中国のスポーツ事情

スポーツから見る「経済」「政治」「歴史」

 

01E2198 吉田 貴志

 

スポーツという言葉にどんなイメージを持ちますか。日本には、スポーツ産業、スポーツ教育、娯楽スポーツ、プロスポーツなど、スポーツを媒介にした話題があふれている。スポーツ活動に「参加する、しない」に関係なく、現代社会で、これらの話題に触れないことは不可能だ。中国でも、スポーツには大きな影響力がある。しかし、「中国スポーツそのもの」や「中国スポーツから見えてくる市民生活や等身大の中国」は、日本にはなかなか伝わらない。中国の話題を日本に発信する際、大メディアは当然、国際的に影響力のある話題、日本で需要の高い話題、日本人と密接に関わってくる話題を取り上げるわけですから、これは仕方のないことだと思う。しかし私は、中国の「市民生活とスポーツの関係」はいま、大きな変革期にあり、日本に伝えていく価値が十分にあると思っている。中国では長年、「スポーツ=スポーツ選手のもの」だった。もちろん例外はあったが、もともとは主に、幼少時からエリート教育を受け、オリンピックなどの国際大会で国の名誉のために競技をしたスポーツ選手の活動だった。それがどうでしょう。最近の経済の発展にともない、アマチュアスポーツ、娯楽としてのスポーツが広く普及してきている。これは社会の大きな変化であり、「スポーツのある風景」からは、いままで日本に多く伝わっていた「経済」「政治」「歴史」などの話題からはわからなかった、「体温のある中国」が見えてくる。

 

第1節 経済(北京オリンピック)

1.北京オリンピックに向けて

2008年に行われる北京オリンピックの効果が期待できると予想している。ご存知の通り、日本も東京オリンピックにより高度経済成長へと突き進んだ。ソウル・アトランタ・シドニーなどなどオリンピックを経験した都市・国は目覚しい発展を遂げている。オリンピックといってもその年だけを指しているのではない。むしろ、オリンピックの年5年前後に注目してください。オリンピック開催前というのは主にインフラの整備が活発になる。各国の代表選手を滞在させ最高の状態で大会に参加させるのが目的ですからインフラの整備は欠かせない。さらに、オリンピック開催後には観光が増えると予想している。テレビでオリンピックを見ていた人が実際に訪れたくなるというのが自然の流れでしょう。もちろん、オリンピック期間中の観光はいうまでもない。

 

2.東京オリンピックとの比較

東京オリンピック開催が決まった1959年以降、「東京オリンピックまでに世界に誇れる日本を」の合い言葉で、世界に恥ずかしくない新幹線、高速道路などを完成させようと日本全体が一丸となって猪突猛進した。その結果として、GDPの伸び率も10%台後半の高成長が続き、日経平均株価も1958年頭の500円台から、1961年半ばの1,800円台まで暴騰した。そして1964年に開催された東京オリンピックは、日本が総力をあげた国家プロジェクトとして世界の注目を集めた。開催9日前にギリギリ開業した東海道新幹線は、東京、大阪、名古屋という三大都市を経済的に一体化させ、列島の各地域を大量高速輸送機関で結ぶ幕明けとして、その後の日本の経済成長に大きく貢献した。また同時に整備された首都高速道路、環状7号線など主要道路22路線は、モータリゼーションの時代に入りつつあった東京の、その後の発展の支えとなった。会場となった日本武道館、国立競技場、代々木体育館も、アジア初のオリンピックに備えて完成したものだ。建造物のレベルとしては、決して充分な出来ではなかったが、戦争からほんの数年でめざましい復興を遂げた東京が、日本の業績と繁栄のシンボルとなり、ダイナミックな経済の波を起こすきっかけとなったのである。

2001年7月13日、IOC全体会議は、2008年のオリンピックを北京で開催することに決定した。日本では1958年に東京オリンピック開催が決定してから64年の開催までの7年間、年平均10%の経済成長を記録し、開催後も73年までは同9%を超える成長を続けた。韓国も同様にソウルオリンピック前後の時期に高い経済成長を遂げている。中国でも、北京オリンピックをはさんだ15年ほどの間、高度経済成長を遂げることが期待されている。
 中国国家統計局の発表では、今後7年間にオリンピック開催に向け総額2,800億元(340億ドルに相当)の投資が行われ、GDP成長率を0.3-0.4%押し上げるとの見通しである。主な投資分野と金額は、交通、情報インフラ整備に1,800億元、緑化や環境保全に713億元、オリンピック施設建設に170億元、残りは運営費となっている。
 WTO加盟の影響とオリンピック招致の効果を盛り込むと、2008年までの年平均経済成長率は7.5-8.0%、2009-15年でも年平均7%の成長がキープできると予想され、2015年には中国の経済規模は3.5兆ドル、1人当たりGDPも3,000ドル前後になる見通しである。
 北京オリンピックが開催されることによって、新たなビジネスチャンスも生まれる。例えば、競技施設建設、交通インフラ整備、環境保全など建設関連ビジネスが挙げられる。また、「ハイテク五輪」の実現のために、情報通信インフラの整備が進められるものとみられ、IT関連のビジネスチャンスが拡大しよう。ほかにも、マスコミ関連、スポーツ関連、観光などにも新たなビジネスチャンスが期待できる。
 外資系企業にとって北京オリンピックは、大型プロジェクトの受注のほか、設備・材料調達、商品販売など各方面で中国市場に参入する好機である。WTO年内加盟実現とオリンピック招致によって、中国は市場としても生産基地としても魅力を増し、外資系企業の対中シフトを加速させている。本年上半期の対中投資は、件数で対前年同期比18.3%、投資額は契約ベースで38.2%、実行ベースでも20.5%と急拡大している。巨大市場化し、世界の工場としての役割が増す中国を前に、日系企業も対中ビジネスの戦略的ビジョン策定が迫られている。

 

3.現段階の中国および北京の現状

 (単位:%、失業率以外は対前年/前年同期比)

        

1997

1998

1999

2000

2001(1〜3月)

 

実質GDP

8.8

7.8

7.1

8.0

8.1

工業増加値

11.1

8.9

8.5

9.9

11.2

消費財支出

11.1

6.8

6.8

9.3

10.3

消費者物価

2.8

-0.8

-1.4

0.4

0.7

都市部失業率

3.1

3.1

3.1

3.1

 

輸出

20.9

0.5

6.1

27.8

13.9

輸入

2.5

-1.5

18.2

35.8

17.3

直接投資受入(実行額)

8.5

0.4

11.4

1.0

11.7

 

第2節      政治

.ピンポン外交

➊政治的な背景
中国建国から文革大革命にかけて極左思想に強制された中国は鎖国政策をとりつづけ、20年ほど西方国家と外交関係を持ってなかった。社会主義陣営として建国された中国は当時のソ連と同盟を結び軍事保証と政治安定及び経済再建を確保しようとしていたが、朝鮮戦争はきかけ、勝利を得た中国が国際てきな発言力を増大した一方、ソ連に対する失望と反発が芽生え、徐々に対立になってきた。第二次世界大戦後形成された米ソ冷戦のなか中国は段々独自  な勢力として成長し、腹背に敵を受けて三極構造になってきた。ニクソン大統領の対中政策 の変化に従って中国側も関心もよせ、敵の敵は味方にさせようとしていた。米中関係を近づける大きなきっかけとなった第31回世界卓球選手権大会はちょうとこのような背景に中行われた。
➋ビンポン外交経緯
 @中国チームの招聘
 中国チームが世界選手権大会を参加できるよう日本卓球協会は中国に奔走。
 A米中チームの接触
 試合でアメリカチームは友好の意を表し、毛沢東は米チーム中国に招請する決意を出した。それに対してニクソン大統領も欣然同意、それで関係改善の第一歩を踏み出した。
 Bキッシンジャー訪中
 アメリカ卓球チーム訪中の契機で、中国政府は直接の交渉と会談を望んで大統領補佐官のキッシンジャーをパキスタン経由で中国に招いた。
 Cニクソン訪中
 卓球交流から始まった米中関係の中直しはニクソン訪中まで僅か11ヶ月だった。その後中国は世界41ヶ国と国交を回復した。

 


表1−1(米中関係の歴史 〜1970)

1949年

10・1

中華人民共和国成立

1950年

 6・25

朝鮮戦争開始

 

10・25

中国人民義勇軍参戦

1958年

 8・23

中国軍、金門・馬祖砲撃(台湾海峡緊張)

1960年

 4・16

「紅旗」誌「レーニン主義萬歳」論文、中ソ論争表面化

1963年

 7・5

〜20

中ソ両党会談、成果なく終わる

1965年

 2・7

米軍、北ベトナム爆撃開始(ベトナム戦争)

1966年

 5・16

中国文化大革命始まる

1968年

 5・13

米、北ベトナム、パリ和平会談開始

 

 8・20

ソ連、東欧軍、チェコ侵入

 

 8・23

周恩来、「ソ連社会帝国主義」と断罪

1969年

 1・20

ニクソン米大統領就任

 

 3・2

中ソ両軍、珍宝島(ダマンスキー島)で衝突(以後、衝突事件頻発)

1969年

 4・1

〜24

中米第9回党大会、米ソ対決路線。林彪を毛沢東の後継者に

 

 

 7・21

米、対中貿易・旅行制限の一部緩和

 

 7・25

ニクソン大統領、世界旅行の途中に「グアム・ドクトリン」を発表。パキスタン、ルーマニア訪問で両国首脳に対中メッセージ仲介を依頼

 

 9・11

周恩来首相、北京空港でコスイギン・ソ連首相と会談

 

12・19

米、再び対中貿易制限緩和

 

12・24

米第7艦隊台湾海峡パトロール縮小発表

1970年

 1・20

米中大使級会談(ワルシャワ)二年ぶり再開

(135回。2月21日に136回)

 

 5・1

米・南ベトナム軍、カンボジア侵攻(中国、137回ワルシャワ大使級会談中止を通告)

 

 5・20

毛沢東声明「米侵略者とその手先を打ち破ろう」

 

 8・23〜9・8

中共9期2中全会(対米接近を決定か)

 

10・26

ニクソン、チャウシェスク・ルーマニア大統領歓迎宴会で中国を正式名で呼ぶ

 

11・10〜15

ヤヒア・カーン・パキスタン大統領が訪中、米の対中和解の意向伝達→12・9米特使派遣受諾とのニクソンあて周恩来回答が米側に届けられる

 

12・18

毛沢東、エドガー・スノーと会見、ニクソン訪中を歓迎

[1][4]

 

表1−2(米中関係の歴史 1971〜)

1971年

 1・11

中国、ルーマニア通じ特使に加えニクソン訪中も歓迎と伝える

 

 2・8

米、南ベトナム軍、ラオス侵攻作戦

 

 2・25

ニクソン、外交報告で対中改善の希望を正式表明

 

 3・5

〜8

周恩来、ハノイ訪問

 

 3・15

米・対中旅行制限撤廃

 

 3・22

林彪、反毛沢東クーデター計画(「五七一工程紀要」)作成

 

 4・14

米、非戦略物資の対中直接貿易など5項目設置

 

 4・16

ニクソン、訪中の希望表明

 

 4・27

周恩来メッセージ、パキスタン・ルートを通じて米に届く

 

 7・6

ニクソン、カンザスシティー演説で中国の孤立化阻止と言明

 

 7・9

〜11

キッシンジャー米大統領補佐官、秘密裏に訪中

 

 7・16

キッシンジャー訪中の事実とニクソン訪中計画公表

 

 9・13

林彪事件(林彪、クーデターに失敗して死亡)

 

10・25

中華人民共和国、国連で議席を回復(蒋介石政権は国連から脱退)

1972年

 2・21

〜27

ニクソン訪中、27日「共同コミュニケ(上海コミュニケ)」を発表。中国は72年末までに41ヶ国と国交回復

 

 9・25

〜30

田中角栄訪中。27日、中日国交回復

1973年

 1・27

ベトナム和平協定調印

1974年

 8・8

ニクソン辞任演説

1975年

 4・30

南北ベトナム統一

1976年

 1・8

周恩来死去

 

 4・5

天安門事件(ケ小平党副主席・副首相失脚)

 

 9・9

毛沢東死去

 

10・6

四人組事件(→華国鋒体制)

1978年

 7・3

中国、ベトナム援助全面停止

 

12・16

米中両国、翌年1月1日付で国交樹立と発表

 

12・18〜22

中共第11期3中全会。ケ小平体制発足、近代化路線展開へ

(文化大革命およびそれ以前の誤りの全面的な訂正を開始)

1979年

 1・1

米中国交樹立

 

➌ピンポン外交の歴史的評価
 @中国:ピンポン外交はわれわれの外交攻勢の一環だ。ピンポン球が弾んで世界を揺り動かした。小さな白い球が地球を動かしたのだ。
 Aアメリカ:ピンポン外交とはスポーツの交流だけではなく、国と国同士が真剣に臨んだ外交の手段ではだろうかと。

 

第1節      歴史

中国の一般市民のスポーツといえば、卓球や太極拳が連想される。市民生活については、ほんの10年前までは人民服に自転車というイメージがあった。しかし、「改革・開放」に伴う市場経済の導入と経済発展により、上海などの大都市においては、急速な都市化が進んでおり、「これが中国の市民生活である」という形も刻々と変化している。

 

1.1990年以前の中国

 1984年から1986年にかけて人民のサッカー人気は高かったとのことである。大学の校庭にも近所の人々が集まってきて、レンガでゴールをつくり思い思いにボールを蹴って楽しんでいたそうだ。サッカーが上手いことは、大学進学に有利だった。一方で、普通の学生はサッカー部に入ることすらできなかった。これは、他の種目も同様である。大学の代表チームの選手は、ユニフォームだけでなく、布製のスパイクシューズや防寒着に加えて、栄養費として当時の平均給料の1/3に相当する20元を与えられた。トップレベルの選手は、エリート養成機関である各省の体育学校に所属しており、国の代表選手はこの中から選抜されていた。いわゆるステートアマが所属する機関である。人民政府がこのようにスポーツ競技に力を入れた理由としては、まず、国威発揚が挙げられるがそれだけではない。「中国は、スポーツ交流を、政治的なメッセージを伝える外交の道具としていたのではないか」と考える人もいる。このような1990年以前の状況は、我々の中国に対するイメージと重なる部分が多いと思う。

 

2.現代中国のスポーツ振興の方針

中国のスポーツ振興の方針は、国も市政府もスポーツ文化の発展によって国民を健康にすることだそうだ。「全民健身」はその標語であり、全人民が健康な身体をつくろう、というような意味である。中国のスポーツ振興には、庶民スポーツとエリートスポーツの2種類がある。庶民スポーツは、さらに2つに分かれており、一つは「経営」、つまり、営利を目的とした団体による機会の提供であり、もう一つは公的な普及活動である。近年の産業化の流れに沿って、数多くのスポーツクラブが生まれている。今あるクラブは、サッカー、バスケットボール、バレーボールなどであるが、始まって間もないこともあり単種目のクラブである。活動拠点の施設は、サッカー以外は無料で借りており、サッカーは有料だが安く借りている。将来は政府とクラブが資金を出し合って普及活動をしていくように考えているが、今はクラブの維持に力を入れているそうである。

  中国で人気のあるスポーツは、サッカーとバスケットボールである。特にサッカーの人気が高く、選手の年俸も一番高い。サッカー、バスケットボール、バレーボール、卓球、囲碁などはプロ化している。プロ養成機関としては、プロチームの下部組織のようにスポンサーからの支援で成り立っているクラブと、選手からの会費収入でなりたっているクラブの2種類がある。前者は学校から選手をスカウトし、無料で育ててくれる。後者は、高い会費を払わなければならない。中国で、一般の人が出世する方法として、高学歴を得る、商売で儲ける、芸能人や芸術家になる、などがあるが、スポーツ選手になることもその中の一つである。中国では教育にお金がかかり、並みの収入の家庭では良い学校に入れない。高卒と大卒では、年収が3倍違うといわれている。スポーツのプロ養成機関も例に漏れず、自費で参加できる選手は経済力のある家庭の子息だけである。また、受験競争の激しさと同様に、「小学校三年生くらいと思われる女児が体操の指導を受けているところを見学しました。コーチの納得する技ができず、叩かれ泣きながら訓練を受けていて、暗い気持ちに」なったというように指導そのものも過熱している。

 

3.中国のタレント発掘

中国のタレント発掘に関する研究は1970年代から研究者の個人ベースで始まり、1987年から国家的なプロジェクトとして取りあげられて、体育科学研究所が中心となって体育大学や地域の研究所など多くの研究機関の研究者が関わって全それぞれの競技で、発掘のために重要と思われる形態、機能、心理、競技成績、コーチの主観的評価など10〜15項目が選ばれて、年齢ごとに1級から5級までの5段階で評価する基準が示されている。しかもこの年齢は暦年齢ではなく、生物学的な発育の程度を表す骨年齢で表示されている。本の発刊された1992年以降にも種目によっては改訂がなされているようである国的に調査研究が行われた。これがどう利用されたかは競技種目によっても異なるようだが、コーチが競技者を選ぶ際の参考にされているようである。業余体育学校の入学者の選別や、さらに上級の学校やチームに選ばれるときには、この基準も使われているという。

ところで業余体育学校というのは、中国のジュニアスポーツエリートの通うスポーツ学校である。ここでタレント発掘と競技者の育成が行われている。北京には各区に一つあって、さらに上級の学校が二つある。子どもたちは午前は普通の学校に通って午後スポーツに来る子どもと、学校の授業もこの業余学校で受ける子どもがあり、寄宿生活をしている子どももいる。体操などは学齢期前の3歳から通っている。地区の幼稚園や学校から推薦されたり、業余学校のコーチが巡回してタレントを捜してくる。ちなみに業余とは余暇の意味である

 

4.中国のプロ・スポーツ

《サッカーリーグ》

 近代サッカーはイギリスで生まれたが、サッカーの源流は古代中国に遡るというのが定説。2000年に初のW杯出場を果たし盛り上がる中国のサッカーは、最大の人気スポーツ。しかし、実力は国内の他の競技と比べて見劣りしており、世界レベルとは言いがたい。レベルの強化が最大の課題だ。プロサッカーは、Jリーグ発足の翌1994年開幕。一部リーグである「甲A」には、「大連万達実徳隊」「上海申花隊」など、現在14チームがひしめき、その下位リーグである「甲B」(日本のJFLに当たる)のチームも甲A昇格を目指して、しのぎを削っている。さらにその下に「乙」と青年リーグがある。仕組みは日本とほぼ同様で、各チームに企業がスポンサーとしてついており、外国人選手もプレーしている。プロリーグがサッカー協会の監督下にあること、一流選手がヨーロッパのトップチームに進出しているのも日本と同様だ。

《中国野球リーグ》

中国では、野球への関心はいまひとつだが、100年以上も前から行われている。新中国の建国後、1959年の「第1回全国運動会」には、23省・市と人民解放軍のチームが参加した。60年代半ばからは文化大革命の混乱で中断したが、70年代初期に復活し、75年から、日本や米国などの野球界との交流が始まった。現在は、2008年の北京オリンピックに向けて強化に乗り出している。2002年にはプロ野球リーグ「中国野球リーグ」(CBL)が誕生。現在、「北京猛虎隊」、「天津雄獅隊」,「上海金鷹隊」、「広東獵豹隊」の4チームが変則ホームアンドアウエー方式で総当たり戦を行い、勝ち点上位の天津と北京の2チームで決勝戦を行い、天津が初の優勝チームとなった。2年目も天津と北京で決勝戦が行われ、優勝は北京が勝ち取った。CBLは、将来的には名実ともにプロ化(現状はプロリーグと呼びがたい)を目指して、リーグの拡大を予定しているが、圧倒的人気のサッカー、米NBAスーパースターの姚明フィーバーに沸くバスケットなどの人気スポーツに対抗して、多くのファンを獲得できるかが中国野球の将来を決めるだろう。

《囲碁》

中国では、囲碁はスポーツの一つとして国が力を入れている。活動は文革で一時中断したが、その後復活。1981年、プロシステムが確立され、中国囲碁協会が設立。以後、80年代は聶衛平の時代が続いた。90年代に入ると、馬暁春が取って代わったが、90年代後半からは常昊、邵剛、羅洗河、周鶴洋らが台頭、現在は史上稀に見る戦国時代に突入している。1999年にスタートした「中国囲碁甲級リーグ」では、現在、200人以上いるといわれるプロ棋士がしのぎを削っている。囲碁ファンの数は2000万人以上といわれ、世界最大。囲碁のプロ棋士を目指す子どもは、「少年宮」というところで囲碁を学んでいる。主なタイトルは「名人」「天元」「樂百氏杯」「CCTV杯」「俊英杯」などがある。すでに、中国囲碁リーグは国内だけでなく、世界のトップ棋士が集まる世界リーグ化している。地域対抗リーグ戦は盛り上がりを見せ、国外から助っ人を招請するなどメンバー確保に懸命だ。韓国からも超一流選手が参戦。2002年に日本からは林海峰九段と河野臨六段が参戦した。また、将棋、チェスやブリッジ、五子棋も人気スポーツ種目である。囲碁も含めて、1992年設立の中国棋院が強化につとめている。

 

5.海外で活躍する中国人スポーツ選手

現在NBAには3人の中国人選手がいる。まず、中国人初NBA選手となった王治至(ワン=ジージー)・巴特尓(メンク=バタア)、そして姚明選手。その中で最もNBAで成功すると言われたのが姚明だった。その理由とはやはり225cmというサイズながら機動力もあり、ボールをシュート、キャッチ、バスなどのスキルが非常に優れている。しかも身長が高いわりにはひ弱さを感じさせないプレイヤー。それでいてまだ21歳という若さから、NBAのスカウトより熱い注目を浴びていた。

しかし、中国人選手がNBAに移籍するのが可能になるまでの道のりは、非常に長いものだった。NBA初のアジア人プレイヤーとなった王選手も、中国の所属チームと国の許可が下りるまで約二年の年月を要した。また、姚選手は2001年のドラフトでトップ指名されると噂されていたが、中国政府は年齢制限を理由に姚選手のアメリカ行きを認めなかった。その背景には、アメリカと中国の軍用飛行機衝突墜落事故の影響もあったとも言われる。今年無事に指名された理由は、ヒューストン=ロケッツの首脳陣が中国へ足を運び、辛抱強く交渉を続けたことが報われた結果となった。実際、中国側から指名許可が下りたのは、ドラフトの15時間前のことだった。

 

最後に中国スポーツから学ぶこと

 中国はスポーツの普及の目的として、健康の増進という点を前面に出している。日本ではスポーツは数あるレジャーの内の一つであり、人生のプラスαのように見られがちである。だから、スポーツ振興の公共的な意義も曖昧になりがちで、スポーツ施策について‘目的は何か’を問われたとき、経済効果という概念が中途半端に入ってきてしまう。スポーツがもたらす効果の中で、精神的な部分を含め、心身の健康に寄与することの比重を高める必要がある。それはつまり、スポーツのレジャー性や競技志向性の比重を相対的に低めて、日常生活の中でのスポーツの価値を高めることである。そうすることで、人々の生活の中にスポーツが根づき、文化として花開くことができるのではないだろうか。

 

感想

この文章を作るにあたって、まず3本柱が立てれなかった。資料はあるものの柱がないと全く前に進まず苦労した。わがままを言って論集のテーマを「中国のスポーツ」にした事を後悔した事もあった。結局2本柱でやっていこうとしたがやっぱり無理があり、悩んだ結果「経済」・「政治」・「歴史」の柱を立てることにした。これが功を奏したのか、なんとか満足できる仕上がりになりました。

  

参考文献

スポーツで読むアジア  平井 肇氏  世界思想社

中国の体育・スポーツ史  笹島 恒輔氏  ベースボール・マガジン社

スポーツと国家  水野 和英氏  文芸社

現代中国  愛知大学現代中国学部 編 

論集第5号 ピンポン外交と米中関係  鈴木宏実 編

http://ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/staff/ou/lin2.html

http://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/Koukai/2003/2003.5.13.1.htm

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