漫遊記=中国と私の縁=

 

李ゼミ1期生 96E2369 幅岸智美

 

一、再会

 2006624、数年ぶりに豊橋に向かう。李春利先生や大学時仲間との再会に胸が躍った。キャンパス内を歩くのも懐かしく、新しく建てられた研究室へ足を運ばせた。

扉を開けると、李先生の変わらない笑顔に安心と嬉しさを感じた。変わったことといえば李先生の傍らに奥さんができたこと。初めてツーショットを目の当たりにしたが、とても微笑ましくて、恭喜恭喜、という気持ちでいっぱいになった。

つかの間の再会だったけど、素敵な時間を感謝感謝!!

 李先生からのリクエストにお答えして、中国留学体験談を紹介させてもらうことに。といっても56年も前の話で記憶がちょっと曖昧ですが・・・

 

二、北京第二外国語学院 (以下:二外)

 20002月、単独の北京上陸。北京は今回三度目である。

一度目は高校時の研修旅行。二度目は愛知大学の短期留学。三度目降り立ったときは「ただいま」って感じだった。

周りが就職活動の最中、私は二外の短期留学があまりにも楽しかった印象が強く残っていたのでこのまま就職することが考えられなかった。そして何より中国に興味があった。「どうして中国なの?」と当時も今でもよく聞かれるが、好きな気持ちに理由などなかった。

当時二外の留学生は日本人と韓国人が圧倒的に多く、オーストラリア人、アメリカ人、ロシア人などさまざまな地域から集まっていた。宿舎は外国人留学生宿舎があり、半年間は韓国人とシェアして住んでいた。バス・トイレ・キッチンは共同。私の住んでいたフロアは全員女子だったため過ごしやすかった。でも冷蔵庫にストックした食料品はよく盗まれ悔しい思いを何度もした。毎日お昼は食堂で済ませていたので夜は自炊したり、近くの美味しい中華料理や餃子店、二外の韓国料理を食べに出かけた。

授業は午前中のみ。教室の机の配置が先生を目の前にコの字型になっていてみんなの顔が見えるアットホームな感じがよかった。午後からは自由時間なので買い物に出かけたり、スポーツしたり、日本語クラスの中国人と相互学習(互相:フーシャン)などをして毎日が過ぎていった。

週末になると毎週のように飲み会があった。売店に行きビールケースをせっせと運んでいたのが懐かしい。みんながビンビールを片手にそのまま飲み明かした。あの頃は若かった。中国だから、あの仲間たちと一緒だったからワイワイ楽しく飲めたのだろう。管理人さんたちにとっては大きな迷惑だったろうけど。

タフな私は休日でもごろごろしてるということはなく、とにかく北京を探索に出かけたものだった。類は類を呼ぶ。私の周りにはたくさんのタフな友達がいた。北京の観光名所はもちろんのこと、北京のさまざまな大学へ見学にも訪れた。

せっかく異国の地に住んでいるのだから、目で見て肌で感じて思い切り楽しまなきゃ損!時間とお金のある限り、旅がしたい!毎日そんなこと考えていた。

 ゴールデンウィークは家族が北京へ遊びに来てくれた。その間私も一緒にホテルに泊まっていたので久々の贅沢をした。天安門、故宮、長城、明十三陵、京劇などへ連れていった。思えば家族に中国語をお披露目したのはこのときが初めてだった。うまく話せていたのだろうか・・・。私が住む北京を家族にも堪能してもらえたことが素直に嬉しかった。

 夏休み。待ちに待った旅。行き先は内モンゴル、フーシャンをしてくれた李さんの故郷南京、李ゼミ一期生の井上允ことまこっちゃんに会いに上海、そして雲南省の旅に出た。

 内モンゴルは北京から一晩かけての列車旅。フフホトに到着。フフホトはモンゴル語で青い城という意味らしい。内モンゴルの区都であるフフホトの街は思っていた以上にビルが建ち並んでいて驚いた。車に乗ってしばらく走ると草原と砂漠の大自然が広がる。ベストシーズンに訪れたのは正解。広くて青い空、パオの宿、アルコール50度近い白酒、ニイハオトイレ、馬と駱駝に乗り、満天の星・・・すべてが初体験。草原には馬や羊が群がっている。ふと時間を忘れてしまいそうになる。ここに暮らしている人々は穏やかで温かい。あくせく働く日本人とは正反対の世界である。この光景を忘れないだろう。

 同じくして留学中だったまこっちゃんに会いに上海へ。彼は元気そうだ。変貌を遂げる魅力的な上海は古い建物と新しい建物が入り混じっていて歩いてるだけで楽しい街である。

日本のお店やコンビニを見かけるとちょっと嬉しい気分になる。

なんといっても東方明珠塔(テレビ塔)から眺める夜景にはうっとりとした。手に入りにくい上海雑技団のチケットもまこっちゃんのおかげで観ることができた。なかなか迫力あるショーだった。

上海に来たのも三度目だったが必ず豫園のショーロンポウは食べに行く。今回もこの旅を共にした友達と出かけた。上海料理は北京よりもあっさりしていて日本人好みだと思う。

まこっちゃんとさよならして南京へ向かう列車に乗り込んだ。

 南京駅でフーシャンの李さんが待っていた。南京では李さんの家でお世話になった。

南京は古都というだけあってすごく趣のある街。先ず李さんは長江大橋に案内してくれた。歩いて渡ってみるとその広大さを実感した。川は茶黄色できれいではないが、どうどうと流れるさまが迫力ものだ。印象深かったところは孫文の陵墓である中山陵。夏休みということもあるせいか、どこからこんなに多くの人が、というほど人・人・人。中国ならではだ。広大な敷地に御参りまでの長い階段の道のりが続く。猛暑と人の多さに疲労が重なる。

でも李さん家族のおもてなし、温かく歓迎してくれたことがとても嬉しかった。名残惜しく南京を去り一度北京へ戻ることにした。

 体力も復活したところで雲南省へ。雲南省へ行きたかった理由は短期留学時にフーシャンしてた人の故郷が昆明だったから。またこの旅で同行した友達のフーシャンも昆明の人だったから。昆明は一年中春のように暖かく緑が豊かで過ごしやすい気候である。

雲南料理のひとつ、過橋米線(鍋に熱いスープ、米製のうどんと具を入れて食べる)という料理がとても美味で気に入った。昆明ではフーシャンに民族村や石林という観光名所を案内してもらった。その後、フーシャンと別れて私たちは大理と麗江へ向かった。

大理はバスに乗って5時間ほどかかる。中国に来ていつも感じることは運転が本当に荒っぽいこと。カーチェイスをしているかのようにビュンビュン飛ばす。こちらとしては本当に危機を感じる。そんな運転だから中国ではもちろん交通事故が少なくない。でもぎりぎりのところで上手く車を交わすので、きっと中国人の運転は上手いのではないだろうか。

大理へ向かう険しい山道も運転手は飛ばすといったら・・・。中国の生活に慣れてもこの運転の荒っぽさには慣れない。

大理は山岳地帯で少数民族のペー族が居住している。観光ツアーに参加し、ペー族文化に触れることができた。一緒に写真も撮らせてもらったし、民族衣装も着て記念ができた。おみやげとしてろうけつ染めという布が有名で、私も大小の布や巾着袋を何枚も購入した。布が丈夫で染められたデザインも素敵で今でも愛用している。それから蒼山という山に登った。蒼山は万年雪をいただく山々である。中腹あたりまで登るにはロープウェイを利用しなければいけない。乗ること数十分、その途中に山や湖、町並みが一望できる。本当に美しかった。時間がなく雲南省の昆明、大理、麗江しか周れなかったが、自然に囲まれた少数民族の故郷を垣間見れたことは私にとって大きな体験だった。是非また訪れたいところである。

 この夏を満喫した。日本では決して味わうことができない貴重な体験。ビンボー旅がしたくて節約できるところは節約した。買い物をするときは値切って値切って、タクシーをつかうときは交渉して、大変な目にも遭ったけどそれが旅の醍醐味というものだ。

 夏が終わり新しい宿舎に引越し、今度は気心が知れた日本人友達とシェアした。そして新たなクラスで授業が始まった。

 季節が変わり、21世紀を北京で迎えた。天安門広場で賑わっている人々の様子がテレビ中継しており、私たちも宿舎で盛り上がっていた。

 二外の留学生活も残りわずか。私の頭には帰国という文字はなく、既に深圳大学への入学手続きをしていた。このまま日本に帰って就職はできない。その理由として語学力が伸びずに悩んでいたから。どうせ残るならと北から南へ大移動してみようと思った。広州と深圳で悩んだが、経済特区という点と香港に行くのに大変便利だという点で深圳を選んだ。

 

三、深圳大学 (以下:深大)

  20013月、深圳上陸。

 深圳の気候は夏が長く、冬が短い。一年中通して暖かいが、雨季が長くて湿度が高いので洗濯物が乾きにくく大変だった。深圳は都市だけあって道路や交通が整備されている。道端のあちこちに花が生けてあり、歩道を掃除するおじさんやおばさんを見かける。歩いてて気づいたが歩道にゴミがほとんどない。これには驚いた。北京のような歴史は全く感じとれなくて、海岸に面する深圳は遊びや観光施設が集まる街である。ただ治安が悪いので夜はなるべく出歩かないようにしていた。

言葉に関しては深圳は中国各地から人々が集まっているため、広東語より普通語が飛び交っている。またビジネス街でもあるため多くの外国人が居住している。海外の企業が多いためか出張に来る外国人にとっては深圳の暮らしは問題ないかもしれない。当時ゴルフがすごく流行っていると聞いたが、深圳にはたくさんのゴルフ場があった。駐在員や出張で来るビジネスマンにはもってこいの娯楽である。

驚くことに深大のキャンパス内にもゴルフ場があった。他に競技場もあって運動するのによく利用したがとにかく最新の設備が整っていた。もちろんインターネットは出来たし、宿舎の電話から国際電話をかけることが出来た。食堂はICカードを利用し、食べ物を購入後レジの上にカードを置くと店員さんがその料金分を自動的に差し引いてくれるしくみになっていた。本当に便利で、ここは中国だよね?と錯覚を起こしそうになることもしばしばだった。

深大の留学生は現地で就職する人が結構いた。香港に近いこともあり、情報が入ってきやすいため、数社から内定をもらう人もいた。だから中国圏で就職を考える人には有利な場所かもしれない。

 授業は二外の時と同様で午前中のみだが、午後は広東語や習い事を選択する人もいた。私は広東語を学んだがしばらくして挫折した。発音が難しく声調が9声もある。広東語は普通語とは全く別ものの外国語だ。今思えばもっと頑張っておけばよかったと後悔してる。

二外では日本人と行動することが多く、せっかく中国にいるのに意味がないと感じていた。だから深大では極力日本人以外の学生と交流を深めたかった。深大の留学生は日本人より韓国人のほうが圧倒的に多かった。そのため韓国人と交流する機会が多くなり、クラスメートで同い年の子とすぐ意気投合した。彼女は韓国の大学で日本語を学んでいたので日本の文化や言葉、食物などに興味を持っていた。私は彼女と出会うまで韓国にあまり興味を持っていなかったが、韓国語を教えてくれたり、料理を作ってくれたり、一緒にいることですっかり韓国の虜になっていた。

深大のイベント行事のひとつ、留学生カラオケ大会が行われた。思い出作りのためと彼女と一緒に出場を決めた。曲名は北京にいるときからよく耳にしていた、林憶蓮の『至少有你』に決定。結果はなんと3位!賞金数十元を獲得し、その夜はみんなでお祝いしに出かけた。

休日はよく香港へ飛び出したものだ。なんて贅沢な休日だろう。香港は魔都そのもの。快速電車に乗って450分で到着。そこで大変なのは香港行き来への際、イミグレーションを通らなければならないことだった。いつも長蛇の列でそこで時間をくうのである。もちろん外国人だけでなく中国人も同様。

香港はものすごいエネルギーとパワーを感じる。小さな島ににょきにょきと高層ビルやマンションが建ち並び、各国の人々が居住し集まっている。メイン通りには路面電車や二階建てバスが走り、お店の看板がずらりと垂れ下がっている様はとても面白い。歩いているとどこかの外国人が片言の日本語で物を売りつけてくる。それだけ日本人観光客が多いことがわかる。香港の繁華街は日中よりも夜から活動し始め、いつまでもネオンの明かりが賑やかで眠らない。私にとって香港は元気の源なのだ。

 そしてまた夏がやってきた。旅である。今回の行き先は海南島と四川省。

 海南島へは深圳の蛇口フェリーターミナルから初の船に乗っての旅路。夕方出発し、明朝海口のフェリーターミナルに到着する。なかなか快適な船旅であった。

海南島は中国で最も南にある島である。島の大きさは日本の九州ぐらいだそうだ。

それにしても海南島は一年中常夏といわれるだけあってその雰囲気や空気が漂っている。海南人ものんびりと開放的な人柄であった。

海口市を探索後、旅行会社のツアーに参加して海南島を巡ることにした。

海南島で最も楽しみにしていた三亜市。中国のハワイともいわれている三亜はビーチリゾートの街だ。当時至る所リゾート開発が進められていた。青い空、青い海、白い砂浜、緑が多い茂り、花が咲き乱れ、私の心も解き放たれる。三亜のビーチは最南端に位置するため天涯海角(この世の果て)と呼ばれる。海と空の溶け合う風景は美しいの一言で、カメラをずっと握りっぱなしだった。また屋台や市場をぶらついてると、多種類の果物に目がつく。とにかく種類が豊富で色鮮やか、安くて美味しくて、毎食果物を口にしていた。

海南島では心身ともに洗練された気持ちになった。

最近旅行会社で海南島リゾートツアーをよく目にする。きっと日本人には大人気コースになること間違いないだろう。

 続いて四川省へ。四川省の目的は世界遺産である九寨溝とパンダを見に行くことだった。まずは成都を探索。その間成都大学のゲストハウスに滞在することにした。成都大学に留学中の学生と知り合いになりいろいろ案内してくれた。また楽しみにしてたのが四川料理。もちろん行き先は『陳麻婆豆腐店』、元祖マーボー豆腐の店である。辛いというよりも舌がしびれて仕方なかったが、その味が癖になりそうだった。本場担担麺も美味しく、四川料理はかなり私の口に合った。その他お茶も豊富で茶館が点々としていた。

 九寨溝への道のりは長かった。バスに乗って、ある地点まで行ったらバスを乗り換え運転手も代わる。道中は寝るしかなくて、ひたすら寝て起きての繰り返し。やっと山奥に辿り着く。長時間かけた甲斐があった。なんと言葉で表現したらいいのかわからないほど、その湖は美しかった。エメラルドグリーンの透き通った水、山々がその湖に反射した光景をずっとだまって見入ってしまうほど。大自然の中でマイナスイオンを体中浴び癒された。

その光景を目に焼き付けて九寨溝を後にした。

 深圳や香港など街の中にいると自然に触れ合うことが少なく精神的に窮屈を感じることがあった。だから旅をすることでリフレッシュはもちろんのこと、そこに住む人々や文化に触れ合うことができた。中国は街を抜けるとなにもない田舎に出る。常に自然と共存している。なにか日本の一昔前の雰囲気が漂っていて懐かしさを感じる。中国は今やめまぐるしい発展を遂げる国だが、こういう景色はいつまでも残して欲しいと願う。

 この夏が終わる頃、私の留学生活も終わろうとしていた。

 留学とは語学を学ぶだけではない。実際にその文化や風習に触れることがとても大切である。生活をしていれば中国の嫌な一面も目にしてきたけど、それも含めて中国なのだと理解する気持ちが必要でなのだ。見聞を広めることで今までの価値観も変わった。それは留学で出会った仲間との交流からだろう。私は随分仲間に助けられた。二外と深大で出会った仲間たちがいなければ私の留学生活は全く違ったものだったであろう。

日本を離れて自分を見つめ直し、次のステップのための留学は私にとって大成功!であったと信じている。

 

四、現在の私

 帰国から約5年の月日が流れようとしている。

その間いろんな仕事をしてきた。再び中国に行き仕事を探したときもあった。自分の信じる道へ、やりたいように過ごしてきた。そんな私を見守ってきた両親には本当に感謝感謝である。日本で仕事がしたいのか、中国で仕事がしたいのか、暗中模索していた。結局は自分の信念を貫けさえすれば中国にいようが日本にいようが大差はないということだった。

中国が好き、中国と携わっていきたい、その気持ちさえ強く抱いていれば大丈夫であった。後は自分がどう行動するかだ。

 何かの縁で私は今、地元福井の福井大学学務部国際課で働いてる。国際課の留学生係で留学生の生活面の担当をしている。かつて中国留学の際愛知大学や留学先でお世話になった分、今度は私が留学生をお世話する番のようだ。

福井大学には現在24カ国から約230名ほどの留学生が在留している。その8割が中国人留学生であるため中国語を学んでいてよかったと改めて感じるこの頃である。今は留学生と接しているときが一番楽しい。とても新鮮でいろんな発見をする。英語が不得意な私だがなんとか片言英語とジェスチャーで切り抜けてきている()。また留学生も必死に日本語を覚えようと頑張っている。そんな姿に私も励まされる。もちろん日々さまざまな困難や問題に直面する。この大学という組織の中でいろんな壁にぶつかりながら試行錯誤していく。ただ私はいつでも留学生の立場になって考え見守っていこうと思っている。

 中国との出合いは高校時から。思えば私の青春は中国でいっぱいだった。中国とのつながりは深く、強い縁を感じている。

 最後に、李ゼミのみなさん、私からのアドバイスは貪欲に生きて欲しいということ。やりたいと思うことがあれば迷わずチャレンジしてみて。やることに意味があり、またそこから何か見えてくるはず。世界は広い。日本を知り、世界を知ること。共に貪欲に!

 

少年易老学難成  一寸光陰不可軽

未覚池塘春草夢  階前梧葉已秋声

                      偶成  朱熹 より