第五部 安全編

第14章 ONE CHINA台湾と中国大陸の関係と歴史 

『独立か統一か?』

 

 

 

00E2397 西山太記

 

はじめに 

日本人は台湾と聞いて何を思うだろう。私は何も思い浮かばなかった。そこで台湾の歴史を追いながら台湾に触れてみることにする。実のところ台湾と中国の関係は良くはない。中台両国が戦争になると、沖縄県は台湾のすぐ側にあることからも日本に影響はないとは言えない。また、2000年には台湾の総統(日本でいう総理)が陳水扁に変わっている。中国は祖国統一を掲げ、何としても統一を目指し。台湾は独立か現状維持を目指している。これに加え、中国の社会主義に対して台湾は李登輝による民主化政策は進んだ。ここで考え方の違いは国民の間でも大きくなった。中台の溝はより深まってしまっていると考えられる。

 

1節 台湾の領地争い

 中国大陸で清に滅ぼされた明は鄭氏を中心とする人々が逃亡しがてら台湾に移った。これが始めて中国と台湾に接点をもたらした。のちに、中国大陸と同じ政権の統治になった。

1895年、台湾は日本に統治される。1945年、日本がポツダム宣言を受諾したことにより台湾の領有を破棄。(台湾は中華人民共和国に返還したわけではない。)この時期から4年間、中国と同じ政治境域だった。中華民国は台湾を台湾省として、台湾住民は祖国に戻れたことで笑うが、後の二・二八事件、中国での内戦で笑顔が消えた。

1.     二・二八事件(本省人×外省人)

台北市内で薬物を売りながら生活をしていた女性が取り締まりの職員により殴打されたことから民衆と衝突した。翌日28日に民衆が抗議しに行ったが警備兵により殺傷が起こり、民衆が怒り台北全土で暴動が起こった。当時、台湾総督府の陳儀の中国化政策・他の外省人のずさんな政策に対する住民の怒りは頂点に達したことを示している。

『外省人―支配者として中国大陸から台湾に新たにやってきた外来者』[1]

『本省人―古くは十七世紀に大陸から移民として渡ってきた土着の台湾人』[2]

2.内戦(共産党×国民党)

共産党の勝利により、中華人民共和国が樹立される。一方で、国民党と中華民国政府は台湾に逃亡。そして、二・二八事件の弾圧を陳儀は蒋介石に援護してもらった。陳儀政府を批判した本省人に対して処刑を厳しく執行していった。台湾人は政府に恐怖を覚え政治に対して不満は言えなくなった。これを追い風に中華民国政府は中国化政策を進めた。これに反対して、台湾独立を望む者は国外に逃亡して運動を起こした。台湾人は外省人や中国人に不信感や反抗心が出てきた。

 

第2節、アメリカの接近

蒋介石は共産党との中国大陸での内戦で台湾に渡り大陸での中華民国の再建を目指した。蒋介石の軍と政府との内戦は第三者のアメリカにより休戦となる。

アメリカ側は蒋介石の望む中国再建を反対+共産党の望む中国と台湾の統一の反対が理由であった。事実上、台湾は中華民国の社会であったが一応は独自の国家となった。また、中国共産党が起こした中華人民共和国は台湾を支配しようとしていた。

(中国側の主張) 台湾人は昔、日本に支配されていて日本帝国主義の心情を持っていると

して、中国人は彼らとの争いを支持した。

(台湾側の主張) 中国大陸で国民党は敗北して、中華民国主義者は逃げて台湾に入った。そこで台湾解放を目指していた。

アメリカはこの新たな争いに再び介入し、台湾側に援助するかたちになった。後の米中会談で、周恩来首相のもと台湾の「平和開放」を説くようになった。この発言がアメリカの第三次国共合作の噂が世界中にまわり、アメリカに対する不満が台湾でも募り事件も起こるようになった。争っていた中国と台湾は共通の敵はアメリカ帝国主義として停戦し、逆に協力した。アメリカはこれらを受けて護衛を停止してこの場から去っていった。

しかし、まだ蒋介石の中華民国の復興と、毛沢東の台湾解放は対立しながら今までの状況を繰り返すことになる。蒋介石は、中国正統政権を主張するが国連を含め世界は中国政府を支持し、国交を行っていた。

 

第3節 台湾人を中国人化へ

前に述べたように、二・二八事件は国民党にとっては台湾住民を中国人化にしやすくする出来事であった。人口で少ない外省人が人口の多い本省人を同化しようとした。ここでの中国人化は外省人の提示する文化であった。まず、言語と中国人意識を同化させようとして、学校教育やテレビなどのメディアを中心に働きかけた。学校教科書について言えば統一されており、文科系は中国大陸と中国文化、国民党と蒋介石のことが載せられていた。歴史を見ても、そのほとんどは中華四千年の歴史で、台湾の歴史についてはほとんど記されておらずに二・二八事件はまったく記述されていなかった。この事件について書くことはこの時代はタブーであった。国語も中国大陸の作家の文章が載せられ、台湾作家の作品はまったく載せられていなかった。

六十年代になると台湾の経済は急激に伸びた。教育は山地にも広がっていくが、地上人との社会的な競争など劣勢であった。経済が伸びるほど山地は開拓されたり、山地の人々は地上へ働かさせられたりした。若者も山地を多く出たため先住民の村は減少した。

 

第4節 台湾と中国の世代交代

一九七〇年代初頭にアメリカが中華人民共和国との政治的和解を示し始めたことにより、台湾の国民党の外交は危機を迎えた。アメリカ側の理由はベトナム戦争から抜け出すためであり、中国側の理由はソ連との対立により北部国境で今にも衝突しそうな緊迫した状況があったためである。中国との接近で今までのようにアメリカは台湾を防衛するかたちを変えた。アメリカは台湾問題を中国人同士での平和解決を望み、台湾と中国との緊張状態を緩和するために台湾にあるアメリカの軍事施設を減らしていく案を発表した。しかし、断交ではなく経済を中心とした関係は続けた。

このころから蒋介石の地位を代わって長男の蒋経国が継ぎ台湾政治を行うようになった。この外交危機も対応した。台湾に存在する中華民国を台湾化に方針をとったが、政府などの監視下で言論などの自由の抑制は無くならなかった。しかし、制度改革により政治的自由の獲得、人権の保障、政治参加の拡大を求める民主化運動が本省人の中から生まれた。これは、蒋経国の慎重な民主化政策に満足しない現われで、「台湾人として胸を張ろう」 という言葉がよく使われていた。

中国では七〇年代末、毛沢東の死後、近代化を優先に考えるケ小平が経済改革と対外開放の国政を変えようとした。

対台湾政策として、中国軍の続いていた台湾への砲撃を停止し、二つの大陸の相互理解促進を図り「三通(通便・通航・通商)」と「四流(学術・文化・体育・工芸の交流)」を提案した。これは台湾に対する祖国の平和統一の呼びかけであった。

  対中国国内では、中国政府は共産党とは、「三不政策」(妥協せず・接触せず・交渉せず)を掲げた。つまり、「三通・四流」を認めないかたちをとった。しかし、民間では接触せず、は間接貿易のことで成功しなかった。そのため、香港などを経由する間接輸出に限り貿易を認めた。

  アメリカと台湾との関係では、アメリカからの圧力により中国の祖国平和統一の政策に応じて事実上の主権を放棄せず、独立維持のためにアメリカの台湾防衛を必要とするのなら使っても良いが、その代わりに、中国は台湾に民主化を進めようとした。

このケ小平の台湾に対する民主化の促進についての要求の蒋経国は聞き入れざるを得ず、一方で、中国側は香港などを経由する間接輸出に限り貿易を認めたため、台湾住民の大陸里帰り解禁を決断した。これにより台湾は新しい時代に突入した。

 

 

1. 蒋経国から李登輝へ

政治的自由化と台湾住民の大陸里帰りの解禁を認めて、蒋経国は死去し中華民国憲法に従い、日本が支配していた植民地で育った李登輝が総統職に就いた。初の台湾人総統誕生からしても民意はあった。彼の台湾人っぽさは住民を魅了した。

 

2.李登輝の政策

まず、内閣の改革を行い外交部長、財政部長の重職としては初めて本省人を使った。また、民主化しつつあった台湾社会を国際社会に示していく積極的な外交を目指した。このような李登輝の外交は中国との緊張をいっそう大きくしていった。中国との相互関係と中華民国の憲政体制の問題を提起した。同時に、国民党外では台湾独立が叫ばれるようになった。

(内部改造)@四〇年代からの万年国会に終止符をうった。

         A長くから公選から除外されていた台湾省長、台北市長などの公選が決定した。

         B憲法改正を約束。

         C大陸政策では、台湾住民の福祉を前提に思案。

         D台湾全住民による選挙により選出されるようになった。

  これらの政策により、台湾の政治は民主化が進み総統直接選挙も決まり台湾人の台湾

政府への不服は軽減した。

 

5節 台湾の民主化

  蒋経国が政治的自由化を宣言する際に、反対運動が起こった。八七年に「人民は台湾独立を主張する自由を有する」と言った決議がなされて、政治的自由化への反対をきっかけに民進党の活動は四十年ごろから国民党の行ってきた「上」からの中国人化から、「下」からの台湾人化へとの国民形成が変化した。

九一年には日本在住の台湾独立運動家たちが国家転覆活動に従事したとして検挙、起訴された。民主革命が動き出し、軍人の首相反対と叫ばれていた時期であり、すぐに反発が起こった。後に、刑法の言論内乱罪を削除し、台湾独立を言うことなど自由になった。それに、帰国・入国を認めない政治犯の記されていたリストも無効として、海外に亡命していた人々は帰国を許された。  中国と統一か、それとも台湾独立か?

李登輝は将軍を集めて、軍人は国家に忠実ではならず、特定の個人に忠誠を示してはならないと考えた。このことは、軍人気質の反台湾独立、中国化を主張する者は不利なことになる。彼らはこの発言に反発したが、選挙により総統を含め重要職はすべて本省人へと移行した。そして辞任に追い込まれた。しかし、彼らは国民党を抜け新党を立ち上げ李登輝を批判した。この組織は外省人を多く含んでいたが、若い本省人も自分の政治的見解からこれに加わる者もいた。新党は、李登輝は日本人だ、などと批判を繰り返して支持者を増やそうとした。

6節 李登輝出現による中華人民共和国と台湾

一九八六年から一九九六年の十年間は民主化の中で台湾は大きく変化した。同時に,台湾の外部の変化により影響を受けつつ変化した。  八十九年の天安門事件で古い政治が残ったままの中国大陸とは異なって、台湾では民主化が進み国民党と共産党が話し合えばことがうまく済むとはならなくなった。

中国側の新政策により、天安門事件後は民主化運動の弾圧を非難する国際世論の中で、中国の改革と開放は弱まるように見えたが、九二年改革と開放を強く主張したケ小平の「南巡講和で急速に盛り返した。七〇年代以降の国策転換後から、中国は毛沢東時代の閉鎖的な政策はできなくなった。このため、中台の経済交流も増加し、台湾からの投資も、貿易量も大きく増加した。そして、李登輝は台湾企業の投資をアセアン諸国に向け、九四年に「南向政策」を、政府により大規模投資を規制する政策もとった。

 

期間

輸出

輸入

総額

1985

986.9

115.9

1102.7

1986

811.3

144.2

955.6

1987

1226.5

288.9

1515.5

1988

2242.2

478.7

2720.9

1989

3331.9

586.9

3918.8

1990

4394.6

765.4

5160.0

1991

7493.5

1125.9

8619.4

1992

10547.6

1119.0

11666.6

1993

13993・1

1103.6

15096.7

1994

16022.5

1858.7

17881.2

1995

19433.8

3091.4

22525.2

1996

20727.3

3059.8

23787.1

1997

22455.2

3915.4

26370.6

1998

19840.9

4110.5

23951.4

1999

21312.5

4522.2

25834.7

2000

25029.5

6223.3

31252.8

出所)中華民国行政院大陸委員会「両岸経貿統計月報」2001/1(単位・百万米ドル)

 

対米国交樹立とともにケ小平の新政策は、台湾海峡を分断の場から通商の場に変え、グローバル化の強まる中、中台の経済交流を深めた。台湾海峡の変化は、人・モノ・カネの移動が生じた。中国側は一つの中国の立場から、李登輝の発言による二つの対等な政治実体論から、二つの中国を目指すことを批判し続けたが、交流面では柔軟に対応した。

李登輝が国際的場面での江沢民との「自然な会談」を呼びかけ、両者の政治対話が実現した。また、江沢民が「一つの中国の原則もとで、両岸敵対状態を終わらせる」ことを含む「江八点」を唱えて、李登輝の大陸訪問を誘った。これに対して、李登輝は「両岸分治の現実上に中国統一を追及する」などを含んだ「李六条」で答えた。

中台の経済関係により台湾経済そのものに影響を与え始めると、国際社会に存在を示そうとした。中国と政治対話が始まっていたが、国際社会に台湾をアピールしようとした。そして、台湾はアメリカとの関係を持とうとした。これには中国は強く反対して台湾海峡は分断の場になろうとしていた。李登輝はアメリカに対して、台湾経済発展と平和的民主化の達成を持ち、国際社会への貢献の意志と能力を有している「中華民国在台湾」を国際社会は受け入れるべきだと主張した。中国はこの訪米に、北京での会談の中止、事務レベルの協議も中断した。メディアも李登輝を強く批判した。李登輝は台湾独立を目指していると判断したからである。また、台湾での総統選挙前に、台湾海峡で軍事演習を行い、台湾を威嚇し始めた。これに対してアメリカは台湾海峡に台湾援軍を送り抑止を試みた。この危機迫る中で選挙は行われた。アメリカの台湾総統選挙の平和を目的として軍事的抑止が台湾住民に冷静を保たせた。この間も、米中の接触は無かったわけではなく、アメリカ側が「中国との対話に応じて、中国が台湾に対して軍事行動を取る意志が無いとの保証を得ている」と発言した後に、台湾海峡の軍事演習は止める発表があった。これにより、「恐れることは無い、中国は台湾に攻撃する能力も方法もない」と強気の発言が、民衆に頼もしく感じられたのか、初の台湾人総統に当選し、「民主の大きな扉が開かれた」と発言した。

 

第7節 李登輝総統の政策

李登輝が総統に就くと、台湾では議員がすべて民主選挙によって選出されるようになった。台湾での民主化は中華民国憲法を前提とした憲政改革の形式がとられた。民主化は進んだが「台湾共和国」にはならずに、台湾国家は「中華民国」を国号としていた。 中国は民主化そのものよりは民主化に伴う台湾の自主性の増大に強く反応した。こうした状況は、中国と台湾の軍備増強を必要とした。中国は、台湾に標準をあわせたミサイルの増強を急いだ。台湾は中国の威嚇に対応する防衛システムの整備をアメリカに依頼した。そして、台湾は初歩的なミサイル防衛の軍備を持つこととなった。  台湾の議会は、凍結(台湾省長、省議会選挙の停止・省政府の中央直轄化・簡素化)などの重要な政治改革を進めることを決めた。このことは、九七年の香港の中華人民共和国への主権返還を受けて、香港のようにはならぬと台湾は中華人民共和国の一省ではないと明確にしようとするものだった。このことに台湾政府の宋氏を筆頭に台湾の凍結に反対した。しかし、国会改革を目標とした国民大会選挙や郷・長鎮選挙の廃止以外は凍結を決定した。台湾式の民主化は社会的コストが低く抑えられ「静かな改革」と李登輝が自賛するほどの成功だったが、さらなる改革を嫌う者も現れて合理的な制度選択は困難となった。こうした政治制度の変更、次期総統選挙には李登輝が出馬しないことなった。

台湾のミサイル防衛を援助したものの、アメリカは台湾問題で中国との関係が悪くなることを嫌い、関係の修復を始めた。九七年にアメリカは、@米国政府の台湾政策は、台湾独立を支持しない。A二つの中国・一つの中国、一つの台湾を支持しない。B台湾が主権国家を構成員とする組織メンバーとなるべきであるとの考えを支持しない。「三つのno」を発表した。そして、中台の話し合いの再開を呼びかけた。

李登輝は、一つの中国における内部関係ではないとする二国論を唱えた。台湾内の世論の支持は高くなった。中国は当然これに反対し、この発言の撤回を求め台湾に訪問の見通しはなくなった。アメリカも中国政府に自制を求めつつも、李登輝の発言には不快感を抱いた。

こうした状況の中、次期総統選挙に向けた競走が始まった。民進党は、台湾独立を和らげる発言をし、一方で、陳水扁は台湾文化は中国性を持つが、台湾の主権は独立しており、その国号を中華民国という。と演説した。中国は無期限に中国との交渉を延ばすなら武力行使をすると圧力をかけたが、各候補を含めアメリカもこの発言には反発した。選挙が近づくと、中国は独立を支持する勢力が当選すれば戦争となると揺さぶりをかけた。選挙の結果は陳水扁が勝利し、国民党から民進党に政権交代が交代した。

この結果に伴い、裏で李登輝が絡んでいたと世間で騒がれ、党首の辞任を余儀なくされた。しかし、二〇〇一年、李登輝は台湾優先の政党を立ち上げた。

 

第8節 最近の台湾の動き

2002/8/4 陳水扁は、「台湾と中国は、一辺一国(それぞれ一つの国である)であると述べた。事実上の中台二国論を主張するとともに、台湾の将来を決定するための住民投票について真剣に考えようとも呼びかけた」。一辺一国の発言は就任して以来初めてで、今までは中国を刺激しないように、二国論を避けてきたが、「我々は台湾の道を行く」という表現で独立色を強めた。また、今までは中国が武力行使しない限り、「現状を変える統一か独立かの住民投票を推進しない」と述べ,これまでの法の制定に言及することはなかった。しかし、この日は、「住民投票方制定の重要性と切迫性を真剣に考えなければならない」と呼びかけた。昨年からは、陳政権がアメリカとの協議で、武器の近代化を進めていた。

この発言は、経済不振の続く中で台湾経済の中国依存は年々高まっており、このままでは中国に飲み込まれるとの意見が出てきていた。李登輝の時代にあった南向政策で東アジアに台湾企業の進出が続いた。今回、再び中国依存を防ぐ目的で行われることになった。

これに対し中国は、「台湾経済と台湾同胞の利益を損ない,台湾に災害をもたらすだろう」とし、武力行使をちらつかせた。陳総統の発言を受け、台湾との三通問題は経済問題として政治問題とは分離して早期実施を呼びかけているが、態度を硬化させる可能性も出てきた。また、中国軍は台湾本島奪取を目標とした軍事演習を行うと発表した。現在は、一辺一国論は唱えていない。

 

<台湾の最近五〇年の歴史>

1943

台湾の中華民国返還。

1947

二・二八事件。

1949

毛沢東が中華人民共和国を樹立。

1950

台湾に中華民国の国民党が渡る。中ソ友好同盟相互援助条約。

1951

第一次台湾海峡危機。

1958

第二次台湾海峡危機。

1971

中華民国の国連脱退、中華人民共和国の国連加入。

1975

蒋介石→蒋経国へ。

1979

中米国交樹立。中国が台湾に「三通・四流」を呼びかける。

1981

台湾は中国に「三不政策」をとる。

1985

台湾は香港など経由の間接輸出に限り大陸との貿易を公認。

1986

民主化政策の始まり。

1987

台湾住民の中国大陸里帰りを解禁。二・二八事件見つめ直しを求める社会運動開始。

1988

蒋経国→李登輝へ。

1989

中国で天安門事件。

1991

独立台湾会事件。大陸政策ガイドラインの制定。

1992

言論、主張が自由になる。政治犯の消滅。湾岸戦争。ケ小平の「南巡講話」。

1993

国連参加活動の開始。

1994

李登輝の「南向政策」。

1995

江沢民の「江八点」。李登輝の「李六条」。李登輝の訪米。第三次台湾海峡危機。

1997

香港の中国返還。台湾省の凍結の決定。李登輝の「二国論」発言。

1998

米クリントン大統領「三つのno」発言。

1999

台湾大地震。

2000

李登輝、国民党主席辞任。陳水扁、国進党から初の総統就任。

2001

李登輝が「台湾団結連盟」を結成。国民党は李登輝を除名。

2002

中台WTO加盟。第四次台湾海峡危機か?

最後に

 中国との関係を壊したくないアメリカも慎重な行動をとらねば、今までのようには軍事的解決を停止させることはできなくなると思う。台湾の中国からの独立か?統一か?答えが出ないまま二十一世紀を超えてしまったが、どちらも引く気はないようなので衝突も起きてくる。今後も台湾が独立を口に出せば台湾海峡に危機が訪れると思われる。世界不況の中、台湾の現状はとても苦しい。そこで独立を考えるが、中国は当然反対をした。中国依存もしたくない。第三次世界大戦は東アジアから起こってしまう恐れも少なくないし、東アジアでもテロが起きてもおかしくはない。  日本の意見、考え方を中国,台湾をはじめ東アジアや世界に示さず、どちらにも「いい顔」をしていると世界から日本政府がより軽視されることは間違えない。中台関係は、台湾は中国に返還されてはいなく、中台の考え方の違いによる点など様々な問題が多い。どうすれば平和的に解決するのか分からないが、日本の近くの国から戦争が起こってからでは遅い。我々は中台関係を知る必要は十分あるのではないでしょうか。

 

参考文献: 若林正丈 「台湾」 ちくま新書 2001年

              丸山勝 「陳水扁の時代」 藤原書店 2000

「中日新聞(朝刊)」 2002/8/4.6.19

丸山勝 山本勲 「中台関係と日本」 藤原書店 2001年

引用文献: 丸山勝 「陳水扁の時代」 藤原書店 2000

 

 

 

 

 

00E2397 西山太記


 私は専門ゼミを選考するにあたって、李先生の紹介文にあった学生が中心という授業方針にひかれました。そして、自分たちの力で上達することは学生同士で意見が違ったりすることもあると思います。自分と人との関わりを同時に学ぶことができると考えました。また、二年生になって中国に関する講義を受けていると、今までアジアの経済に関心がなかったせいか、日本とは違い新鮮さをなぜか感じ、勉強してみたいと思いはじめました。そして、紹介文に中国についての予備知識や中国能力は必要としない、と記されていたのでここのゼミで学んでみたいと思いました。ゼミの中で他の運営も行うこともあるので、勉強以外にも2年間ほど仲間たちと充実した時間を過ごすことができるのではないかと考えました。このようなことを総合するにあたって、自分自身を内面から鍛えることや他人を思う心などを磨くことができるかと思い選考するにあたりました。私の旅行経験は、外国へは2年前に家族と韓国へ行きました。日本にいてはかんじることのできないことをいくつか感じました。例えば、戦争です。南北問題を抱えている韓国と北朝鮮は、国の境目には銃を持った兵士がたくさんいました。ニュースなどで知っていましたが、実際に自分の目で見ると言い表すことのできないショックのようなものを感じました。 国内では京都や伊豆などを家族と行ったり、大阪や熱海には友達と行きました。家族と行くのと友達と行くのでは一味違った楽しさがあります。また、国内と海外では全く違い、緊張感がより必要だと思っています。そして、今後はアメリカ人の友人がアメリカに住んでいるので、会いに行きたいと思っています。私の趣味はサッカーと音楽鑑賞です。サッカーは見ることも好きですし、することも好きです。日韓共同開催のワールドカップでは開催国の日本と韓国がどこまで進めるか、アジアの代表の中国もがんばってアジアも強いことをアジアの土地で見せつけてもらいたいです。サッカーをすることもやはり好きで、地元の友達とユニフォームをそろえて、相手チームを探して試合を休日に行っています。審判はたいていいないので、互いの選手たちの自己審判という形でフェアープレーに心がけていたりしてマナーよくすることでより楽しくサッカーができています。 同じように、音楽も私は好きです。曲を買いに行くとお店に一時間くらいいます。そして、次の店へと買いに行くと半日以上かかってしまいます。同時に、気づくと財布の中身もさみしくなっています。私は内交的ではないのでゼミの中でもがんばっていけると思うので、李先生のゼミでがんばりたいのでよろしくお願いします。

 



[1] 丸山勝 「陳水扁の時代藤原書店 2000 p44

[2]  丸山勝 「陳水扁の時代藤原書店 2000 p44