中国 上海 そして就職

森綾香

 

 2001年の中旬より上海で就職するチャンスを得て、早1年が過ぎた。思い起こせば、高校2年の特に修学旅行で中国に初めて行ってから中国に興味を持ち始め、その頃から中国と関係のある仕事がしたい、中国で働くことが目標になっていた。それから、7年目にしてやっと念願の中国での就職チャンスを手にした。

 

 2000年3月北京の「北京第二外国語学院」に大学の交換留学で1年過ごした。夏には、アイセックの「インターンシップ」で上海の住友商事に2ヶ月間お世話になった。経済発展の勢いがすごい上海でのインターンシップは、中国経済の勉強になり、日系の企業が中国でどのようなビジネス展開をし、どんなリスクを抱えているか等、書面からでは学べないもの学び、その後の中国での就職に役立てる事ができた。北京での留学が終り帰国する事になるが、東京での就職が急遽きまり、在籍していた大学院を退学する事に。この会社を決めたきっかけは、「中国語が使える」、「香港と取引があったので、中国に接触する機会があるのでは?」といった事からだった。しかし、現実は違った。長い将来で見れば、そのようなチャンスはあったかも知れなったが、その頃のハングリーな状態では、何か物足りなさを感じていた。大学院を辞めて自分が東京にいる意味を見出せないでいた。

 初心に戻って、本当に自分がやりたい事、自分がこれまで目指してきた事をもう一度自分の中で整理し、会社を辞めて、中国行きを決心した。東京で1社、アパレル系の会社の面接を受け、内内定のようなものを頂いていたせいもあり、中国行きに不安は無かった。そこの会社は、私が上海に入ったら、一度連絡を入れて、会社訪問をする事になっていた。そこで、もう少し、中国での就職活動をやって状況を把握してみようと、香港から就職活動を開始した。通常、香港でも中国本土でも、外国人の就職活動は、ほとんど派遣会社を通してだ。私も香港で「スタッフサービス」という派遣会社に登録をした。登録は11月の頃だったが、時期的にはあんまり良くない時期だった。というのも、中国では年末に賞与があり、それまでは皆辞めないで会社に残る為、なかなか求人が入ってこないというのだ。派遣会社の人からも、「年始から活動した方がいい」というアドバイスを頂いた。

 香港で2件求人情報をもらった。しかし、2つとも就職するまで2〜3ヶ月と時間が会ったので、

それまで他の会社もあたってみようと上海へ北上した。上海に着いて直ぐ、以前福岡で知り合いになっていた人からメールを頂いた。その内容は、その方が働いている会社が上海で日本人を募集しているということで興味があったら一度会社へ来てくれ、というものだった。そこで、会社に行き、面接を受けたら採用されたというわけだ。これは、いきなり決まった話で、先のアパレル系会社の事も、香港で情報を頂いた2社の事もあり、はっきり迷った。しかし、これまで関わった事のない分野「IT関連」ということで、「今後のスキルアップにつながるのではないか」と考え、チャレンジしてみる事にした。全くの初心者の私が、トレーニングを受け、今ではテクニカルサポートができるまでになったのだから驚きである。しかし、今となっては1年前の選択は良かったと思っている。

 

 この1年上海で社会人として生活して感じた事は、たくさんある。やはり一番は、海外に出て実感させられるのだが、「上には上がいる」ということだ。「中国語が話せる」といっても、中国には日本語を流暢に話す中国人がいる。中国で何年と仕事をしている日本人がいる。後、英語の需要性だ。「中国語が話せる」と言った場合、その前提には「英語ができる」というように考えられることがある。英語・中国語・日本語と3ヶ国語、完璧ではなくても意思疎通ができる程度話せる人は、たくさんいる。そして、彼らは中国で3ヶ国語を自由に操って仕事をしているのである。

 私の友人は、小さい頃から海外で生活し、英語と日本語はネイティブ。中国語は大学の専攻と上海での生活で日常会話には困らない。そんな人を身近で見ていると、「まだまだ自分は頑張らないといけない。」と実感させられるのである。上海での就職、7年越しの目標がやっと実現したはずかに思えたが、更なる目標が出来てしまったのだった。

 

 上海で生活を始めて当初、知り合いもいなく、会社と家の行き帰りが半年程続いた。

<家の近くの南京東路>

 ふっと、「せっかく、中国に来て就職したのに、これではもったいない」と感じた。外国人の友達と積極的に交流して英語を使う機会を自分なりに増やしている。せっかく中国にいるのに仕事では日本語の為、中国語を話す機会がない。そこで、上海人の女の子と知り合い、Exchange Languageをする事にし、中国語を話す機会を作った。そうする事によって、上海でいろんな人に知りあり、刺激を受け、凄く上海での生活をエンジョイする事が出来ている。

 週末の天気のいい日は、よくデジタルカメラを持って街中を歩き回り、興味のある建築物や光景を取っている。又、よくショッピングに行く。というのも、現在多くの日系アパレルメーカーが上海を始め近郊の都市の工場で衣料の生産をやっているので、よく街角のお店や市場で流れ物を見つける。日本で買っていた洋服のブランド「OZOC」、「As know as de base」や「Pou dou dou」等の商品が格安で手に入るから面白い。現在、どれだけ多くの日本の衣料品が中国で生産されているかが分かる。これも経済の勉強の1つになる。

 

<既に上海に3店舗開店したユニクロ>

 上海は、皆が承知の通り、今凄い勢いで開発が進んでいる。さすがは、社会主義国家。政府が決めた事は、直ぐ実行される。上海の開発計画の例でいえば、昨年から着工していた。地下鉄3号線が開通、リニアモーターカーの開通、その他交通面での整備が凄い勢いで進んでいる。市内には、外食産業や外資系デパートが進出、開店し、国際的なイベントも催されている。そんな華やかなイメージが日本のメディアなどで紹介されているのは知っているものの、そんな裏では、トイレのない生活をしている住民もたくさんいる。私の家から会社まで歩いて10分。毎朝、下町を通り抜けて会社まで歩いて行っている。その下町には、昔からある上海特有の石庫門系の建物が並んでいるんだが、そこには各家庭にトイレの設備がないのがほとんどだ。

 毎朝、馬桶(マートン:おまるのようなもの)を家の門の前で洗っている人々の姿を目にする。<馬桶を洗いに行くおばさん。>

 これは、上海の老房子ではあたり前の光景なのだ。そう言えば、私も不動産屋を回った時、「せっかく上海に住むんだったら、老房子がいい。」と思って、一度、古い木造の老房子を見た。電気のない古い木造の階段を「ギシギシ」と上って行くと暗い部屋があった。風呂は無く、トイレは後から部屋の隅っこに備え付けられたものだった。台所は共同。こんな感じで月800元だった。

不動産屋は、「あなたには無理よ。諦めなさい。」と強く言われ、諦めたことがあった。結局、南京東路から一歩入ったところの普通のアパートを借りている。結構、快適で気に入っている。

 

<上海特有の石庫門>

 この1年、本当にあっという間に過ぎていった。上海で生活し始めた当初は、やる気があったが、慣れてくると、良い面以外に悪い面も目に付き、上海が嫌になることもあったが、積極的に行動していくことで、又新たな世界が開け、上海での生活も楽しくなった。

そんな矢先、東京での勤務が決定した。今年は、東京で更に勉強して、来年、又中国での就職にチャレンジしようと思っている。

 

<外灘の夜景1>
<外灘の夜景2>

最後に、旅行での中国、留学での中国、仕事での中国、いずれも違う中国を体験してきた。中国に来て、好きになる人もいれば、嫌いになる人もいるに違いない。今回の就職でも感じたのだが、いろんな人に知り合うこと、常に自分をアピールしておく事が重要だと思った。海外では、自分を積極的にアピールしていないと、その存在にだれも気づいてくれない。私も、日本の時から常に「自分は中国に興味がある。」、「中国で働きたい。」とアピールしていて、たまたま知り合いから上海での就職の話を頂いたのである。そして、念願の中国で就職できたからお終いと考えず、又、上海でも国籍関係なくいろんな人と知り合い、自分をアピールし続けている。そうする事で、いつかどこかで、又いいチャンスが巡って来るかもしれないから。

 

<老房子が建ち並ぶ風景>