第2章 日米同盟と上海協力機構
~日本・中国の国際関係を見る~
04E2161 大渓 光司
はじめに
日米同盟は近年強い結びつきを見せている。小泉首相(当時)とブッシュ大統領は会談で「世界の中の日米同盟」を強調し、21世紀の地球的規模での協力を内外に宣言した。小泉政権が目指した日米同盟の機能強化の集大成とも言える内容の防衛白書に見られるように、日米同盟は新たな領域に入りつつある。[1]しかし反面では、アジア外交がおろそかになってしまい、中国との関係は悪化していく一方だ。
その頃中国は、ロシアや中央アジア諸国と上海協力機構(SCO)を立ち上げていた。SCOは当初、国境管理、テロ対策を目的にした組織だったが、最近では対米牽制の機能も強めており、この組織がどのように発展していくか注目されている。
日中の現在の関係を知るために、日米同盟と上海協力機構をみていく。そうすることにより、日中両国をめぐる国際関係の著しい変化もみえてくると思う。
第1節 日米同盟の強化
日本を取り巻く外交や安全保障の環境は今後も大きな変化が予想される。なかでも日米同盟の重みは間違いなく増している。[2]ここでは、過去の政策強化の流れや、内容を見ていく。
1-1 日米安全保障条約の本質の変化
日米安全保障条約とは、日本とアメリカの安全保障のため、日本にアメリカ軍(在日米軍)を駐留することなどを定めた二国間条約のことである。1960年1月19日に、ワシントンD.C.で締結された。期限を10年とし、以後は1年前の予告により一方的に破棄できると定めた。締結後10年が経過した1970年以後も破棄されることはなく、現在も効力を有している。
日米安全保障条約は時代と共に本質を変化させて来た。条約締結時当初は、日本の国力が正常な状態になるまで米国の軍事的庇護下に置かれると言うのが事の本質であったが、その後、冷戦期に入ると日米安全保障は自動的に更新され、対ソ連軍事同盟へと性質を変えていった。
冷戦が崩壊すると、日本も敗戦の影響から脱し、経済大国になったことによって日米両国で日米安全保障条約の有効性と存在意義に疑問を呈する政治勢力が登場したが、アメリカの最先端軍事技術を欲する日本側と、日本へ武器を売却し、軍事技術開発資金を得ようとするアメリカ側の利害が一致した事もあり、その性質は商業的な物へと変化していった。
2004年度の日本防衛白書では初めて中国の軍事力に対する警戒感を明記し、また米国の安全保障に関する議論でも、日本の対中警戒感に同調する動きが見られ、2005年、ブッシュ大統領の外交に大きな影響を持つライス補佐官が中国に対する警戒感をにじませる発言をし、日米安全保障条約の本質は対中軍事同盟へと変化して来ている。[3]
1-2 政策強化の流れ
日米安保体制は時代の流れと共にその持つ意味を変えてきた。日米安保体制は、大きく分けて3つの時代にわけられると考えられる。
一つ目は、旧安保条約時代。ただ単にアメリカ軍の日本駐留を許したのみで、アメリカの日本防衛義務は曖昧なままだった。日本の考えとしては、とにかくアメリカ軍の影で軽武装にして経済発展を進める考えだった。
二つ目は、新安保条約時代。日米共同防衛が明確化したが、2度の激しい安保闘争がおきた。1970年代後半に日米ガイドラインがつくられ、安保体制が定着した。日本の考えとしては、独立国家としてアメリカと平等な立場を築いていきたいという考えだった。
三つ目は、ポスト冷戦後の安保体制。冷戦終結後、安保体制を見直し、対ソ連防衛体制から、地域紛争やテロに対する日米共同行動強化され、安保体制の「再定義」実施された。日本の考えとしては、冷戦が終わっても日米安保体制は必要で、むしろ関係を強化していきたいという考えだった。[4]
表1 日米安保体制の歴史 |
|
年 |
事柄 |
1951 |
日米安全保障条約締結 |
1954 |
MSA協定締結 自衛隊・防衛庁発足 |
1957 |
砂川事件 |
1960 |
新安保条約・日米地位協定締結 安保闘争 |
1970 |
新安保条約自動延長 第2次安保闘争 |
1978 |
ガイドライン締結 |
1979 |
「思いやり予算」始まる |
1983 |
中曽根首相の「不沈空母」発言 |
1989 |
米ソ首脳、マルタ会談で冷戦終結を確認 |
1995 |
沖縄で米兵による少女暴行事件 |
1996 |
日米首脳によるいわゆる「安保再定義(再確認)」 |
1997 |
新ガイドライン締結 |
1999 |
周辺事態法などガイドライン関連法成立 |
2001 |
アメリカ同時多発テロ テロ特別措置法成立 |
出所:辻雅之著、「日米安保条約」、
http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20040706A/より引用、作成
1-3 新ガイドラインの整備
もともと日米安保体制は、冷戦構造のなか、日本を軍事的にアメリカ側に取り込むための体制でした。しかし、冷戦構造は終わった今日でも日米安保体制は必要なのかという声があがりました。両国が考えた結果、台湾問題や朝鮮半島問題などアジアにはまだ緊張関係が多く続いており、必要ということ結論に至った。
そこで、日米安保体制の再定義を行うことになった。1996年に過去とはまったく質を異にする大きな歴史的な転換の意味が込められていたといってよい、橋本首相とクリントン大統領の首脳会談が行われた。この共同宣言で日米安保体制は、「アジア・太平洋地域の安定維持」のためのものと位置付けしなおすことにした。[5]
これをきっかけに、日米防衛協力の強化がさらに図られることになった。それが1997年に締結された、両国の共同防衛の密接化を規定した「新ガイドライン」である。[6]
新ガイドラインの3分野について日米の役割分担を示した。
① 平時(平素から行う協力)
情報交換及び政策協議
安全保障面でのいろいろな協力を強化し、より緊密にする
日米両国がこのような防衛協力を進めていくときの協力体制に必要な機構づくりをした[7]
② 日本有事(日本に対する武力攻撃に際しての対処行動等)
この対処行動には、日本に対する武力攻撃が差し迫っている場合と、日本に対する武力攻撃が実際に行われた場合に分類して、日米協力の内容が決められている。
前者については、例えば、日米間で情報収集や警戒監視を強化したり、日本に対する武力攻撃に対応するための準備を進めたり、あるいは事態が拡大することを抑止するための外交努力が含まれる。
後者については、実際に日本に対する武力攻撃が起こった場合の日米共同作戦要領を規定したものである。その内容は、米軍と自衛隊の共同作戦構想に基づくものであり、例えば、航空侵攻や着上陸侵攻ならびに海上交通・海域の防衛のための共同作戦が含まれる。また、ゲリラ・コマンドウ攻撃のような不正規戦に対する対応や弾道ミサイル攻撃への対応についても規定されており、この点は旧ガイドラインにはなかった内容である。
こうした日本に対する武力攻撃に際し、日米両国が行う防衛協力活動は、指揮、調整、情報活動、後方支援活動など広範な内容にわたるものである。[8]
③ 日本周辺有事(日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に重要な影響を与える場合の協力)
もっとも大きな特徴であり、これは旧ガイドラインの中には決められていなかった内容である。周辺事態に対する日米協力は、三つの分野に分類される。
第一の分野は、日米両国政府がそれぞれ主体的に行う活動に関する協力である。第二の分野は、米軍の活動に対する日本の支援である。第三の分野は、運用面における日米協力である。
最大の特徴は、防衛協力の重点を安保条約第5条事態(日本有事)から6条事態(周辺有事)にシフトさせた点にある。[9]
1-4 国際テロと日米協力
新ガイドラインによって、「日本周辺地域」での日米の共同行動・共同作戦を行うことが定められ、これを実行するため1999年に新たに「周辺事態法」が制定されました。[10]
周辺事態法とは、新ガイドラインにおいて、日米政府が「日本有事」とともに対処すべきとされている「日本周辺地域における事態で、日本の平和と安全に重要な影響を与える場合」であるとされたが、その概念は、地理的なものではなく、事態の性質に着目したものであるとしている。
この周辺事態法により、日米安保体制は「アジア・太平洋」の安全保障として機能することになり、必然的に自衛隊の軍事分担も拡大されて、単に「本土防衛」のみならず、新たに「周辺事態」に対処することが可能となり、その結果、日本本土の外に向かっての軍事機能の発揮が可能となった。[11]
周辺事態法 第2条1項
政府は、周辺事態に際して、適切かつ迅速に、後方地域支援、後方地域捜索救助活動その他の周辺事態に対応するため必要な措置を実施し、わが国の平和及び安全の確保につとめるものとする。
第3条1項
後方地域支援 周辺事態に際して日米安保条約の目的の達成に寄与する活動を行っているアメリカ合衆国の軍隊に対する物品及び焼く無の提供、便宜の供与その他の支援措置であって、後方地域においてわが国が実施するものをいう。[12]
さらに、「9・11」、あの同時多発テロの後の世界情勢の急激な変化は、日米安保体制にあらたな状況を生み出した。日本は、2001年10月、米軍等に対する協力支援、捜索救助、被災民救援の三つの活動を実施するための「テロ対策特別措置法」が成立、これを受け海上自衛隊の補給艦等がインド洋に派遣され、米・英軍艦艇等への燃料補給を実施した。またアフガニスタン難民のための旧物資を自衛艦でパキスタンまで輸送したほか、航空自衛隊の輸送機が国内および在日米軍基地からグアム方面への国外輸送任務にあたった。戦闘下の米軍に自衛隊が支援を行うのは、初めてのことであった。
2003年7月にはイラク人道復興支援特別措置法が成立した。そして同法に基づき、イラクにおける人道復興支援や安全確保支援活動を行うため、12月以降自衛隊がイラクに派遣された。国連主導のPKO活動ではなく、多国軍を支援すること、また事実上の戦争状態が続く地域への陸上自衛隊の派遣はいずれも戦後初の出来事だった。[13]
どれも、紙一重で共同防衛の枠を越えそうな、法律の制定だった。「9・11」のあとの日米安保は、日米共同防衛強化から、さらに一歩進んだ「共同行動」に踏み出しているのかもしれない。はたして、これからの日米安保体制はどうあるべきなのか。もっとアメリカと共同行動を密にしていくべきなのか。それともここらで一線を引いて、防衛協力にとどめるべきなのか。いずれにせよ、日米安保体制がおおきな岐路に立たされていることは事実だ。
第2節 日米同盟の現在と今後
2-1 日米中三国関係の中での日米安保
冷戦後の日米安保体制が果たす役割や期待、それは、北朝鮮問題、大量破壊兵器の拡散阻止やテロ撲滅への支援と協力といえるが、長期的な視野で捉えた場合、最大のテーマは軍事大国化を続ける中国への対応だ。近代のアジア史は、弱い中国の存在を中心に展開してきた。これに対し21世紀アジアの国際関係は強い中国への対応が軸となることは疑いなく、アメリカの東アジア政策もそのような枠組みの中で形成されよう。政治経済体制が大きく異なる以上、米中両国は同盟関係にはない。しかし、それは経済分野等相互利益を期待できる関係であり、しかも中国の対米軍事脅威が真に顕在化するのはしばし先のことである。[14]
そこで、中国との経済関係を強め、その市場経済化に協力することでアメリカの国益を追求し、それと同時に、政治の安定と透明性を高めていく、つまり「関与」と「封じ込め」の双方を巧みに使い分け、中国の出方に柔軟に対応していくというのがアメリカの対中政策の基本となるであろう。それは過去における反日親中あるいは反中親日のいずれでもない、流動的で一見曖昧な関係と映る。だが、中国の民主化と市場の開放、そして軍事脅威化の阻止というアメリカの目標は、日本の目指す方向とも一致しており、そうである以上、日米両国は引き続き緊密な関係を維持し、中国を民主主義世界に軟着陸させるべく協力していかねばならない。[15]
2-2 北朝鮮問題
2006年7月5日、北朝鮮は長距離弾道ミサイル・テポドン2号を含むミサイル7発を発射。日本は経済制裁を発動するとともに、日、米などは国連安保理に国連憲章第7章(平和の脅威への対応)に基づく制裁条項を含む制裁決議案を提出。[16]
7月10日、中朝友好協力相互援助条約締結45周年で回良玉・副首相
が訪朝。武大偉も同行し、北朝鮮の説得に当たったが成果はなかった。中国は拘束力のない議長声明案、さらにはロシアと第7章を含まない決議案を提示するなど安保理での攻防が激化。結局、7月15日、国連安保理は国連憲章7章の言及を削除した「非難決議」を全会一致で採択。
2006年10月3日、北朝鮮外交部は「安全性が徹底的に保証された核実験をする」と声明。10月9日、国営朝鮮中央通信は、北朝鮮が初の地下核実験に成功したと報じた。これを受けて14日、国連安保理は米日韓など9カ国が提出した「制裁決議」を、中ロなどと調整後に全会一致で採択。
決議は「国連憲章7章に基づいて行動」し、「(経済・外交制裁のみを規定した)7章41条の下で措置を講じる」としているが、その解釈や運用をめぐっては強硬派の日米と話し合い重視の中ロ韓には違いがあった。一方、北朝鮮は決議を全面拒否、「物理的対抗措置」まで言及した。
重大な局面を迎える中で、唐家セン国務委員が胡錦涛主席の特使として米国とロシアを相次いで訪問。10月12日にブッシュ、14日にプーチン両首脳と会談。さらに戴秉国(筆頭副部長)、武大偉を伴って18日に訪朝。19日には金正日総書記と会談。会談で金総書記は「現在再実験の計画はない」と柔軟さを示しつつ、「米国が圧力をかけ続ければ、対応措置を取らざるを得ない」と米国を牽制した。ライス国務長官も日韓中ロを訪問するなど活発な外交が繰り広げられた。[17]
2-3 日米同盟の問題点
沖縄問題
沖縄は太平洋戦争後、長きにわたって米軍政下に置かれ、祖国への復帰を果たすまでに四半世紀の歳月を要した。復帰後も、基地の島である実態は何ら変わらず、日本にある米軍基地の実に75%が沖縄に集中したままで、地元の願いである基地の整理・縮小は遅々として進まない。[18]さらに、米兵による少女暴行事件や、反米軍活動がおき、米政府も危機感を抱いた。 沖縄米軍基地問題の存在は、日米同盟が極めて脆い基盤の上に立っていることを曝け出すことになった。[19]
アメリカの持つ二面性
日本外交の基軸はアメリカとの関係である。冷戦後アメリカが唯一の超大国であることに鑑みれば、良好な日米関係を維持・構築することの重要性は益々高まっている。もっとも、日米関係を見る際には、アメリカの対日要求に大きなアンビバレントが存在していることにも留意せねばならない。それは、一方でアメリカはより双務的な協力を日本に欲しながら、他方で、日本を覇権的な行動に走らせてはならないという思い、言い換えれば、常に日本をアメリカのジュニアパートナーと位置づけておくべきとの考えである。
すなわち、アメリカの持つ二面性とは、日本が警戒心を抱かせる程の強国になっては困るといういまひとつの本音は、アメリカにとって日米同盟には、日本に対する戦略的牽制、即ち日本の軍事大国化や日本が反米的な国の同盟国になることを防ぐといういま一つの意義が込められていることを意味している。
このことから、日本も先の大戦への反省や近隣諸国の歴史的感情を前に、この「瓶の蓋論」を受け入れ、自国の安全保障や国際政治問題の処理をアメリカに依存する体質を抱えて込んでしまったといえる。[20]
第3節 上海協力機構
3-1 創設までの流れ
1996年4月に初めて集った上海ファイブを前身とする協力機構で、加盟国が抱える国際テロや民族分離運動、宗教過激主義問題への共同対処の外、経済や文化等幅広い分野での協力強化を図る。2000年の会議にウズベキスタンがオブザーバーとして参加し、翌年に6カ国によって発展発足した。
中国政府にとっては、ソ連一国と長大な国境線を持っていたものの、ソ連崩壊により多くの国と国境を接することになった。これらの分離独立した新興国の内情は、独立国家共同体(CIS)の影響力不足もあって非常に不安定であり、国家統制の及ばない武装勢力から中央アジアとの国境を共同で管理したい中国の思惑があったと見られ、国防上の要求もあり発足させた軍事同盟的な側面も持つ。またこれらの国に一定の影響力を持つことで、ロシアと対等な立場を保って、長期的な安全保障を確立したいものと見られる。またエネルギー問題に関しても、消費国である中国としては、石油・天然ガス産出国である中央アジアの関係を強化したいものと考えられる。
上海協力機構(SCO)への加盟の希望については、モンゴル、インド、パキスタン、アフガニスタン、イランが表明しており、2004年にモンゴル、2005年にインド・パキスタン・イランがSCOのオブザーバー出席の地位を得て、2006年6月の会合によってこれら4カ国は正式に加盟する見込みである。これによって、SCOは中国の国境対策の機構から、中国・ロシア・インドといったユーラシア大陸の潜在的大国の連合体に発展することになり、アメリカに対抗しうる非米同盟(反米ではないことに注意、また当事者がそう断言しているわけではなく、同盟の強制力はない)として成長することは、アフリカや南アメリカの発展途上国・資源国から歓迎されている。また、印パ両国が加盟することで、中印パ3国間の対立の解消も期待されている。2005年にはロシアが中国・インドと相次いで共同軍事演習を行った。なお、アフガニスタンはカルザイ政権が半ばアメリカの傀儡であるため、加盟を拒否されている。[21]
3-2 首脳会議の概要と組織強化の流れ
第1回首脳会議
1996年4月、上海に中国、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタンの5カ国首脳が集まった。国境地帯における軍事分野における信頼強化を目的としたものだった。
翌1997年には「国境地区軍事力相互削減協定」に調印、以後、持ち回りによる首脳会議が定例化した。また、首相会合、外相会合のほか、2006年9月から最高裁長官会合なども開催されている。
第2回首脳会議
2002年6月のロシア・ペテルブルクで、加盟6カ国首脳が「上海協力機構憲章」に調印し、秘書処(事務局)を北京に置き、キルギスに「地域反テロ機構総本部」を設置することを採択。現在、インド、パキスタン、モンゴルなども加盟を希望している。
上海協力機構は加盟各国にとって、新疆の東トルキスタン独立運動、ロシア・チェチェンの分離運動など、中、ロ、中央アジアのイスラム原理主義を押さえ込む、経済、貿易、交通、技術、教育、電力・エネルギー、環境などの分野での協力促進による相互発展、唯一の超大国となった米国への牽制、などの意味がある。
第3回首脳会議
2003年5月27日、モスクワで開催。胡錦涛主席が初めて参加。反テロ協調や国連重視をうたった共同声明に調印。正式の国際機関への格上げを最終的に決定した。また、ウズベキスタンを除く5カ国は、反テロ合同軍事演習の実施に関する覚書に調印。
2003年8月6日から、合計1000人以上の実戦部隊を派遣、上海協力機構による初の多国間合同反テロ軍事演習がカザフスタン東部の中国国境付近で実施された。
2003年9月23日には、首相会議が北京で開かれ、経済貿易協力や機構の機能強化を盛り込んだ文書を採択。共同コミュニケでは「貿易と投資を利便化をはかることが現段階での上海協力機構の主要な任務」との認識で一致。域内の貿易、投資環境の改善などを盛り込んだ「多国間経貿綱要」など一連の合意文書に調印した。
第4回首脳会議
2004年1月15日、外相会議を北京で開き、オブザーバーや対話パートナー制度を設け、メンバー拡大の方針を決めるとともに、北京に秘書処(事務局)を設立。事務局長に張徳広(前駐露大使)を任命。
2004年6月17日、ウズベキスタンの首都タシケントで開催。「タシケント宣言」に調印。また、タシケントに常設の「地域テロ対策機構」が設置された。
2004年9月23日にはキルギス共和国の首都ビシケクで首相会議を開催。ウェブサイト「上海協力機構経済協力サイト」が開設された。
第5回首脳会議
2005年6月4日、カザフスタンの首都アスタナで外相会議を開き、2004年のモンゴルに続き、インド、イラン、パキスタンのオブザーバー参加(準加盟)で合意。
2005年7月5日、アスタナで開催。これで上海協力機構は加盟6カ国、オブザーバー加盟4カ国に拡充。域内の安全保障問題を協議、テロに関する共同声明のほか、駐留米軍の早期撤退を事実上要求する共同宣言を採択した。同年10月26日、モスクワで開催された第4回首相会議では、オブザーバー3カ国から、イランのダウジ第1副大統領、パキスタンのアジズ首相、インドのシン外相が出席した。
第6回首脳会議
2006年6月15日、上海で開催。設立から5周年、前身の「上海ファイブ」の発足から10周年となる節目の首脳会議となった。全加盟国の首脳のほか、オブザーバー国であるモンゴル、パキスタン、イランの大統領、インドの石油天然ガス相が出席。域外からもアフガニスタン大統領、独立国家共同体(CIS)執行委員会議長、東南アジア諸国連合(ASEAN)事務次長が賓客として出席。
会議では経済、反テロ、文化交流などについて一連の文書に調印。「各国が自主的に発展の方向性と内外に向けた政策を決定する権利を尊重する」として、米国の一極主義を牽制。地域機構としての影響力と存在感を強めつつある。[22]
3-3 中央アジアおいて持つ意味
「上海協力機構」の本来の目的はあくまで国際テロリズム・民族分裂主義・宗教過激派に対する共同対処であると考えられる。殊に同機構の加盟6カ国は、体制の安定という統治上の根本問題において深刻な問題を抱えており、その解決において6カ国の協調は極めて重要な意味を持つ。具体的には声明にある「国際テロリズム」とはおそらくロシアにおけるチェチェン人との紛争によるテロリズムを意味し、「民族分裂主義」とは中国新疆ウイグル自治区内でのウイグル人による分離独立運動を意味し、宗教過激派とは中央アジア諸国に浸透しつつあるイスラム原理主義を意味する。同機構はあくまで、これらの不安定要素に共同で対処することが目的だと考えられる。
では具体的に、中央アジアにおいて同機構はどのような意味を持つのかを検証していきたいと考える。まずは何故、中央アジア諸国は共同してイスラム原理主義に対処しなければならないのか。理由の一つはこれらの諸国が旧ソ連より独立した際の様々な事情である。[23]例えばその一つが旧ソ連より引き継いだ複雑に入りくんだ国境線であるが、本来別々の国家として機能するようには引かれておらず、場所によっては村の中心部を国境線が走っているなどということが多々ある。また新しく出来た国境線の管理もゆきとどいておらず、先日まで容易に往来していた地域間を、独立したとはいえ急に国境の名の基に往来を制限すれば、経済的にもその他の理由でも無用の混乱を起こすという、特殊な事情がある。また中央アジア諸国は、共に民族の母体がトルキスタン系民族に由来しており(タジキスタンのみペルシャ系)、言語的にも各言語間の相違は日本の方言程度であり、イスラムを信仰している点やそのイスラム信仰が旧ソ連統治下で否定されたなどの同じ経験を持っている事など、同地域が独立後もなお共同生活圏を保持していると言える。そのような事情ゆえ、同地域内では国民の移動交流も盛んなため、国際的なテロリズムやアフガニスタンから流入するイスラム原理主義には共同で対処せざるを得ないという事情が存在するのである。[24]
また各国個別にも事情があり、例えば小国のキルギスタンやタジキスタンは、その国力や人口及び経済規模にゆえ、国内に大規模な軍隊や警察力を保持することがもともと困難であり、もし大規模な組織や国家の裏支援を背景に持つテロリスト集団などの侵入を許せば、前出の国境線との兼ね合いもからみ、問題への対処が困難であることは容易に想像ができる。例えば数年前にキルギスで発生した日本人誘拐事件はその一例である。ゆえにこれらの問題を未然に防ぐためにも、隣国との共同対処は不可欠であり、同じく国内にイスラム原理主義の飛び火を恐れる大国の中国・ロシアと行動を供にすることは重要である。また、中国・ロシアにとっても、自国内の原理主義は中央アジアを媒介として侵入してくるがゆえに、この地域の国家を積極的に支援して、原理主義の動向を探ることは重要なこととなる。ここに、上海協力機構の設立の意味がもたらされる。[25]
3-4 超大国外交
「上海協力機構」は中国・ロシアの2大国にとっては、冷戦以後唯一の超大国として存在感を増すアメリカへの対抗の意味を持つと考えられる。特に人権問題や台湾問題でアメリカとの潜在的な対立を抱える中国にとっては、国連安保理の拒否権を保持する大国ロシアとの外交上の連携は重要な意味を持つと言える。[26]一方でロシアも冷戦終結後もアメリカとの対立を完全に解消できずにおり、殊に同機構の存在は近年アメリカが急速に自国の影響力を拡大しつつある中央アジア諸国を巻き込んだという意味では、本来ロシアの影響圏である中央アジアのロシア離れを防ぐという意味でも重要である。また声明では中露両国が足並みをそろえアメリカのミサイル防衛構想(MD)に反対する一幕もあり、今後同機構が米国及びその同盟国にとって国際社会でどのような位置付けをするのかは我が国の外交にとっても重要なポイントである。[27]
むすび
今回日米同盟を調べてみて一番感じたことは、北朝鮮が日本にミサイルを打ってきた場合、日米同盟においてアメリカは日本を防衛する責任はないということだった。ところが目をロシアと中国の接近と日米同盟という対立関係で見てみると全く違った新しい冷戦が始まっていることに気がつき驚いた。
そもそも上海協力機構は何のために存在しているかとなるとお互いが持っている軍事兵器を対テロという大義で自由に販売出来るようにするためだと思った。ロシアは自国の有り余った兵器をこれらの上海協力機構諸国に売ることが出来るし、中国としては現在やみくもに進めている軍事力増強計画においてロシアの力を借りることが出来る。つまり上海協力機構とは表は「反テロ組織」、裏では「兵器相互融通組織」で実体はアメリカの強大な力に対抗する地域協力機構なのではないだろうか。
これまでは国際政治は「米国一強時代」だったから、日本は何であれアメリカとの協力だけを唱えておれば済んでいた訳ですが上海協力機構対日米同盟という新しい冷戦が始まったと見るべきその中で新しい対アジア戦略、日米同盟を考え直す時期に来ているようだ。
〈参考文献〉
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・
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五百旗頭真著、『戦後日本外交史』、有斐閣、2006年
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石井修著、『現代アメリカ外交キーワード』、有斐閣、2003年
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神戸新聞、「地域の安定めざす存在に」
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http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/0000053578.shtml
* * * *
李ゼミへの志望動機・私の趣味・旅行体験
04E2161 大渓 光司
私がこのゼミを志望した動機は、三つあります。一つ目は、中国の高度経済成長に注目しているからです。開放政策や外資導入、WTO加盟など耳にしたことはあるのですが、深く知らないので興味を持ち学びたいと思いました。ニュースでよく取り出されていた日中問題にも興味があり日本人の視点からだけでなく、中国人の視点からも勉強していきたいと思いました。二つ目は関わりの深い友人を作りたいからです。大学に入学して遊び中心の友人は増えました。しかし、勉強を一緒にしていく友人が増えれば、また違った関わり合いができそうな気がしました。三つ目は、苦手なことを克服して就職活動や、その後のためにしていきたいからです。私は、人前で発表するのが苦手で、さらに、ディスカッションでは黙ってしまう悪い癖があるのです。だから、このゼミは学生主導型のゼミ運営と書いてあったので苦手なことを克服していけると思いました。
次に私の趣味は、スポーツをすることと、観戦することです。中でもサッカーが一番好きです。私は地元の友人たちと草サッカーを毎週日曜日に行っています。さらにサッカー観戦はもっと好きで年に10回は見に行っています。その試合ですごいと感じたプレーを日曜日に試してみるなど楽しいことはたくさん作っていけます。今度もトヨタカップを横浜に見に行くので楽しみで仕方ありません。
最後に、私の旅行体験は、今年の春に大学の友人と行った韓国への旅行です。一番印象に残っていることは、タクシーで移動していたのですがクラクションをやたらならすことで、日本との違いに驚きました。さらに商店街を歩いていると「完璧な偽者だよ」と言ってブランド物を売ろうとしていて笑えてしまいました。印象に残っていることが景色などでなく日本との違いが大きく残っていました。
[1] 日本経済新聞「日米同盟重み増す」、
[2] 脚注1と同じ
[3] フリー百科事典「ウィキペディア」、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」、http://ja.wikipedia.org/wiki/Homeより引用
[4] 辻雅之著、「日米安保条約」、http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20040706A/から引用
[5] 増田弘著、『日米関係キーワード』、有斐閣、2001年から引用
[6] 辻雅之著、「日米安全保障体制の国防・軍事」、http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20021109/から引用
[7] 草野厚著、『日米安保とは何か』、株式会社海外PR企画センター、1999年から引用
[8] 脚注6と同じ
[9]有事戦略研究会、「日米安全保障条約とガイドライン体制下における有事戦略」、http://www.iris.dti.ne.jp/~rgsem/guide.htmlから引用
[10] 脚注7と同じ
[11] 脚注6と同じ
[12] 定期航空協会、「周辺事態法に対する基本的な考え方」、http://www.teikokyo.gr.jp/pdf/030606basic.pdfを参照
[13] 五百旗頭真著、『戦後日本外交史』、有斐閣、2006年から引用
[14] 石井修著、『現代アメリカ外交キーワード』、有斐閣、2003年を参照
[15] 西川吉光著、『日本の外交政策』、学文社、2004年から引用
[16] 原水爆禁止日本国民会議、「六カ国協議共同声明のもたらすもの」、http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0511_1.htmを参照
[18] 脚注15と同じ
[19] 防衛庁、「沖縄問題についての内閣総理大臣談話」、http://www.jda.go.jp/j/library/archives/saco/r960910a.htmを参照
[20] 脚注15と同じ
[21] フリー百科事典「ウィキペディア」、「上海協力機構」、http://ja.wikipedia.org/wiki/Homeより引用
[22] 「上海協力機構」、http://www.panda-mag.net/keyword/sa/kyouryoku.htmより引用
[23] アジアウェイヘッドライン、「日本で報道されないアジアの動向(1)」、http://www.h3.dion.ne.jp/~asiaway/special/sp-news/nwh01-6a.htmより引用
[24] 「上海協力機構とは?」、http://www.kyoiku-shuppan.co.jp/kousha/wadai.pdf/wadai22.pdfを参照
[25] 脚注23と同じ
[26] 神戸新聞、「地域の安定めざす存在に」、http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/0000053578.shtmlを参照
[27] 脚注23と同じ