに対しては、彼以外のだれも権利を持つことができないのである。

(貨幣の使用)

このようにして貨幣の使用が始まった。それは損ずること無しに人々が保存できる何か耐久性のあるものであり、人々が相互に同意することによって、真に役に立つが、しかし腐敗しやすい生活必需品と交換に受け取るものである。

(人間の自然権)

思うに、自然の状態においては、他人に無害の楽しみを味わう自由の他に、人間は二つの権力を持っている。

 第一は自然の法の許す範囲内で、自分自身と他人の保全のために適当と思うことは何でもして良いと言うことである。この人類全体に共通の法によって、全人類は一つの共同社会となり、他のすべての被造物とは別個の一つの社会を作っている。そしてもし堕落した人々の腐敗と邪悪が無ければ、このほかにはどのような社会も不要だろうし、また人々がこの偉大な自然の共同社会からはなれ、明文の同意によってもっと小さく分裂した集団に結合する必要も無いのである。

 人間が自然の状態において持っているもう一つの権力は、自然の法に背いて犯された罪を処罰する権力である。以上の二つの権力は、人が、もしそう呼んで良いなら、私的な、あるいは個別的な政治社会に加わり、又他の人々から別れて別個の国家を作る場合には、放棄されるのである。

(権力者の義務)

たがって、国家の立法権、すなわち最高の権力を握るものはだれでも、国民に公布され、周知のものとなっている、確立した恒久的な法によって統治を行う義務があり、俄仕立ての法令によって統治を行ってはならない。又彼は、公平で正直な裁判官を用いるべきであり、裁判官たちはこれらの法に従って紛争を裁定しなければならない。そして共同社会の力の行使は、周囲においてはこのような法律の執行にのみ限られ、また対外的には、外敵から被る害悪を防いだり、その補償をしたりし、共同社会を侵入や侵略から守るために用いられるべきである。そしてこれらのことはすべて、国民の平和、安全、及び公共の福祉以外の他のどんな目的にも向けられてはならないのである。

(革命権)

支配者の側に大きな失策があっても、多くの不正かつ不都合な法が制定されても、また、人間の弱さがもとでどんな過失があっても、国民は反抗もせず、不平もこぼさずに堪え忍ぼうとする。しかし、もし長期にわたる一連の悪政や言い逃れや策謀が、すべて皆同じ方向をたどり、それによって支配者のたくらみが国民の目に明らかなものになると、国民は自分たちがどんな隷属状態にあるかを感じ、自分たちがどこに進みつつあるかを悟らないわけには行かない。そこで彼らが決起して、最初、統治が樹立されたときのその目的を、自分たちのために確保してくれそうな人々の手に支配権を移そうとするのは、別に不思議なことではないのである。

(抵抗権)

統治の目的は人類の福祉にある。それならば、国民が常に専制の際限の無い意志にさらされている場合と、支配者がその権力を乱用するようになり、それを国民の所有物の保全にではなく、その破壊に用いるときには、彼は時として、抵抗を受けざるを得ないという場合とでは、どちらが人類にとって最上の福祉と言えるであろうか。

   (3) ルソーからの引用

ルソーの『社会契約論』

(所有、不平等の発生)

「一言で言えば、人間は、ただ一人で成しうる仕事や、多くの人の協力が必要でない技術だけに従事していた限り、その本性が許す限りにおいて自由、健康、幸福に生き、そして相互に、独立を保っての交渉の楽しさを享受しつづけた。しかし、一人の人間が他人の援助を必要とするや否や、二人分の蓄えを一人占めするのが有用なのに気がつくや否や、平等は消滅し、所有が導入され、労働が必要となった。そして、広大な森林は美しい原野に変わり、その原野を汗を流して耕さねばならなくなり、やがてそこに収穫とともに隷従と貧困とが芽生えて成長するのが見られることとなった。」(『人間不平等起源論』)

 (不平等の進化)

「これらのさまざまの変革の中に不平等の進歩をたどってみれば、法律と所有権との成立が、その第一の時期であり、為政者の職の設定が第二の時期で、第三の最後の時期は合法的な権力より専制的な権力への変化であるたことが見出されるであろう。そのようなわけで、富者と貧者の状態が第一の時期で認められ、強者と弱者の状態が第二の時期によって、そして第三の時期によっては、主人と奴隷の状態が認められるのであるが、この第三の時期が不平等の最後の段階であり、他のすべての時期が結局は到達する時期であって、ついにいくつかの新しい変革が政府を完全に分解するか、またはこれを合法的な制度に近づけるにいたるのである。」(『人間不平等起源論』、中央公論社版、178

 (不平等の最後の段階)

「ここは不平等の最後の到達点であり、循環を閉じて、我々が出発した点に触れる究極の点である。ここではすべての個人は再び平等となる。というのは彼ら無であっで、家来にはもはや主人の意思のほかに何の法律もなく、主人には自分の情念のほかに何の規制もないので、善の観念と正義の原理は再び消え失せてしまうからである。つまりここでは、すべてがただ最も強い者の法律だけに、したがって新たな自然状態に還元されてのであるが、この自然状態が我々の最初に始めた自然状態と異なる点は、後者が純粋な自然状態であるのに対して、前者過度の腐敗の結果だということである。そのうえこの二つの状態の間にはほとんど相違がなく、そして政府の契約は専制主義によって破棄されているので、専制君主は自分が最も強い者である間だけしか主人ではなく、人々が彼を追放できるようになるや否や、彼はその暴力に対して少しも抗議することができないのである。」(『人間不平等起源論』、中央公4論社版、182

 (社会契約の必然性)

「人間は自由なものとして生まれた。しかも至るところで鉄鎖の中にいる。他人の主人であると思っているような人も、実はその他人以上に奴隷なのだ。どうしてこの変化が生じたのか。私は知らない。何がそれを正当化できるか。私はこの疑問は解き得ると思う。

 もし、私が力とそれに由来する結果しか考えないとすれば、私は次のように言うだろう。『ある人民が服従を強いられ、また服従している限り、それも良い。人民が束縛を振りほどくことができ、またそれを振りほどくや否や、それは一層良いことなのだと。なぜなら、人民は、支配者が人民の自由を奪ったその同じ権利によって、自分の自由を回復するのであるから、人民は自由を取り戻す資格を持っているか、それとも人民から自由を奪う資格は誰にもなかったかのどちらかだからである。』しかし、社会秩序は神聖な権利であり、他のすべての権利の基礎として役立つ。しかしながら、この権利はけっして自然に由来するものではない。だからそれは約束〔合意、コンバンション〕に基礎を置くものである。これらの約束がいかなるものであるかを知ることが、問題なのだ。」(『社会契約論』、第1編、第1章)

 (社会契約について)

「要するに、各人は自己をすべての人に与えながら、しかも誰にも自己を与えない。そして、自分が譲り渡すのと同じ権利を受け取らないいかなる構成員も存在しないのだから、人は失うすべての等価物を手に入れ、また持っているものを保存するためのより多くの力を手に入れる。

 だから、社会契約からその本質に関わらないものを取り除くと、それは次の文言に帰着することがわかるだろう。『われわれの各々は、身体とすべての力を共同して一般意志の最高の管理の下に置く。そしてわれわれは団体〔政治体〕の中で各構成員を、全体の不可分の一部分として受け取るのだ。』」(『社会契約論』、第6章)

 (社会契約によって人間の得るもの)

「・・・人間が社会契約によって喪失するものは、その生来の自由と、彼の心を引き、手の届くものすべてに対する無制限の権利とである。これに対して人間の獲得するものは、社会的自由と、その占有する一切の所有権とである。この相殺計算を誤るらないように、個人の力だけ制約されている生来の自由を、一般意意志によって制限を受ける社会的自由から明白に区別すること、力の結果にすぎないか、もしくは最初の占有者の権利にすぎないか、そのいずれかである占有を、明確な権限に基づいて初めて確立される所有権から明白に区別するが必要である。/前に述べたことに基づいて、社会状態において得たものには、精神的自由を加えることができよう。精神的自由のみが、人間を真に自己の主人たらしめる。」(『社会契約論』、中央公論社版、246

 (基本契約の特徴ーー全社会組織の基礎)

「・・・それは、基本的契約は自然的な平等を破壊するものではなく、むしろ反対に、自然が人間の間に与えた肉体的不平等に道徳的合法的平等を置き換えるという点と、また体力や才能においては不平等の可能性があっても、人間は契約と権利によって、すべて平等であるという点とである。」(『社会契約論』、中央公論社版、249

(一般意志)

「前に確立した諸原則から生じる、第一の最も重要な結果は、一般意志のみが、公共の福祉という国家設立の目的に従って、国家の諸力を指導しうるということである。なぜなら、もし多くの特殊利益の対立が社会の建設を必要としたとすれば、その建設を可能にしたのも同じ利益の一致であるからである。社会的紐帯を形成するものは、この種々の利益のなかにある共通なものである。」(『社会契約論』、中央公論社版、249)

 (公共の福祉の内容)

「あらゆる立法体系の目的であるべき、すべての人々の最大の福祉が、正確に言って、何から構成されているか追及するならば、(自由)と(平等》という二つの主要対象に還元されるのがわかるだろう。ここに自由をあげるのは、個人が従属する場合はすべて、国家という政治体からそれだけの力が奪われるからであり、平等をあげるのは、自由は平等がなければ存在しないからである。)(『社会契約論』、272)

 (政治体の意志と力――政府)

「そこ〔政治体〕にも同じように力と意志との区別があって、意志は〈立法権〉とよばれ、力は〈執行権〉と呼ばれている。この両者がともに働くのでなければ、何事も行われないし、あるいは行われてはならない。・・・・それでは、政府とは何であろうか。それは臣民と主権者とのあいだに設けられて相互の連絡をはかり、法の執行と、社会的・政治的自由の維持とをつかさどる中間的団体である。」(『社会契約論』、中央公論社版、276)

 (政治的結合の目的――良い政府とは)

「政治的結合の目的は何か。いわく、構成員の保存と繁栄である。構成員が自己保存と繁栄を保っているという、最も確かな特徴は何か。いわく、その員数であり、人口である。」(『社会契約論』、中央公論社版、302)

 (直接民主制の根拠)

「主権は代表されえない。その理由は、主権を譲渡することができないのと同じである。主権は、本質的に一般意志のなかにあって、しかも一般意志は決して代表されないものである。一般意志はそれ自体であるか、さもなければ別のものであって、その中間はありえない。」(『社会契約論』、中央公論社版、312)  

 (4) スミスからの引用

スミス『国富論』(1776年)

(富と経済学)

「すべての国民の年々の労働は、年々消費するあらゆる生活の必需品や便宜品を本来その国民に供給するファンドであって、そうした必需品や便宜品はつねにその労働の直接の生産物であるか、あるいはその生産物で他の諸国民から購入されるものである。したがって、この生産物またはそれで購入されるものとそれを消費するべき人々の数との割合が大であるか小であるかに応じて、その国民は必要とするあらゆる必需品や便宜品を十分にまたは不十分に供給されていることになる。しかし、この割合は、どの国民においても、二つの異なる事情によって、すなわち、第一にその国民の労働が一般に適用される際の熟練、技巧、判断力によって、第二に有用な労働に携わる人々とそうでない人々との数の割合によって、規制されずにはいない。ある特定国民の土壌や気候や郷土の広さがどうであろうとも、その年々の供給が豊富であるか乏しいかは、そうした特定の情況において、それら二つの事情に依存せざるを得ないのである。分業の結果として同数の人々が行い得る仕事の量がこのように大いに増加するのは、三つの異なる事情による。すなわち、第一に、すべての職人それぞれの技巧の増大に、第二に、ある種類の仕事から別の種類の仕事に移る際に通常失われる時間の節約に、そして最後に、労働を容易にし、省略し、一人で多人数の仕事が出来るようにさせる、多数の機械の発明によるのである。」

 (諸階級の利害)

「あらゆる国の土地と労働との年々の生産物全体、あるいはこれと同じことであるが、この年々の生産物の価格総額は、土地の地代と労働の賃金と資本の利潤との三つの部分に自然に分割され、地代で生活する人々と賃金で生活する人々と利潤で生活する人々という三つの異なる階層の人々の収入をなす。これらの人々はあらゆる文明社会を本源的に構成する三大階級であって、彼らの収入から他のどの階層の収入も引き出されるのである。

これらの三大階層の第一のものの利益は、いまし方述べたことから分かる通り社会の全般的利益と緊張かつ不可分に結びついている。一方を促進または阻害するものは、すべて、必然的に他方を促進または阻害する。公共社会が商業または治安に関する規制について審議する時、土地所有者たちが彼ら自身の特定階層の利益を促進しようとする考えから公共社会を誤り導くことは、少なくとも彼らがその利益について一応の知識を持っている限り、決してありえないことである。じっさいには彼らは余りにもしばしばこの一応の知識を欠いている。これら三つの階層の中で、彼らは自分の収入のために労働も配慮も費やすことなく、その収入がいわばひとりでに、彼ら自身の計画や企図とは無関係に入ってくる唯一の階層である。

 第二の階層の利益、すなわち賃金で生活する人々の利益も、第一の階層のそれと同じように緊密に、社会の利益と結びついている。労働者の賃金は、労働に対する需要が引き続き上昇しているとき、すなわち、使用される労働の量が毎年かなり増大している時ほど高いことはない。社会のこの実質的な富が静止的になると、労働者の賃金はまもなく彼が家族を養育するのにかろうじてたりるところ、すなわち、労働者という種族を存続させるのにかろうじて足りるところまでひきさげられる。社会が衰退する時には、賃金はこれ以下にさえも下落する。所有者の階層は社会の繁栄によっておそらく労働者の階層よりも利得するであろう。だが社会の衰退によってこれほどひどい苦しみを受ける階層はないのである。しかし労働者の利益は社会の利益と緊密に結びついてるとはいえ、労働者は社会の利益を理解することも、社会の利益と自分自身の結びつきを理解することもできない。彼の生活状態のために、必要な情報を受け取るための時間は彼に残されていないし、たとえ十分な情報を得たにせよ、彼の教育と習慣のために、彼は判断を下すには適さなくなってしまっているのである。したがって、公共社会の審議においては、彼の叫び声が彼の使用者によって、彼のためではなく使用者のために鼓舞され、煽動され、支持されるような,ある特定の場合を別とすれば、彼の声はほとんど聞いてもらえないし、まして尊重してもらえないのである。彼の使用者は第三の階層、すなわち利潤で生活する人々の階層をなす。あらゆる社会の有用労働の大部分を活動させるのは利潤を目的として使用される資本である。資本の使用者たちの計画や企図が労働の最も重要な働きのすべてを規制し方向づけるのであり、利潤がそれらすべての計画や企図の目指す目標なのである。ところが利潤の率は、地代や賃金のように社会の繁栄とともに上昇し、衰退とともに下落しない。逆に、それは富んだ国では低く、貧しい国では高いのが当然であり、また最も急速に破壊しつつある国では常に最高である。したがって、この第三の階層の利益は、社会の全般的利益に対して、他の二つの階層の利益と同じ結びつきを持つものではない。」

 (生産的労働と不生産的労働)

「労働には、それが投下される対象の価値を増加する種類のものと、そのような効果を持たない種類のものがある。前者は、価値を生産するのだから、生産的と呼び、後者は不生産的と呼んで良い。こうして製造工の労働は、一般に、彼が加工する材料の価値に対して、彼自身の生活費の価値と彼の親方の利潤を付け加える。反対に、召し使いの労働は何の価値も付け加えない。製造工は彼の賃金を彼の親方から前払いしてもらうとはいえ、実際には、親方にとって何の費用もかからない。その賃金の価値は、一般に、製造工の労働が投下された対象の増大した価値で、利潤を伴って、回収されるからである。ところが、召し使いの生活費は決して回収されない。人は多数の製造工を使用することによって富み、多数の召し使いを使用することによって貧しくなる。」

 

(5) ベンサムからの引用

ベンサム『道徳および立法の原理序説』(1789)(中央公論社、世界の名著38)

 (功利性の原理)

「自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。我々が何をしなければならないかということを指示し、また我々が何をするだろうかを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。一方において善悪の基準が、他方においては原因と結果の連鎖が、この二つの王座につながれている。」(21)

 「功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、または同じことを別の言葉で言い換えただけであるが、その幸福を促進するように見えるか、それともその幸福に対立ように見えるかによって、すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。私はすべての行為といった。したがって、それは1個人のすべての行為だけではなく、政府のすべての政策をも含むのである。」(82)

「したがって、ある行為が社会の幸福を増大させる傾向が、それを減少させる傾向より大きい場合には、その行為は〔あの社会全体について〕功利性の原理に、短くいえば功利に適合しているということができる。」(83-84)

 「ある政府の政策〔それは特定の個人、または人々によってなされる、特定の種類の行為にほかならない〕は、前の場合と同様に、社会の幸福を増大させる傾向が、それを減少させる傾向より大きい場合には、功利性の原理に適合している、または功利性の原理の指図を受けているということができる。」(84)

(苦痛と快楽との四つの制裁sanctionまたは源泉)

「快楽と苦痛とがそれから流れ出すことがつねである源泉には、四つの区別される源泉があり、それらは別々に考慮される場合には、物理的、政治的、道徳的及び宗教的源泉と名付けられる。そして、そのおのおの源泉に属する快楽と苦痛とが、行為の何らかの法則または基準に拘束力を与えることができる限り、それらはすべて制裁と名付けることができる。」(109)

「以上の四つの制裁のうち、物理的制裁こそが、政治的、道徳的制裁の基礎であり、現世に関係を持つ限りおいて、宗教的制裁の基礎でもあることが認められる。」(112)

 (快楽と苦痛の種類)

「人間性が感じうる単純な快楽とは、次のようなものであると思われる。(1)感覚の快楽、(2)富の快楽、(3)熟練の快楽、(4)親睦の快楽、(5)名声の快楽、(6)権力の快楽、(7)敬虔の快楽、(8)慈愛の快楽、(9)悪意の快楽、(10)記憶の快楽、(11)想像の快楽、(12)期待の快楽、(13)連想に基づく快楽、(14)解放の快楽。」(117)

 「若干の単純な苦痛とは次のようなものであると思われる。(1)欠乏の苦痛、(2)感覚の苦痛、(3)不器用の苦痛、(4)敵意の苦痛、(5)悪名の苦痛、(6)敬虔の苦痛、(7)慈愛の苦痛、(8)悪意の苦痛、(9)記憶の苦痛、(10)想像の苦痛、(11)期待の苦痛、(12)連想に基づく苦痛。」(117)

(立法者と刑罰)

「立法者が主として左右することができる刺激的な社原因は、有害な行為であり、それを防止することが立法者の仕事である。もう一つは刑罰であり、立法者は刑罰の恐怖によって、有害な行為を防止しようと努力しなければならない。これら二つの刺激的な諸原因のうち、後者すなわち刑罰だけが立法者が生み出すものであり、それは部分的に立法者自身の特殊な命令により、また部分的には立法者の命令に従う、裁判官の特殊な命令で生み出されるのである。

したがって、立法者も裁判官も、自分の目の前に、一方では感受性に影響を与える若干の諸事情の目録を、他方では自分たちが利用しようと思う刑罰の種類と程度の目録をおいて、その二つを比較することによって、問題となっているそれぞれの事情の、それぞれの種類と程度の刑罰に対する影響を、詳細に測定しなければならない。」(145−146)

 (政府の仕事)

「政府の仕事は、刑罰と報償によって、社会の幸福を促進することである。政府の仕事のうち、刑罰に関する部分は、特に刑法の対象である。ある行為が社会の幸福を阻害する傾向が大きければ大きいほど、その傾向が有害であればあるほど、その行為が呼び起こす刑罰の必要は大きいであろう。」(148)

 (刑罰の考察)

「刑罰について検討されるあらゆる問題について、次の四つのことが考慮されればならない。(1)なされた行為そのもの。(2)その行為がなされた際の諸事情。(3)その行為にともなったと思われる意図。(4)その行為に伴ったと思われる意識、無意識または虚偽意識。」(149)

 (快楽と苦痛の目録に対応する諸動機の目録)

「社会的の動機の分類には、(1)好意、(2)名声への愛、(3)親睦の欲望、(4)宗教が数えあげられてあろう。反社会的の動機の分類には、(5)不愉快が、自己中心的な動機には、(6)肉体的欲望、(7)金銭的欲望、(8)権力へのあり、(9)自己保存ーー感覚の苦痛の恐怖、安逸への愛及び生命への愛ーーが挙げられるであろう。」(196)

「以上のさまざまな動機のうちで、好意はその命令が、一般的にみれば功利性の原理に最も確実に一致する動機である。なぜならば、功利性制の命令は、最も広範囲の、そして開明的な(すなわちよく熟慮された)慈愛の命令にほかならないからである。」(196)

 (法律の目的)

「すべての法律の目的は、社会の幸福を総計を増大させ、害悪を除去することである。またすべての刑罰はそれ自体としては害悪であり、功利性の原理によれば、より大きい害悪を除去する限りおいて承認される。」(206)

 (刑罰を科すべきでない場合)

「(1)刑罰を科する根拠がない場合。(2)刑罰の効果がない場合。(3)刑罰が不利益な場合。(4)刑罰の必要がない場合。」(206−207)

 (刑罰と犯罪との均衡)

「13の規則を挙げている。そのうちの主なものは、次のとおりである。

1.刑罰の価値は、いつでも犯罪の利益の価値を圧倒するのに十分なものでなければならない。1.犯罪の害悪が大きいほど刑罰は厳しくしなければならない。1.2つの犯罪が競合する場合には、大きい方の犯罪に対する刑罰は、犯罪者に小さいほうの犯罪を選ばせるのに足りるものでなければならない。1.各犯罪者に実際に刑罰を科す場合には、犯罪者の感受性に影響与える諸事情が考慮されればならない。1.刑罰の価値が犯罪の利益を上回るようにするために、刑罰の確実性が欠けている場合には、刑罰を重くしなければならない。」(207)

(6)J.S.ミルからの引用

ジョン・スチュアート・ミル

(John Stuart Mill,1806−1873)

主著

『論理学体系』A System of Logic,1843

『経済学原理』Principles of Political Economywith some of their Applications to Social Philosophy,1848

『自由論』On Liberty,1859

『功利主義論』Utilitarianism,1861

 『自由論』On Liberty,1859

『世界の名著38 ベンサム、J.S.ミル』中央公論社、昭和42

(主題)

「この論文の主題は・・・市民的ないし社会的自由である。すなわち、社会が個人に対して当然行使してよい権力の性質と限界と、問題にするのである。」(215

(目的)

「この目的は、用いられる手段が、法的刑罰という形の物理的力であれ、世論という道徳的強制であれ、強制と統制という形での個人に対する社会の取り扱いを、絶対的に支配する資格のある、一つも非常に単純な原理を主張することである。その原理とは、人類が、個人的にまたは集団的に、誰かの行動を自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛だということである。すなわち、文明社会の成員に対し、彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人に対する危害の防止である。」(224

(人間の自由の固有の領域)

「第一は、意識という内面の領域であって、それはもっとも広い意味での良心の自由、すなわち、思想と感情の自由、実際的、思索的、科学的、道徳的、神学的なあらゆる問題についての、意見と感情の絶対的自由を要求するものである。/第二に、この原理は、嗜好の自由を、職業の自由を要求する。我々自身の性格にあった生活のプランを立てる自由、・・・。/第三に、各個人のこのような自由から、同一の制限の範囲内ではあるが、個々人の間の団結の自由が生じる。・・・これらの自由が、全体として尊重されていない社会は、その政治形態がどんなものであろうと、自由ではない。また、これらの自由が、絶対的かつ無条件に存在しない社会はどんな社会も、完全に自由だとはいえない。」(228

 (思想と討論の自由)

「もし一人を除いたすべての人が同意見で、唯ひとりの人間がそれに反対の意見を持っているとしても、人類がその一人を沈黙させることが不当なのは、その一人が力をもっていて人類を沈黙させるのが不当なのとまったく同様である。・・・意見の発表を抑えることの持つ特有の害は、それが全人類から(幸福)を奪うという点にある。・・・」(232

「人々は、何を信じようとも、正しく信じることが第一に重要である問題に関しては、少なくとも普通の反対意見に対しては、自己を擁護することができなくてはならない。」(255

「ある真理を、反対者に説明したり弁護したりしなければならぬことが、真理を知的に生き生きと理解するための大きな助けとなるのだが、この助けを失うことは、その真理が一般に認められるという利益を、帳消しにはしないまでも、それを少なからず減じてしまうものである。」(265

「我々は今や、四つの明白な根拠に基づき、意見の中の自由と意見の発表の自由が、人類の精神的幸福にとって必要である、と認めた。/第一、もしある意見が沈黙を強いられるとしても,ことによったら、その意見は正しいかもしれない。・・・/第二、沈黙させられた意見が、たとえ誤謬であるとしても、それは真理の一部を含んでいるかもしれないし、また実際含んでいることがごく普通である。・・・/第三、たとえ一般に受け入れられている意見が、真理であるのみならず真理の全体であるとしても、それが精力的にかつ熱心に論争されることを許されず、また実際論争されるのでない限り、それは、その意見を受け入れている人々のほとんどよって、その合理的な根拠についてはほとんど何の理解も実感もなしに、偏見のような形でいだかれることになるであろう。・・・第四、もし自由な討論がなければ、教説そのものの意味が、失われるか弱められるかして、人格と行為に与えるその重要な効力を奪われてしまう、という危険にさらされることになるであろう。」(275-6

(幸福の一要素としての個性)

「知覚、判断、識別感情、精神活動、倫理的好悪も含めた人間の諸能力は、選択という行為をする際にのみ訓練される。何事であれそうするのが習慣だからと言ってする人は、何の選択もしない。彼は最善のものを見分けたり望んだりする練習ができない。肉体的能力と同じように精神的道徳的能力も、使われることによってのみ向上する。ただ、他の人がするから,する言うのでは、これらの能力は少しも訓練されない。それはちょうどある事柄を、他の人々がそれを信じているという理由だけで信じるのと同様である。」(282

「自己の生活設計を、自分の代りに、世間や自分自身が属している世間の一部が選ぶのに任せる人は、猿のような模倣能力のほかにはどんな能力も必要としない。自分自身で生活設計を選ぶ人は、彼のすべての能力を使用する。」(282

 (個人に対する社会の権威の限界)

「・・・ある人の行為のどの部分かが、他人の利益に有害な影響与えるや否や、社会はこれを裁く権利を持つものであり、それに介入することによって全体の福祉が増進されるかいなか、という問題が議論の対象となるのである。/しかし、ある人の行為が彼自身以外の誰の利益にも何らの影響も与えないとき、あるいは彼らが望まなければ影響を与える必要のないときには,・・・このような問題の入る余地はない。そのような場合にはすべて、その行為をなし、その結果の責任を負う完全な自由が、法的にも社会的にも、存在していなければならない。」(301-2

「私が強く主張するのは次のことである。すなわち、人の行為と生活の内で、自分自身の幸福に関係するが、彼と他の人々との関係において他人の利害に影響を及ぼさぬような部分に対して、人が被らなければならない不便は、もしあるとしても、他人の好意的でない判断と緊密に結びついているような部分のみである。他人にとって有害な行為は、これとはまったく別個の取り扱いを必要とする。他人の権利の侵害、彼らに与える損失・損害で行為者自身の権利によっては正当化できぬのもの、彼らとの取引における詐欺や裏切り、他人の弱みに不正無慈悲につけこむこと、また、危害から彼らを守ることを利己心のために差し控えることでさえ、これらすべての行為は、道徳的非難の正当な対象であり、重大な場合には、道徳的報復ないしは刑罰の正当な対象となる。」(304-5

「要するに、個人ないしは公衆に対する明白な損害または明白な損害の恐れがあるときはいつでも、その問題は、自由の領域の外へと取り出され、道徳や法の領域の中におかれのである。」(309

 (自由を放棄する自由はない)

「人々を、第三者の権利をおかすような契約を守る義務はないのみならず、その契約が彼ら自身にとって有害であるということが、彼らをその契約から解除するための十分な理由であると時々みなされる。たとえば、我が国はその他の大部分の文明国では、人が自分を奴隷として売ったりまたは買ったりすることを認めたりする契約を結ぶとすれば、それは無効であって、法によっても世論によっても強要されはしないだろう。・・・・自由の原理は、彼が自由でなくなる自由を持つべきだ、と要求することはできない。自己の自由を放棄するのを許されることは、自由ではない。」(333

(政府の干渉に反対する三つの場合)

「第1は、なされるべき事柄が、政府よりも個人によって、よりよくなされそうなときである。一般的にいえば、何らかの仕事をしたり、それがどのようにあるいは誰によって行われるべきか決定したりすることに対しては、その仕事に自ら利害関係を持つ人々ほど適任なものはいない。・・・第二の反対論は、我々の主題ともっとも近い関係にある。多くの場合、個々人は平均してある特定なことを政府の役人ほど,うまくやれないかもしれないが、それにもかかわらず、彼ら自身の精神教育の一手段として・・・政府よりもむしろ彼らによってそれがなされる方が望ましい。これが、〔政治的事件でない場合の〕陪審裁判や、自由な民衆による地方自治制度や、自発的な結合団体による産業上および博愛上の事業の経営を推奨する、唯一のではないが、主要な理由である。」(341

「政府の干渉を制限する、第三のそして最も有力な理由は、政府の権力を不必要に増加させることの持つ大きな害悪である。政府によってすでに行使されている機能に、さらに一機能が付け加えられるたびごとに、希望と不安に対する政府の影響力は一層広く行き渡り、公衆のなかで活動的で野心的な部分は、ますます政府のあるいは政権を狙うある党派の子分へとかえられていってしまうのである。」(342

「一国の主要な能力のすべてを統治体に吸収することは、遅かれ早かれ、統治体それ自体の精神的活動と進歩性とにとって、致命的なものになる、ということもともまた忘れられてはならない。・・・この団体〔官僚制〕自身の能力を高水準に維持しうる唯一の刺激は、在野のこれと同等の能力を持つ人々の注意深い批判を受けることだけなのである。」(345

『功利主義論』Utilitarianism,1861

 (功利主義とは何か)

「『功利』または『最大幸福の原理』を道徳的行為の基礎として受け入れる信条に従えば、行為は、幸福を増す程度に比例して正しく、幸福の逆を生む程度に比例して誤っている。幸福とは快楽を、そして苦痛の不在を意味し、不幸とは苦痛を、そして快楽の喪失を意味する。」(467

(快楽の質の違い)

「それでは快楽の質の差とは何を意味するか。量が多いということでなく、快楽そのものとして他の快楽より価値が大きいとされるのは何によるのか。こう尋ねられたら、答えは一つしかない。二つの快楽のうち、両方を経験した人が、全部またはほぼ全部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。」(469)

「人間は、動物的欲情を超える高い能力を持つ。そして、一度その能力を自覚すれば、それらを満足させないようなもの幸福とは考えなくなる。」(468

「二つの快楽のうち、どちらが持つに値するか、また二つのあり方のうち、どちらが快適かーーその道徳的特質や結果は別問題とするーーという問題については、両方の知識を持つ有資格者たちの判断が、また判断が食い違う時にはその過半数の判断が、最終的なものと認められねばならない。」(471)

(利己心と公共善への関心)

「同じように、人間は誰もが利己的な自己中心主義者で、感情や配慮を憐れむべき自分の独自性にしか集中できないという本質的必然性もないのである。これよりずっと優れた状態が今日でもごく普通にみられ、人間という種族がどう作り上げられるかについて十分な前兆を示している。純粋な私的な愛情と、公共善への誠実な関心を持つことは、程度の差はあっても、正しく育ったひとなら誰にでもできることである。」(475

 (功利主義倫理)

「功利主義倫理は、他人の善のためならば自分の最大の善でも犠牲にする力が人間であることを認めている。犠牲それ自体を善と認めないだけである。幸福の総量を増やさない犠牲、あるいは増やす傾向を持たない犠牲は無駄だと考えるのである。功利主義がたたえる自己放棄はただ一つ、他人の幸福またはその手段への献身だけである。この場合に他人とは、人類全体であると、人類の全体的利益の範囲内にある個人であるとを問わない。」(478

「おのれの欲するところを人に施し、己のごとく隣人を愛せよというのは、功利主義道徳の理想的極地である。この理想に近づく手段として、功利はこう命ずるであろう。第一に、功利と社会の仕組みが、各人の幸福や〔もっと実際的に言えば〕利益を、できるだけ全体の利益と調和するように組み立てられていること。第二に、教育と世論が人間の性格に対して持つ絶大な力を利用して、各個人に、十分の幸福と社会全体の善とは切っても切れない関係があると思わせるようにすること。」(478

 (功利の原理の強制力)

「功利の原理は、他の道徳体系の持つあらゆる強制力をもっている。また、持てない理由はどこにもない。これらの強制力は、外的なものと内的なものとに分かれる。外的強制力については、詳しく述べるまでもない。外的強制力とは、同胞や『宇宙の支配者』によく思われたいという希望であり、嫌われることを恐れる気持ちである。・・・義務の内的強制力は、義務の基準が何であろうと、ただ一つのものーー心中の感情である。つまり義務に反したときに感じる強弱さまざまな苦痛である。・・・このように、すべての道徳の究極的な強制力は〔外的動機を別にすれば〕、我々自身の心中にある主観的な感情なのだから、功利を道徳の基準とするものは、功利主義の基準の強制力は何かという質問に頭を悩ますことはいっこうにないはずだ。こう答えればよいのであるーー他のすべての道徳基準の強制力と同じものつまり人類の良心から発する感情である、と。」(488490

 (幸福ー人間行為の目的)

「幸福こそ人間の行為の唯一の目的であり、幸福の増進はあらゆる人間行動を判断する判定基準である。そこから必然的にこう結論できる。幸福こそ道徳の基準でなければならない、部分(幸福の手段)は全体(幸福)の中に含まれているからである、と。」(501

(正義)

「正義とはある道徳的要件の名称で、これらを全体としてみれば、社会的行為の程度が他の要件より高く、したがって義務的拘束力も他の要件よりとびぬけて強いということである。」(527

 

(7)マルクスからの引用

カール・マルクス

 『経済学・哲学草稿』(岩波書店、1964年)

K.Marx:Oekonomischphilosophische Manuscripte aus dem Jahre 1844,

Berlin,1932.

 第一草稿

.〕労賃 〔2〕資本の利潤、〔〕地代、〔4〕〔疎外された労働〕

第二草稿

〔1〕〔私有財産の関係〕

第三草稿

〔1〕〔私有財産と労働〕

〔2〕〔私有財産と共産主義〕

〔3〕〔欲求、生産、分業〕

〔4〕〔貨幣〕

〔5〕〔ヘーゲル弁証法と哲学一般の批判〕

第四草稿

〔1〕〔ヘーゲル『精神現象学』最終章についてのノート〕

 〔4〕 〔疎外された労働〕 からの引用

 (国民経済学批判)

「国民経済学は私有財産という事実から出発する。だが国民経済学は我々に、この事実を解明してくれない。国民経済学は、私有財産が現実の中でたどって行く物質的過程を、一般的で抽象的な諸公式でとらえる。その場合これらの公式は、国民経済学にとって法則として通用するのである。国民経済学は、これらの法則を概念的に把握しない。すなわちそれは、これの法則がどのようにして私有財産の本質から生まれてくるかを確証しないのである。」(84-85)

「したがってわれわれは、今や私有財産、所有欲、労働と資本と土地所有との分離、〔という三者〕の間の本質的連関を、また交換と競争、人間を価値と価値低下、独占と競争などの本質的連関を、さらにこうした一切の疎外と貨幣制度との本質的連関を、概念的に把握しなければならない。」(85-86)

(われわれの出発点)

「われわれは国民経済上の現に存在する事実から出発する。労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多く作れば作るほど、それだけますます彼はより安価な商品となる。事物世界の価値増大にぴったり比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。労働は単に商品だけを生産するのではない。労働は自分自身と労働者とを商品として生産する。しかもそれらを、労働が一般に商品を生産するのと同じ関係の中で生産するのである。さらにこの事実は、労働が生産する対象、つまり労働の生産物が、一つの疎遠な存在として、生産者から独立した力として、労働に対立するということを表現するものにほかならない。労働生産物は、対象の中に固定化された、事物化された労働であり、労働の対象化である。労働の実現は労働の対象化である。国民経済的状態の中では、労働のこの実現が労働者の現実性剥離として現れ、対象化が対象の喪失および対象への隷属として、〔対象の〕の獲得が疎外として、外化として現れる。」(86-87)

(労働生産物の労働者からの疎外と労働の疎外)

「これまでわれわれは、ただ一つの側面、すなわち労働者の、彼の労働の諸生産物に対する関係からだけ、労働者の疎外、外化を考察してきた。しかし疎外は、単に生産の結果においてだけではなく、生産の行為のうちにも、生産的活動そのものの内部においても現れる。かりに労働者が生産の行為そのものにおいて自分自身を疎外されないとしたら、どのようにして彼は自分の活動の生産物に疎遠に対立することができるだろうか。言うまでもなく、生産物は単に活動の、生産の、要約にすぎない。したがって、労働の生産物が外化であるとすれば、生産そのものもまた活動的な外化、活動の外化、外化の活動でければならない。労働の対象の疎外においては、ただ労働の活動そのものにおける疎外、外化貨が要約されているにすぎないのである。」(91)

 (労働の外化とは何か。労働が他人に属すこと)

「では、労働の外化は、実質的にはどこにあるのか。第一に、労働が労働者にとって外的であること、すなわち、労働が労働者の本質に属していないこと、そのため彼は自分の労働において肯定されないでかえって否定され、幸福と感ぜずにかえって不幸と感じ、自由な肉体的および精神的エネルギーがまったく発展させられずに、かえって彼の肉体は消耗し、かれの精神は退廃化する、ということにある。だから労働者は、労働の外部で初めて自己のもとにあると感じ、そして労働の中では自己の外にあると感じる。・・・最後に、労働者にとっての労働の外在性は、労働が彼自身のものではなくて他人のものであること、それが彼に属していないこと、彼が労働において自己自身にではなく他人に従属するということに現れる。宗教において、人間的な想像力、人間的な脳髄、人間的な心情の自己活動が、個人から独立して、すなわち疎遠な、神的または悪魔的な活動として、個人の上に働きかけるように、労働者の活動は、彼の自己活動ではないのである。労働者の活動は他人に属しており、それは労働者自身の喪失なのである。」(91-92)

 (事物の疎外と自己疎外)

「われわれは、二つの側面から実践的な人間活動の疎外の行為、すなわち労働を考察してきた。

(1)労働者に対して力を持つ疎遠な対象としての労働の生産物に対する労働者の関係。この関係は同時に、彼に敵対的に対立する疎遠な世界としての感性的外界ないし自然的諸対象に対する関係である。

(2)労働の内部における生産行為に対する労働の関係。この関係は、労働者に属していない疎遠な活動としての彼自身の活動に対する労働者の関係である。・・・上に述べたのが事物の疎外であるのに対し、これは自己疎外である。」(93)

 (疎外された労働の第三の規定=類の疎外)

「人間は一つの類的存在である。というのは、人間は実践的にも理論的にも、彼自身の類をも他の事物の類をもかれの対象にするからであるが、そればかりではなくさらにーーそしてこのことは同じ事柄に対する別の表現にすぎないがーーさらにまた、人間は自己自身に対して、眼前にある,生きている類に対するように振舞うからであり、彼が自己に対して、ひとつの普遍的な、それゆえ自由な存在に対するように振舞うからである。・・・ 疎外された労働は人間から、(1)自然を疎外し、(2)自己自身を、人間に特有の活動的機能を、人間の生命活動、疎外することによって、それは人間から類を疎外する。すなわち、それは人間にとって類生活を、個人生活の手段とならせるのである。・・・

 なぜかといえば、第一に、人間にとって、労働、生命活動、生産的生活そのものが、単に欲求を、肉体的生存を保持しようとする欲求を、満たすための手段としてのみ現れるからである。しかし(真実のところを言えば)、生産的生活は類生活である。それは生活を作り出す生活である。生命活動の様式のうちには、1種属の全生活が、その類的性格が横たわっている。そして自由な意識的活動は、人間の類的性格である。ところがこの生活そのものが、もっぱら生活手段としてだけ現れるのである。」(93-95)

 (人間からの人間の疎外)

「(4)人間が彼の労働の生産物から、彼の生命活動から、かれの類的存在から、疎外されている、ということから生ずる直接の帰結の一つは、人間からの人間の疎外である。人間が自分自身と対立する場合、他の人間が彼と対立しているのである。人間が自分の労働に対する、自分の労働の生産物に対する、自分自身に対する関係について妥当することは、人間の人間に対する関係についても、人間が他の人間の労働および労働の対象に対する関係についても妥当する。一般に、人間の類的存在が人間から疎外されているという命題は、ある人間が他の人間から、またこれらの各人が人間的本質から疎外されているということ、意味している。」(98)

 (私有財産は疎外された労働の帰結)

「こうして労働者は、疎外された、外化された労働を通じて、労働にとって疎遠な、そして労働の外部に立つ人間の、この労働に対する関係を生み出す。労働に対する労働者の関係は、労働に対する資本家の、あるいはその他人が労働の主人をなんと名付けようと〔とにかくその主人の〕関係を生み出すのである。したがって、私有財産は、外貨された労働の、すなわち自然や自分自身に対する労働者の外的関係の産物であり、成果であり、必然的帰結なのである。

 それゆえ私有財産は、外化された労働、すなわち外化された人間、疎外された労働、疎外された生活、疎外された人間という概念から、分析を通じて明らかにされたである。」(101-102)

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  ルソーの『経済論』より,

(政府の重要な任務)

「したがって、政府のもっとも重要な仕事の一つは、財産の極端な不平等を防止することにある。それは、財宝を所有者から取り上げることによってではなく、財宝を貯蓄するすべての手段を取り除くことによって、また、貧乏人の為に救済院を建てるのではなく、市民が貧乏にならないよう保証することによって、達成されねばならない。人間が国土の上に不平等に分布していて、ある地域では過密であるが、他の地方では過疎であるとか、奢侈や純然たる工業の技術が、有益で骨の折れる仕事を犠牲にして保護されるとか、農業が商業の犠牲にされるとか、国庫収入の管理が悪い為に徴税吏が必要になるとか、最後に、売官があまりに極端になって、尊敬が金貨で図られ、特性さえもが銀の価格で売られるとか、これらのことは、富裕と貧困、公共的利益の特殊的利益による代置、市民相互の憎しみ、共同の大義に対する無関心、人民の腐敗、したがって、統治の全活動力の弱化などのもっとも明白な原因である。これらは、したがって、一度感染すると治癒することの難しい病気であって、賢明な政治は、良い習俗とともに、法に対する尊敬、祖国愛及び一般意志の力を維持する為に、これを防止しなければならない。」(『経済論』)