第8章    2008年北京オリンピック大会が中国経済、社会に

与えるインパクト

~国際比較の視角より~

                                  

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はじめに

2008年8月8日(北京時間午後8時)に開幕する北京オリンピックに向け、北京市では急ピッチで会場建設、都市整備が進められている。中国は「グリーン北京・グリーンオリンピック」をキャッチ・フレーズにし、北京五輪をさまざまな意味で飛躍の機会にしようとしている。貿易黒字が1774億ドルに達成した。[1]中国は現在、経済発展のファストトラックを走っており、国として史上最大のイベント開催を境に経済、社会の転換に絶好の機会になるだろう。しかし、一度のイベントで一国のあり方が変わることはありえない。社会格差の削減や環境問題など社会問題を抱え、ジレンマが深まる中国は果たして変身できるのか、こうした質問を持ち、五輪開催を経験した東アジアの国を参考にし、国際的な視角から、現状を分析していきたい。

 

第一節   五輪誘致の経緯と北京にとって五輪開催の意味

 

1-1 五輪招致の経緯

シティー・オブ・ベイジン(北京)」というIOCのサマランチ会長の声に、2008年夏季五輪の開催地は北京に決まった。2001年7月13日、モスクワで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)の第112次総会では、IOC委員による投票が行われ、二回目の投票で五輪開催地に決定した。[2]19912月から2000年のオリンピックまでに、中国は1991年2月13日に2000年オリンピックの申請企画を皮切りに、2001年7月13の日開催決定まで二回誘致をし、ちょうど十年零五ヶ月かかった。中国のことわざで「十年磨一剣」を使って形容すればいいすぎないだろう。オリンピックの開催はこれら数十年間で幾千幾万の中国人の夢であり、国としても長い間待ち望んでいた。

1990年、鄧小平国家(とう・しょう・へい)主席の提議を初めに1991年2月、北京市は中国オリンピック委員会に2000年オリンピックの招致希望を表明し、その後の会議で決定した。1991年3月中国国務院に同意され、五輪申請委員会が成立し、かつ1991年12月にスイスのローザンヌにあるIOC本部に申請書類を渡した。

北京2000年五輪招致委員会招致戦は「巨人の争い」といって言いすぎないだろう。表1―Aに示したような八都市のうち、五都市は最後の決勝戦に入った。

表1-A 頭文字の順番

出所:捜狐網 スポーツ版 http://sports.sohu.com/に代表される資料に基づいて筆者作成

 

 

 

 

 

 

 

表1-B

出所:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 2000年シドニー大会開催までの経緯http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF#.E5.A4.A7.E4.BC.9A.E9.96.8B.E5.82.AC.E3.81.BE.E3.81.A7.E3.81.AE.E7.B5.8C.E7.B7.AFより修正して筆者作成

写真は2008年夏季五輪を招致する北京のポスター・ジャッキーチェン[3]

 

 

投票によって招致結果は結局、失敗であった。2000年五輪招致に失敗した原因として、アメリカを始めの西方記者は中国の人権問題(1989年天安門事件)と核問題をきっかけに非難し、いわゆる「北京排斥運動」を起こした。政治的な要因以外、北京は自己アピールの経験が足らないのだ。今日の中国の最大の特徴は「新しさ」にある。何しろこの国では変化が途絶えることがなく、北京市街の地図は2週間で古くなってしまう。創造と再創造を繰り返すことを通じて、中国は絶えず新しく変化し続けているのだ。中国は、こうした姿を世界に上手に伝えられていない。原因の一つは中国の対外的なイメージの打ち出し方にある。アピールすべきなのは古さではなく、新しさである。中国が古い歴史を持つ国だということは、世界はとっくに知っている。中国の「古さ」を今さらアピールしたところで、外国人の中国への理解は深まらない。それに比べて、新しい中国について語ることは大きなメリットがある。「絶え間ない変化」を中国の社会・文化の中核的な特質として強調すれば、世界の人々が抱く中国像は変わらざるをえない。[4]それに、「新しさ」という明確な特徴が一つあったほうが、中国という国に対する国内外のイメージのギャップも埋まりやすい。こうした原因で2000年五輪招致に失敗した北京は如何にして2008年の招致で世界に自分をアピールするのか。

「失敗は成功の母である」。1993年に2000年五輪招致に敗れた北京は199817日、劉淇北京市市長と伍紹祖中国オリンピック委員会主席は、スイスのローザンヌでサマランチIOC会長に2008年夏季五輪開催についての北京市の招致報告書を手渡した。それを旗標に第二回の五輪招致が展開された。

政府に支持される下で、今回の招致は中国がさまざまなニュー・アイディアを作り出した。自国文化を宣伝すると同時に中国の「新しさ」を強調し、世界中の人々に「中国の新しい姿」を見せた。しかも、「グリーンペキン・グリーンオリンピック」という新鮮、かつ有力なフレーズをした。さらに、「緑色五輪」、「人文五輪」、「科学技術五輪」を最大なポイントにし、環境、文化、技術とスポーツという絶妙な組み合わせを取り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

表1-C頭文字の順番

出所:朝日新聞やフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AFなどの資料より筆者作成

表1-D

出所:出所:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 2000年シドニー大会開催までの経緯http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF#.E5.A4.A7.E4.BC.9A.E9.96.8B.E5.82.AC.E3.81.BE.E3.81.A7.E3.81.AE.E7.B5.8C.E7.B7.AFより修整して筆者作成

 

 

 

2001713、モスクワで開かれていた国際オリンピック委員会(IOC)の第112次総会では、各候補都市の自己アピール(表1-Cで示したよう)を聞いた後に、IOC委員による投票が行われ、2回目の投票で五輪開催地に決定した。(投票の結果は表1-Dで示したよう)サマランチ会長の「シティー・オブ・ベイジン(北京)」という声に、会場からは大きな歓声が沸き起こった。北京の特色として、「東西文化の交流」、「緑の五輪」、「発展途上国初の五輪」、「節約型五輪」を全面的に打ち出し招致に成功した。北京市の開催計画によると、会期は88から824の予定。22の新設会場を含む37会場を使用し、大会運営費は約16億ドル。一部競技の台湾との共催も提案している。

 

1-2 緑色五輪・人文五輪・科学技術五輪」関する解説

 「緑色五輪・人文五輪・科学技術五輪」のスローガンは2008年五輪招致の決勝戦に決定した大きな要因である。しかし、いわゆる「緑色五輪・人文五輪・科学技術五輪」は一体どんなものなのか、それぞれはどんな意味をしているのか、また中国にとってどんな影響を与えるのか。

     緑色五輪

 緑色五輪とは、環境に配慮した五輪であり、自然界と人間社会発展との調和を重視したものである。

 環境意識啓発の機会がほしい政府と環境NGOにとって、緑色五輪は最大の環境保護宣伝のチャンスである。また政府はインフラ整備や環境保護を一気に進めようとしている。環境産業界も積極的に自社技術の売り込みを進めようとしている。このように行政や企業、NGO、マスコミが各々異なった思惑を持ちつつも、緑色五輪を旗印に協力して盛り上げている。北京以外の地域では反応はまちまちだが、北京市民の反応はおおむね歓迎ムードである。[5]

     人文五輪 科学技術五輪

人文五輪というのは、人間性にあふれ、文化的な五輪という意味である。かつ市民の道徳意識やマナーの向上も目指す。2008年夏季オリンピックの開催地としての北京は特有の魅力を世界に見せるため、文化的なオリンピックという概念を打ち出した。

また、2008年北京五輪に向けて、「北京人文オリンピック行動計画実施意見」が今年から実施される。北京市民を対象に1年かけて、社会マナー、観戦マナー、国際マナーなど6方面の基本マナートレーニングを実施する。マナートレーニングは1つのテーマ、6つの専門テーマ、3つの目標、3つの措置に基づいて実施される。テーマは「礼儀ある北京、人文オリンピック」。今後13年の間で、「人文オリンピック行動計画」実施するうえの重点となる。[6]

それと同時に五輪開催に向けて、科学技術部と北京市政府は「五輪科学技術(2008)行動計画」に30億元余りを投入する計画を打ち出した。[7](1)施設建設(2)安全対策(3)大気汚染対策、水源とクリーンエネルギー(4)交通(5)情報技術(6)スポーツ科学――を含む主要6分野での課題クリアを目指す。すでに「北京市インテリジェント交通計画・実施研究」など重要プロジェクト10件の重点的実施を固めたほか、「863計画(19863月開始のハイテク技術研究発展計画)」「科学技術攻関計画」「知識革新プロジェクト」など国の科学技術計画を通して、449件のプロジェクトと課題を策定した。科学技術部は「五輪科学技術(2008)行動計画」の順調な進展を強調、すでに成果を挙げたプロジェクトの例として、完全電動式大型バスの発電機と制御システムの開発に成功した「電気自動車プロジェクト」も紹介されている。また、2008年北京五輪が掲げる「科学技術オリンピック」の一環として、列車内で初めてインターネットへのアクセスが可能になった。[8]この多媒体端末と無線ネットアクセスの2大機能を備え、無線ネット技術を運用して、駅の待合室や列車内にいる旅客にビデオ再生や観光情報、映像・音楽などのサービスを提供する。旅行者は国内の重大なニュースを読めるほか、ネットゲームや音声チャットも楽しめるということである。

 

1-3 北京にとってオリンピックのチャンスとチャレンジ

 北京によってオリンピックの開催はスポーツ面の意味だけではなく、中国の代表として、世界に新しい中国のイメージを伝わることもあり、もっとも意義があるのは、日本の東京、韓国のソウルのように五輪開催をきっかけに先進領域に進軍するのだ。しかし、発展段階にある北京は面する挑戦が決して少なくはないと言えるだろう。

 オリンピックの開催によって都市整備の加速など、北京を中国全国で先に先進国レベルに

入れるだろう。まず、北京の発展させるために都市整備の面では、交通基礎建設の加速、都市の合理的な配置、生態環境の改善、都市情報、メディア設備を更新などさまざまの手段で北京の都市基礎建設の躍進を図っている。次に、北京産業構成、経済構成の更新にいいチャンスを提供している。観光業、ホテル業、保険業などに絶好な機会を与えるだろう。また、北京の改革開放を促進し、国際貿易と文化的交流を求める。北京という世界のブランドをはっきり世界に宣伝しようとしている。さらに、人文オリンピックや科学技術オリンピックというように、ソフト、ハード面で両方に力を入れ、もっと住みやすい大都市を目指している。北京の建設と同時に、京津冀(北京、天津、河北省)の地域経済提携を重視し、地域の繁栄を図ろうとしている。

 一方、オリンピックを迎える北京は、以下のチャレンジに直面している。ⅰ、伝統観念への挑戦。この挑戦はもっとも重要な挑戦である、中国は五千年の歴史を持ち、たくさんの意見や考え方が固まっている。しかし、オリンピックは開放的な、発展的な姿勢にしなければならないので、考え方に相応しくない場合にこの対立が生み出された。ⅱ、人材不足への挑戦。北京の五輪開催には、オリンピックに関する外国語人材、スポーツ管理人材や環境、交通、建設、さらに金融、保険、法律などの人材不足現象がますます深刻になっている。ⅲ、自然資源、生態環境への挑戦。北京の自然資源に乏しい、特に、水不足が今北京市のひとつの大きな課題になっている。また、黄砂、排ガスなどの環境問題も解消しなければならない。ⅳ、都市ハード面基礎施設への挑戦。五輪を迎え、北京市現在の都市建設は歴史上の初めてである、北京市の建設能力に疑いはないものの、北京の膨大な建物群と極大の交通システムを持ちながら、古都の雰囲気を破壊せずに新しい北京を作るのが大変だろう。

 

第二節   開発重視?環境重視?優先順位の光と影

 

2-1 北京圏の都市改造と交通整備

  オリンピックの開催は、開催都市が全世界に理解される絶好の機会だ。五輪に押し寄せる何千何万もの外国人にとって、科学的に整備された道路案内システムは、その都市を熟知する早道となる。

オリンピック関連施設の建設は、天津、青島など協力都市も含めて、全部で37ヶ所。北京には32ヶ所が集中し、そのうちの19ヶ所を新築、13ヶ所は既存施設をグレードアップさせる。同時に、合計300キロに及ぶ道路の整備・補修、地下鉄の新路線4本の建設が進められている。

都市整備には当然、立ち退きや旧家屋の取り壊しが行われ、古き良き町並みが姿を消すと同時に、新しい商業ビル、高級アパートメントやホテルが次々と建設され、町全体的がめまぐるしい姿で刷新されている。中国政府のオリンピックへの入れ込みは半端ではない。「世界中が北京に注目するとき、北京は人々に強烈な印象を与える現代都市でなければならない」との思いがある。オリンピック開発投資額は、当初の予算の16億ドルをはるかに超え、数百億ドルに達するだろうといわれる。式典の中心地となるのは、北京の真ん中にある故宮から真っすぐに北上したアジア村である。ここには、東京ドーム約40個分の広さを有するオリンピック公園の建設予定地があり、園内にはメーンスタジアムをはじめ、水泳センター、各国メディアの情報発信基地となる「国際会議センター」が建設される。メーンスタジアムは、鳥の巣を連想させるようなデザインで、「バードネスト」という愛称を持つ[9](写真のようである)。このほか、北京大学や北京科学技術大学などに体育館が新たに建設される。新しい建築物が次々と誕生しているのは、主に故宮の東側一帯である。その一帯葉商業地区であり、「北京のマンハッタン」の異名をとるほど近代的な面持ちを見せる。建築物は風水によるデザインなのか、幾何学的な外観も少なくない。大学が多く集まる西側地区では、ITセンターの機能を持つ中関村の開発が著しい。また、どこでも町の裏側に入ると、小さな商店街が突然取り壊され、一ヶ月もしないうちにきれいに新築されていることはよくある。

 さらに、オリンピック開催期間中、世界各国の競技参加選手、マスコミ記者団、旅行客など、55万人前後の訪中が見込まれている。これからの訪問者に対応すべく、ホテル建設にも力が入る。新たに建設予定の格好付けホテルは約200軒。既存のものと合わせ、08年までには合計800軒、13万客室を有する予定だ。また、既存のホテルは80%が1980年代、90年代に建てられたもので、館内の衛生設備や内装のレベルが国際水準には達していないため、約500のホテルが主要な部分の改築と内装の改装に着手するという。[10]

交通網の整備について、特に交通渋滞の問題は、北京オリンピックの成否にかかわるとして、政府がとりわけ重要視している。北京の交通渋滞は実に深刻で、朝晩のラッシュ時にはわずか2、3キロの距離を行くのに、一時間以上かかることもある。その緩和に向けた地下鉄の新路線4本の建設を進めるほか、バスの専用道路なども敷設する予定で、公共交通機関の大幅な整備で渋滞解消を図るという。

交通渋滞の主な原因はマイカー族の増加によるものである。2006年、自動車販売台数は日本を抜き、米国に次ぐ世界第2位に浮上することがほぼ確実となった中国市場、2010年にはその市場規模は1000万台とも見込まれており、中国自動車市場の規模の大きさ、成長スピードは世界の自動車関係者の熱い注目を集めている。

ただ、自動車の急速な普及に伴う交通渋滞だけでなく、エネルギー消費の急増、深刻化する大気汚染といった環境問題から交通事故などのモータリゼーションに伴う問題や、中国政府の排ガス規制、路線整備への対応など課題も少なくない。オリンピック開催中は、交通渋滞を抑えるため、開催期間を市民の休暇に当てる案や、臨時措置としてオリンピック占用道路を作るという案も出されている。

 

2-2 新たな時代の新たな環境問題

現在、中国の環境問題は最悪期を脱したようであるが、いまだに環境汚染度は高い。例えば、世界での大気汚染度の最も高い10の都市の内、7つは中国の都市である。[11]

中国政府は問題を放置しているのではない。1990年代に政府は環境改善のために排ガス、排水の基準を設けたり、下水道など必要な施設を建設したり、また工場には汚染物質排出を軽減することを義務付けたりしてきた。このような措置がある程度効果を発揮して、例えば工場の環境負荷物質排出量は減少した。この点で中国は、フィリピンやインドネシアのように問題解決能力が低い国とは違う。しかし、そのような改善は経済の高度成長と都市化の進行で帳消しになり、環境は改善されたというよりも悪化したとさえ言える。

まず、主要都市での大気汚染物質で問題なのは第一が総浮遊粒子状物質、第二が二酸化硫黄である。1990年代中ごろから大気中の濃度は下がってきているが、まだ国際的には共に高い水準にある。総浮遊粒子状物質の濃度が下がらない原因のひとつに石炭への依存度が高いことがあり、最近の砂漠化の広がりで増えてきている黄砂である。特に華北地方にある太原、西北地方にある西安では黄砂が浮遊粒子状物質の濃度を高くしている。

全般的には窒素酸化物の濃度は高くない。しかし、自動車の多い北京などでは窒素酸化物の排出量が増加し、大気中の濃度は国内基準値の二倍以上で、国際的にも高い。また、二酸化炭素の排出量も増加したが、当初予想したほどではなかった。1990年から1998年にかけて6.1億トンから7.4億トン、つまり21%上昇したが、世界の排出量に占める中国のシェアは10%から12%に上昇したにすぎない。

また、自動車が重要な汚染源になってきた。1990年代の初めにはあまり問題ではなかったが、最近自動車数が急増し(民間の自動車保有台数は1995年に1,000万台を超え、2003年には2,400万台に達す)、また排ガス規制が緩いため(例えば、北京の平均的な自動車は東京の4倍の一酸化炭素、7倍の窒素酸化物を排出している)、自動車からの排ガスが重要な汚染源になった。工場からの排ガスも問題ではあるが、規制が厳しくなり、1990年代中ごろから工場からの大気汚染物質の排出量は減少している。

もうひとつは、中国では石炭が主要な第一次エネルギー源であることは前述したが、その石炭に硫黄分が含まれており、それを相対的に低い温度で燃焼させるため二酸化硫黄が発生しやすく、それが大気中で反応し酸化され、酸性の雨となって降下する。酸性沈着量は1980年代の初めに増加し始め、1996年ごろにピークに達した。1995 年のSO2 汚染と酸性雨がもたらした経済損失に関する中国のある研究によると、損失額は1100 億元、これはGDP の2%に相当するものであったという。酸性雨の汚染地域は揚子江の南部、チベット高原の東側の広大な地域、および四川盆地を中心とする地域が主なもので、国土の3分の1が酸性雨の影響を受けているという。四川盆地の東南部に位置する工業都市重慶は特に二酸化硫黄の排出量が多く、それが、盆地であるという地形が関係しているのであろうが、酸性雨として降下しやすいため、松林、水田がかなり大きな被害を受けた(松、水田の稲が数百ヘクタールにわたって枯死)。また、建造物、人体への影響も報告されている。

二酸化硫黄の排出量は一時改善するかのように見えた。それはピーク時に年間2,400万トンに達した排出量が、1990年代後半には少し現象し、1999年には1,900万トンを切ったからである。しかし翌年にはまた増加し、2003年には2,200万トンとの水準まで戻った。この量は1960年代後半日本の公害問題がピークに達したころの二酸化硫黄排出量(約500万トン)の4.4倍である。[12]

 

第三節 アジアで開かれた五輪の国際比較

 

3-1 現代オリンピックの商業性

 オリンピックは世界の平和、国際社会の友好のためのものであり、スポーツは人種や文化や国籍を超えた人種交流の手段である。しかし、その一方でその実態は、イベントであり、商業主義にまみれているという現実がある。そしてこの傾向は、年を追って深刻化している。この商業主義とは、オリンピックにとって必要なものなのだろうか?ないほうがよいものなのだろうか?
 1970年代まで、オリンピックはアマチュア選手のみの参加で、広告などはとても地味なものだった。このころのIOCは商業主義を排除していた。
 そこで登場したのが、サマランチ氏である。1980年に、IOC会長に就任したサマランチこそがオリンピックに商業性を持ち込んだ張本人である。1984年のロサンゼルスオリンピックから、商業主義のオリンピックがはじまった。巨額のテレビ放映権料や、公式スポンサーからの莫大な協賛金を運営費として大幅な黒字をだした。また開催地も、経済が活性化し、オリンピックはサマランチによって、世界のお荷物から金のなる木へ変貌を遂げた。その後、オリンピックは世界中の多くの都市が開催したがるようになった。そういう意味では、商業主義がオリンピックを救ったと言えるだろう。だからオリンピックにとってある程度の商業主義は間違いなく、必要なものなのだ。
 

3-2 オリンピックのアジア大会の軌跡

 2008年の夏季北京オリンピックは中国での初めてであり、アジアでの三回目である。繰り返してアジアの五輪史を見ると、最初の東京オリンピック(Games of the XVIII Olympiad Tokyo 1964)は、1964に開かれた第18夏季オリンピックであり、アジア初のオリンピックである。歴史的に見ると、第二次世界大戦後の荒廃から立ち直り、復興を遂げた日本が取り組んだ国家的イベントであり、日本が国際社会に復帰するシンボルの意味を持った。特に、日本では、高度成長期にはオリンピックや万博といった国家的イベント開催を旗標に、都市整備を進めてきた。東京は、オリンピック開催を契機に都市高速道路の建設や都区部西半分を主とした都市改造を実施した。また、オリンピックアジア大会の二回目としての1988年ソウルオリンピックを転機にし、韓国が都市インフラおよびモータリゼーションを進めた。

18回オリンピック競技大会となる東京オリンピックの開催が決定したのは、1959526日、西ドイツのミュンヘンで行なわれた第55IOC総会でのこと。かつて第12回大会の開催地が東京に決定しつつも開催返上をしてから、実に20年の月日が経過していた。

19551010、東京都議会は決議案として出された第18回大会の招致を満場一致で決議。翌年11月には1958年に開催が予定された第54IOC総会を東京で開催することにIOC総会で決定した。これは東京オリンピック開催に向けて、大きな布石となった。

1958513、第54IOC総会が、天皇の開会宣言により開始された。総会のために再来日していたブランデージIOC会長に対し、第18回大会の正式招請状が手渡された。そしてその1年後、西ドイツ(現ドイツ)のミュンヘンで開催された第55IOC総会において、日本は34票(全56票)を獲得し、招致合戦のライバルであったデトロイト(アメリカ)、ウィーン(オーストリア)、ブリュッセル(ベルギー)に大差をもって、開催地に決まった。

開催の決定した日本では東京オリンピック組織委員会が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなった。戦後復興の象徴として東京オリンピックの開催にむけて、種々の建設・整備がなされた。

18 回オリンピック東京大会は、1964 10 10 日から25 日までの15 日間、参加国94、選手・役員7,495 人の参加を得て開催された。開催都市に東京が正式決定したのは、1959 5 月ミュンヘンのIOC 総会であり、この5 年の間で競技施設や選手村の建設のほか、大会の円滑な開催のための道路、地下鉄、上下水道等を整備することが求められた。

東京オリンピックは、その事業総額が1兆円にものぼり、「1 兆円のオリンピック」と誇らしげにあるいは批判的にも評された。ただしオリンピックそのものの費用(直接事業費)は317 億円であり、全体の97%は関連事業費であった。関連事業費のうちオリンピックと比較的関係の深い「直接関連事業」は、東京都内の道路整備(1015 億円)、首都高速道路整備(722 億円)など総額2225 億円である。その他の「間接関連事業」に8119 億円が投じられ、東京都内の地下鉄整備費(2328 億円)を含むが、なかでも突出しているのは東海道新幹線建設費(3800 億円)であった。東海道新幹線は、東海道本線の将来的な輸送能力不足への危機感、東京・名古屋から大阪方面へと連なる「太平洋ベルト地帯」を結ぶ国土軸形成の必要から、すでに1950 年代後半から運輸省などで検討が開始されていた。オリンピック運営とは本質的に関連は薄いが、早期の事業推進、新幹線という新技術の国内外へのアピールを狙って、オリンピック開催にターゲットが合わせられた。19604 月に事業着手、1964 10 1 日に東京-大阪間515km も開業した。[13]

一方、ソウル五輪は、アジアでは日本に次いで2番目。分裂国家での開催、12年ぶりに東西両陣営が参加する史上最大規模の大会。さまざまな意義づけのうちでも「アジアの場で、東西の和解に寄与できることに意義がある」と、アジアの立場を強調する。その語り口には、開発途上国から先進国へ上りつめようとする韓国の気迫がうかがえる。

大会を成功させるため、韓国は大きな建設ラッシュを進んだ。ソウル五輪に必要な施設が112件、そのうち、34件は競技場、72件は練習場、関連施設が6件。そのうち、既存施設は98件、新しく建設したのは14件である。競技場は26件の既存施設、練習場はすべての既存施設を利用した。新しく建設した14件の施設のうち、競技場が8件、関連施設が6件であった。また、自動車道、地下鉄、高速道路、鉄道などの建設も大規模で行った。

1988年9月17日から16日間にわたって、韓国のソウルで開催され、約160カ国・地域から約8500人の選手が参加。前回のロサンゼルス大会では東欧諸国が、前々回のモスクワ大会では西側諸国がボイコットしたため、12年ぶりに米国とソ連がそろって参加した。トップアスリートの薬物汚染の発覚で、ドーピングの取り締まり強化のきっかけにもなった。日本はこの大会で、金4個、銀3個、銅7個のメダルを獲得した。

終わった後に、国際オリンピック委員会(IOC)のサマランチ会長は、ソウルの五輪プレスセンターで記者会見し、ソウル五輪大会を「大成功」と評価するとともに、財政的にも3億4900万ドル(約472億円)程度の黒字が出たことを明らかにした。一方、ドーピング(薬物不正使用)については、陸上男子100メートルのベン・ジョンソン選手(カナダ)のケースに言及しつつ、「あらゆる選手に同様に厳しい措置をとったことにより、ドーピング撲滅に向けての成果を上げた」と強調した。
 ソウル五輪黒字額の内訳について、サマランチ会長、朴組織委員長の2人は運営黒字が6950万ドル、米国、日本などに在住の韓国人からの寄付が2億7950万ドルだったとする数字を上げた。このほかサマランチ会長は、(1)五輪大会のうち夏季大会の競技・種目数はほぼ限度に達している(2)ボクシングは危険もつきまとうので、五輪競技としての是非をさらに検討する(3)冬季五輪の種目数はさらに増やしたい、などと述べた。

ソウル五輪の成功は、確実に「コリア」の名を世界に通用するものにした。だが、製品のブランド確立にモノをいうのは、技術力。韓国政府はこのほど、16メガビットDRAM(随時書き込み読み出しメモリー)の開発を、商工省主導で急ぐ方針を打ち出した。先端技術育成が、国をあげての課題である。一方、韓国は、ソウル五輪を成功させて、躍進する新興工業経済地域の旗手としての地位を世界にアピールした。

補論 中国・長春冬季アジア大会 北京五輪の試金石

中国・長春で20071月28日、冬季アジア大会が開幕した。来年夏の北京五輪を控え、中国のホスト役としての仕事ぶりを試す場として注目される国際スポーツ大会である。胡錦濤国家主席自ら現地入りし、指導部も重視する姿勢を示している。不慣れな大会運営で熱意が空回りする場面もあるが、中国は威信をかけて「円満成功」を目指しているという。

今回の冬季アジア大会は26カ国・地域から約800人が参加し、5競技47種目で競う。長春市における競技場建設への投資は4億9千万元(約75億円)、大会開催に向けて過去4年間に長春市が投入したインフラ建設費は220億元(約3300億円)に上った模様だという。大会組織委員会が「国際水準に十分合う」と誇るアイスリンクなどの施設は、規模と機能性で03年の青森大会をはるかにしのぐと言われる。参加者への接待は人海戦術であり、報道陣を含めた大会関係者計5千人に対し、7万人の応募者から厳選された2千人の地元ボランティアが担い、手厚い応対が際立つという。競技結果を速報する最新の情報処理システムも導入され、国家体育総局情報センター・趙黎主任は「1千人の技術者が3年間かけた成果」。このシステムが北京五輪を支える基礎になる。

開会式で高らかに開幕を宣言したのは、濃紺のスーツに赤いネクタイ姿の胡錦濤国家主席だった。30日からのアフリカ8カ国歴訪を控え多忙を極める胡主席の長春入りは、大会に対する中国指導部の最大限の重視を象徴している。
 北京の五輪施設を視察したこともある胡主席は以前、五輪について「中華民族が百年待ち望んでいたものであり、民族の偉大な復興のためにともに努力しよう」と呼びかけ、「社会主義制度の優越性を発揮する機会」と語ったこともある。
 中国共産党の求心力を高め、貧富の格差や党幹部の腐敗などさまざまな問題を抱える国内を団結させようという狙いにもみえる。平和の祭典・五輪を成功させ、国際社会で「脅威」と受け取られがちな中国のイメージ向上も図りたいところである。[14]

一方、選手の入国手続きだけ二時間かかり、多くの競技で練習時間配分を巡って選手から不満などが出ており、今後の改善が期待されている。

 

むすび

いよいよスタートの北京五輪の準備においてさまざまな問題がまだ山積している。しかし、以下の諸点をきちんと理解すれば、成功まで近いとも言えるだろう。(1)建設事業の重複を避け、現有施設を十分に活用して、経済効率、社会効率、環境効率を総合的に考慮する。 (2)五輪開催に必要な施設を充実させるとともに、五輪終了後の利用も視野に入れ、施設の建設や管理、開催後の運営について総合的に考慮する。 (3)投資規模をできる限り抑えて、建設時の予算超過を避ける。 (4)資金使用や施工に対する監督・管理を強化し、全事業を期間内に完了させる。

 

用語説明

国際オリンピック委員会 International Olympic Committee、略称:IOC

 

参考文献:

劉 淇      『北京奥運研究』 北京出版社 20031月 (中国語)

李 春利    「都市化・工業化・に伴う諸問題」 『中国年鑑2004』 特集:「重大化する中国の環境問題」 創土社 200498

大野 木昇司 「都市化・工業化・に伴う諸問題」 『中国年鑑2004』 特集:「重大化する中国の環境問題」 創土社 200498

藤原 健固  『ソウル五輪の軌跡』 道和書院 19891

金 雲龍    「偉大なるオリンピック」 ベースボール・マガジン社 1989年 10

三宅 博史  「オリンピック、万国博覧会開催と都市構造-東京オリンピックと日本万国博覧会を中心に」 http://www.jsc.fudan.edu.cn/meeting/051126/%E4%B8%89%E5%AE%85%E5%8D%9A%E5%8F%B2.pdf

大江 紀子 「オリンピック開幕に向け日々変貌する北京」 『エコノミスト』 2006109

ジョシュア・クーパー・ラモ氏 「An Image Emergency」 

NEWSWEEK 2006年 9月 27日 部分引用)

日本経済新聞記事 各年

朝日新聞記事 各年

チャイナネット 中華網 http://www.china.org.cn/japanese/index.htm

人民網 日本語版 http://www.china.org.cn/japanese/index.htm

中国駐日大使館ホームページhttp://www.china.org.cn/japanese/index.htm

中国網 五輪特集 http://www.china.org.cn/ch-shenao/ (中国語)

捜狐網 スポーツ版 http://sports.sohu.com/ (中国語)

中国国際放送局 http://japanese.cri.cn/index.htm

中国情報局 http://searchina.ne.jp/

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 http://ja.wikipedia.org/wiki

 

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李ゼミへの志望動機・私の趣味・旅行体験

04E2412 佀 祥国


 私は中国の黒龍江省からの留学生である。ゼミを選ぶために私は愛大にある限りの資料を調べ、また先生の書いた本も読んだ。私は、李ゼミの内容の日本企業による対中進出の加速と産業空洞化、また、いわゆる日中間「政冷経熱」に強い興味を持っているので、自ら進んで先生とゼミ生の皆さんと一緒に討論したい。
 また、李先生の専門の自動車産業に対する関心も持っており、なぜmade in Chinaの自動車が海外では少ないのか。なぜ、中国国産車より輸入車が人気があるのか、1978年改革開放運動以来、27年経った現代中国自動車産業はどのように激しい競争社会で生存の道を探すのか。このような疑問を持ち、李ゼミで解決の方法を求めたい。もう1つは、李ゼミのホームページで「ゼミ運営委員会」「ゼミ論集編集委員会」「ホームページ委員会」「風鈴会」などを設置してあるが、私自身もそういう協力の雰囲気があるチームに入りたい。また、ゼミ論集の合宿の写真も楽しそう、こういう面も含めて選択した。
 私は明るいと思う。中学から高校までバスケットをしてきた。町のチームを代表し、市の試合に出たことがある。そのときチームの協力の大切さが良く分かった。高校を卒業してからはインターネットに興味を持った。しかし、そのときの私にとっては贅沢であった。来日後、最初のバイト代でパソコンを買った。残念なのは、学校とバイトが忙しく、なかなかパソコンをする時間がない。また趣味はもう2つある。1つは自分のご飯を作ること、これは、小さい頃からやっている。もう1つは英語の映画を観ること。やはり勉強のため英語能力は不可欠である。
 旅行体験についてだが私は少ない。しかし、一回車で日本全国を遊覧するという夢が2年前にあった。

 

 



[1] 日本経済新聞社 中国ビジネス特集http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20070110AT2M1001P10012007.htmlより引用

[2] 中華人民共和国駐福岡総例事館ホームページ

http://www.chn-consulate-fukuoka.or.jp/jpn/zgzt/bjsa/t65026.htmより引用

[3] 写真は人民網日文版よりhttp://j.people.com.cn/zhuanti/Zhuanti_94.html

[4] 「An Image Emergency」 NEWSWEEK 2006927より部分引用

[5] 大野 木昇司 「中国年鑑2004」原文引用

[6] 人民網日文版--2005.01.19 http://j.people.com.cn/2005/01/19/jp20050119_46960.html

[7] 人民網日文版—2004.11.8 http://j.people.com.cn/2004/11/08/jp20041108_44968.html

[9] 写真はチャイナネットより

[10] 大江 紀子 「オリンピック開幕に向け日々変貌する北京」 エコノミスト 2006109部分引用

[11] 世界保健機関の1998年報告書より

[12] 吉原久仁夫研究室 http://esd.env.kitakyu-u.ac.jp/yoshihara/aenv/2China.docより引用

[13] 三宅 博史 「オリンピック、万国博覧会開催と都市構造-東京オリンピックと日本万国博覧会を中心に」http://www.jsc.fudan.edu.cn/meeting/051126/%E4%B8%89%E5%AE%85%E5%8D%9A%E5%8F%B2.pdfより引用

[14] 朝日新聞 2007.7.29 13版総合より 部分引用