台湾の総選挙
『風雲急を告げる台湾海峡』
01E2503
施 浩
はじめに
台湾島内で、 SARS蔓延後の対処策が次々と発表される中で、 中国への敵対心が強まっている。 台湾としては、中国がSARSの感染状況を隠蔽したために、
島内で蔓延する機会を作ってしまったと考えているようである。 くわえて、 SARS蔓延を理由として、 台湾当局がWHOへの参加申請を行おうとした際には、中国政府は
「二つの中国を作り出す」 という理由から、 台湾の参加に強く反対した。 そのために、 昨年も台湾のWHO参加は実現できなかったのである。
第1節 SARSと台湾とWHO
台湾と中国との対立は、 SARSが終結しようとする時点になっても、 なお続けられた。 6月17日から18日まで、マレーシアのクアラルンプールにおいて、
WHOがSARSの世界専門家会議を開催した。 台湾は5月のWHO総会において、 オブザーバー参加を拒否されていた。 しかし、 WHOは未参加の台湾に対して、
同会議への参加を要請した。 台湾では、 要請をWHO参加への期待を含ませたものととらえ、 会議に代表を派遣した。 なお、
会議の参加については、中国側も自らが感染源と疑われているSARS問題であることから、 同意せざるをえなかったものと見られた。
会議に参加した蘇益仁・行政院衛生署 (厚労省に相当) 疾病管制局長は、 「WHOは今回のSARS会議に初めてわれわれの参加を認めてくれ、
30年来の夢が実現した。会議に参加できて非常にうれしい。 これを機会にWHO正式加盟に向けて積極的に活動していきたい」 と期待を語った。
同行した台湾からの参加者たちも、 記者会見の席にも積極的に顔を出し、報道陣に名刺を配って、 質問に答え、 テレビインタビューに応じるなど、
台湾の存在を懸命にアピールしたという。
クアラルンプールの会議は、 台湾が期待したとおりではなかった部分も存在した。
当局がWHOの招請を受けてクアラルンプールに派遣した代表は、 蘇益仁・局長を含む四名であった(代表たちに同行した者を含めると十六名)。 しかし、
クアラルンプールでの会議では、 台湾の代表が五名となっていた。 当局の派遣した代表以外に、 「代表」 が存在したのである。五人目の代表とは、 高明見・立法委員
(国会議員、 親民党籍) であった。 高委員は、 医療専門家で、 中国との交流が多いところから、 中国政府が台湾側の代表として指名したのであるとつたえられた。
高委員は、 クアラルンプールの会議が 「学術会議」 と思って、 出席したのであって、 「代表」 という考えは持っていなかったと弁明した。 さらに、
高委員は、会議において、 中国の代表ではない点を強調し、 台湾のために発言したことを、 記者会見で説明した。 高委員の所属する親民党は、
自党の立法委員が中国に推薦した「台湾代表」 として、 国際会議に出席した事態を憂慮した。 事態を放置すれば、
親民党は中国の手先であるとする非難の根拠にされる可能性があった。
総統選挙が近づいていることもあり、反対党からの非難の根拠を増やすことは避けなければならなかった。 宋楚瑜・親民党主席は高委員に対して、
即刻の帰島を求めたとつたえられた。
事件の事実関係については、 中国政府が関与していることもあり、
高委員の弁明以上のものが明らかにされることはなかった。 6月18日、 陳水扁総統は、 「政治と疫病予防は別のことであるとはいえ、(会議に参加する)
すべての人は台湾人の尊厳を持つべきである」 と述べて、 親民党籍立法委員の行動を批判した。
SARSの蔓延は、 中国との関係を悪化させた。 当局は、
中国が反対している住民投票を実行することを決意した模様である。住民投票を決意させた原因は、 5月19日に、
ジュネーブにおいて開かれた第56回WHO年次総会で台湾のオブザーバー参加を議題とすることが、
中国の反対工作のために取り上げられなかったことにある。本年のWHO参加にかける台湾の期待は、 例年に比べて大きかった。 背景には、 米国、 日本、
欧州議会が台湾の参加を支持していたことに加えて、 島内に蔓延したSARSは、台湾を中国の一部とする政治的見解によって処理し切れないものであることを証明した。
さらに、 SARS発生の当初、 中国政府が国内の蔓延を隠していた事実は、 国際社会における中国の衛生政策に対する信頼度を低めた。
台湾を中国の一部とする政治的解釈からは、 今回のSARSに対応することが不可能であった。 それゆえ、 台湾当局は、 中国とは別個の存在として、
WHOへの参加が認められてしかるべきであると考えたのである。また、 国際世論も、 台湾の考えを受け入れてくれるものとばかり信じ込んでいた節もあった。
中国にとっても、 WHO総会を重視する点においては台湾と共通していた。
結果、 台湾のオブザーバー参加は、 2003年も実現できなかった。
当局にとって事前の期待が大きかった分、 実現できないことが判明した後の失望が大きかった。
第2節 選挙情勢
「前回の2000年の総統選挙で陳水扁の勝利はなぜ可能だったのか。原因はおおよそ2つ数えられる。1つは、国民党の体制内にいた李登輝という稀代の人物が、2000年までにさまざまな民主的改革を実現させ、全民直接投票による総統選出というレールを敷いてくれていたこと。いま1つには、国民党内の不満分子宋楚瑜が離党して総統選に出馬し、国民党の連戦と票を争ったため、陳水扁が漁夫の利を占めることになったということだ。
次回の総統選は2004年の3月で、ほぼ半年後に迫っている。これまで陳水扁再選が比較的楽観視された背景には、立候補が予想される陳・宋・連3者の前回の得票率において陳が1歩リードしていたという事実がある。さらに2001年の立法委員の改選においてグリーン陣営(台湾志向の民進党と台連)が議席増となったのに対して、ブルー陣営(中国志向の国民党・親民党・新党)が全体として議席を減らしたことも、陳の声望を一段と高める結果となっていた。
しかしここへ来て、陳再選に黄信号が点りはじめたのは、昨年暮の台北市長選でグリーン陣営の候補が国民党の馬英九現市長に大差で敗れたばかりか、グリーン陣営の金城湯池である高雄市でも民進党の現任市長が僅差でやっと再選されるというショッキングな出来事が契機となっている。
この間の民心の移ろいは、第一義的には、止めても怒涛の如く奔流する中国大陸への資本投下と企業進出の結果である。これが台湾島内産業の空洞化と失業率の増大を生み、折からの世界的な不景気と株安とも重なって、陳施政への不満と、相対的にブルー陣営に対する幻想と期待を抱かせる事態を招来した。このような状況の中で、この2月、ブルー陣営は総統に連戦、副総統に親民党の宋楚瑜を立てるという超党派的な「連・宋ペア」の構想を発表して、政界に新たな衝撃を与えた。
連と宋の宿敵的関係は台湾では知らぬ者のない有名な事実だったからである。前回の選挙のときも、連が宋の汚職を暴き立てて後者を落選に追いこんだ経緯がある。2人とも単独では陳水扁に勝てないが、ペアを組んだとなると力は侮れないものがある。しかし、ここで馬英九が噛んでくるから事は複雑になる。ハンサムな馬は女性間に抜群の人気を誇り、国民党内で彼の出馬を促す声は大きい。
しかし国民党主席の連が出馬する以上、馬は出られない。人気のない連は国民党の票だけでは勝てないから、仇敵でも親民党の宋を引き込まなければならない。一方、宋は人気抜群の馬と組んで、遥か後輩である馬の下風に立つことを潔としない。要するに連・宋・馬は“3すくみ”の状態にあり、「連・宋ペア」はそれぞれの党内での整合がうまくとれていないので、陳総統の対戦相手が最終的に誰になるのか、また選挙結果がどう出るのか予断を許さぬものがある。」[1]
第3節 予想されている立候補リスト
1、陳水扁 (チンスイヘン)
「台湾総統。台湾台南県出身。台湾大学法学部卒。1979年、反国民党勢力と警官・憲兵隊が衝突し、多くの負傷者が出た「美麗島事件」(高雄)で、弁護士として被告弁護団の一員となる。87年に民進党入党。89年、立法委員に初当選。94年に行われた台北市長選挙で当選、98年まで台北市長をつとめる。2000年3月の台湾総統選挙に女性の呂秀蓮副総統候補とのコンビで立候補、無所属の宋楚瑜、国民党の連戦を破り、国民党以外で初の中華民国総統に就任した。2002年には民主進歩党主席に就任。
2002年8月、東京で開催された世界台湾同郷会連合会総会で、台北の総統府からインターネットで、「台湾と対岸の中国はそれぞれ一つの国(一辺一国)」「住民投票で台湾の前途を決定する」と発言。基本的には李登輝前総統の「二国論」を踏襲したものだった。これに大陸側が「1つの中国」の原則に対する挑戦であり、両岸関係に対し深刻なマイナス影響を引き起こすとして猛反発。「外部の人が私の談話を一辺一国論と簡略化しているが、短絡的な解釈は誤解を招きやすい」とし、適切な言葉として「主権対等論」がふさわしいと軌道修正した。
しかし、民進党は国民党とは違って台湾独立を掲げる政党である。両岸関係の経済一体化が進む中で、東南アジアなどに対する南方政策によって、対中依存度を緩和させようともしているが、狭まる外交空間のなかでの政治・経済・外交の舵取りは難しい。2004年の総統選挙は、国民党の連戦と親民党の宋楚瑜が総統・副総統候補として共闘するため、厳しい選挙戦が予想される。」[2]
2、宋楚瑜 (ソソユウ)
「親民党主席。大陸の湖南省生まれの外省人。7歳から台湾に移る。台湾の政治大学、カリフォルニア大学バークレイ校を経て、ジョージタウン大学政治学博士。国民党政権では、行政院新聞局長など要職を歴任し、李登輝時代には側近として国民党秘書長をつとめ、李登輝総統を支えた。93年台湾省主席就任、94年台湾省長に当選。
その後、李登輝と袂を分かち、2000年3月の総統選挙に副総統候補の張昭雄とのコンビとして無所属で立候補したため国民党を除名された。清廉なイメージを売りものにしてきたが、99年12月に巨額の出所不明金スキャンダルが発覚したこともあって、選挙では民進党の陳水扁に敗れたが、国民党候補の連戦の得票を大きく上回り、予想外の善戦だった。選挙後に親民党を結成した。
人気は高く、外省人の「希望の星」といわれる。2003年3月の親民党臨時党大会では、連戦率いる国民党との共闘を決定。「連戦総統・宋楚瑜副総統」で、現総統である民進党の陳水扁に挑むことになった。」[3]
3、連戦 (レンセン)
「国民党主席。陜西省西安で生まれ。祖籍は台南市。国立台湾大学卒業後、シカゴ大学に留学、博士号を取得。88年に行政院外交部部長(外相)、90年台湾省主席、93年行政院長(首相)を経て、96年5月から副総統を兼任。97年9月に行政院長は蕭萬長に譲った。
2000年3月の総統選挙には、党副主席のままで副総統候補の蕭萬長とのコンビで出馬したが、民進党の陳水扁に敗れる。さらに国民党から離れて無所属で立候補した宋楚瑜にも得票数で下回るという屈辱を味わった。半世紀年以上も台湾で長期独裁政権を維持した国民党が歴史的敗北を喫した日であった。台湾独立色の強い李登輝総統が裏で陳水扁の応援に回ったといわれる。
2000年3月、反李登輝気運の中で「総統選挙敗北の責任を取る」として、李登輝が党主席を辞任したため、副主席の連戦が主席代理となった。6月に主席に就任。翌2001年3月には党員による主席直接選挙を実施、再び主席に当選した。「主席直接選挙は、党が現代化された民主政党になる重要な過程」としたが、立候補者は連戦1人の信任投票だった。また、この年には国民党内で李登輝派と反李登輝派の内紛が勃発、9月に李登輝は除名され、台湾団結連盟(台連)を結成している。さらに、12月の立法院選挙でも、第一党の座を民進党に奪われた。「李登輝は私の友人なんかじゃない」と、かつて仕えた前総統とは完全に決別したとされる。
2003年3月には国民党、親民党両党が臨時党大会を開催。「連戦総統・宋楚瑜副総統」で2004年総統選挙への共闘体制を築き、前回総統選の雪辱を期す。」[4]
4、馬英九 (バエイキュウ)
[5]台北市長。香港で生まれる。父親は外省人で元国民党幹部。1972年国立台湾大学法学部卒業後、ハーバード大学へ留学。法学博士号を取得。帰国後、蒋経国総統の秘書となり、93年から3年間、法務部長(法相)をつとめる。その後、国立政治大学で教鞭をとる。
98年12月の台北市長選挙で、与党国民党候補として、民進党の現職市長・陳水扁(現総統)を破って市長に当選。2002年12月の市長選でも、民進党の李応元候補に圧勝。その高い人気を証明した。
典型的な外省人エリート政治家。英語を流暢に話し、映画スターばりのハンサムなマスクで女性層にも人気は高い。一方で、一部の外省人グループや独立派は、彼の言動を日和見主義と批判している。
長期人気低落傾向の国民党にとっては、期待のホープである。2004年の総統選挙では、党主席の連戦が親民党の宋楚瑜と連合、「連戦総統・宋楚瑜副総統」で出馬することが決定しているが、馬英九待望論も党内には依然として根強い。アメリカ民主党陳営におけるヒラリ−夫人のような存在である。
第4節 グリーン陣営とブルー陣営の対峙
1.台湾志向の民進党と台連――グリーン陣営
@民進党
[6]民進党は全称民主進歩党、“台湾独立”を綱領とする台湾の政権党である。本省人を基盤とする台湾の政権党。主席・陳水扁。1986年結党。蒋経国の国民党一党独裁政権下の1970年代後半から「党外勢力」として勢力を伸ばし、1986年9月28日、増加定員選挙に向けた党外選挙講演会結成大会で「民主進歩党」の結成を宣言。11月の第1回党大会で綱領を採択し、初代党主席に江鵬堅を選出した。当初、国民党政権は不法組織として認めなかったが、蒋経国は89年に「党禁」を解除、民進党を容認し合法化した。
87年7月の戒厳令解除後の11月の第2回党大会で、「人民は台湾独立を主張する自由を有する」と決議、翌88年4月の第3回党大会で、「台湾は国際的に独立しており、北京を首都とする中華人民共和国に属さない」と宣言するなど、「台独」(台湾独立)を全面的に打ち出した。また、90年10月には「わが国の主権は中国大陸と外モンゴルに及ばない」と「台湾主権独立」決議を採択。
92年12月の立法委員選挙(総選挙)で50人が当選(得票率33%)、94年12月に陳水扁が台北市長に当選、96年3月の初の総統直接選挙で公認候補の彭明敏が次点になるなど、一大野党勢力へと成長した。
そして、2000年3月の総統選挙に陳水扁は女性の呂秀蓮副総統候補とのコンビで立候補、無所属の宋楚瑜、国民党の連戦を破り、民進党は国民党以外で初の政権政党となった。
2002年7月、強いリーダーシップ発揮を目指して「党政同歩」(党政一元化)を決定、陳水扁総統が主席に就任した。連戦(国民党)と親民党(宋楚瑜)連合に対抗して、2004年の総統選挙での再選を目指す。歴代主席は江鵬堅、姚嘉文、黄信介、許信良、施明徳、林義雄、謝長廷。
A台連
[7]台連は全称台湾団結連盟、“台湾”を関した台湾初の政党である。黄主文主席。李登輝前総統の国民党除名騒動の中で、李登輝の台湾重視の理念に共鳴する「台湾本土派」によって、2001月8月結成。台湾では初めて政党名に「台湾」を冠した。黄主席は李登輝政権時代の内政部長(内相)。李登輝は台連の精神的指導者となった。
「台湾優先」を原則に、政局の安定、経済の振興、民主の強化、台湾の壮大化、を掲げる。中国と台湾の関係を「中台併存」、李登輝の「国と国との関係」と認識する。また、独立か統一かという台湾の将来については、台湾人の民主的な投票によって決定するとしており、陳水扁の民進党とは友党関係にある。2001年12月の立法会選挙で13議席を獲得、陳水扁政権を強力にバックアップすることになった。
2、中国志向の国民党・親民党・新党――ブルー陣営
@国民党
[8]国民党は全称中国国民党、連戦主席。1905年、孫文の指導で日本に結成された「中国革命同盟会」が前身。辛亥革命、中華民国の建国を経て、1919年10月10日、中華革命党から中国国民党に改組。孫文が提唱した「三民主義」(民族・民権・民生)を掲げる。1924年の国民党1回大会で中国共産党(21年結党)と合作(第1次国共合作)。1925年の孫文の死去後、広東に「国民政府」を樹立。
蒋介石が後継者となり、以後、南京、重慶に政府を移し、共産党を抑えて全国統一をはかった。日本軍の中国侵略が本格化する中の36年12月12日、共産軍討伐のため西安にいた蒋介石が張学良に幽閉される事件が起きている。この西安事件を契機に、37年「第2次国共合作」に応じ、以後、共産党とともに抗日戦争へと進んだ。
45年に日本が敗北すると、毛沢東率いる中国共産党との内戦が再び激化。47年2月には台湾で国民党による大弾圧事件(2・28事件)が起きている。国民党の敗北が明らかになった49年8月、台湾に渡った蒋介石は台北を首都に定め、大陸反攻を期した。49年10月1日、中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言し、国民党の敗北は決定した。一方、共産党との合作を重視した国民党の分派である国民党革命委員会は中華人民共和国成立に参加した。
50年6月に朝鮮戦争が始まると、トルーマン米大統領は「台湾海峡の中立化」を宣言し、台湾海峡に米国第7艦隊を派遣し、中国による台湾武力解放の阻止を目指した。また蒋介石の大陸反攻にも反対し、この後、台湾は米国の保護下に置かれ、反共西側陣営の一角となった。
75年4月、蒋介石が死去。長男の蒋経国が国民党主席となり、78年に総統に就任した。1980年代から始まった台湾の民主化は、米中接近による国際的孤立を避けるために、蒋経国が始めたものだった。71年10月には国連総会で中国復帰と台湾追放が決議され、翌72年2月のニクソン訪中で米中和解が進み、台湾の国際的孤立は明らかだった。
88年1月に蒋経国が死去すると、副総統(党副主席)の李登輝が総統(党主席)に就任した。李登輝は本省人(台湾出身者)であり、本省人を中枢に据えようとする李登輝に対する外省人(大陸出身者)からの反発が強かった。一部の外省人たちは国民党を飛び出して、93年に「新党」を結成した。96年3月、李登輝は初の総統直接選挙で大勝。この頃から「大陸と台湾は特殊な国と国の関係」(二国論)と発言するなど、独立志向を強めていった。
2000年3月の総統選挙では副総統だった連戦が国民党候補として出馬したが、民進党の陳水扁に大差で敗れた。李登輝は同じ本省人の陳水扁の当選を願い、裏で応援に回ったとされている。連戦の国民党は、無所属で立候補し国民党を除名された元台湾省長の宋楚瑜の得票数をも下回り、台湾で50年近く政権の座にあった国民党は野党に転落した。長い間の「黒金政治」(暴力団との癒着と金権政治)のツケでもあった。宋楚瑜は選挙後に親民党を結成した。
2003年3月、台湾総統選挙へ国民党、親民党両党が臨時党大会を開催し、「連戦総統・宋楚瑜副総統」で2004年総統選挙への共闘体制を敷いた。一方、連戦の人気はいま一つで、馬英九(台北市長)への世代交代論などもくすぶっている。
長期独裁政権だった国民党は依然として強力な政党であり、その組織力や財力は図抜けているが、もはやかつてのような独裁政党としての復活はありえない。
A親民党
[9]親民党は台湾の第二野党、主席・宋楚瑜、副主席・張昭雄。2003年3月の台湾総統選挙で、国民党の連戦候補を上回る466万票の高得票を獲得しながら落選した宋楚瑜を中心に、総統選挙後の3月31日に結党。
国民党、新党などとともに外省人を基盤とする政党である。2001年末の立法委員選挙(総選挙)で健闘し、議席の2割を占める第3党となった。陳水扁の民進党政権に対しては、その対中政策の動揺が不景気、失業率上昇、財政赤字などの失政につながっているとし、「一辺一国」(中台それぞれが一つの国)はイデオロギー偏重と批判する。
B新党
[10]新党は1993年結党。88年総統に就任した李登輝が、「本土化」「台湾化」を推進したため、外省人の党員が“正統国民党”
として国民党から分裂。国民党、親民党、新党など中国統一派を「藍グループ」というが(これに対して民進党などの独立派を「緑グループ」という)、新党のシンボルカラーの黄色は、藍よりもさらに強い中国ナショナリズムの象徴。
93年の立法院選挙で13%の得票率を獲得。徹底した李登輝批判と国民党の黒金政治批判によって、都市部有権者の不満を吸収する受け皿となり、野党としての存在感を示した。
しかし、90年代後半になると、内部対立が激化、自らの黒金体質とあいまって支持者たちの失望をかつて衰退。2001年12月の立法院選挙では台湾島内で全滅して、金門選出の1議席を残すのみとなった。しかし、2002年12月の台北市議会選挙では、6人中5人当選と健闘、党勢はやや回復したといわれる。
国民党の本流を自認し、「一つの中国」を基本とし、「実務外交」にも反対する。この点では中国に立場は近い。反日姿勢も強く、小泉首相の靖国参拝には強く抗議している。
第5節
台湾島内の現状
1、中国との対立意識
[11]2002年6月12日に台湾外交部の発表した、 「中華民国」 パスポートに 「TAIWAN」 の表記をくわえた新パスポートを、
2003年9月1日から使用するという決定は、中国との対立姿勢を明示するものとなった。 外交部の説明によれば、 台湾当局が発行してきたパスポートには、
「中華民国」 との表記があるだけで、 台湾を表す文言が記載されていなかった。そのため、 事情を知らない外国の航空会社や出入国審査機関では、
中華人民共和国パスポートと間違えられ、 差別的待遇や不便を被るケースがしばしばあったという。
2002年1月、 当局はパスポートの表紙に
「ISSUED IN TAIWAN」 の文言を付記する計画を発表していた 。 しかし、 計画については、 野党から「台湾独立につながる」
という反対が出されたばかりか、 与党サイドからも 「台湾の矮小化につながる」 という意見が出されたために実施できないままでいた。 今回の決定は、
2003年2月の時点で固まっていたものの、 発表する段階になってイラク戦争が勃発し、 続いて島内でSARSが蔓延したために、
発表時期が持ち越されたものであるという。
これまで反対してきた野党も、 今回は賛成する姿勢を見せている。 野党第一党の国民党は 「国名と国章を残し、
中華民国の尊厳が守られるなら、 純粋に機能性という意味から今回の外交部の決定を尊重する」と述べて賛成した。 野党第二党の親民党も 「『国名、 国章を変えず、
両岸の緊張と友好国の疑念をもたらさない』 との四つの原則が守られ、 国民の旅行の便宜が図られるならば、党としても全面的に支持する」
と賛成する態度を明らかにした。 また、 「中華民国」 あるいは 「中国」
という中国大陸と紛らわしい名称を変えるよう運動を展開している台湾正名運動連盟の王康厚・執行長は「本来なら 『中華民国』 の文字も (パスポートから)
外すべきだが、 とりあえず今回の措置は台湾の主権確立に向けた大きな一歩だ」 と評価したと伝えられる。
予想どおり、 中国は反対した。 6月17日、
中国外交部のスポークスマンは定例記者会見の席上、 記者からの質問に答える形で、 「台湾当局がいわゆる 『パスポート』に TAIWAN の文字を加えたことは、
漸進式の台湾独立、 分裂活動の継続にほかならないし、 両岸関係を破壊する深刻な一歩である。 中国人民の警戒心を引き起こさずにはいられない」と非難を行った。
2.住民投票構想の展開
@陳総統の宣言
[12]WHO総会の翌日の5月20日、陳水扁総統は、
「WHO参加を求める住民投票」 実施に向けた協議を行うよう、 与野党に呼びかけた。 WHO参加を台湾で住民投票に問うたところで、
参加が認められるわけではない。しかし、 島内での住民投票実施は、 「台湾独立」 につながるとして、 中国が反対してきたところである。
テーマが実効性を有しなくとも、 住民投票を実行することそのものが中国に敵対する意思表示となる。
陳総統の呼びかけは、 その後も続いた。 しかし、
住民投票のテーマは、 WHO参加についてばかりではなく、 多種多様なものにとひろがっていた。 6月27日に、行政院が開いた 「非核国家推進委員会」 の席上、
陳水扁総統は2004年3月20日の次期総統選挙と同日、 あるいはそれ以前の段階で、 第四原子力発電所建設などの重大政策について、住民投票を行う予定を宣言した。
陳総統の説明によれば、 住民投票は住民の民主・主権の体現であり、 議会政治に対する重要な補完・強化措置であり、
この種の直接民主の方式は法律がないからといって差別されたり、制限されたりするものではないという (台湾には住民投票を行うことに関する法律は存在しない)。
さらに、 国連加盟、 EU加盟、 ユーロ採用などの国家の重大政策、あるいは社会的に大きな意見の対立がある銃器所持、
妊娠中絶などのテーマについてすでに世界の多くの国が住民投票を実施しており、 それによって長期的な社会対立を解消しているという。
なお、
宣言の2日前の6月25日、 陳総統は、 住民投票のテーマとして、 中国との統一、 台湾の独立に関する問題を取り上げないことを明らかにしていた。
さらに、陳総統は、 住民投票の法的根拠について、 住民投票法なしで、 ポーランドとチェコがEU加盟問題について投票を実施した事例、
および米国の一部の州がファーストフードのチェーン店開設について投票を行った事例をあげ、台湾においても住民投票法なしで投票を行うことが可能であると語っていた。
与党、 民進党の李応元・副秘書長は、 住民投票のテーマとして、 第四原子力発電所の建設の是非、 WHO加盟の意思、 立法院 (国会)
改革の推進をとりあげることを明らかにしている。 1997年7月、 台湾では憲法修正が行われ立法院の定数が164から225に増加された。 背景には、
中華民国政府とほぼ同じ行政区画を有していた台湾省政府の簡素化、台湾省議会の廃止がある。 省議会の廃止により、 省議員選挙も停止されることになり、
その代替措置として立法委員定数の増大が行われたのである。 その後、 多過ぎる立法委員は、議会運営を混乱させる原因であるとして、 削減が求められるにいたった。
予定されている住民投票では、 議席数を150にするか、 115にするかについて住民の賛否を問うという。
さらに、 住民投票の実施時期としては、
第四原子力発電所の建設の是非については、 2003年末までに実施し、
それ以外の問題については3月20日の総統選挙と同時に実施する予定であるとされた。第四原子力発電所の建設問題を優先する理由として、 2004年度予算
(台湾の会計年度は暦年と同じ) が可決される前、 すなわち2003年中に建設の是非を確認しておく必要があるという。
A各方面からの反応
住民投票について、 台湾の住民はおおむね受け入れる姿勢を示している。 6月24日に 『連合報』 が、
794人を対象に行ったアンケート調査によれば、 住民投票の実施に賛成する人は回答者の59%、反対する人は28%、
意見を持たないと答えた人は13%であったという。 ただし、 住民投票に賛成すると答えはしたものの、 投票のテーマによって、 投票の必要性についての賛否が分れる。
中国が強く反対する統一・独立問題について、 投票を実施することに賛成する人は39%、 反対する人は45%で、 反対者が賛成者を上回っていた。
WHO加盟問題について、住民投票実施を支持する人は51%で、 支持しないとする人の36%を上回った。 また、 第四原子力発電所の建設については、
必要があるとする人は36%、 必要がないとする人は47%であったという。すでに建設が進んでいる第四原子力発電所について、
投票で建設の是非を問うことに住民は冷めた見方を示したのである。
野党も、 住民投票に賛成する方向に傾きつつあるとつたえられる。
野党第一党の国民党と第二党の親民党は、 住民投票について、 反対することはしないものの、 積極的に支持する立場をとってはいなかった。しかし、
民意が住民投票に賛成していることが判明するにつれて、 野党は積極的支持を表明するようになったという。 ただし、 国民党、 親民党もともに、
陳総統が説明した住民投票法の成立を待たずに投票を実施することに対しては、反対をしている。 国民党、 親民党としては、
民意の賛成を得ている住民投票そのものに反対することはせず、 手続きにおいて陳水扁政権と対立する考えなのかも知れない。
台湾の野党は、
住民投票に対して、 積極的に反対する立場を明示できない。 一方、 中国は、 積極的に反対する立場を貫いている。 6月25日、
中国の国務院台湾事務弁公室の李維一報道官は「台湾当局が、 ごく少数の 『独立分子』 が進めている 『住民投票』 を黙認し支持することによって、
分裂活動を進行させることは、 台湾海峡の平和を破壊し、 両岸関係の緊張を作り出し、台湾同胞を含む中華民族全体の基本的利益に反するものである」 と述べて、
テーマが台湾独立でなくとも、 住民投票そのものに対して反対する姿勢を明示した。
台湾事務弁公室スポークスマンの発言のあった同日の25日、
台湾の行政院大陸委員会 (台湾問題を主管する省庁) は、 「住民投票は民主化に欠かせない過程であり、安定した両岸関係を維持しようとする台湾の政策、
および陳水扁総統が宣言した現状維持政策になんら変更はない」 旨を強調するとともに、
「北京当局は住民投票もしくは住民が直接公共政策に権利を行使できる仕組みが民主化の過程において必要であることを理解すべきで、
これを理解する能力と理解しようとする意思こそが、 両岸関係に存在する問題点の核心である」と指摘して、 中国側の非難に反論した。
米国は、
判断を下しかねているようである。 6月23日、 ニューヨークにおいて、 簡又新・台湾外交部長は米国の対台実務機構である米国在台湾協会 (ATI)
のシャヒーン理事長と会見して、住民投票を説明した。 説明に対して、 シャヒーン理事長は反対することはしなかったものの、 住民投票の必要性、 中国側の反応、
投票過程における不確定要素の三点について疑問を提示したとつたえられた。その2日後の25日に、 ワシントンにおいて、
4名の台湾立法院外交委員会メンバーが米国務省官員と会談した際、
米国側は住民投票を実施することは台湾自身が決定すべきことであるとした上で、投票が中台関係の緊張状態を引き起こすようなことがあれば、
台湾側はその責任を負わねばならないと語ったという。 また、
台湾当局が事前に米国政府に住民投票実施の説明を行っていなかったため、米国政府は投票実施について意外に思った (caught by surprise)
と述べたことが、 同席した台湾側メンバーから公表された。
第6節 選挙への予想
1、民進党の不利
[13]高雄市長選挙は現職・謝長廷(民進党党首)の「滑り込みセーフ」で幕を閉じた。しかしその差はわずか1・6%。土壇場の高雄集会には陳水扁総統が急遽、応援に駆け付けるなどの盛り上げ戦術で辛くも逃げ切った形だ。
台湾の選挙は宣伝カーの台数に制限はなく、集会には女性タレント、歌手などが手弁当で駆け付ける。前座は芸能大会の趣、爆竹とラッパの音響は喧しく、幟、バスの看板。やたら規制の多い日本の静かな選挙とは対照的だ。
それにしても「民進党の天下」と言われた南部の大票田・高雄で、これほどの陳水扁政権の苦戦ぶりは何故に引き起こされているのか。
第一に国民党を飛び出し新党=「親民党」を率いる宋楚瑜(元台湾省長、国民党秘書長)が終盤になって黄候補(国民党)への応援を本格化させ、国共合作をもじった「国・宋合作」の実現を導いた背景がある。これが猛烈な追い上げに結びついた。
第二にかつての李登輝派の重鎮、王金平(国会議長)、蕭万長(元首相)ら、本来ならば民進党幹部に並ぶような本省人の大物政治家が国民党候補者を支援し、最終日の国民党集会でも雛壇にずらりと並び、与党にあと一歩と追い上げを見せたことだ。
第三は経済問題である。高雄の工業都市としての失業率(5・5%と全島第4位)の悪さと経済不調を陳水扁政権の責任だと批判されたことが悪影響を及ぼした。高雄市長選には他にも前内政部長の張博雅(女医)が出馬したが、緒戦からの戦術のまずさが災いし、元民進党主席の施明徳候と並んでの「泡沫」扱いとなった。
本省人が大きく期待した民進党路線が意外に不人気な結果となった理由を別の角度から考えてみよう。
(1)陳水扁総統その人が政治的に安定せず、ジグザグ路線と指導力不足に加え、時と場所を考えない思いつき発言が多く、あまつさえ「台湾政治のゴッドファーザー」=李登輝前総統との確執が云々され、その隙間を選挙上手な宋楚瑜陣営に巧妙に衝かれた。
(2)失業対策、国内空洞化といった経済問題が政治イシュウ(争点)となっているのに、たとえば高雄では「古い時代に高雄を後戻りさせない」(謝長廷)とか「港都新気象」(高雄に新風を、張博雅陣営のスローガン)など抽象論で対応し、選挙民を失望させた。
(3)二年前の総統選の投票率をおよそ10%下回るといった「政治的無関心層」の急増に俊敏な対応がとれなかった。要するに民進党の惨敗なのである。
2、台湾政治の展望
こうなると、今後の台湾政治の展望に明るさが希薄となる。一体、どうなるのか?
(1)台北で馬英九の圧勝は野党の国民党と親民党、新党の間にむしろ熾烈な主導権争いの新段階をもたらした。2004年の次期総統選挙に最大野党の国民党では、連戦を出し抜き、いきなり馬英九が陳水扁に挑む可能性が濃厚となった(98年の市長選では、馬が現職だった陳水扁市長を破った)。
国民党主席に居座る連戦は、若い馬英九に出し抜かれても政権奪回のためには妥協するか、それとも妨害し続けるか。国民党の党内闘争が激化するだろう。
(2)もうひとり、馬英九の圧勝を素直に喜ばない大物は宋楚瑜(親民党主席)である。前回の総統選挙で「国民党公認」の連戦を遥かに引き離し、首位・陳水扁に僅か2%にまで追い上げた嚇嚇たる実績と、過去二年間、水面下で密かに進めてきた「国・宋合作」のシナリオとは「2004年は宋が総統候補、連戦は副総統候補」という奇抜な台本だった。それが「馬・宋」正副コンビとなると不愉快この上なく、かといって宋が再び単独候補として出馬すれば、陳水扁が漁夫の利を得る。
宋楚瑜は、このために今回の選挙には台北と高雄の市長戦には「独自候補」を親民党から立てなかった。そればかりか台北集会では「馬を頼む」と聴衆に跪き、その仕草は「次は遠慮せよ、馬君、キミは次の次だ」という信号を送ったのだ。
しかし、馬英九の圧勝が実現した結果、「連戦、宋楚瑜なんは過去の人、馬を総統候補に!」の声が大きくなっているのである。
参考文献:
@http://www.panda.hello-net.info
A月刊自由民主論壇
B『連合報』
Chttp:www.mainichi.co.jp/eye/shasetsu/200112/04-2.html
Dhttp://peopledaily.com.cn/2000/03/16/newfiles/all1180.html
Ehttp:www.takagi-kei.com/contents/theory006.html
Fhttp://tanakanews.com/a0316taiwan.htm
- 10k
Ghttp://www.yorozubp.com/9812/981211.htm
- 10k
Hhttp://www.jiia.or.jp/pdf/ampo/h10_matsu-haru.pdf



「ゼミ勉強の感想」
01E2503 施 浩
私は今年の春学期に李先生のゼミに入りました。あっという間に、もう終わりに近いです。
振り返ってみると、この1年間の勉強の収穫はとても多いです、李先生とゼミ生のおかけで、私は教科書の中にはない知識を身に付けたと思っています。
留学生の私にとって、ゼミの勉強がかなりたいへんでした。日本語の勉強はもちろん続けていますが、発表とレポートとか、いろいろな専門用語がたくさん出て来たから、本当に疲れるし、つらかったでした。特に今回のゼミ論文―台湾総選挙を書くために、すごい時間をかかりました。この半年ぐらい、私は図書館にいた時間は過去3年間より多いと思います。書けば書くほど、勉強不足とわかってきました。毎日頭が痛くなるほど、いろいろな台湾選挙について資料を調べたり、パソコンのインターネートでさがしたりして、やっと完成しました。
この1年は、本当にいい勉強になりました。今までの私にとって、最も有意義な1年だと思っています。今の私は、自信を持って、努力すれば、必ずいい結果を得られることを実感しました。
これらつらい体験は私の将来にとって、役に立つと思います。来年4年生になったら、もっとがんばります。
[1] 月刊自由民主 「論壇」 2003.5月号より
[2] http://www.panda.hello-net.info 現代中国ライブラリイ より
[3] http://www.panda.hello-net.info 現代中国ライブラリイ より
[4] http://www.panda.hello-net.info 現代中国ライブラリイ より
[5] http://www.panda.hello-net.info 現代中国ライブラリイ より
[7] http://www.panda.hello-net.info 現代中国ライブラリイ より
[8] http://www.panda.hello-net.info 現代中国ライブラリイ より
[9] http://www.panda.hello-net.info 現代中国ライブラリイ より
[10] http://www.panda.hello-net.info 現代中国ライブラリイ より
[11] 連合報 2001年9月号 参考
[12] http://mitsui.mgssi.com/compass/html/0004/twp_02.htmlより
[13] 月刊「正論」より