1章 ラーメン物語

『世界にはばたく日本の味』

 

01E2171 牛田 幸

 

はじめに

 世界は今、日本ブームである。その1つに日本食がある。そこで、私はラーメンに注目した。ラーメン=中華料理というイメージがある。しかし、ラーメンは私たち日本人が創作した和製めん料理なのだ。2003年に公開された中国映画「英雄/HERO」の監督チャン・イーモウも来日記者会見の際に「ラーメンが大好きなので、日本に食べにきた。」と言っている。日本発の食文化として世界にはばたくラーメン、その誕生から発展、広がりを追ってみた。

 

第1節        中国「麺」

1−1.麺・餅・麺条

 はじめに、麺・餅・麺条の漢字本来の意義にふれておく。

 「「麺」は小麦粉のことである。今日、日本語では「細長くした食べ物」をすべて麺と呼んでいる。ソーメン(素麺)、ウドン、ラーメンはもとより、ソバ(蕎麦)、ビーフン(米粉)も麺類と称している。さらに、寒天麺、いかソーメン、鶏卵素麺(菓子の1種)などというのさえある。

「餅」は小麦粉で作った食べ物のことである。日本の、正月などに食べる餅とは意味が違う。餅は、まず小麦粉を水や蜜で練ること(生地作り)から始まるが、以後の料理法によって4分類される。蒸餅、焼餅、油餅、湯餅である。「蒸・焼」は文字どおりで、「油」は揚げること、「湯」は茹でたりスープで煮込むことである。

 湯餅は、当初生地をちぎって平たく延ばしたもの(麺片)に具(餡)を包んで煮込んでいた。すなわち水餃子である。その後生地を細長く延ばしたもの(麺條)を具とともに煮込む方法が発達した。」[1]

 

1−2.麺料理の誕生と発達

 「麺料理はいつ誕生したと確定的に言えるものではないが、後漢時代の歳時記『四民月令』に見える「水溲餅」とする説と、北魏末から東魏にかけての農業書『斉民要術』に見える「水引(餅)」とする説がある。

 麺料理は唐時代と宋時代に急速に発達する。唐時代、麺料理は長安(現在の西安)と洛陽(現在の洛邑)を中心に発達する。唐時代の麺類は湯餅、水引餅、不托、牢丸、碁子麺などと呼ばれた。また、誕生日などの祝いの行事に麺を食べる「長寿麺」の習慣があったことや、麺棒で生地を延ばし刃物で線状に切るという「切り麺製法」が確立していたことなどがわかっている。唐時代に麺文化が発達した理由としては、第1に二年三毛作農法により小麦の生産量が飛躍的に増大したこと、第2に「碾磑」と呼ばれる水車製粉機の普及による小麦粉のコストダウンがあったこと、第3に「醤」という発酵調味料が発達していたことがあげられる。宋時代では、麺料理は北宋の京都の汴(現在の開封)と南宋の都の臨安(現在の杭州)を中心に発達する。『居家必要事類事典』、『調鼎集』、『東京夢華録』など多くの書物に麺料理や麺文化に関する記事が残されており、「三鮮麺」、「肉絲麺」のような今日に見られる麺料理の起源はこの時代に求められる。宋時代に麺料理が発達した理由としては、貨幣経済が成熟し商工業が活発に行われるようになったという時代背景があげられる。」[2]

 

1−3.かん水の効果

 唐時代までの麺作りでは、小麦粉を練るときには塩分を必要とした。塩分は小麦粉のグルテン形成に不可欠な成分であった。しかし、宋時代の臨安で塩に代わって(あるいは併用して)かん水を使うようになると「麺」の様相は一変した。かん水の使い方は『居家必要事類事典』に記載されている。

 「かん水とは、中国の東北から西北部にかけて無尽蔵に産出される「鹹」を水溶液にしたものを言う。鹹とは、鹹湖(塩水湖)から析出されるアルカリのことをいい、炭酸カルシウムを主成分としている。

今日、かん水は炭酸カリウム・炭酸ナトリウム・リン酸カリウム・リン酸ナトリウムを調合してつくられ、粉末・液体・固体の三種類がある。使用量は小麦粉に対して1パーセントぐらいである。かん水のアルカリ性により、小麦粉のなかのフラボノイド系色素が黄色に発色する。グルテンは粘弾性を増し、麺は特有の色・滑らかさ・歯触りになる。防腐効果もあるので麺を長持ちさせる。また、かん水は饅頭用に生地を発酵させたとき生じる酸味の中和剤として、スルメや牛筋などの干物の戻しに、肉の下茹でで柔らかくするために、野菜を茹でる際鮮色を保つためなどにも用いられている。

 ちなみに、中国には水と食塩だけを加える撥魚麺、卵だけを加える伊府麺や前蛋麺といったかん水を用いない麺も存在する。かん水を加えない中国麺では、食塩・卵・牛乳などを巧みに用いる。」[3]

第2節        ラーメン

2−1 ラーメンの誕生前夜

 「ラーメンの歴史上、日本で初めてラーメンを食べた人物は水戸光圀(水戸黄門)である。

1665年、水戸藩主の水戸光圀が当時長崎に居留していた儒学者の朱舜水を江戸に呼び寄せた。その際、朱瞬水が自国の麺料理を光圀に振舞ったとされている。麺料理は、レンコンのデンプンの藕粉をつなぎにいれた麺、火腿のスープ、川椒、青蒜絲、白介子、芫荽の五種類の薬味(五辛)を添えたラーメン風の中国麺であった。」[4]

 

2−2 ラーメンの誕生

 「ラーメン」という言葉はどこで誕生したのだろう。ラーメン語源説には、浅草の『来々軒』とする説と札幌の『竹家食堂』とする説がある。

(1) 来々軒

 「1910年、東京の浅草公園に「来々軒」が開店し、シナそば・ワンタン・しゅうまいが売り出される。大衆シナそば屋の元祖と称し、店内は腰掛式の簡素なものであった。シナ食は安くて美味しく、腹一杯になると宣伝したという。浅草は、庶民が一日中遊べる一大歓楽街であった。

 その浅草に、横浜の南京街からきた広東省の料理人が、日本人好みの麺料理の試作を繰り返す。そして、トンコツにトリガラを加えて、コクはあるが、あっさりしたスープを考案し、塩味から関東の濃口醤油の味にして、従来の刻みネギだけに、シナチク・チャーシュー・ネギを加える。1杯10銭の「シナそば」に、日本そばの種物のように、日本人好みのトッピングが添えられる。客からの注文があると、「エー、ラウメンヤッコ」という、勇ましい掛け声がかかった。 

 この来々軒を始めた尾崎貫一は、横浜税関に勤めていた元役人で、52歳になると退職し、シナそば屋に転向した変わり種であった。シナそばが日本人に受け入れられるかどうか全く分からなかった時代に、脱サラして料理人になっている。そして、東京ラーメンのルーツになる「シナそば」を創作したのである。来々軒の名前は、立て看板の「滋養的 シナ料理、そば、わんたん7銭」とともに東京の庶民に知れ渡り大繁盛を続ける。1921年頃には、中国の料理人が12人もいたという。」[5]

(2) 竹家食堂

 「1921年、宮城県生まれの大久昌治は北海道大学正門前に、写真館を改め、親子丼・玉子丼・カレーライスの店、「竹家食堂」を開店する。

 開店約1ヶ月後、竹家食堂に帝政ロシア革命で追われた山東省出身の王文彩がやってくる。料理人として修行したことのある王を大久夫妻は店に雇うことにする。そして、翌年には、「シナ料理・竹家」の看板を掲げる。その品書きのなかに、肉絲麺があった。豚くず肉、トリガラ、魚介、野菜のスープ、炭酸ソーダ入りの麺で作るシナそばに揚げた細切りの豚肉を加える。麺は、こねた小麦粉生地を瓶に入れ、表面が乾燥しないように濡れ布巾をかけておき、客の注文に応じて小出しにし、手で引っ張った。

 この頃の北大には150人ほどの中国留学生がおり、王の作る肉絲麺はたちまち評判になる。そして、本場仕込みの中国麺料理に日本人客が集まり始めると、「チャンコロそば」と呼び始める。

 「チャンコロ」とは、当時中国人に対する差別的な言葉だった。この言葉に心を痛めていた女将のタツは、王が注文を受けるたびに、大きな声で「好了、好了」と叫ぶことから、ラーメンという言葉を思いついた。この名前が客になじみ始めると、札幌では「シナそば」はいちはやく「ラーメン」と呼び名を変えた。」[6]

 

2−3 ラーメンの広がり(国内)

 現在、全国には約3万5千軒ものラーメン屋があるという。さらに、ラーメン専門店でない一般の飲食店などの店を加えると20万軒を越えるともいう。全国各地で生まれたラーメンは「ご当地ラーメン」と呼ばれる。各地それぞれに誕生したラーメンを意図的に「郷土の味」としたことがラーメンの繁栄をもたらした。地域の特徴を麺・スープ・具に託す「郷土色」はラーメンの個性化の重要な要素でもあり、将来の可能性を示唆するものである。さらに、「全国的に認知されている」こともポイントとなる。

 ご当地ラーメンのイメージを表にまとめると次のようになる。

「表1

ご当地

スープ

旭川ラーメン

ベースはトリガラ、トンコツ、干魚を使った濃厚スープ

縮れ麺

チャーシュー、シナチク、ネギ

シナチクは太い

札幌ラーメン

トリガラ、トンコツ、ニンニク、ショウガ、野菜をぐつぐつ煮込む

極太麺

良質の強力粉を使い、かん水は多め

チャーシュー、シナチク、ネギ、他にコーン、バター、炒めた野菜など

函館ラーメン

トンコツだが透き通ったスープ

細めのまっすぐな麺

かん水を使わない

チャーシュー、シナチク、ネギ

喜多方ラーメン

トリガラ、トンコツ、煮干しと地元の醤油を加える

札幌ラーメンより更に幅広の縮れ麺

コシが強い

チャーシュー、カマボコ、シナチク、ナルト、海苔、ほうれん草、刻みネギ

佐野ラーメン

トリガラ、トンコツベースにカツオ節、煮干し、昆布、ニンニク、ショウガ、野菜などを煮込む

縮れ麺

青竹打ちと言う製法で作られる

チャーシュー、ナルト、シナチク、刻みネギなど

東京ラーメン

トリガラ、トンコツ、野菜などをとろ火で煮込み、醤油で味つけ

透き通っている

スープのからみやすい縮れ麺

太さは中

 

チャーシュー、焼き海苔、シナチク、ナルト、ほうれん草、刻みネギ

飛騨高山ラーメン

醤油味だが、味が濃い

縮れ麺

チャーシュー、シナチク、飛騨ネギ

京都ラーメン

こってりトンコツ

細いまっすぐ麺

大きなチャーシュー、九条ネギ

和歌山ラーメン

トンコツベースの醤油味

細麺

 

尾道ラーメン

瀬戸内の小魚をベースにトリガラ、トンコツを使った醤油味

かん水を使ったわずかに縮れのあるまっすぐ麺

チャーシュー、シナチク、ネギ

チャーシューは煮豚

博多ラーメン

トンコツ、トン足をぐつぐつ煮込んだ白くてドロっとしたスープ

白くて細くてまっすぐな麺 

かん水の代わりにトウアクを使う

チャーシュー、刻みネギ、紅ショウガ、白ゴマ、高菜など

熊本ラーメン

トンコツをベースにトリガラ、玉ネギ、キャベツなどの野菜を一緒に煮込む

白くてまっすぐの細麺

固めに茹でる

チャーシュー、焼いたニンニク、ネギ、ワカメなど

鹿児島ラーメン

トンコツ

かん水の量が少なく、白くて太い麺

チャーシュー、シナチク、キクラゲ、焼きネギ、キャベツ、モヤシなど

                                              (*表は筆者作成)」[7]

 

2−4.ラーメンの広がり(海外)

 熊本ラーメンで有名なラーメン店「味千ラーメン」を経営する重光産業は、熊本県内を中心に全国で約320店(直営7店を含む)をフランチャイズチェーン(FC)展開している。また、海外では中国、台湾、シンガポール、インドネシア、フィリピンなどで現地企業との合弁などの形で約30店を展開している。ここでは、中国、香港、台湾、アメリカにおける重光産業の海外進出を追っていきたい。

(1) 中国(北京・上海・青島)

 「1995年6月、北京に新会社を設立した。新会社の名称は「北京京日味千食品有限公司」。東京国際貿易と重光産業のほか、現地の北京旅游商品公司、中商企業集団公司との合弁で設立。資本金は100万米ドルで、出資比率は日本側80パーセント、中国側20パーセント。生ラーメンの本格的生産に入るとともに、ラーメンのチェーン店「麺愛麺」を出店した。100坪、120席の大型店で、1999年まで3店出店した。」[8]

 「1999年9月には上海に出店した。2002年の時点では7店あり、製麺工場を建設中である。資金はすべて地元で負担し、スープと運営ノウハウの提供だけを重光産業が行うという形態がうまくいっている。スープを日本から運んでいるのは、企業秘密を守るためである。逆に言えば、独特のトンコツ味の「熊本ラーメン」が上海で支持されていることを意味している。他には、深センに4店、広州に2店営業している。

 ラーメンではないが、長崎チャンポンの『リンガーハット』が2002年10月青島に出店した。チャンポンは日本生まれの麺料理である。日本と同じレシピで出すそうだが、特にかん水入りのチャンポン麺がどう受け止められるのか、反響が注目される。」[9]

(2) 香港

 「1996年8月、『味千拉麺』を出店。パートナーに恵まれ、合弁会社方式で2002年4月まで8店を運営している。店舗の大きさは平均して35坪、50〜60席と比較的大きい。午前10時から深夜2時までの営業で、客は全部といっていいくらい香港住民である。深夜客の多いのは、中小の零細企業は2〜3交代の終夜操業が普通で、数少ない夜食の店として重宝がられているからである。一般に家賃が高いが、売上さえよければ人件費、材料費が安いため、事業として有望である。『味千拉麺』以外に『横綱』『貴花田』『別府麺館』など約200軒のラーメン店があるが、すべてと言っていいほどトンコツ味である。価格はラーメン1杯単品で30香港ドル前後である。」[10]

(3) 台湾

 「1994年、台北に出店。高雄出身の創業社長にとって、故国を飾る意気込みで臨んだのだが、結果的にうまくいかず、その後の海外展開のための教訓を得るにとどまった。オープン後3ヶ月の指導を終えて、日本人スタッフが帰国すると、マニュアルは守られなくなり、味付けがメチャクチャになってしまったのである。いったん落とした評判を回復するのは難しい。現在3店舗にとどまっている。他に、東京のフランチャイズ・チェーン『珍珍珍』のフランチャイジーが運営している店がある。」[11]

(4) アメリカ

 「2001年5月、ニューヨークに現地企業と共同出資で新会社を設立。新会社の名称は「アメリカ・アジセン」。出資比率は、アメリカ側90パーセント、日本側10パーセント。1号店は、ニューヨークのチャイナタウンにあるビルの1階を借りる形で出店。店舗面積は約130平方メートルで、ラーメンを中心にギョウザ、トンカツなどの惣菜をとりそろえた。ラーメン1杯4ドル75セントの低価格もうけて、平日718杯、日曜は1000杯前後の好スタートぶりを記録している。重光産業が食材提供と調理指導などを担当。スープのもとは熊本市の本社工場から、麺と一部調味料は中国・深セン工場から送る。」[12]

 

第3節        インスタントラーメン

3−1.チキンラーメン・カップヌードルの誕生

 「1958年8月25日、日清食品は『チキンラーメン』を発売した。即席麺第1号である。

 『チキンラーメン』は日清食品創業者である安藤百福のまったくの独創である。安藤が即席麺の開発に着手したのは1957年である。まず、開発に当たって5つの目標を立てた。第1は、「美味しくて飽きのこない味にする」こと。第2は、「家庭の台所に常備されるような保存性の高いものにする」こと。第3は、「調理に手間のかからない簡便な食品にする」こと。第4は、「値段のやすい」こと。第5は、「安全で衛生的である」ことである。

 技術的につきつめて言えば、「保存性と簡便性」の両立であった。試行錯誤の末、「油熱による乾燥法」にたどりついた。この方法のヒントは天ぷらにあった。麺を高温の油に入れると水と油の温度差によって冷たい水分がはじき出される。水分が抜けたあとには無数の穴が開いて多孔質を形成する。熱湯を注げばそこから湯が吸収され麺線がやわらかく復元される、というものである。「瞬間油熱乾燥法」と名づけられ、今日でも即席麺の基本的な特許となっている。 スープをチキン味にしたのも安藤の卓見であった。洋の東西を問わず、またヒンズー教徒にもイスラム教徒にも受け入れられる味であることを意識していた。また、マーケティングの面では販売に先立って試作品をあちこちに配っている。1958年6月に行われた、大阪梅田の阪急百貨店での試食会では「魔法のラーメン」と宣伝された。

チキンラーメンが初めて大阪市中央卸売り場に出荷された8月25日は、ラーメン記念日とされている。

 1960年代になると、急成長を続けたインスタントラーメンも市場の低迷期にさしかかる。カップめんは、この状況の中で登場した新製品である。

 1966年、今度はラーメンを海外に輸出する方法の模索が始まった。安藤は海外進出の可能性をだしんするため、アメリカの市場に出かける。あるスーパーに行き、持参の「チキンラーメン」の試食を頼んだところ、アメリカ人バイヤーが麺を紙コップに入れて湯を注ぎ、フォークで食べるという衝撃的な情景に接する。ここから、カップめんの発想が生まれる。

 はじめに、容器と麺の開発が始められる。容器は60種類以上の包装材を集めたなかから、発泡スチロールという新素材に注目する。発泡スチロールは断熱性が高いので、熱湯が冷めにくく、手に持っても熱くない。軽くて、厚みもある。しかし、当時は原料の国産化が始められたころで発泡スチロールを導入するためにプロジェクトチームが結成された。実際に実験をしてみると、一体成型ができなかったり、チキンラーメンの形では丸いカップに入れにくいことや、狭いカップの中では湯を注いでから2〜3分で麺が戻らないなどの問題が山積みになった。

ここでも試行錯誤の末、麺をカップ型の鉄枠に入れて揚げる方法が考案された。こうすることで、上方が密で下方が疎の疎密麺ができた。ここでのヒントも、天ぷらの発想であった。包装工程においては、カップに麺を入れるのではなく、麺にカップを被せるという発想が生まれた。麺にカップを被せることにより、カップの底に空洞ができる。麺はカップの中で宙吊りの状態である。その湯でカップの下から麺を蒸らすように加熱すると、カップ全体が均一な温度になり麺の戻りが良くなった。

具は、湯をかけて3分で戻るものを開発しなければならなかった。天日干しなどの乾燥食品では湯をかけても3分で戻らなかった。ここでは、フリーズドライ(凍結乾燥法)という方法が用いられた。フリーズドライしたものは、熱風乾燥したものよりも鮮度がよく品質を保持でき、見た目もよく、湯の中での戻りも早かった。豚肉、エビ、卵、野菜などが使われた。スープも顆粒状にすることで、溶けやすくした。

 マーケティングの面では、既存の食品問屋ではなく、消防署や夜勤の看護婦、トラックの運転手など夜働く人々に売り込んだ。そして、1970年から始められた銀座の歩行者天国での販売では、2万食が4時間で売り切れるほどの人気を集めた。」[13]

 

3−2.日清食品の海外展開

(1)中国

「1993年5月、香港子会社の永南食品を通し、中国の大手商社3社と共同出資して新会社「珠海金海永南食品有限公司」を設立。資本金は約16億円で、51パーセントを日本側、49パーセントを中国側が出資する。広東省珠海市にある敷地約3万3千平方メートルに工場を建設する。生産能力は年間2億香港ドル。カップめん、袋めん、飲料などを生産する。」[14]

「2003年5月、台湾最大手の統一企業と中国本土で合弁事業を始める。香港を含めた中国市場で2006年に売上高約3百億円と、2002年の実績の2倍強を目指す。統一企業は中国本土に9つの即席めん工場を持ち、営業スタッフも約1万人に上る。中国市場でのシェアは2割弱。統一企業のグループ会社で即席めんの製造・販売を手掛けている昆山統一企業食品にまず10パーセント出資する。出資額は20数億円とみられる。段階的に出資比率を33パーセント程度まで引き上げる。同様の事業を中国本土で手掛ける他の統一企業グループ8社にも出資する。統一企業の工場で日清食品ブランドの商品を生産する。物流や債権回収などの営業面で統一企業の協力を得るとともに、生産や安全管理、マーケティング手法などのノウハウを提供する。」[15]しかし、統一企業との出資比率引き上げなどで意見が折り合わず、交渉が行き詰まり、「2003年10月に資本・業務提携に関する基本合意を解消した。今後の中国市場開拓については単独、現地企業との提携の両方の可能性を探る。統一企業と再度交渉する可能性もあるという。」[16]

(2) インドネシア・タイ

インドネシアでは、「1992年、ロダマスグループと合弁で即席めんの製造・販売会社ニッシンマスを設立、ジャカルタ郊外ブカシの工場団地に新工場を建設した。しかし「ニッシン」ブランドで販売している袋めんのシェアは3パーセント前後で伸び悩み、工場も8時間の定時稼動にとどまっていた。

1996年7月、合弁相手をロダマスグループからサリムグループに切り替えた。サリムはインドネシア最大の華人財閥ながら、即席めん市場ではすでに市場の9割を握り、日清とはライバル関係にもあった。サリムと組むことにより、国内ほぼすべての食料品店をカバーするというインドフードの販路を活用できたが、シェアは伸び悩んでいた。」[17]

「1998年12月、サリムグループの即席めんメーカー、インドフードに資本参加する方針を固めた。日清とサリムグループの事業投資会社、ファースト・パシフィックが持ち株会社を設立し、インドフードの株式の60パーセントを保有する。日清の投資額は2億8千5百万ドル。インドフードが持つ製粉・製油部門をアジア地域向けの原料供給拠点と位置付ける。グループ内で安価な原料調達が可能な体制を作ることで、コスト競争力を引き上げる。」[18]

タイでは、「2000年5月、タイの大手財閥、サハ・グループの即席めんメーカーと食品販売会社にそれぞれ資本参加し、グループとの提携を強化する。すでに日清とサハは合弁でカップめんの生産会社、タイ日清を設立しており、今回の出資を機にタイ日清とサハの即席めんメーカーが相互に製品を供給する。またサハの販路を利用し、これまでタイ国内にとどまっていた販路を周辺国に拡大する。」[19]

 

3−3.国際インスタントラーメン事情

 海外で、インスタントラーメンがどれくらい普及しているのか見ていきたい。

「・一年間に全世界で消費されたインスタントラーメンの数・・・547億食

     ・日本がインスタントラーメンを輸出している国・地域の数・・・46カ国・地域

                                      

・日本の年間輸出量・・・9100万食

表2   即席麺世界総需要推移

                                                 単位:億食

 

国・地域

1998

1999

2000

2001

2002

1

中国・香港

151.8

150.8

162.0

178.0

191.0

2

インドネシア

80.0

84.0

92.3

99.0

109.0

3

日本

51.7

53.0

52.0

53.5

52.7

4

韓国

36.0

37.8

37.8

36.4

36.5

5

アメリカ

26.0

27.2

28.5

30.0 

33.0

6

フィリピン

14.4

15.6

16.5

18.0

20.0

6

タイ

12.0

15.1

15.9

16.5

17.0

8

ベトナム

9.0

10.0

*10.5

*11.4

17.0

 9 

ロシア

*2.5

*5.0

*5.5

*6.0

15.0

 10 

ブラジル

7.9

8.1

8.6

10.4

11.9

11

台湾

8.6

8.9

9.0

9.0

9.4

12

マレーシア

3.6

*3.8

 5.8

5.8

7.4

13

メキシコ

1.5

2.0

3.5

5.3

6.4

14

イギリス

1.7

1.7

1.7

2.3

2.5

15

インド

1.7

1.6

1.7

1.8

2.3

16

ポーランド・ハンガリー・チェコ

0.3

0.3

0.3

1.6

2.0

17

オーストラリア

1.4

1.5

1.5

1.5

1.5

 17 

カナダ

0.9

1.0

1.0

1.5

1.5

19

ドイツ

1.3

1.3

1.3

1.4

1.4

20

カンボディア

0.6

0.6

0.6

1.3

1.3

21

シンガポール

1.0

1.1

1.2

1.2

1.2

22

フィジー・周辺諸島

0.8

0.8

0.8

0.8

0.8

23

ミャンマー

0.7

0.7

0.7

0.7

0.7

23

ネパール

0.5

0.5

0.5

0.7

0.7

25

サウジアラビア・アラブ首長国連邦

0.6

0.6

0.6

0.6

0.6

26

南アフリカ

0.5

0.5

0.5

0.5

0.5

27

ニュージーランド

0.4

0.4

0.4

0.4

0.4

28

フランス

0.2

0.2

0.2

0.35

0.35

29

ノルウェー・フィンランド・スウェーデン・デンマーク

0.3

0.3

0.3

0.3

0.3

 29 

オランダ

0.3

0.3

0.3

0.3

0.3

31

ペルー

0.1

0.1

0.1

0.1

0.2

32

ベルギー

0.1

0.1

0.1

0.1

0.1

33

その他**

1.0

1.7

1.7

2.0

2.0

 

合計

419.4

436.6

463.4 

498.8 

547.0

     表は需要の多い国順に並んでいる。同じNOは同じ数値である。

     *:推定    **:イタリア、スペイン等 」[20]

 

 

まとめと感想

 ラーメンは日本で生まれ、全国各地でそれぞれの「郷土色」を持って成長し、国民食となった。現在、様々なご当地ラーメンがある。なかには、麺(ラーメン)のルーツとなるうどん・そばの発祥地や発展地でない土地からもご当地ラーメンは誕生している。まだまだ、郷土の個性を出した新しいラーメンが誕生する可能性は大いにあると思われる。

 国民食になったラーメンは、インスタントラーメンの開発により世界に広がり、今では国際食になっている。しかし、インスタントラーメンにはまだ課題が残されている。まず、健康志向にどう応えていくかである。科学添加物や遺伝子組み換えの問題のみならず、健康の維持増進に積極的にプラスになるような(ノンカロリー、低脂肪、栄養補助、低塩分など)商品の開発も必要だろう。また、容器の廃棄について環境問題への配慮も求められる。日本の即席麺の年間生産量は53・3億食、容器の廃棄量は莫大なものである。資源の有効利用や環境汚染の防止には、新しい素材の開発が必要になるだろう。

 これらの課題を解決することで、ラーメンは国民食としての価値も上がるだろう。また、国際食としての価値も上がり、もっと多くの国へと普及していくだろう。日々、開発が進み新製品の絶えることのないラーメン、これからの発展が楽しみである。

 

 

<用語解説>

グルテン  小麦粉などに含まれる各種のタンパク質の混合物で、灰褐色の粘り気のある物質。グルタミン酸を多量に含む。麩の原料。麩素。

 

<参考文献>

奥山忠政 『文化麺類学・ラーメン扁』 明石書店、2003年

岡田哲 『ラーメンの誕生』 ちくま新書、2002年

岡田哲 『コムギの食文化を知る事典』 東京堂出版、2001年

インスタントラーメン発明記念館 『インスタントラーメン発明物語』 旭屋出版、2000年

NHK プロジェクトX  「魔法のラーメン・82億食の奇跡」

新横浜ラーメン博物館HP http://www.raumen.co.jp/

インスタントラーメン大百科 即席麺家頁 http://www.insutantramen.or.jp/japanese/

全国ラーメン情報局 http://homepage1.nifty.com/komayan/ramen/

日清食品(株)HP http://www.nissinfood.co.jp

日経テレコン21

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ゼミ論集を書いて」

01E2171 牛田 幸

 

私は、文化編の「日本からの文化発信」というテーマで『ラーメン』について調べました。私がこのテーマを選んだ理由は、文化が自分に一番身近な存在であると思ったからです。また、ラーメンは私の好きな食べ物だったからです。(正直、産業・貿易・環境問題に関しては全く知識がなく、書けるか心配でした・・・。)

 ラーメンについて調べてみると、私の知らないことばかりで驚きました。まず、私はラーメンが日本でつくられたことを知りました。ラーメンはよく中華料理店で出されているので、ラーメン=中華料理と思い込んでいました。また、インスタントラーメンがどのように開発されたのかを知りました。今ではとても普通のことですが、お湯を注いでから3分で食べられるという画期的なラーメンを作り出すまでには大変な苦労があり、開発に関わった人々の努力する姿には感動しました。そして、ラーメンの歴史については水戸黄門が関係していることや、ラーメンの語源は東京と札幌にあることなども知りました。

 論文を書く上での問題点は、いつも資料が少ないことでした。私は、資料探しにインターネットを利用していました。しかし、ヒット数は多いものの良い資料がなかなか見つかりませんでした。中間発表では先生に「インターネットで検索しただけで資料があるはずがない。ラーメンについて書かれた本はたくさんあるはず。」と指摘されました。確かに、私はインターネットに頼りすぎていました。実際、図書館で本を検索するとラーメンについて書かれた本は思った以上にたくさんありました。便利なものばかりに頼らず、地道に資料を探すことが大切だと思いました。

 はじめは作業がなかなか進まず、提出期限が迫るたびに自分の論文は完成しないんじゃないかと不安になりました。しかし、論文が完成した今、とてもホッとした気分です。(^−^)

 



[1] 奥山忠政著、『文化麺類学・ラーメン扁』、明石書店、2003年、第1章、19〜20頁

[2] 注1に同じ、20〜23頁

[3] 岡田哲著、『ラーメンの誕生』、ちくま新書、2002年、第1章、33〜35頁

[4] 「ラーメンの誕生前夜」については、岡田哲著、『ラーメンの誕生』、ちくま新書、2002年、第3章、78〜79頁を参考

[5] 注3に同じ、第3章、91〜93頁

[6] 注3に同じ、第3章、94〜96頁

[7] 全国ラーメン情報局 thhp://homepage1.nifty.com/komayan/ramen/gotouti.htm

[8] 日本経済新聞、「本場・中国にラーメン店、東京国際貿易などが合弁―今月からチェーン展開」、1995年6月6日

[9] 注1に同じ、第9章、275〜276頁

[10] 注1に同じ、第9章、276〜277頁

[11] 注1に同じ、第9章、277〜278頁

[12] 日経流通新聞MJ、「中国パワーで外食各社成長、人脈や食材積極活用―重光産業、共同で米1号店」、2001年

[13] 「チキンラーメン・カップヌードルの誕生」については、奥山忠政著、『文化面類学・ラーメン扁』、明石書店、2003年、第2章、96〜99頁と岡田哲著、『ラーメンの誕生』、ちくま書店、2002年、第6章、174〜178頁を参考

[14] 日本経済新聞、「日清食品・東洋水産、中国で即席めん生産―巨大市場に的、合弁設立、来年夏稼動へ」、1993年5月23日

[15] 日本経済新聞、「日清食品、中国で即席めん合弁―台湾最大大手提携、2006年に売上2倍」、2003年5月15日

[16] 日経産業新聞、「中国での提携、日清食品、解消」、2003年10月10日

[17] 日経産業新聞、「日清食品、インドネシアでサリムと合弁―販路提供受け知名度向上狙う」、1996年7月23日

[18] 日本経済新聞、「日清食品、インドネシア市場開拓、インドフードに出資、330億円投じ原料供給拠点」、1998年12月16日

[19] 日本経済新聞、「日清食品、タイ2社に資本参加―即席めんの販路を拡大」、2000年5月19日

[20] インスタントラーメン大百科即席麺家 http://www.insutantramen.or.jp/japanese/date/date02.html