私の1997

 

李 春利

                      (愛知大学経済学部助教授)

     

             早春二月:出版

 

 「否極泰来」、某先生からの年賀状でこのような言葉を頂いた。案の定、中国の旧正月4日目、2月10日に筆者の最初の単著『現代中国の自動車産業─企業システムの進化と経営戦略─』が上梓された。来日10年、東大抗戦8年、この一冊のために費やされたと言っても過言ではない。4回も校正を重ねたこの一冊を初めて手にした時、次のような対聯(対句)が胸中を去来した。

 「十年寒窓苦、誰識個中味!」

 (十年間窓からの寒い隙間風に耐え続けてきた苦しみ、誰ぞその中の味が分かるだろう。)

 横批:「楽在其中」

 (結論:それも楽しからずや)

 それは確かに苦楽の交錯だった。この本のベースになった現地調査はまるまる5年がかかり、心労と足労の連続であった。現地側と進出側企業両方の現場をこの目で見る、ということを主旨とするこの調査は、実に50の自動車企業、100工場を超え、その範囲も中国及び関連の日本、米国、欧州と南米に及んだ。それは同時に発見の歓びに満ちた貴重な体験でもあった。いわば、「苦辣酸甜咸、五味倶全」であった。

 昨年3月、この本のもとになった博士論文が最終審査をパスした後、4年ぶりに帰省し、亡くなった両親の墓参り、そして、高校時代の恩師に卒業報告をした。その時、先生が一番喜んでくれたのは、彼の教えを守ったことであった。その教えというのは「読万巻書、行万里路」という言葉であり、それは中国の読書人の古訓でもあった。

 

           小さな南国・シンガポール

 

 私の1997の主軸は実はアジアNIESであった。陽春3月、別の調査でシンガポールを訪れた。同じアジアとはいえ、東京からは空路7時間もかかった赤道直下の南国であった。「赤道までは78キロだよ!」と教わった時、思わずぷっと吹き出した。東西40km、南北わずか20km、人口300万人という小さな国が、世界での存在感をここまで高めたのはなんと驚嘆すべきことであろう。現に、シンガポールの一人当たりのGNPが28,000ドルを超え、かつての宗主国・イギリスの19,000ドルをゆうに上回った。

 この小さな国の観光資源の開発は実にすばらしかった。マーライオンやオーチャード通りはともかく、歴史好きの私を引き付けたのは「蝋人館」とよばれる蝋人形の展示館であった。ここではかつて「マレーの虎」とよばれた山下奉文に初対面した。マレー半島を縦走した自転車部隊の写真、そしてシンガポール要塞に立ちこもった英軍を屈服させた受降式の場面がリアルに再現されている。YesかNoかと机を叩いて投降を迫った山下奉文のあの歴史の名場面。そして4年後、立場が逆転。今度は英軍による受降式の展示室。歴史の栄枯盛衰、諸行無常の空しさを感じさせられた。

 夜、ゴールデン・ビーチを海から眺めるベー・クルーズに出かけた。ここでも現地人の商魂が冴えていた。“Chinese Junk”(中国のぼろ船)とよばれた昔ながらの木造の漁船はクルーズに転用され、西洋人がいっぱい乗っていた。これは実は日本現代史でおなじみの「南蛮船」である。冒険心旺盛な彼等には、このノスタルジックで汚い呼び名は魅惑的でたまらなかったようだ。西洋人の空想的な時代遅れのオリエンタリズムにピッタリあてはまった絶好のアイデアである。

 船中、ある70代の生粋のスコットランド人に出会った。彼は50年前に占領軍の一員として日本に長期滞在していた。陽気で酒好きな彼は大のお国自慢で、スコットランド人の心の故郷ともいえるダンディーの生まれであった。ダンディーは経済学の元祖アダム・スミスの生まれ故郷として知られているが、しかし、おじいちゃんは彼の名前さえ聞いたことがなかった。

 

            ソウル、そして板門店

 

 韓国の旅は重苦しかった。それは「漢江の奇跡」とよばれていた近代的なソウルの空間によるものではなく、韓国という国の歴史から感じ取れたものであった。その中には中国と日本という二つの国の影が色濃く残っている。

 そのような思いは板門店(パンムンジョム)で一層強くした。ソウルから車で北上して1時間あまり、もうそこは有名な38度線。この無形の緯度は南北幅2kmの鉄柵で区切られている。その南側の「統一路」を車が疾走していく。1953年、板門店で調印された休戦協定にもとづいてできたこの非武装地帯(DMZ)。それ以降40年以上にわたり、ほとんど人跡未踏に近い状態。人類の無謀な対抗のお陰で開発から逃れたこの奇跡的な空白地帯は、いまや野生動物や鳥たちのパラダイスに化した。たまには錆びた戦車の残骸も草むらの中にうずくまっている。冷戦の爪跡をありありと見せている現代の荒涼たる風景。朝鮮半島を真二つに遮断したこのベルト地帯は、まさに未崩壊の無形のベルリンの壁なのだ。

 臨津江の畔に臨津閣が立てられている。その屋上に登ると、北の大地が一目瞭然と展望できる。臨津閣の側に脚を縛られて立ち往生している蒸気機関車が展示されている。その真ん前を遮った里程碑には「鉄馬は走りたい」と刻まれており、ここを起点にして平壌までは221km、新義州までは456kmと示されている。過ぎし日のこの列車は、半島の最南端・釜山を発し、鴨緑江を経て中国・北京までのコースを走破していた。旧「亜細亜号」の走行コースだったのだ。しかし、1950年のあの夏、鉄馬が走れなくなった。民族統一の熱き願い、そして南北分断の冷酷なる現実。

 鉄馬の側の広場に視線を移した時、私は思わず戦慄を覚えた。朝鮮戦争に動員されたUN側の各種武器が展示されていた。ヘリコプター、爆撃機、戦車、大砲、そしてロケット弾。それが私の幼心に焼き付いていた朝鮮戦争の映像と見事に重なっていた。そこにはもしかして中国人民義勇軍の血がついていたのかも……

 なぜ中国の人々は朝鮮半島という異国の地で血を流さなければならなかったのか。しかも過去400年の間に3回も大規模に流したとは!その解は私はいまだに得ていない。16世紀末の豊臣秀吉の2回にわたる朝鮮遠征(文禄の役:1592〜96;慶長の役:1597〜98年)は、救援に駆けつけた明王朝の崩壊を間接的に加速させた。半島での明・日両軍の長期戦は、もともと財政難に陥っていた明王朝をさらに弱体化させ、後の清太祖・努爾哈赤(ヌルハチ)に台頭の隙を与えた。万里の長城の起点・山海関での27年にわたる激戦の末、清兵がついに入関し、明王朝が滅亡した。

 図らずもその清王朝も朝鮮半島で明の轍を踏む。文禄の役からちょうど300年後、努爾哈赤の子孫は李朝を日本から守るために朝鮮半島に大軍を送り込んだ。日清戦争の勃発である。その結果、日清戦争の失敗は孫文革命を誘発し、清王朝が終焉を迎えただけではなく、東洋一の大国・中国の自信を大きく動揺させてしまった。約2000年の長きにわたって築き上げられたその自信の喪失によるショックは、見方によってはアヘン戦争以上のものであった。そして、100年前に喪失されたその自信はいまだに回復されていない。

 日清戦争勃発より2年前に生まれた毛沢東は、中国史上3度目の決断を下した。約50年前の朝鮮出兵である。時は中華人民共和国が産声を上げた翌年。しかも当時まだ空軍を持っていなかった中国に対して、スターリンが空軍支援の約束を白紙撤回した中でである。相手はナチス・ドイツと大日本帝国を勝ち抜いたばかりの生産大国・アメリカ。その結果、私がいま立っているこの板門店は世界に知られることになり、この武器展示広場は中国が支払わされた代価の無言の証人になったのである。

 だが、いわゆる「鮮血で結ばれた中朝両国の友情」はいまやどうだろう。答えは周知の通りである。朝鮮戦争のもう一つの代価として、新中国は西側諸国との政治・経済・技術の交流が一切絶たされ、その回復は四半世紀後のケ小平改革を待たなければならなかった。大きな機会費用を強いられたのである。その後、ベトナムでも中国は同じことを繰り返したが、鮮血で結ばれた友情はここでも長続きしなかった。板門店に立って私が感じた最大の疑問は、これまで中国は世界主義的すぎてはいなかったのか?かつて三国時代の劉備玄徳と諸葛孔明のように、大義名分のために痩せ我慢を張りすぎてはいなかったのか?

 中国とは対照に、「竹のカーテン」の向こう側にある日本は、非常に賢明な選択を行った。小学校に入る前から三国志の漫画(連環画)で啓蒙を受けた私には、戦後日本の歩んだ道は三国時代の「呉」の戦略に酷似しているように映る。それはつまり「強兵無き富国」の道である。同じ朝鮮戦争が日本では「朝戦特需」になり、ベトナム戦争も日本経済にビジネスチャンスをもたらした。憲法九条のお陰で、日本は中国やソ連よりはもちろん、アメリカやドイツに比べても冷戦のコストを最小限に抑えることができた。受け入れがたい結論かもしれないが、日本は実際に数少ない冷戦の受益者であるといえないこともない。その分だけ、歴史認識の問題(特に東アジア諸国に対して)を含め、ドイツに比べて生ぬるい戦後処理になってしまったのも無理もない。

 しかし、そうした問題を残しながらも、戦後日本の国家戦略の選択は「富国無き強兵」の戦前に比べて遥かに合理的なものになった。今後の中国も痩せ我慢型の「蜀」の道をやめて、呉の道につくべきではないか。そして、気鋭のアメリカに対して次のような忠告を発してよかろう。無理を働いた世界主義は両刃の剣である。過ぎたるは及ばざるが如し、と。

 

            七月一日:香港復帰 

 

 6月30日昼過ぎからテレビの前に釘付けになった。NHK衛星放送はイギリスのBBCと中国のCCTVと提携し、香港、北京、ロンドンと東京を中継で結び、リアルタイムで各地の現場の模様や各局の特集を放映した。それらを最大限にビデオを収めようと頑張ったが、7月1日深夜になってみたら、なんと18時間も録画してしまった。155年ぶりの香港復帰は1840年のアヘン戦争に始まった中国の近代史そのものであり、いわゆる「栄光なる歴史の断絶」(中国ドキュメンタリー『河殤』より)期間なのである。

 30日深夜11時半から始まった返還式典、ユニオン・ジャックが五星紅旗に変わった歴史的瞬間はもちろん画龍点睛の名場面である。が、私の脳裏に焼き付いたのはむしろイギリス側が主催した「お別れ式典」であった。これはおそらく関連行事の中で比較的に政治的色彩が薄い(?)催しであり、その華麗さの裏には大英帝国の意地を窺うことさえできた。式典では英国人のノスタルジアと貴族的伝統美がエレガントに演出され、「滅びの美学」と酷評したキャスターさえいた。もちろん、こういう舞台設定自体は極めて政治的なものであった。

 式典の主軸が音楽であった。なかでもとりわけ選曲に細心の工夫を凝らしていた。中国の伝統音楽や舞踊の後、イギリス人の女性ソプラノ歌手が登場。彼女がいきなり“Memory”を歌い出した瞬間、思わず胸にじいんと来た。人気ミュージカル“CATS”で大ヒットした美しい歌である。昨年夏、ブロードウエーの劇場でこの歌を初めて聞いた時の場面が目の前に浮かんだ。瀕死にかかった老いたメスのマウスが、彼女の幸せな若い頃の美しい思い出を歌に託す。真っ暗闇の中で月に向かって全身全霊をこめて歌っているその姿は、まるで魂が歌っているようだ。それが彼女の天敵・ネコたちを感動させ、やがて敵同士の和解が実現される。このfarewell ceremonyの内容にピッタリの曲である。それに“The Last Rose of Summer”(夏の最後の薔薇)が続く。なんとセンチメンタルな英国人であろう。

 ラスト・ガバナー(最後の総督)となったクリストファー・パッテン総督が155年間の植民地支配の象徴であった総督府をさびしげに後にした。儀仗兵によるサイレント・ドリルの披露、博物館兼観光名所になる予定の総督府。それを見つめながら、唐代の詩人・劉禹錫の名詩「烏衣巷」が浮かんできた。「旧時王謝堂前燕、飛入尋常百姓家」(昔、王導と謝安という高官の屋敷に巣を作っていた燕が、いまや普通の民家の軒下に飛び込んできた)。お別れ式典ではパッテン総督の別れ演説が終わった後、感傷的な音楽が流れ、待ちに待った華やかなパレードが始まった。

 まず登場してきたのは赤と黒と白の盛装をした近衛軍楽隊。ドボルザークの「新世界」をブラス・バンドで演奏しながら行進する。そうか、イギリス側から見た香港割譲は新大陸発見なのかと初めて気がつく。それにかの有名なスコットランドゆかりのバグパイプの演奏と華麗なる演技。幻想的な光の演出と巡り合わせの雨水の反射。雰囲気は一気にハイライトへと盛り上がる。そして、チャールズ皇太子によるロイヤル陸海空三軍の閲兵セレモニーとエリザベス女王に託されたお別れのスピーチ。最後にもの寂しげな夜空のトランペットの中で、155年間にわたり香港の空をひるがえっていたユニオン・ジャックが徐々に降ろされていく。

 「天上影は替らねど栄枯は移る世の姿」と、武士の没落を詠った日本の名曲「荒城の月」がある。日本の若き天才・滝廉太郎が残した明治維新後の士族への挽歌であった。「春高楼の花の宴、めぐる盃かげさして、千代の松が枝わけいでし、むかしの光いまいずこ」(司馬遼太郎『「明治」という国家』、1989年より)。土井晩翠の歌詞に描かれた風景さながらの東洋的な切なさが、百年後の香港の夜空にも漂っていた。翌朝のロンドンタイムズは「雨と涙の中での撤退」というトップ・タイトルを掲載し酷評したが、しかし見る人々の心に英国の貴族文化に対するノスタルジアを宿しておくという演出者の狙いは功を奏したといってよかろう。名誉を重んじる大英帝国の意地だったのだ。

 「一歩たりとも返還された香港の地を踏みたい」、それは大英帝国にその意地を見せさせた故ケ小平氏の宿願だった。が、ゴールを直前にして力尽きて倒れた彼は、かえってある種の男の美学を人々に感じさせた。彼は改革開放と「一国二制度」という二つの遺産を残して、この1997年2月19日に静かに逝っていった。その業績に対して、香港のある識者が、改革開放を日本の明治維新に喩え、そして今回の香港復帰を江戸の無血開城に喩えている。次元が若干異なるが、興味深い比較である。

 中国の近代史を50年ごとに切って、三段階に分けて見たほうが分かりやすい。その三段階とはすなわち、150年前のアヘン戦争、100年前の日清戦争、そして50年前に終わった日中戦争である。香港復帰はアヘン戦争の産物であり、日清戦争は台湾問題を生じさせた。「一国二制度」はアヘン戦争と日清戦争の一括処理を狙ったコンセプトと位置づけてよかろう。そのアヘン戦争は中国だけではなく、日本にも大きな衝撃を与えた。砲艦外交に端的に代表された西洋文明からのインパクトを如何に受け止めたかは、日中近代化の岐れ道を作った。

 アヘン戦争後わずか四半世紀、日本の維新派は尊王攘夷派を押さえ、当事者の中国以上に改革開放を断行し、政治・経済・社会の大変革を成し遂げて、脱亜入欧をめざした。もしケ小平氏の業績を日本の明治維新のプロセスと比較するならば、私は彼を勝海舟と西郷隆盛の合体に喩える。三田会談によって実現できた江戸の無血開城は、対立の立場にありながら日本という国の将来に憂いを持った両者の傑作であった。しかし、旧勢力を歴史の舞台から退かせた表と陰の風雲児であったこの二人は、いずれも旧体制に属しているといったところに共通していた。つまり、革新と保守を内面に混在させたところにその限界を見出すことができる。ケ氏の限界もまさにここにあった。

 近代国家としての日本の骨格を築き上げたのは大久保利通である。英国式の議会政治を日本に移植する流れを作ったのは彼であり、第二の革命とよばれた廃藩置県を断行したのも彼であった。革命世代がいなくなった後、政治と社会の大改革をひかえた中国にも果たして大久保利通に匹敵できるぐらいの力量とビジョンを持つ人物が現れるのであろうか。それが21世紀の中国の行方を左右している。

 

          日本生命財団情報誌『交流』Vol.9より転載

(注:これは1997年アジア経済危機直後に書いたエッセイです。)