経済学史T2年次生以上履修,春学期二単位)

開講科目紹介

授業のテーマ・目標;

「重商主義から重農主義を経て古典学派の成立までの経済学の発展」

 この講義においては,まず,経済学史の方法論と,古代や中世の経済思想について簡単に説明する。人間が経済生活を営む限り経済思想は存在したが,古代や中世のそれはどうであったのか。次いで,16世紀から18世紀までのイギリス重商主義の経済思想の発展を論じる。絶対王政期から市民革命期をへて議会制民主主義(ただし制限民主主義)期までの変遷である。さらに,18世紀中葉のフランスにおいて,コルヴェール主義(フランス重商主義)を批判しつつ,はじめて体系的な経済理論を提出した重農主義学説を論じる。最後に,重農主義の経済的自由主義や資本理論に依拠しつつ,重商主義学説を批判的に継承して,経済的自由主義と資本主義の一般理論を初めて体系的に提出した,アダム・スミスの道徳哲学と経済理論について説明し,その後世への影響について論じる。

授業形態

授業は,講義形態で行う。授業に際しては,OHCを用いて説明し,あわせて,講義レジュメと資料を提供する。なお,レジュメは,ホームページにも,掲載されている。

授業内容・スケジュール

1.      経済学史の方法

2.      古代の経済思想

3.      中世の経済思想

4.      イギリス絶対王政と初期重商主義

5.      市民革命と過渡期の重商主義思想

6.      議会制国家と後期重商主義

7.      フランス絶対王政の危機とケネーの重農主義思想

8.      ケネーの「経済表」の理論

9.      重農主義の経済政策思想

10.  アダム・スミスの『道徳感情論』における道徳哲学

11.  スミスの『国富論』(1776年)における経済的自由主義

12.  同書における資本主義の一般理論

評価方法

学期末に筆記テストを行う。数回出欠をとる。

  その他(履修者への要望など)

十分に講義に出席し,テキストやレジュメや資料を参考に,勉強してほしい。

  テキスト・参考図書  

テキスト;永井義雄編『経済学史概説』(ミネルヴァ書房)

参考図書;講義のなかで紹介する。

 

講義内容レジュメ 

I.  経済学史の課題と方法

1.  経済認識のための理論的装置

シュムペーターによれば、経済学者が経済問題について考えたり議論したり記述する際に用いる分析技術には、経済史、統計、理論、および経済社会学の四つがあるこのうち,経済史と統計は,認識対象である経済生活の諸事実に関する知識であり,理論および経済社会学は,経済問題を解明する為の認識の道具である。

重商主義から重農主義、古典学派をへてマルクス学派にいたるまでは、経済理論と経済社会学とは区別されず、資本主義経済に関する理論として統一されていた。しかし、1870年代に、限界革命が行はれ、限界効用学派が成立すると共に、経済理論と経済社会学とが分化し、前者は計量的方法をより多く用いるようになった。経済理論は、説明のための仮説、「単純化された図式やモデル」、「興味ある結論を樹立するために作られたたんなる道具や用具」(15頁)と捉えられ、経済社会学は、人間が経済活動を行う際の前提になる社会制度(与件)を取り扱うものだとされたのである。

  したがって、マルクス経済学によれば、資本主義経済の構造と運動法則とは、ひとつの理論によって統一的に把握できるのであり、経済社会の変化と経済事情の変化とは密接に関連しているのである。他方、限界効用学派に始まる近代経済学派によれば、経済理論は財の希少性のもとで人間の経済活動とその経済的効果との関連を解明するものであり、経済社会学は人間の経済活動の行われる場である経済社会の諸制度について解明するのであり、両者は次元と方法を異にしているのである。   

  この講義では、古代、中世の経済思想に触れた後、重商主義から古典学派までの経済学説を取り扱うので、そこにおいては経済理論と経済社会学との分化はまだ行はれていない。経済学説のなかで経済問題と社会問題とが結びついて論じられているのである。 

  2.  経済学史の研究対象と課題

  経済学史の対象は、過去から現在にいたる経済学説、つまり経済思想と経済理論である。経済学説は、過去の人々が、同時代の経済生活とその諸問題をどのように認識し、どのように解決しようとしたか、かれらの経済問題についての認識と対策を示している。そうした経済問題の認識と解決の努力のなかで、経済問題を捉える概念(専門用語)や経済法則や分析の道具が、発見されてきたのである。そうした経済学の第一次的形成を、現時点にあって反省し、整理し、評価するのが、経済学史の研究課題である(出口勇蔵の定義)。

 経済生活の行われたところでは、必ずそれについての思索がなされたのであり、したがって、経済思想が形成されたのである。古代や中世の社会にあっても、経済思想は育まれたのである。しかし、これらの時代にあっては、経済は政治や文化や、さらには宗教と深く結びついており、経済思想もそれらと結びつき、混合していた。ギリシャ時代には、哲学のなかで経済問題も論じられた。中世の時代には、キリスト教の神学のなかで、経済問題が論じられた。これらの時代には、都市や農村の経済生活は共同体の経済として営まれていたので、現在の市場経済とは異なった経済生活がみられたのであった。市場経済が、生産手段の私有と諸個人の自由競争を特徴としたのに対して、共同体経済は、生産手段(おもに土地)の共有と共同体の規制の下で経済活動が営まれていたのである。

  15世紀以来、西洋において、地理上の発見以来、商品流通が発展し、商品経済(市場経済)が発展してきた。市場経済は、政治や文化や宗教の影響を受けるが、それらから相対的に自立した運動法則を持っているので、それによって経済学がひとつの独立した学問領域として成立するにいたった。すなわち、重商主義学説により、商品、貨幣、信用などの性質が解明された。ついで、重農主義の学説により、資本、生産的労働と不生産的労働、蓄積、再生産などの概念が、解明された。最後に、古典学派のスミスによって、分業と交換、商品流通からの貨幣の発生、資本の概念、資本蓄積と再生産、賃金、利潤、地代、利子の決定事情が明らかにされ、経済的自由主義の政策観がしめされた。このように、商品のもつ独自運動によって、経済現象は独立した法則をもつにいたり、経済学が独立した学問領域として成立した。古典学派以後の経済学の発展も、経済現象の物象的な独自運動なしには成立しえなかった。現代のゴローバリゼーションも、この市場経済の発展の延長線上にある。

  しかし、先進諸国に見られる不況と失業問題、発展途上国に見られる貧困と経済の停滞などを見ると、市場経済の万能性にも疑問が湧いてくる。経済政策、社会政策、財政・金融政策などによる、国家の経済への介入政策が、絶えず要望されていることは、市場経済の限界を示している。商品経済・資本主義経済のみに注目する「狭義の経済学」だけでなく、非市場経済・共同体経済を市場経済とともに考察する「広義の経済学」が、必要になっている。しかし、この講義にあっては、さしあたり、重商主義から古典派経済学までの狭義の経済学の発展を論じてゆこう。

  3.  経済学史の方法としての社会思想史的方法

  過去の経済学説の歴史的意義を明らかにするためには,その時代の経済・社会・国家・政治過程の状態,文化・宗教・哲学・科学などの諸観念形態などと,当該の経済学説との関連と相互作用について,考察する必要がある。どのような経済・社会・政治の状況のもとで,どのような文化的・思想的・宗教的・理論的影響の下で,経済問題を把握し,それに対する政策を考えたかについて,追体験的・追思惟的に明らかにしなければならない。ある時代の社会経済的背景と広い意味での思想的背景の下で,経済問題が捉えられ,対策が取られた事情を明らかにすることによって,その学説の歴史的意義は明らかになる。こうした外在的な方法を,とりあえず社会思想史的方法と名付けておこう。そう名付けるのは,経済学説を,社会の中で生れ,社会に働きかける,社会的産物の一つとみなすからである。経済学説に含まれる経済思想や経済政策の解明と評価のためには,とくにこの方法を取ることが必要である。

  4.  理論史的方法

ところで,過去の学説が,現代の経済学の理論水準からして,どのような理論的意義を持つかを明らかにするためには,その学説の理論内容について,内在的に解明し,先行の学説や後続の学説との異同を明らかにし,現代の理論的水準から,それを評価しなければならない。経済学説に含まれる経済思想や経済政策は,社会思想史的方法が有効であるが,抽象的な経済理論の解明と評価付けのためには,社会的影響よりも,先行の経済理論からの影響や,後続の経済理論からみた評価などの理論内在的な研究が必要である。

  この際,過去の経済理論を評価するための基準となる現在の理論を何にするかによって,評価の内容もまた異なってくるのは当然である。現在,大きく分けて,マルクスの経済理論から評価する流れと,現在の新古典派の理論から評価する評価する流れとに分かれている。もっとも,過去の経済理論を研究する中で,現在の理論について反省し,これを発展させようとする運動も出てくるのであり,過去の学説を研究する意義もそうした点にもあると言えるのである

  5.  経済学における経済学史の位置

 経済学の中での経済学史という学問の位置は何だろうか。ひとつには,それは経済史,経済理論,経済政策などと関連する,学際的な科目であるといえる。また,これらの科目を研究するための,補助科学でもあるだろう。直接に,市場経済なり,国の経済政策なりを研究するものではないが,経済学の各領域と関連する総合的な学問であり,経済研究のための基礎的素養を与えてくれるものであるといえる。このことは,スミスやマルクスやシュムペーターなどの優れた経済学者が,同時に優れた経済学史の研究者でもあったことに示されているだろう。かれらは,その時代の経済問題を考察する中で,不可避的に過去の経済学説を研究し,学ばなければならなかったのである。

 II.  経済学史の流れと各学派の特徴

 1.  古典学派の成立まで

 既に述べたように,近代の経済学説は,15世紀以後の世界的な商品流通の拡大とともに成立し始めたのであるが,それは商品,貨幣,資本などの経済的価値が,他の文化的・社会的領域から自立し,それ自体を対象として把握できるようになったためである。経済学史においては,通常,古典学派の経済学の成立までと,古典学派への批判から諸々の経済学派の成立をへて現代に至るまでを,区別する。

 古典学派までの経済学史は,重商主義学説の生成・発展・消滅の展開から,フランス型の重商主義であるコルヴェール主義を批判した重農主義の学説をへて,資本主義経済の一般理論と経済的自由主義を提出したアダム・スミスの『国富論』(1776)から,デーヴィット・リカードウの『経済学および課税の原理』(1817)とロバート・マルサスの『経済学原理』(1820)をへて,J.S.ミルの『経済学原理』(1848)にいたる,経済学説の展開を論じる。それは,古典学派の成立に関連する前史と古典学派の展開と解体の過程を,論じる。

 2.  古典学派以後

 古典学派以後の経済学史は,古典学派を批判する諸学派(歴史学派・初期社会主義・マルクス学派・限界効用学派等)の成立と,その後の展開について論じる。

 歴史学派は,フリードリヒ・リストをその創始者とし,旧歴史学派のヴィルヘルム・ロッシャーとカール・クニースから, 新歴史学派のグスタフ・シュモラー, ルヨ・ブレンターノ,アドルフ・ワグナーをへて,最新歴史学派とよばれる,マックス・ウェーバー)やウェルナー・ゾンバルトまで,100年間近い間のドイツの学派である。自らの学説がどの国にも妥当する普遍的理論であるという古典学派の主張にたいして,どの経済学説や政策もその生れた時代と地域に制約された歴史的に相対的な存在にすぎないと主張した。

 初期社会主義は,ロバー・オウエン,サン・シモン,シャルル・フーリエなどの空想的社会主義者と呼ばれる思想家,バブーフやルイ・ブランキなどの革命的社会主義者,プルードンやワイトリングなどの無政府主義的社会主義者たちを総称するものである。かれらは,古典学派の私有財産制肯定の立場を批判する人々であるが,社会主義を実現するために,革命的政治的手段をとるべきだという人々と,経済的で非政治的な手段を取るべきだという人々に分かれていた。

 マルクス学派は,古典学派,初期社会主義,ドイツ古典哲学を源泉として,カール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスが,樹立した学派である。かれらは,ヘーゲルの歴史主義的見方を基礎に,初期社会主義の私有財産制度批判を踏まえて,古典学派の資本主義経済の解明を批判的に発展させ,唯物史観という歴史観と,労働価値説および剰余価値学説を基礎とした経済学批判の体系を作り出した。これは後に,第二インターナショナルとドイツ社会民主党の理論家や第三インターナショナルとロシア共産党の理論家たちによって,展開させられた。この二つの流れは,社会民主主義と共産主義という二つの潮流に分かれ,国際労働運動の内部分裂を思想的に表現していた。

 限界効用学派は,1870年代に,カール・メンガーを創始者とするオーストリア学派,レオン・ワルラスを創始者とするローザンヌ学派,およびアルフレート・マーシャルを創始者とするケンブリッジ学派などを総称するものであるが,その後の新古典派経済学やケインズ学派や新古典派総合などの,先駆者となったものである。これらの学派は,ワルラスの一般均衡理論に依拠し,経済的諸量の間の数量的関係を関数関係によって表現することにより,計量経済学的な発展をとげ,制度の側面は経済社会学に任せたのである。  

 

V. 古代の経済思想

(参考文献;鈴木勇『経済学前史と価値論的要素』1991.岩田靖夫『アリストテレスの倫理思想』1985.)

1. アリストテレスの経済思想

アリストテレス (Aristoteles, 384−322B.C.)

  『ニコマコス倫理学』

  『政治学』 

A.政治学・倫理学

――経済について論じている。

   oikonomia(家政学)―→

oikos()+nomos(管理)

家計だけでなく国(ポリス)の財政をも論じる。―→ 経済学(Economy)の語源。

  ポリス(ギリシャの都市国家)と人間の関係。

ポリスの目的――→よく生きること。

  人間は、孤立的存在ではなく、結合し共同体をなして生きる存在である。

  人間は、家庭と同胞と法を持つ存在である。 

人間は、ポリスをなして存在する。

ポリスは、人々の政治的共同体であり、自由で平等な人々の集まりである。

● 人間の幸福――最高の善――人間の器量()によって生まれる魂の活動――中庸・中間性を選択する性向。

● 法―ポリス共同体のために幸福を作り出し、守る行為。正義の性向という器量を備えたひとの存在。

● 自然的正義―→人間は形相因(生物的な目的へ向かう活動力)と質料因(無機的な必然の力)の両方を持つので、正常性とともに逸脱と動揺をともなう。しかし、おおよその場合に持続する自然的正義がある。それは、人間の内にある不文の法である。

   一般的正義(適法という意味)正義の意味―→(1)法にかなう事。(2)平等なこと。

  正義は、適法であり、徳の中で最高のものである。それは、人間の「善への行為能力」が、具体的な場において、他者との係わりで活動することである。

  他者の利益を目指す体制が正しい体制であり、自己の利益を目指す体制が逸脱した体制である。

  特殊的な正義(平等という意味)

(1) 配分の正義=「特殊的正義の一つの種類は、名誉、財貨、その他ポリス的共同体の成員の間で分割されうるものの分配における正義である。」―→平等とは、それぞれの人がその価値にしたがって取得するという「比率の等しさ」である。国有又は共有の財産の配分における正義。

(2) 規制の正義=「特殊的正義の一つの種類は、規制的な(匡正的な)正しさである。この正義は人と人とのかかわりあいの中で生ずるが、この関係は随意的な場合もあれば付随意的な場合もある。」

 随意的な場合とは、売却、購入、保証、貸与などの関係。付随的な場合とは、窃盗、偽証、暴行、殺人などの関係。これらの場合に、当事者間の原初の平等な関係が破られた時、平等を回復し実現すること。―→算術的比例による平等の実現。

(3) 交換的正義(価値や交換が論じられる) 

交換的正義は、個人の財産の交換にかかわる。

共同体においては、異なった人が、相互に何か寄与しうるという点で、結合している。「ポリスが存続するのは、人々がお互いに比例的なものを与え返すことによってである。」

「対角線的な組み合わせが、比例的な与え返しを成立させる。大工をA,靴屋をB,家をC,靴をDとする。大工は靴屋からその作品を受け取り、自分はかれに自分の作品を代わりに与えねばならない。そこで、先ず異なった作品の比例に従った等しさが確定されれば、交換が成立するであろう。」

―→両者の交換が成立するためには、異なった価値の諸作品が、比例的に等価値化されなければならない。その尺度が、需要である。価値論的にいえば、社会的一般的価値としての貨幣である。

  ポリス(国、社会、共同体)

==善を目指す最高の共同体

   国は村の集まり

   村は家族の集まり

   家族の構成要素―→夫と妻(男と女の共同体)、父と子、主人と奴隷

   奴隷制と私有財産制を擁護。

 B.経済思想

  正義=平等(不平等の中間)

   配分の正義――共同のものを共同体の構成メンバーに配分すること。(名誉や財産の配分)。

  規制的正義――人と人との関わり合いを規制する規準として作用する正義のこと。(不正な行為の結果として生ずる利得と損失を平等化すること)。

  交換(応報)の正義――財貨の交換を通しての人と人の結びつき。平等ではなく比例的な平等を実現すべきこと。

交換の対象である財貨の比較を行うために作り出されたのが、貨幣である。

  需要――→交換を成立させる。

「需要がすべてのものを結びつける」。欲望と需要を経済分析の出発点とした→主観価値説の萌芽。

   客観的価値論の萌芽

「家屋に代えて5個の寝台を得ることと、5個の寝台の価格だけの貨幣を得ることとは、なんら変わることはない」――→ 家と寝台と貨幣が等値されているのは、共通の実体(同等な人間労働)があることを意味する。かれはこれには気づかず。

  使用価値と交換価値を区別←―靴には履くという作用と交換品という作用とがあると、区別。

● 貨幣と利子

    貨幣が貨幣を生むのは自然に反するー→高利に反対。

    貨幣の機能―交換手段、価値尺度、価値貯蔵。

   家政術と貨殖術。取財術――→

(1)  商人術(自然に反した交換的取財術)→海外貿易、高利貸し、賃金取り、小売業。特に転売、利付き貸付を非

(2)  自然に即した取財術――→家政術の一部としての家畜、農業、鉱業。

   富の概念

定義「生活に必要で、かつ国や家の共同体に有用であって、しかも貯えうる財」。土地、奴隷、金銭など。

(1)自然にかなった富――自然から得られるもの

(2) 不自然な富――交換的取財術から得られる貨幣的富。

   アリストテレスの理想――農業中心の自然経済に基づく自給自足的な経済と国家。

W. 中世の経済思想

. 聖トマス・アクイナスの経済思想

聖トマス・アクイナス (Saint Thomas Aquinas,1225-74

   『神学大全』(Summa Theologiae,1265-74)

A.中世封建制社会の特徴

. トマス・アクイナスの経済思想

(1)「経済的な利害は人生の本務である救いに従属している」(トーニー、1956、上68

(2)「経済的行為は人格的行為の一面であるから、それは、その他の側面と同じく、道徳の規範に拘束されている」(トーニー、同)

『神学大全』におけるトマス・アクイナスの経済思想

(1)私有財産論

要点: 私有財産論の説明;外的諸物は、本質的には神のものだが、その使用は人間にゆだねられている。 人間は諸物への自然的支配権をもつ。人間には諸物の管理と経営の権能とその使用の権能をもつ。前者のための私有権は必要。占有権をもつ。 私有財産制は自然法に合致する。

法の種類; 自然法と永遠法 と人定法

「理性的被造物(人間のこと)における永遠法の分有」。自然法は人間の正しい行為や目的への傾向をもたらす。時代と国により変化する。何かが付加されるか除去されることにより変化。

「宇宙全体の支配者としての神のうちに見出されるところの、事物の統治理念」。

(2)私有財産の使用

  1. 「こうした事物をよく用いることが寛厚に属するのであれば、寛厚は徳であることが帰結する。」(同、117−1)。この際、徳とは、悪く用いることの可能なものをよく用いることであると定義されている。(アウグステイヌス)。

  2.  寛厚は、別名「気前よさ」となずけられる。「したがって、寛厚がかかわる固有の事柄は、金銭である。」(同、117-2)。あるいはまた、「寛厚に固有の行為は金銭あるいは富を使用することである。」(同、117-3)。寛厚はまた、金銭の「適切な使用のために準備し、貯えることも含まれるのである。」(同)。「寛厚な人は、何よりも先に贈与・与えることのゆえに賞賛されるのである」(同、117-4)。寛厚は正義の徳の一部であるが、しかし、「寛厚は最大の徳ではない」(同、117-6)。

  1. 外的富を追求することは、それ自体は良いことであるが、「或る者が、しかるべき限度をこえてそれらを獲得もしくは保持しようとする場合」、「貪欲が罪であることはあきらかである。」(同、118-1)。貪欲が罪であるのは、「隣人に対する罪であること」、「人が富に対して抱く内的情念に関する節度のなさを意味すること」、最後に、人間の傾向性を規制する理性の限度を超えていることである(同)

  2. 貪欲は、二つの仕方で、「富に関する何らかの無節操を意味する。」「第一は、直接的に富の取得もしくは保持そのものに関してであり」、「第二に、富に関する内的情念に関する無節操を意味する」(同、118-3)。

  3. 貪欲は、(他人のものの不正な取得のように)正義に対立するものである限り、大罪である。しかし、それは寛厚に対立するものであっても、「富の故に、神と隣人とにそむくような或ることを為そうと欲することがないならば、」、小罪である(同、118-4)。

  4. 貪欲は、神にそむく罪でなく、人間に対する罪でもない。それは「外的事物に対して犯される罪」であるから、「貪欲は諸々の罪のうちで最大のものではない」(同、118-5)。

  5. 「貪欲な者は、自らが富の所有者であると見て取ることにおいて快楽を覚えるから」、「貪欲は、霊的な罪である」(同、118-6)。

  1. 浪費は、「与えることにおける過剰と保持・取得における不足である」が、貪欲は、「与えることにおける不足と取得・保持における過剰である」。したがって、「浪費が貪欲に対立していることは明らかである」(同、119-1)。

  2. 浪費は貪欲に対立しているが、ともに「徳の善が破壊される」ので、「浪費は罪であるとの結論が生じる」(同、119-2)。

  3. 「浪費は貪欲よりもより小さな罪である」(同、119-3)。貪欲のほうが対立する徳(寛厚)からより隔たっており、貪欲な者は人の役に立たない。また、「浪費は容易に癒されることが可能だ」から。

要点:

l 財産使用における共同性の強調

「外的諸物を自己のものとしてではなく、公のものとして、すなわち、何人も、他人の困窮に向かっては容易にこれを分かち与える心がけで所有しなくてはならない」――→相互扶助の思想

2.財産の正しい使用方法

財産の使用には、寛厚(善施)Liberalitas,貪欲Avaritia、浪費(乱費)proligalitas、の三つがあり、寛厚(善施)は貪欲と浪費(乱費)の中庸である。

3. 物資には、必要不可欠なもの、必要物資、余剰物資、の三つがあり、施与は余剰物資を持ってなされるべき。

4.無限の至富活動は、貪欲として非難。   

(3)正義論

正義について

正義の諸部分について(交換的正義と配分的正義)

要点:経済問題は正義に関する徳との関係で論じられる。正義の種類――→一般的正義(法律的正義など)と個別的正義(配分の正義と流通の正義)。配分の正義は、公共的諸物を個人に配分する際の正義で、比例(幾何学的中庸)に従う。流通の正義は、物と物との交換における正義で、均等性(算術的中間性)に従う。

(4)公正価格論

● 財の交換は、均等性が基礎になっている。流通の正義が支配原理。

 「詐欺についてーー売買においておかされる罪」

 「何かを正しい価格以上に売るために詐欺を用いることは、隣人をかれに損害を与える仕方で欺くことである限りにおいて、明確に罪である。・・・事物をそれの価値よりも高価に売るか、あるいは安値で買うことは、それ自体として不正であり、また許されないことである。」(同、77-1)。

 「売却に関しては、三種の欠陥を考察することが可能である。第一は、事物の種的本質の観点からのものである。・・・第二の欠陥は、秤にかけることによって知られるところの、量にかかわるものである。・・・第三の欠陥は質に関するものであって、たとえば或る病気の動物を健康であるかのように売りつける場合である。」(同、77-2)。

 事物の交換には、二つあり、一つは生活必需品の交換など「自然的で必要不可欠な交換」であり、もう一つは「利得を追求してなされるところの貨幣と貨幣、もしくは、何らかの品物と貨幣との交換である。」アリストテレスは、後者を非難したが、トマス・アクイナスは、徳に対立するもではないと言う理由で、これを認めた。商人が、「自分の家の維持」のため、あるいは「祖国が生活必需品を欠くことがないようにするために商取引に専念」する場合、商取引は正当だと見た。(同、77-4)。

要点:価値以上での販売行為への非難。瑕物の不正販売行為→物の本質、数量、品質を偽ることへの非難。売り手による瑕物の告知義務。買値以上の高値販売→商業利潤の是非についてはー→「利潤が或る必要または道義的な目的に当てられることは、何ら妨げなし」―→労働の報酬や必要経費に当てるため、あるいは慈善のために、中庸をえた商業利潤をえることは、良い。公正価格=商人の経費を償い、身分相応の生活を営めるための利潤を含みうるもの。

(5) 微利論

● 「貸した金のゆえに利子を受け取ることは、それ自体において不正なことである。なぜなら、存在しないところのものが売られるからである。それによって明白に、正義に反対・対立するところの、不均等が成立する。」(同、78-1)。貨幣は、交換手段として発明されたから。

  暗示もしくは明示の契約によって利子を受け取ることは罪であるが、「無償の贈物として受け取るのであれば、罪にはならない。」(同、78-2)。

 「ある人を利子を取る条件で金を貸すことへと誘うことは、決して許されない。しかし、このことをなす用意があり、また利子を取ることを仕事にしている者から、自分あるいは他人の窮境を救うと言う何らかの善のために、利子を払うことを条件に金を借りることは許されるのである。」(同、78-4)。

要点; 「貸した金のゆえに利子を受け取ることは、それ自体不正なことである。」(トマスの基本的な見解)――→ その根拠は、聖書の教えとアリストテレスの貨幣論。

  微利禁止の例外事項――→ 金融行為の是認。金を貸したことから生じる損害賠償。借主の貸し手に対する自発的な「無償の贈り物」。善のために活用する場合。――→以上の場合に、金融取引業と利子を容認――→職分としての金融業の容認。

 トマスの富の見方;富は「吾人が之を以って肉体を支え、他の人々を助けるから、徳の善にとって必要」(上田、1933145)。この限度を超える富への過度の愛着つまり過度の所有欲が悪。

  

X. 重商主義の経済学説

1.全体の概観

(1)図表化

イギリス重商主義学説の展開

(定義)重商主義とは資本の原始的蓄積に役立つ政策体系とそれについての経済思想

学説の変遷

前期重商主義

市民革命期の重商主義

後期重商主義

経済史上の背景

王室重商主義

過渡期

議会重商主義

おおよその時期

15世紀半ー17世紀半

17世紀後半

18世紀

代表的論客

 

 

 

 

ジョーン・ヘイルズ

ウイリアム・ペテイ

ジェームズ・スチュアート

 

トーマス・マン

ジョン・ロック

デーヴィット・ヒューム

 

ジョサイア・チャイルド

 

 

代表的著作

 

 

 

 

『イングランド王国・』1549

『アイルランドの』1691

『経済学原理』1767

 

『東インド貿易論』1621

『租税貢納論』1662

『政治論集』1752

 

『外国貿易によるイングランドの財宝』

『政治算術』1690

 

 

『新交易論』1693

『統治二論』1690

 

学説の特徴

 

 

 

1.国富観

正貨(金・銀)

正貨(金・銀)

正貨(金・銀)

2.強調点

取引(trade)の重視

勤労(indusry)の重視

勤労(indusry)の重視

. 政策上の特徴

取引差額主義(ヘイルズ)

 

産業保護主義(スチュアート)

 

貿易差額主義(マン)

 

自由貿易是認(ヒューム)

4.国家と経済

国家による管理貿易

市民政府論(ロック)

為政者による工業化促進

5.理論の特徴

 

労働価値説(ペテイ)

農業・工業の分業に注目

 

 

社会統計学創始(ペテイ)

貨幣量の自動調整機能論

 

 

労働所有権論(ロック)

 

6.経済の原動力

国家の経済管理

 

国家の貨幣供給(Steuart)

 

 

 

人間の自然的性向(奢侈や我欲、勤労と技芸)Hume

 

 

 

 

(2) 重商主義の時代の特徴

  A.定義

重商主義とは,「絶対王政国家」または「議会主義国家」によって遂行された政策で,資本の原始的蓄積(貨幣資本の集積と賃労働者の創出という資本主義生産の前提条件を作り出すこと)の作用を果たして政策体系とそれに関する経済思想である。

  B.諸段階

重商主義政策は,15世紀半ばから18世紀半ばまでの300年間に行われたが,この時期は,その政策主体である国家の性格の相違という観点から,絶対王政国家による王室重商主義(Royal Mercantilism)と,議会制国家による議会重商主義(Parliamentary Mercantilism)に,区別される。

  C.政策主体と政策内容

 王室重商主義の時期には,絶対王政と結びついた地主貴族層と,特権的な大商業資本・高利貸し資本が,その経済主体であり,外国との貿易戦争により貨幣(金銀)を獲得しようとする政策や,植民地獲得とその経営が目指された。貨幣の直接の獲得を目指す重金主義の思想にたった政策が取られた。

 議会重商主義の時期には,政権についたマニュファクチュァのブルジョワジー(イギリスでは毛織物工業生産者層)およびこれと結びついた近代的地主,近代的商人等が,経済主体であり,多角的な国際貿易により,貿易差額(balance of tradeを黒字にする事を通じて,国富としての貨幣を獲得しようとした。

  D.歴史的意義

 重商主義政策は,貨幣資本の集積,賃労働者の創出,農業革命の開始などにより,資本主義的生産の成立する前提条件を,作り出した事にある。 

(3)重商主義思想の系譜

 A.全体としての特徴

 一人一人の重商主義の論客は,断片的な政策を提唱したが,全体としては一つの共通した特徴が認められる。その特徴とは,貨幣を国富の主たる形態と捉え,貿易・産業・人口の有利な状態を作り出す事によって,この貨幣の増加を図ろうとする点にある。この国家の貨幣的富の増加のため,貨幣に関する諸問題,人口問題,利子問題,外国貿易問題などが,論じられたのである。 

B.重商主義思想の系譜

 重商主義思想には,重商主義政策の展開と相即して,前期重商主義思想,市民革命期の重商主義思想,後期重商主義思想を区別できる。

 前期重商主義思想の論客には,ジョーン・ヘイルズ(John Hales,?-d.1571)トーマス・マン(Thomas Mun,1571-1641),ジョサイア・チャイルド(Josiah Child,1630-99)などがいる。

 市民革命期(過渡期)の重商主義思想家としては,ウィリアム・ペティー(William Petty,1623-87,ジョン・ロック(John Locke,1637-1704)などがいる。

 さらに,後期重商主義の思想家には,ジェームズ・デンハム・ステュアート(James Denham Stuart,1712-80)デーヴィット・ヒューム(David Hume,1711-76)などがいる。

2.前期重商主義の思想

  前期重商主義の思想家としては,前述のように,ジョーン・ヘイルズ,トーマス・マン,ジョサイア・チャイルドなどを挙げる事が出来る。さらに,フランスのボーダンなどを挙げる事が出来る。

  (1)ヘイルズとミッセルデン

ジョン・ヘイルズは『イングランド王国の繁栄についての一論』(A Discourse of the Common Wealth of this Realm of England,1549年執筆,1981年出版)のなかで,一国の富は,金・銀などの貨幣の豊かさにあるという重金主義と,この貨幣は外国貿易において,絶えず輸出が輸入よりも大きくなるようにすることによって獲得されるとする取引差額主義の思想を述べた。

前期重商主義に属するミッセルデンは,こう定式化している。「輸出した自国産諸商品が,輸入した外国諸商品を,価値において圧倒し凌駕する場合,・・・その時から,王国が富裕になってゆき,財産と貯えが増加してゆくのである。というわけは,その余剰が財宝として入るに違いないからである」と。

  (2)トーマス・マン

この取引差額主義の思想をさらに発展させたのが,トーマス・マンやジョサイア・チァイルドなどの貿易差額主義である。これは取引差額主義が,個々の取引において,個々の外国との貿易において,たえず,輸出が輸入よりも多くなるようにと主張するのに対して,一国の全外国貿易の全体について,貿易差額がプラスになればよいとする理論である。

したがって,一国がA国から輸入した生産物を,そのままないしは加工して,B国等々に輸出する事によって,総額での貿易差額を黒字にすべしという理論である。

 トーマス・マンやジョサイア・チャイルドは,東インド会社(王室により特許を与えられ東インド貿易を独占する特許会社)の重役として,東インド会社が,東洋物産(香辛料,絹製品,陶磁器,茶など)の輸入のために,莫大な金銀をインドなどに持ち出している事について,取引差額主義の見地にたつレバント会社の人々により,非難されていたが,トーマス・マンの貿易差額論は,それに対する反論として,提出された理論である。

 マンは,『東インド貿易論』(A Discourse of Trade from England into the East Indiea;Answering to diverse objections,which are usually made against the same,1621)や『外国貿易によるイギリスの財宝』(England’s Treasure by Foreighn Trade,or the Balance of our Forraighn Trade in the Rule of Our Treasuer,1628年前後に執筆,1664年出版)などにより,取引差額主義(個別的貿易差額論)から貿易差額主義(全般的貿易差額論)への転化の必然性を主張した。

貿易差額を黒字にする方法として,マンが勧めたのは,外国品の消費の抑制,隣国の人の必要とする物資の輸出,自国船による輸出,自国に産出する自然的富の消費を節約し輸出向け商品に加工すべき事,中継貿易,製造品の輸出税の軽減などの方策であった。

 (3)ジョサイア・チャイルド

 チャイルドは,『新交易論』(A New Discourse of Trade,1693)において,貿易差額の基準を,単に貿易量だけでなく,貿易と船舶(海運収支)との全般的増減と捉えた。一国の繁栄の基準は,貿易と海運の永続的増加にあるとみなした。また,『貿易と貨幣利子に関する簡単な考察』(Brief Observation concerning Trade and Interest of Money, 1668)において,国富増大と貿易振興の真の方策は,法定利子率の引き下げ(6%から4ないしは3%)にあると論じた。 

3. 市民革命と過渡期の重商主義思想

(1) ウイリアム・ペテイ―(William Petty,1623-87

  ペテイーは,1848年のピューリタン革命時に、クロムエルの革命軍の軍医として、アイルランド征服後、その地に土地を得て、農業経営に携わった。かたわら、『アイルランドの政治的解剖』(The Political Anatomy of Ireland,1691,『租税貢納論』(A Treatise of Taxes and Contributions, London 1662), 『政治算術』(Political Arithmetic,1690)などの著作を発表した。

 彼は、初めて経験的な方法で、数量的に市民社会の様相を把握し、それに基ついて、政治問題・経済問題を論じようとした。それまでのスコラ哲学者のような神学的・哲学的な議論ではなく、経済的社会的な統計を用いて、経済問題を論じ、社会問題を把握しようとしたので、経済統計学。社会統計学の創始者と呼ばれる。

 また、生産要素として土地と労働を発見し、諸商品の交換比率が、それらの商品の生産に要した労働量に反比例するとのべ、労働価値説の最初の定式者となった。このため、かれは「経済学の父」または「近世経済学の創始者」と呼ばれている。

 『アイルランドの政治的解剖』では,アイルランドの経済事情を,土地面積,人口,世帯数,竈の数,生産物量などの具体的統計数字によって,解剖した。これはベーコンの影響をうけた経験的な「政治算術」の方法であった。また,貨幣を脂肪にたとえ,その過剰はその過少と同じく有害であると,初期重商主義の貨幣を重視しすぎる見解を批判した。

 『租税・貢納論』では,ピュ−リタン革命後の王政復古政権の政策を立てるために,国費の種類・性質・徴収方法などについて具体的な政策を提出しようとした。しかし,統計的方法を用いただけでなく,価値論などの原理的問題にも論及し,労働を価値の源泉とし,

労働時間をその尺度とする投下労働価値説を提出した。

 『政治算術』では,当時,通商戦争を行っていたイングランド・オランダ・フランスなどの国力を,統計的方法によって比較し,さらに推計論的方法により,将来の国力の変化を予想した。そして,イングランドが世界貿易を支配しうることを論証している。基本的には重商主義の枠内にありながら,原理的考察も行っている。

 (2) ジョン・ロック(John Locke, 1632-1704

 ロックは、イギリスの市民革命期にイングランドのジェントリー(上層の自営農民)の家庭に生まれ、ピューリタニズムの雰囲気の中で、幼年期をおくった。かれもまた、ペテイー同様に、オックスフォード大学で医学を学び、観察と実験という経験的実証主義的方法を学んだ。彼は、『人間知性論』という書物を刊行し、イギリス経験論の創始者として知られている。かれは、生得観念を否定し、人間の知識が、外界から感覚を通じて獲得されると考えていた。

 ロックは、1666年に、アシュリー卿(後のシャフツベリー伯)と知り合ってから、政治問題を考えるようになり、名誉革命前の数年間は、オランダに亡命している。彼は、『統治二論』(Two Treatises on Government, 1690)のなかで、1688年の名誉革命を根拠つけるような、市民政府論を提出した。

それによると、人間は自然状態では平和的に社会生活を営むが、貨幣の発明によって富を蓄積できるようになるとともに、富者と貧者との対立が生じ、誰かが他者の自然権を犯すような逸脱した行動をとると、戦争状態になる。この戦争状態を克服し、平和を取り戻すために、人々は合意(契約)によって、政治社会を形成し、立法権を最高とする権力を、統治者に信託する。こうして、市民政府が成立する。しかし、もし権力者が、かれに信託された権力を濫用するときは、国民はこれに抵抗し、新しい統治組織を形成することができる。これが国民の抵抗権であり、革命権である。

 ところで、この書物のなかで、かれは、労働による私有財産の根拠づけを行っている。大地とすべての被造物は、すべてのひとびとの共有物だが、人間は自分の身体に対する所有権を持っているので、その身体の労働によって自然から取り出したものは、かれの所有に帰するというのである。さらに彼は、価値を構成する要素としての労働の比重を、ペテイよりもはるかに高く、評価している。
 また,『利子引き下げおよび貨幣価値引き上げについて』(Some Considerations of the Consequences of the Lowering of Interest, and Raising the Value of Money,1692)においては,利子は貨幣保有の不平等から生じ,地代は土地所有の不平等から生じるととらえた。また,法定利子率の引き下げによって繁栄をもたらそうとする,チャイルドの見解を批判し,利子は貨幣量と国民の負債額や取引量との割合によって決まるとする自然利子論を提唱した。利子率は,貨幣市場での資金の需給関係に任せるべきだという,市場経済と自由競争を重視した見解を示したのであった。
 

4.  議会制国家と後期重商主義重商主義体系化への道と自由主義への道

(1)概観

後期重商主義学説の代表としては、ジェームズ・スチュアート(Sir James Denham Steuart,1712-80)とダヴィド・ヒューム (David Hume,1711-76) を挙げることができる。スチュアートは、重商主義思想を集大成し、重商主義的保護政策の必要性を説いた。他方、スミスの年上の友人であったヒュームは、重商主義思想の枠組み内からではあるが、インダストリー(勤労、industry)を強調し、自由貿易を提唱した。 

(2)スチュアートによる重商主義の体系化

ジェームズ・スチュアートは、スコットランドの貴族の出で、エデインバラに生まれた。スコットランドのスチュアート王朝を再興しようとするジャコバイトの乱(1745年)に参加し、その敗北とともに、フランスへの亡命をよぎなくされた。1746年から1763年まで、フランス、ベルギー、ドイツ、オランダなどで生活しつつ、『経済学原理』を執筆し、帰国までに、その第一編「人口と農業」第二編「トレードとインダストリー」第三編「貨幣と鋳貨」の草稿を書き上げたという。帰国後、グラスゴウの東南のコルトネスで農場を経営しながら、第四編「信用と負債について」と第五編「租税と租税収入の適切な運用について」を、書き足して、1767年初めに、ロンドンで出版した。

18世紀後半のヨーロッパ社会は、封建社会から近代社会への移行(フランセ)と、重商主義から自由主義への移行(イギリス)とが、歴史的課題として設定されている過渡期の時代であった。この時代に、スチュアートは、自由な商業社会の形成が時代の方向だということを認めつつ、当面は、ステイツマンによる商業社会形成の政策の必要性を感じ、そのための理論を提供しようとしたのである。(川島信義『スチュアート研究』未来社、107頁参照)。

かれの経済理論の全体的特徴は、ヒュームより深い経済分析を行った反面で、思想的にはあくまで重商主義的保護主義の立場に立ち、国家による経済統制の強化を主張した点にある。

かれの『経済学原理』は、体系的基礎を生産過程の分析においている点で、伝統的な重商主義思想を超えている。彼は、近代社会の発展を、農工分離(農業と工業の社会的分業)に基づいて説明している。すなはち、独立農民(ファーマア―)の作る社会的剰余の増加が、工業者(フリー・ハンズ)の増加を可能にし、両者の商品交換増大が、商業者の増加をもたらすとしている。

また、利潤についても、譲渡利潤以外に、積極的利潤(勤労利潤、労働利潤)について論じている。商業取引における価格差を利用した利潤ではなく、生産過程において発生する利潤を認めていた。さらに、積極的利潤は、重農主義者の主張するように農業労働のみが生み出すのではなく、近代的な産業労働一般が生み出すと見ていたのである。

他面では、かれの経済理論の限界としては、次のようなものを挙げることができる。一つには、インダストリーによる生産力の拡大が、農・工分離を促進するという見解をとりつつも、その生産力拡大の原動力を国家による貨幣の経済過程への導入という、有効需要の側に求めていることである。二つには、利潤の主な源泉が、流通過程に求められ、これを左右する需要の分析が、全体系の主要な内容をなしていることである。したがって、彼の経済学は、需要と流通の経済学であって、労働と生産の経済学ではないのである。

(3)ダヴィド・ヒューム

ヒュームは、『人性論』(A Treatise of Human Nature ,3 Vol.1739-40)と『イギリス史』(The History of Great-Britain,6.vols、1754-62)で有名な哲学者である。しかし、かれは、『政治論集』(Political Discourses,1752)において、商業、奢侈、貨幣、利子、貿易差額、租税、公信用などの経済問題について、論じた。

かれの経済思想の特色は、田中敏弘氏によると、「貨幣的世界から実物的世界への転換」、「インダストリーの人為的促進からその自律的発展への方向を示した」ことの、二点にある。第一点は、彼が商業を論じる中で、貿易差額より商工業の発展を重視したことに示される。また、第二点は、経済発展が、国家の政策により人為的に促進されるよりは、むしろ、インダストリーの自律的発展に基づくとする点に、示されている。この際、経済発展は、農業生産力の発展を基点に、農・工分業が成立することによりなされるが、その経済発展の原努力は、奢侈や我欲や、勤労と技芸など、人間の自然的性向にあるとされるのである。

かれは貨幣についても、それまでの重商主義者のように、富の存在形態(築造貨幣)と見ずに、労働や商品の交換のための用具(交換手段、流通手段)だと見ていた。そのうえで、機械的な貨幣数量説に基づく貨幣量の自動調節機能論を、論じたのである。それによると、一国の貨幣量が多ければ、物価が騰貴し、外国から安価な商品が流入して、貨幣は流出するから、やがて各国の貨幣量は、その国の商品量と均衡するようになると言う。それ故、貿易差額説に基づく貨幣の蓄蔵は無意味だと、従来の重商主義学説を批判した。

したがって、ヒュームは、自由貿易に基づいて「労働の蓄積」(stock of labour)を行い、その結果、国内のインダストリーが発展すれば、それが富の蓄積であると考えた。富の蓄積は、貨幣の蓄積ではなく、労働の蓄積だとみなす点で、ヒュームは、トーマス・マンのような初期重商主義とは異なっていたのである。

ヒュームには、次のような限界があった。そのひとつは、経済発展の出発点を外国貿易に置く点では、やはり重商主義の枠組みのうちにとどまっていたのである。ふたつには、国富の源泉を生産過程に求めているのであるが、かれの言うインダストリーとは、独立自営農民や手工業者のような独立生産者の勤労のことであり、資本主義的企業の労働のことではなかったのである。  

 

W. 重農主義の経済学説

. 重農主義成立の社会経済的背景

 フィジオクラシー(la physiocratie)とは、自然の支配という意味を持つ、フランス語である。フィジオクラシーが、重農主義(agricultural system)とよばれるのは、その学説が重商主義に対して、農業の生産性を強調するためであり、スミスの特徴づけに由来する。フィジオクラシーは、1760年から1770年の間、パリの人々、とりわけヴェルサイユの人々が話題とした学説であったが、1880年にはほとんどの人によって忘れられたといわれる。(シュムペーター『経済分析の歴史』474頁)。しかし、それははじめての学派らしい学派であったという。つまり、一人の創始者を中心に多くの門弟が集まった集団と言う意味で。

 18世紀のフランスは、面積は約55万キロメーターで、推定人口は2300万人の国であった。そのうち、約90パーセントが農村人口であり、都市人口は10パーセント足らずであった。僧侶や貴族のような特権階級と、平民つまり第三階級とからなっていた。第三階級は、公証人、官吏、大金融業者、商人、手工業者、農業経営者、および労働者からなりたち、人口の大部分を占めていた。

 ところで、フランスのブルボン王朝の絶対王政のもとでも、イギリス絶対王政のもとにおけると同様に、重商主義政策がとられた。ルイ14世の財務大臣であったコルベール(Jean Baptiste Colbert, 1619-83)による、コルベール主義がそれである。渡辺輝雄氏によると、コルベールの重商主義の骨子をなすものは、(1)都市および農村の中小生産者をギルド制の下に再編成し、大都市の問屋商人層の支配下に置くこと、(2)大都市の特権商人、大金融業者に巨大な特権マニュファクチュールを設立させ、この産業規制のもとに輸出貿易を強行すること、(3)輸出商品の国際競争力をつけるために、低賃金・低穀価政策を取り、このため穀物の輸出禁止政策をとること、(4)王室の経費と膨大な軍事費をまかなうために、租税制度を強化すること、などであった。

 要するに、コルベール主義は、国家の財源を外国貿易による収入にもとめ、外国向けの高級工芸品を生産する工業(ゴブラン織りやボーヴェ織りを製造する王立織物マニュファクチャー)を手厚く保護したが、低賃金政策・低穀物価格政策・穀物輸出禁止政策などにより、労働者や農業者の利益を抑圧するものであった。

 コルベール主義は、フランス絶対王政の財政基盤を形成した。しかし、やがて、ルイ15世(在位1715-74)の対外政策の失敗(7年戦争、インドとカナダの植民地の喪失)や、ルイ16世(在位1774-92)の放漫な財政運営によって、フランス国の財政危機と社会的政治的危機が生じたとき、コルベール主義によっては、この危機を克服することができないことが、明らかになった。

 コルベール主義の行き詰まりは、特権的な問屋制商人と生産者層との対立から生じた。前者は、絶対王政と結託した特権的な大商人層であり、後者は、実際に生産を担う中小生産者層であった。これは、特権的な受益者層と、勃興する生産者との対立であった。これに加えて、カトリック教とプロテスタントとの宗教的な対立があった。両教徒の権利の平等を保障していたナント勅令が1685年に廃止されたことによって、ユグノーと言われる新教徒の中小生産者たちは、弾圧され、ドイツ、イギリス、オランダなどへ亡命した。このことによって、コルベール体制を支えていたフランス産業の生産力の基礎が破壊された。絶対王政の課する重税による農村の疲弊、数十万にのぼるユグノーの亡命による工業生産力の低下がすすむなかで、コルベール体制の中核である特権マニュファクチュールが、解体する。さらに、ルイ15世の政治的無気力と外交上の失敗、ルイ16世の戦争と放漫な財政運営などのより、フランス重商主義体制の危機は、ふかまった。

 重農主義は、こうしたコルベール体制の行き詰まりと、それに由来するフランス絶対王政の危機を、農業の再建をつうじて克服しようとする試みとして成立した。フランソワー・ケネーによって樹立された重農主義の学説は、チュルゴーによって実施されようとしたが、十分な成果を挙げられないまま失脚し、フランス革命が勃発したのである。こうして、フランス絶対王政の行き詰まりを、農業における資本主義的大経営(借地農)の導入により解決しようとする、上からの改革の道は挫折し、第三階級による封建的土地所有(大地主)の打倒、および封建的法体制の打倒と言う下からの革命が、フランスにおいては成功したのである。  

. 重農主義の社会思想的背景 

1750−60年代のフランスの思想はフランス啓蒙思想として知られているが、河野健二氏によると、それには大きく分けて、三つの潮流があった。

 第一の流れは、「合法的専制主義desptisme legal」とよべるもので、絶対王政に対して、自然法にのっとった統治の行われることを求めるものであった。自然法に合致した理想的な統治のあり方を、国王や政治家に教えることを重視する。フランソワー・ケネーを初めとする重農主義者は、その代表であった。この立場を支持する階層は、ブルジョワ出身の貴族層や大土地所有者階級であり、かれらは有利な農業経営を行うために、穀物輸出禁止政策のような経済統制に批判的だったのである。

 第二の流れは、「制限君主制monarchi limitee」を主張する流れである。こらは、人民の代表たる議会が王と並んで支配する、立憲君主制を主張する。名誉革命(1688年)によって成立していた、イギリスの立憲君主制に範をとる見解であった。デイドロ(Denis Diderot, 1713-84) を中心とした「百科全書派」と呼ばれる啓蒙思想家たちが、この立場を取っていた。この潮流の社会階級的な基盤は、ブルジョアジー、特に、産業ブルジョアジーおよび中産階級の市民であった。

 第三の流れは、「人民主権」を主張する流れである。これは、革命によって徹底した民主主義を樹立しようとする流れである。人民のみが主権者で、国王や特権階級(僧侶と貴族)主権者としては認めない。ルソー(Jean Jacques Rousseau, 1712-78) が、その理論的な代表者である。この潮流の社会階級的基盤は、大土地所有者のもとで搾取され没落に瀕している小農民の階級である。折半小作人、分益小作人などの、貧しい零細農民の階級である。

 これらの潮流は、いずれも独自の経済思想を持っていたが、経済学史上注目されているのは、重農主義の見解である。重農主義は、現実の社会の根底に、人間の意志や能力を超えた「自然的秩序」の存在を認めた。ケネーは、神がこの自然の秩序を作ったと考えた(神の存在の是認)が、この自然の秩序の作用と法則は、人間の理性によって認識されると見たのであった。こうした思想を「理神論deism」という。

 ケネーは、社会に働く自然必然的な法則を認識し、分析することによって、社会改革の方向をあきらかにしようとした。ケネーは、「自然法」に関する論文のなかで、「自然の法則」を「あらゆる自然的出来事の規制された経路であって、人類にとって明らかに最も有利なもの」と見なし、「道徳の法則」を「自然界の秩序に対して適応する、あらゆる人間行為の規則であって、明らかに人類にとって最も有利なものである」と見なし、これらふたつを併せて自然法とよんでいた。しかし、ルソーに比べて、ケネーの自然法は、自然や社会のうちに存在する客観法則という側面が、重視されていた。絶対王政の人為的社会法則や国家の誤った干渉にたいして、社会の中に内在する客観的な自然法が、結局は貫徹され、実現されてゆくことを、予想したのであった。ケネーが見ていた自然法とは、現実には、封建制度を打破して貫徹してゆく、資本主義の経済法則であった。

 かれは、地主の「土地所有権」の「安全」と「自由」が、農業改革の前提となる条件だとみていたので、国家はこの「土地所有権の神聖」を保証しなければならないと見ていた。租税は、「所有権」の安全と自由を守るために、財産所有者が供出する「共同財産」だと見なしたのである。

 こうした地主の土地所有権の保証を前提して、ケネーが行う経済政策上の提案がある。そのひとつは、自由貿易を含めた自由放任ということである。これは、とりわけ、地主の穀物取引の自由の要求を、意味している。ふたつは、土地から得られた純所得(純生産物、produit net)にたいする単一税という政策である。こうした経済政策を根拠づけるものとして、かれの資本理論や経済表のような、経済学説が形成されたのである。

 1750年代以後のフランス啓蒙思想の流れのなかにあって,重農主義者たちは,合法的専制主義の流れに含まれる。それは,コルヴェール主義の行き詰まりからしょうじたフランスの財政的社会的政治的危機を,資本主義的大農経営の普及によるフランス農業の再建を通じて,克服しようとした。しかし,このうえからの体制内改革の途は挫折し,ルソーの直接民主主義(人民主義)の立場に立つ、下からのブルジョワ革命の道が,1789年に始まるフランス大革命においてさしあたり勝利した。このことにより,フランス農業は,資本主義的大農経営ではなく,分割地土地所有と呼ばれる零細な小農民経営が大勢を占めるようになったのである。

. 重農主義の経済思想

 近代啓蒙思想の思想家たちは,自然法思想という共有財産を持っていた。自然法思想とは,人間や社会には,自然の法(Naturrecht,loi naturelle,natureal law)ないし,自然の秩序というものがあるが,現実には人為的な制度によって,その実現が妨げられている。そうした人為的な制度や法というものを是正して,自然法が実現されるようにすると,人間や社会の運動はうまく行くと考える思想である。ホッブズ,ロック,ルソーなどの啓蒙思想家は,いずれもそうした自然法思想を持っていた。もっもと,19世紀の中頃になると,ベンサムなどの思想家によって,そうした自然法思想は放棄されるようになる。

 ケネーもまた,人間社会に「自然法則」があるとみていた。それは,「人類にとって明らかに最も有利な自然界のすべての物理現象の規則的運行を意味する」「物理法則」(loi physique)と,「人類にとって明らかに最も有利な物理的秩序に適合した道徳的秩序から生ずる一切の人間行為の規範を意味する」「道徳法則」(loi morale)とから成り立っている。では,それは彼の経済学説にどのように具体化されていたのか。

 ケネーが経済社会の物理法則とみなしたものは,「経済表」にしめされる

社会的再生産過程の運動であった。また,経済社会の道徳法則と見なしたものは,経済表に示される社会的な再生産過程の正常な運行に適合した,人間行為の規範であった。ケネーは,「経済社会の道徳法則」を,論文「シュリ氏王国経済の抜粋」のなかで,示している。そこで述べられているのは,次のような命題であった。

「7.租税が,その国の所得の総量に対して破壊的でなく,また不釣り合いでないこと。租税の増加は,国の所得の増加に従うこと。」

「9.小作人の子供たちが田舎に定着して,そこに農業者を絶やさないこと。」

11.自国産農産物の対外貿易を少しも妨げないこと。というのは,売れ行きの状態に再生産の状態もまた従うからである。」

13.農産物の低価格が細民にとって有利であると信じないこと。というのは,農産物の低い価格は,かれらの賃金を低下させ,かれらの安楽を減少させ,彼らに手労働や儲け仕事を得させることを減らし,そして国民の所得を減少させるからである。」

17.経済的統治は,生産的支出と自国産農産物の対外貿易とを助けることにだけ没頭し,不生産的支出はこれを成り行きに任せること。」

19.国家は借金を避けること。借金は公債を作り,流通証券の仲介によって,金融業または金融取引を発生させ,そこでは割引が不生産的な金融資産をますます増加させる。この金融資産は,金融を農業から引き離し,また土地の改良と土地の耕作とに必要な富を農業から奪うのである。」

20.耕作すべき大きな領土と自国産農産物の一大商業を行う便宜とをもつ国民は,貨幣および人間の使用を工業や贅沢品商業に向かって,余りに拡大し,ために農業労働や農業上の支出を害することのないこと。というのは,国には,何よりもまず,富裕な農業者が十分に増えていなければならないからである。」

21.各人が,自分に可能な限り最大の収穫をそこから取得するために,自分の利益,自分の能力,土地の性質によって暗示されるような生産物を,自分の畑で耕作する自由をもつこと。というのは,独占は国民の一般的所得を買いするので,土地の耕作においては,すこしもこれを助長すべきではないからである。」

 これらは,「人間行為の規範」として示されているが,その多くは,国家の政策と関わっている。そこでは,啓蒙君主が,自然の法則に従って,一国経済を導いて行く時の指針が,示されている。

 ところで,ケネーが,自然法の支配ということで語っている内容は,資本主義的な経済法則の支配ということであったと思われる。それは経済表で示される社会的再生産過程が,正常に運行することであった。

 

 論文「シュリ氏王国経済の抜粋」で述べた道徳法則は,「農業国の経済的統治の一般法則」(論文『穀物論』中に収められたもの)において,より包括的に述べられている。それは,30の原則から成り立っているが,その主要なものを挙げよう。

主権は,唯一にして,社会のあらゆる個人よりも,および,特殊利益のあらゆる不正企業よりも優越すべきこと。」

主権を単一不可分のものと捉えるのは,ルソーなどにもみられる,啓蒙思想政治理論の特徴である。これは社会の一部が特権階級として,他の部分に主権を振るう圧政に対する批判から生じた。

「2.国民は自明に最も完全なる統治を構成する自然的秩序の一般法則を教えられるべきこと。」

これは国民教育に関する原則である。政府が自然法に基づいて統治するだけでなく,国民が自然的秩序について熟知すべきだとする。まさに啓蒙の必要を述べたものである。

「3.主権者および国民は,土地こそ富の唯一の源泉であり,富を増加するのは農業であることを,決して忘るべからざること。」

 これは土地と農業の生産性を強調する重農主義の思想が端的に表明されている。

「4.不動産および動産の所有権は,その正当な所有者に保証せらるべきこと。なんとなれば,所有権の安全は,社会の経済的秩序の肝心な基礎だからである。所有権の確実なくしては,土地は耕作されないままに放置されるであろう。」

 所有権の安全は,自由・平等・友愛などとともに,ブルジョワ法の基本原則である。ブルジョワ革命を支えた啓蒙思想に特徴的な法則である。重農主義者ケネーにとっては,借地農が安心して農業経営を営み,地主が安心して土地を貸与できるのは,経営資本や土地の所有権の所有権が保証されているからである。

「5.租税は破壊的でなく,または国民の収入額に不釣り合いでないこと。租税の増加は,収入の増加に従うべきこと。それは不動産の純収益に直接課せられるべく,また徴税費を増加し,商業を害し,富の一部分を年々破壊するゆえ,人々の賃金にも商品にも課せられてはならないこと。・・・」

 これは有名な地代への単一税(地祖単一税)の主張であり,ケネーは,農民の富つまり経営資本に課税することは,国富生産の源泉になるという理由から,反対であった。農民への課税強化が,農民を疲弊させ,国を衰退させるものと見ていたのである。

「6.耕作者の前払いは,土地の耕作の支出によって,可及的最大の利益を年々再生させるに足るべきこと。」

 これは農民の経営資本に関する原則である。この原則は,第5の原則と関連して,農民の前払い(経営資本)への課税をいましめ,それが純収益を生む程度の大きさであるべきだと主張する。

「7.収入の総額は,年々の流通の中に復帰し,その全範囲を廻るべきこと。いささかも金銭財産の形作られざること。あるいはすくなくとも,形作られるそれと復帰するそれとの間に,相殺あるべきこと。」

 地主および主権者・教会によって地代として取得される収入は,農業者や工業者の収入は,金銭財産として流通の外に滞留すべきではなく,流通に投じられ,生産者の前払い(投資資本)の回収や,職人の賃金の支払いに投じられるべきだという。収入が金融資産として,再生産の流れから遊離することは,再生産過程の円滑な進展を妨げると見ている。収入が農業と工業の生産物の購入と消費に回される場合には,これらの産業の生産物は販売され,利潤が獲得され,投資資本は回収される。しかし,収入が公債の購入に回される場合には,それは再生産過程の円滑な運行を妨げると見ている。現代的にみれば,これらの金融資産が,産業や商業へ再投資されれば,再生産へ寄与すると考えられるが,当時の社会にあっては,公債は,戦争や公共事業や王室の濫費に用いられていたので,ケネーはそう評価したのであろう。

「8.経済的統治は,生産的支出と自国農産物の商業との助長に専心し,不生産的支出をそのままに放任しておくべきこと。」

 これは,主権者の経済政策を論じたものである。主権者は,農業の促進と,農産物の販売市場の振興を図るべきだというのは,重農主義の農業重視の現れであり,贅沢品の生産を行ない,外国貿易のみを重視する重商主義に対抗するものである。政府の経済政策が,農業への投資という意味での生産的支出と,作られた農産物を販売する国内商業(時としては対外商業)の助長にあるべきだとする。生産を重視しつつも,生産物の販売が,再生産の不可欠の契機である事が,認識されている。

「9.耕作すべき大地域を有し,自国農産物の大商業を容易に行いうる国民は,貨幣と人間との使用をあまりに製造業と贅沢品商業に広げすぎ,もって農業の労働と支出を損なうべきではないこと。」

 前記の原則8とこの9によって,重商主義批判と重農主義の政策的立場が表明されているというべきだろう。

なお,原則10と原則11は,国富の国外流出を避けるべきだとする原則である。

12から第26までの原則は,農業の発展とこれによって国富の増大をはかるための,諸政策を指示したものである。

 「12.富める小作人の子供は,農村にあって農夫を永続させるべきこと。」

13.各人はできる限り最大の収穫を挙げえんがために,かれの利益,かれの能力,土地の性質がかれに暗示する如き生産物を,その田畑において耕作するの自由なるべきこと。」「14.国富の増加を助けるべきこと。」「15.穀物の耕作に用いられる地所はできる限り,富める農夫によって経営される大きな農場に併合されるべきこと。」「16.自国農産物の外国貿易を,いささかも妨げないこと。なんとなれば,再生産は売行きに従うからである。」「17.道路の修理と運河・河海の運行とによって生産物および製造品の販路と運送を容易にすること。」「18.国内の農産物および商品の価格をいささかも下落させないこと。」「20.最大数の民の安楽を減らさないこと。」「21.地主および営利的職業を行う人々は,不生産的貯蓄に没頭しないこと。」「22.装飾の奢侈をいささかも煽らないこと。」「25.商業の完全な自由を保つべきこと。」など。

 これらの原則は,内容的には,第12(農民の子弟の離村を防ぐべき事),第13(耕作の自由),第14(家畜の飼育による肥料の確保),第15(大農経営の勧め)などのように,農業生産の改善に直接関係のある事柄と,第16(穀物輸出の自由)第17(運輸の改善),第18(良価の維持),第202122(農産物への需要の増大),第25(商業の自由)などの,農産物の市場を拡大させるための諸政策とに分けることができるだろう。

 最後に,政府の財政政策上の一般的方針として,「27.政府は節約を事とするよりはむしろ国家の繁栄に必要なる方策を講ずべきこと。」「28.財政は,租税の徴収においても,政府の支出においても,金銭財産を生ぜしめないこと。」「29.国家の臨時的必要のための資源は,国民の繁栄にもとめられるべきであって,決して,資本家からの信用貸しにもとめられるべきではないこと」。「30.国家は借入を避けるべきこと。」などが,挙げられている。  

 ケネーの経済思想の特徴は、まず、農業労働を生産的労働と見て、農業経営の存続と発展を図るべきだと主張する点にある。ついで、そのための政策として、耕作の自由、取引の自由(貿易の自由を含む)、農業の経営資本には課税しないこと(地主の地代収入に対してのみ課税すること)等を提唱したことである。第三に、農産物と工業生産物の生産、流通、分配、消費、そして再生産を順調に進行させることを重視し、地主等の不生産的貯蓄を批判し、政府の財政政策も金銭財産を生じさせないように忠告し、国債の発行を避けるように主張するなど、この国富の再生産の外部に金銭財産が遊離してしまうことを警告したことである。これは、重商主義期のフランスで、金銭財産とそこから得られる利子を求めた金融業者が勢力を持ち、このために農業の再生産が妨げられたことを批判した見解であり、スミスに引き継がれてゆく自由主義的で実物主義的な見解である。  

. ケネーの「経済表」の理論――重農主義の経済学説  

(1)  重商主義批判

 ケネーは、経済学の対象を、重商主義者の重視した流通の領域から、生産の領域へ移した。真の富は、貨幣(金・銀)ではなく、人間生活に有用な生産物であり、これは生産とりわけ農業生産によって生み出されるとした。 ところで、この際、ケネーを中心とした重農主義者たちは、後の古典派経済学に比べて、農業だけが富を創造することができるという特徴的な見解を、取ったのである。農業だけが前払い(avances)すなわち投下資本以上に、純生産物(produit net)すなわち剰余生産物を生産することができるのであり、工業は農業で生産された富の形態を変えるだけであり、商業は等価交換を行えるだけエあると見なした。農業だけが「生産的」であり、工業や商業は「不生産的」だと見なしたのである。とはいえ、ケネーによってはじめて、生産的労働と不生産的労働との区別は導入されたのであり、これはスミスやマルクスによって受け継がれる。 

(2) 純生産物の理論

ケネーはこの生産的労働と不生産的労働との区別を、マルクスが行ったように、剰余価値の生産の有無だけで区別したのではなかった。ケネーは、まだ、価値と使用価値との明白な概念的区別ができなかった。かれは、農業について、消費された使用価値(穀物)と生産された使用価値(穀物)との差に基づいて、「純生産物」すなわち剰余価値を捉えた。ところで、生産された財貨と消費された(生産のために投入された)財貨との差は、農業の場合に最も容易に見ることができる。というのも、たとえば、穀物生産などの場合には、投下される種子および農民または農業労働者の生活費として消費される穀物量と、収穫時に刈り入れられる穀物量との差額とは、一目瞭然だからである。他方、工業生産の場合には、投下された原料と生産された製品とは形状が異なるので、その価値の差異というものは、価値概念または貨幣を介さないと分からないので、不生産的労働とされたのであろう。

ところで、この農業者(fermier,資本主義的借地農、農業資本家)の生産する純生産物の一部が、「地代」として、地主に支払われる。国王、大地主、教会などの土地所有者の所得である地代は、農業で生産された剰余である純生産物から支払われると、ケネーは捉えていた。かれらは、この地代収入によって、農業者から農産物を、工業者から製造品を購入するので、再生産のうえで購買者(消費者)としての役割をはたす。

ケネーは、使用価値と価値との区別が十分にできなかったので、純生産物を労働の生産力の成果としてではなく、自然の生産力の賜物と見なした。純生産物が自然の賜物と捉えるところに、重農主義経済理論のひとつの限界があるといえる。 

(3) 資本理論

ケネーは、「良耕(bon culture)」と「良価(bon prix)」とを、農業生産の豊かに行われる理想社会の二大支柱と捉えた。そのうち、良耕とは、馬を用い、三圃式の比較的集約的な農業経営の行われる状態であり、良価とは、経費、土地税、借地料などから成り立っている「基礎価格(prix fundamental)」を超えて、一定の農家収入を保証するような穀物価格である。良価が保障されなければ、農業者の「元本」は保証されないし、再生産も保証されない。良価とは、農業生産に資本を投下し、農業経営を行うに値するような農産物の価格である。

ところで、農業者の「元本」つまり資本について、ケネーはどう考えていたのか。かれは、「前払い」(les avances)を、「年前払い」と「原前払い」とに分けた。「年前払いは、耕作労働のために年々なされる支出から成る、」(『経済表』岩波文庫、42頁)。これには種子や農夫の食べる穀物が含まれている。他方、「原前払いとは、耕作の創設の資本をなしており、その値は、年前払いの約5倍である。」(同)。原前払いとは、農機具や建物などであり、ケネーの想定では、これは10年間の耐用期間をもち、したがって、毎年その十分の一の額が、減価償却のために、修復されたり、貯えたりされねばならない。この部分を、ケネーは、「原前払いの利子」と呼んでいる。

ケネーの原前払いと年前払いの区別の説明を読めば、それが資本の回転の相違による区別であることが、明らかであろう。資本の回転が数年にわたる「原前払い」は固定資本のことであり、資本の回転が1年間の「年前払い」は流動資本のことである。ケネーは。はじめて、資本の回転を基準にした、固定資本と流動資本の区別を、発見したのである。  

(4)経済表の分析

経済表範式

                  再生産総額: 50

       生産階級       地主、主権者        不生産階級

       の年前払       教会の収入         の前払

 

        20億         20億           10

       ――――――                                       ――――――

        10億  

収入および                            10

原前払の利子   10

の支払に用い                           10

られる額     10                                           -―――――

                              合計   20億   

         20                                   その半分は次年度の前払

  ―――――――――――               のためにこの階級によっ 

  合計   50億                   て保有される

 

経済表の説明;

(1) 経済表の前提は,技術革新や分業による生産性の向上がみられないこと,各階級の支出の形が決まっていること, および物価変動がないことなどである。こうした前提のもとに,生産階級・不生産階級が生産をおこなったのち, 生産階級によって生産された農産物  (50 億リーブル) と不生産階級によって加工された工産物(20 億リーブル) , 地主階級  の所有する貨幣(20 億リーブルの地代) と不生産階級の所有する貨幣(10 億リーブル) を介して, どのように各階級のあいだで交換され分配されるかを, 一枚の表に表している。この際, 交換は線分でしめされている。この表はまた,こうした交換と分配の結果として,翌年の生産の前提がつくりだされ, 再生産( ここでは単純再生産) が可能になることをも示している。したがって経済表は社会的再生産を一枚の表にあらわしたものといえる。前頁の表にもとづき,このことを説明してみよう。

(2) まず, 生産階級は期首に,地主から20億の地代を支払うことを条件に土地をかり,10 0 億の原前払( 償却期限10年の固定資本) 20億の年前払を投資して, 期末に50億の農産物を生産する。ついで, 不生産階級は期首において前払として10億の貨幣額をもって出発し, 期末に20億の工産物を生産する。さらに, 地主階級は前年のすえに生産階級から支払われた貨幣地代20億を持っている。

(3) まず不生産階級は, そのもつ貨幣10億によって生産階級から生活必要品を生産階級か  ら購入し, これを消費しつつ生産をおこなう( 線分1)。ついで地主階級は20億の貨幣のうち10億でもって生産階級から生活必要品を購入し( 線分2),10 億でもって不生産階級から  加工品を購入し( 線分3), これにより生活する。不生産階級は地主に加工品を販売して得た10億をもって, 生産階級から工業用の原料を購入し( 線分4), これにより工産物を生産  する。最後に, 生産階級はこれまで農産物を販売して獲得した30億のうちの10億をもって,不生産階級から原前払の利子( 固定資本の償却分) として労働手段( 工産物) を購入する( 線分5 は,生産階級の一段下の10億から引く方がただしい)。この結果,生産階級の  手元にはなお20億の貨幣と20億の農産物が残っており,不生産階級の手元には10億の貨幣が残っている。

(4) 以上の交換の結果として,生産階級は地主階級に翌年の貨幣地代20億を支払うことができ,また原前払の利子を支払い, 翌年の生産のための年前払20億をもつ。不生産階級は,今期に生産した工作物20億を販売した20億のうち,10 億は生活必要品を購買し消費したが,のこりの10億は翌年の前払として留保される。こうして翌年もまた生産が可能になる。     

(5)  重農主義の経済政策

A.国家観

 重農主義は、所有権の不平等は自然的秩序の結果であり、地主の土地所有権は絶対的なものだと見た。そして、所有権の安全と自由が、農業改革遂行のための基礎的条件だと考えた(河野健二、フランス革命とその思想)。

 政府は、この地主の「所有権」を保証すべきものとされた。地主を初めとする財産所有者は、自己の財産(所有権)をとるために、自己の財産の一部を租税として提供し、「共同財産」を設ける。君主はこの「共同財産」の受託者であり、絶対権力をもって、この所有権という人間の自然権を保証するために、働かなければならない。このように人間の自然権と社会の自然的秩序を維持するために、絶対君主が政治を行うのが、「合法的専制主義」だったのである。  

B.経済政策

 坂本慶一氏によると、ケネーの経済政策論は、農業近代化論、穀物自由化論、および財政改革論の三つの柱からなっている。まず、

農業近代化論とは、借地農による大農経営により、農業生産力を増強し、国富を増大させることである。穀物自由化論とは、穀物取引の自由化を行うこと、たとえば、国内では商業独占による穀物の自由販売の阻害を克服し、対外的には自由貿易を行うことにより良価を実現し、かくして農業生産を刺激して純生産物を増大させ、農業の再生産の円滑な進行を図ることである。

財政改革論とは、借地農に対する全課税を撤廃し、地主階級の地代に対してのみ直接に課税する。つまり、間接税を廃止し、地租単一税を施行することにより、借地農の資本を保証し、農業の純生産物の増大を図ることである。国家が、地租単一税によって得た財源を、生産階級の生産する農産物の購入に向ける場合には、農業の拡大再生産を可能にするような農産物需要が生じることになるだろう。

このこと以外に、重農主義は、領主の封建的特権を廃止し、農民の共同的諸権利を撤廃することにより、封建的土地所有を解体し、近代的土地所有の確立を図ろうとした。したがって、重農主義は、近代的土地所有の確立によって資本主義的農業経営を助長し、その力によって財政危機に陥っている絶対君主制を補強しようとしたのである。かれらは、主観的には、ブルボン王朝の絶対王政を補強するつもりで、客観的にはフランスにおける農業資本主義の確立と展開を図る政策を提出したのである。  

 

Z.     アダム・スミスの『道徳感情論』における道徳哲学

(古典派経済学の成立―アダム・スミスの経済学説―『道徳感情論』と『国富論』をめぐって)

  1.  アダム・スミス(Adam Smith,1723-1790)の生涯と著作

 A.主著

  The Theory of Moral Sentiments,1759.

  An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations,2Vols.1776.  

B.生涯

1723・・・スコットランドのカーコーディに生まれる.

1744・・・オクスフォード大学でバチュラー・オブ・アーツの学位を取得.

1751・・・グラスゴー大学論理学教授に就任. フランスでディドロおよびダランベールが

     『百科全書』第一巻および第二巻を編纂出版.

1752・・・スミスは道徳哲学の講座に転任. エディンバラ哲学協会およびグラスゴー文学

     クラブに加わる.

1755・・・『エディンバラ評論』を創刊( これは翌年第二号をだして廃刊).

     北アメリカでイギリスとフランスとの植民地戦争( ─1763,7年戦争の一部).

1759・・・4 月末, ロンドンで『道徳感情論』出版. フランクリン, タウンゼントと会う

1763・・・「国富論の初期の草稿」として知られる論文を執筆しタウンゼントに送る.

1764・・・1 月末か2 月初めにバックルー公とともにフランス旅行に出発((─1766.10).

1766・・・パリ滞在中, ドルバック, エルベシウス, レスピナスなどのサロンに出席.

1767・・・ロンドンに滞在し, 『道徳感情論』第三版の校正と,『国富論』のための研究

     をする. ロンドン王立協会の会員に推薦される.5 月バックルー公の結婚とと

     もに,故郷にかえり,『国富論』のための研究に専念する.

1773・・・4 月, ほぼ完成した『国富論』草稿を携えてロンドンに行き,その後1776年ま

     でロンドンで同書の仕上げに専念した.ヒュームを遺言執行人に指名する.

1776・・・3 月9 日『国富論』第一版, ロンドンのストラデル・キャデル書店から刊行.

     ヒューム死去. アメリカ独立宣言公布( ジェファースン起草).

1779・・・アイルランド自由貿易問題について意見を求められる.

     イギリス, 蒸気機関による工場はじまる.ラダイツ運動はじまる.

1782・・・『国富論』第三版の増補のために東インド会社の歴史を研究する.

1784・・・『国富論』第三版出版. 第4 編, 第5 編に増補が加えられた。

1789・・・アメリカ合衆国政府成立. フランス革命勃発. フランス人権宣言.

1790・・・『道徳感情論』第6 版出版. かなりの増補と削除. 7月17日, 死去.

( 大河内一男編『国富論研究V』筑摩書房, 水田洋著『アダム・スミス研究』未来社,196

8, 等参照)

 

2.  スミスの人間観・社会観

   (──『道徳感情論』(1759)における見解──)

  A.スミスによると道徳と正義の基礎をなすのは, 同感( 同情,Sympathy)という人間に普通に見られる感情である。人間は利己心とともに同感という感情をもっている。同感とは,人間が想像力によって, 自分自身を他人の立場に置き換えることにより, 他人の感覚・感情・動機などを理解することである。そして観察者の同感という感情作用は,行為者の立場に想像上自分をおくことによってだけでなく,行為者の置かれた状況を理解することによって生じる。

B.行為者の感情が「道徳的に適正」であるかどうかは,行為者の「原本的な感情」と観察者の「同情的な情緒」とが「完全に一致」するかどうかによって決まる。そして観察者は諸事情を知ることにより,行為者の感情がそれの起こった動機に適合していると感じたときに, 行為者に同感する。したがって,観察者が行為者の感情に同感するとき, かれはそれを道徳的に適正なものとして是認しているのであり,同感しないとき,それを道徳的に不適正なものとして否認しているのである。

C.ところで, 観察者が行為者の立場に想像上自分を置くように,行為者もまた想像上, 観察者の立場に自分をおいて,自己を冷静に見つめる必要がある。つまり観察者と行為者とが互いに立場を想像上交換する。このことによって両者の情感がやわらげられ,一致しやすくなる。またこうした両者の努力のなかで,観察者においては「寛大な人間愛」,行為者においては「情感の支配」( 自己抑制) という美徳が成立する。

D.さらに,観察者と行為者とは,想像上, 立場を交換するだけでなく,市民社会の日常生活生活において, 実際にも立場を交換する。つまり観察者はつぎの時点では行為者となり,行為者は観察者となる。こうした観察者と行為者との想像上および現実的な立場の交換のなかで,「公平無私の見物人」=「公平な事情に精通した観察者」が成立する。こうなると,行為者はこの「公平無私な見物人」の同感するような程度において,自己の感情を表現しなければならない。こうして,公平無私な, 事情に通じた観察者の同感というものが,行為者の感情表現の道徳的適正さを判断する基準になる。したがって,同感という感情作用が, 徳の判断能力の基礎であると, スミスはみなしたのである。

E.スミスは「かくして他人のために大いに感情を動かし,自分のためにはほとんど感情を動かさないということ,我々にわがままを抑制して,われわれに仁愛に満ちた性向を自由に発動させるということが完全なる人生を成就させるに至るのだ」と述べている。

F. 徳の判断能力としての同感の原理を明らかにしたのち,スミスは徳の内容について,  論じる。そのうち, 道徳哲学体系の三つの部門である道徳的世界・法的世界・経済的世界の三つの部門の徳, すなわち仁恵の徳(Beneficence), 正義の徳(Justice ), および慎慮の徳(Prudence)について, 説明しよう。

G.まず, 仁恵の徳とは,道徳的に適正な動機から発生し, 被行為者と見物人に感謝の感情を呼び起こすような行為のことである。それは被行為者と見物人の感謝を呼び起こす点で美徳であるが,それは人々に強制さるべきものでない。また,それなしに, 社会が存立し得ないものでもない。「仁恵は常に自由であり,それは権力をもって強制することはできず,単なる仁恵の欠如は刑罰の対象とはならない」とスミスは述べている。

H.これに反して正義の徳とは,他人の生命, 財産, 権利などを侵害しないことである。正義の徳を遵守することは個人の恣意にはまかされておらず, 社会はこの正義の徳の実行を強制できる。またそれに違反する行為は報復感の対象であり,刑罰の対象になる。だが, 「正義は一種の消極的な美徳にすぎず,それは単にわれわれが隣人に害を与えることを防止するにすぎない」。正義の徳を根拠づける際にも,スミスは公平無私な見物人の同感作用をもちだす。つまり,人間は他人の幸福よりも自分の幸福を重視するという性向があるが,他人を犠牲にしてまでその性向を発揮することは,公平無私な見物人の共鳴するものではないという。ところで, 正義の法則としてスミスの挙げるのは,隣人の生命と人格を護ること,隣人の財産と所有物とを保護すること,隣人が個人的権利ないしは他人との契約にもとづき所有するにいたったものを保護することなどである。

I.最後に, 仁恵の徳と正義の徳とを比較し, 前者は「社会という建築物を飾りたてる装飾品ではあるが, それを支える土台石ではない」のにたいして,後者は「社会の全殿堂を支える大黒柱である」と特徴づけている。

J.第三の徳である慎慮の徳は,正義の原則を守り,自分自身を統制しつつ,自分の幸福を追求する徳のことである。「個人の健康,財産,身分ないし名声にたいする配慮」は,慎慮という徳のおこなう適切な仕事である。慎慮の徳は安全を目的とし,徳の内容には,職業上の知識と手腕,事業遂行上の勤勉努力,出際の際の節倹や,研究熱心さ,誠実で遠慮がちなこと,敏感に友情を感じること,長期的な安楽が得られるという期待のもとに瞬間的な享楽を犠牲にすることなどである。しかしスミスは,慎慮の徳を「最も尊敬すべきもの」で「快適な性質」とみなしつつ,「最も高尚な美徳」とは考えられないと評価している。

  3.  スミスの『国富論』(1776年)における経済的自由主義

  (1)歴史観

A.

スキナー( 『アダム・スミス 社会科学体系序説』未来社刊)によれば,経済を重視したスコットランド歴史学派の人々は,人間が活動的な存在であり, 物質的な生活状態を改善しようとする性質をもつということにより,未開社会から文明社会への発展を説明し, また, 経済成長を狩猟, 牧畜, 農業, および商業の四つの段階に区分し, そのそれぞれにおいて生産活動や生活資料の獲得の仕方や財産の形態と制度がことなると見做した。スミスはこのスコットランド歴史学派に影響されつつ,自説を作り上げていった。

B.

スミスは,社会の第一段階を「北アメリカの原住種族のあいだにみられるような最も低く, 最も未開の社会状態」( 『国富論』) と捉え,そこではひとびとは自然の果実を採取したり,狩猟したりすることにより生活し, 生活共同体は家族単位で小規模である。ついで, 社会の第二段階すなわち牧畜段階は「タタール人やアラブ人たちのあいだにみられるようなより進歩した社会状態」であり,そこではひとびとは動物を飼育したり,放牧することにより生活資料を獲得する。生活共同体はより大きくなり,家畜という蓄積可能な私有財産が存在するので, 貧富の差が発生する。貧富の差の発生とともに,富者の財産を貧者から守るために市民政府が形成されるにいたる。

C.

 社会の第三段階は,農業段階であり,ローマ帝国の没落につづく時期やゲルマン民族やスキタイ民族の支配がおこなわれた時期を例として挙げつつ論じる。そこでは定住地での農業により,生活資料の獲得がなされるが,主要な生産手段である土地が少数の大地主によって独占されている。こうして富の不平等と, その結果としての家柄の不平等が発生し,それによりさまざまの権威と従属の関係が成立する。また,農業経済の発展とともに,都市が成長し, 都市における製造業の発展は農業生産を促進する。土地を占有して農業生産に携わるひとびとのあいだに, 個人の自由と安全がしだいに導入されてくる。

D.

農業と製造業に従事するひとびとが増え,二つの部門の間の商品流通を担う商人が増えてくると,農業社会を支配した地主の権力が衰退し, ひとびとのあいだの関係は,人格的な依存関係から市場による商品を介した物的な依存関係に転化してくる。と同時に, 社会は地主, 資本家, 賃労働者の三大階級に分化する。こうして,近代の交換経済ないしは商業経済が成立する。これが,経済発展の第四段階の商業社会である。この商業社会は, 人間の本性である利己心と同感という原理に適合した自然的な社会だと見做された『国富論』はこの商業社会の経済の仕組みを解明することを課題にしている。         

[.  同書における資本主義の一般理論

1.  『国富論』の編別構成と概要

 スミスの『国富論』(1776)は,「第一編 労働の生産力における改善の原因と, その生産物が国民のさまざまな階級のあいだに, 自然に分配される秩序について」, 「第二編 資本の性質・蓄積・用途について」, 「第三編 国によって富裕になる進路の異なること」, 「第四編 経済学の諸体系について」, 「第五編 主権者または国家の収入について」などの五つの編から構成されている。

  最初の二つの編は理論編であり,人間の自然に合致した「自然的自由の体制」の経済構造とその運動法則について論じている。第一編では,有名な分業の生産力上昇にとっての効果からはじめて,商品の価値と使用価値の区別,市場価格と自然価格の区別,貨幣の機能などの流通論の問題,価格を構成する要素として賃金・利潤・地代などの分配論の問題,社会の進化につれての諸社会階級の社会状態の変化などを論じる。ついで,第二編では,資本蓄積論が重要であり,資本家がその利己心にしたがって,生活物資などからなる資財を,生産的労働者を雇傭する資本に転化することによって,資本蓄積が進展すること,また資本蓄積の進展につれて分業が深化拡大し,国富が増大してくるというかれの基本思想が述べられている。

  つづく二つの編では, ヨーロッパの近世の経済史とスミス以前の重商主義や重農主義の学説について述べ,最後の編では自然的自由の体制のもとでの国家の財政のありかたについて論じている。つまり,「安価な政府」論の主張であり,課税の原則や,均衡財政の思想が述べられている。『国富論』をスミスの問題意識にしたがってとらえなおすと,まず当時のヨーロッパの重商主義体制が人間の自然に合致しない人為的な体制だという意識があり,それを主張するためにまず人間の自然に合致した経済体制についての基礎理論( 第1 ・2 編) をつくり,それにもとづいて重商主義を批判し, 自由主義への移行の必然性を論証しようとした( 第3 ・4 ・5 編) のである。    

2.  『国富論』第一編の内容

 A.国富観と国富増進策      

    土地と労働の産物。分業による労働の改善と有用な労働に従事する人びとの数。

 B.分業論     

    作業の分割と職業の分化。分業の原因(人間の交換性向)。

 C.貨幣論     

    商品交換の発生とともに,特定の商品が,後には貴金属が「交易の共通の 用具」として用いられるようになった。貨幣は価値尺度機能と流通手段としての機能をもつ。

  D.価値論

    商品の使用価値と交換価値。交換価値を規制する法則(初期未開の社会,商業社会)。

  投下労働説・価値分解説と支配労働説・構成価値説との併存。価値決定の問題を価値測定の問題にそらし,商品交換価値を測定するものとして,穀物(長期),金銀(短期),および労働を挙げている。→支配労働説。

 E.価格論

    商品の自然価格を構成するものは,「賃金,利潤,および地代の自然率」である。商品の市場価格は,市場での供給量と有効需要量との関係により決まる。自然価格は市場価格の「中心価格」である。そこで,賃金,利潤,地代の自然率を追求する。

  F.賃金論

    その自然率は,労働者とその家族の生活を維持するに足りるものでなければならない。   賃金の市場率は,労働者に対する需要と供給により決定され,社会の状態が繁栄にむかう進歩的状態においては,その自然率よりも高くなる。また,社会の状態が停滞的状態では,賃金の市場率は自然率に一致し,衰退的状態ではそれ以下になる。したがって, 高賃金は,社会の進歩的状態の表れであり,また,高賃金は庶民の勤勉をも増進するから,それは望ましいものである。したがって,賃金の変動に影響を及ぼす要因は,短期的には労働に対する需要と供給の変化により,長期的には,生活必需品と便宜品の価格の変動による。

  G.利潤論

    利潤率とその変化傾向を論じている。資本増加は資本家の競争を激化させ,これは一方で商品価格の低落をもたらし,他方で,労賃の上昇をもたらす。そこで,両者あいま って利潤の低落をもたらす。利潤率の変化は,市場で明示される利子率から推測される。社会の状態と利潤との関係については,進歩的状態では賃金同様に利潤は高く, 停滞的状態では,賃金も利潤も低い。現実の資本主義社会は,その中間の状態にあるとみる。

 H.地代論

   地代は,ある種の独占価格であり,土地を借りようとする農業資本家は,競争のために     出来る限り高い価格を支払わざるをえない。賃金と利潤は価格の原因であるが, 地代は農産物の高さがもたらす結果であるとみる。人間の食物となる土地生産物のように常に地代を生じる土地生産物と,衣類や住居の材料となる生産物や鉱産物のように時には地代を生じ時にはそれを生じない土地生産物とがある。耕作の改良につれて, 食物の価格にくらべて他の土地生産物の価格が高まる。

  I.社会の状態と三階級の状態の変化

  社会の状態の改善(「改良と耕作の進展」「労働生産力のあらゆる改善」「社会の真の富の増加」)は,土地の真の地代を高め,労働あるいは労働生産物に対する地主の購買力を増加させる。また,それは労働者の賃金を上昇させる。しかし,資本家の「利潤の率は,富裕な国では低く,貧しい国では高いのが自然であり,また,急速に破滅に向かいつつある国では,それはつねに最も高い」とみる。

  3.  第二篇の内容

  第一編では,分業による労働生産力の改善が国富増大の一原因だとみたが,第二篇では,資本蓄積にともなう生産的労働者の増加が,国富増加のもう一つの原因だと指摘する。   

  A.資本(stock)の分類

  個人の資財の分類・・・・収入(Revenue),資本( Capital)

    社会の総資財の分類・・・収入(Revenue),固定資本(Fixed Capital)

                            ,流動資本(Circulating capital)。定義の問題性。

  資財を収入と資本に分類したことが,資本蓄積論にとって重要。

B.総収入と純収入との区別。社会の総資財の一特定部門としての貨幣と銀行の働き

C.資本の蓄積。

 ・資本の蓄積の定義=既存資本への追加資本の付け加え。

  ・資本蓄積→生産資本の蓄積→不生産的労働者の雇傭から生産的労働者の雇傭への振り替え。

 ・生産的労働者と不生産的労働者の区別╶─→(1)対象の価値を増加する種類の物とそうでないのものとの区別,(2)ある特定の商品の形に固定化し,価値を存続できるかどうか。

・総生産物(総収入)= 利潤と地代(純収入)+ 資本の回収部分←╴その国の過去の 資本蓄積の規模

↓                       

不生産的労働者の雇傭 +  生産的労働者の雇傭

                    ↓

                  翌年の生産の規模

  ・資本と収入の比率→勤勉と怠惰の比率

 ・節約→資本増加→拡大再生産

  浪費→資本減少→縮小再生産→公共社会の敵

 ・国家が正義の原則(身体生命の安全,所有の保証等)を保証すれば,各人の利己心の作用により,節約がなされ,資本が増加し,生産的労働者が増加し,国の富裕が増大するとみる

D.投資の自然的順序論

  ・資本の使用法・・・(1)農業,(2)製造業,(3)卸商業,(4)小売り商業。 農業は最も多くの生産的労働者を活動させる。製造業者は手工業者や農業者の資本と利潤を回収させる。卸業者は農業者や製造業者の資本と利潤を回収させる。小売商人 は卸売商人の資本と利潤を回収させる。( 順次,上の段階の資本が回収されるという視点をとる)。(順次,上の段階の資本の物的補填を行うという観点をとる)。

 E.投資の自然的順序

    農業╶→製造業╶→卸売業╶→小売業。その実例は,当時のアメリカ。

また,卸売業は,国内商業→外国貿易→中継貿易の順序で,生産的労働者を多く雇傭するので,その順序で投資されるべきだと見る。

4.  第三編,第四編,第五編

上記の第一・二編の理論に基づいて,当時の重商主義政策の批判がなされ,また,安価な政府論が論じられている。