第2章 ピンポン外交と米中関係
『米中友好の起爆剤となったピンポン外交』
00E2395 鈴木 宏実
はじめに
1971年4月7日、名古屋を舞台に展開されたピンポン外交は、中国の国際舞台への登場の第一歩となった歴史的事件である。三極関係(米・中・ソ)にみられる米中関係の対立構造に窓を開けたピンポン外交のあと、キッシンジャー訪中、国連加盟、ニクソン訪中などを経て、日本など各国との国交樹立を次々と果たし、建国以来の国際的孤立状態から脱出するのに成功した。アメリカ人の中国大陸訪問は、今からみれば何でもないことのようにみえる。しかし新中国成立以来、22年間にもわたる米中対立の時代にあってのアメリカ卓球チームの訪中は、世界の人々に衝撃を与えたのである。私は、この歴史的事件の裏側に三極関係が大きく関わっていると考え、米・中・ソの関係にピンポン外交が与えた影響などについて追っていこうと思う。
第1節
卓球関係の歴史
1、アメリカ卓球チーム訪中
1−1 第31回世界卓球選手権大会
第28回世界卓球選手権大会で、男女団体を含む5冠王を達成した中国チームは、文化大革命のために、第29回、30回の大会に参加する機会を失い、世界大会と縁がなくなってから間もなく6年になろうとしていた。
国際卓球連盟の決定で、日本卓球協会は第31回大会を名古屋で開催するため、その準備を進めていた。中国はまだこの大会に参加を申し込んでいなかった。中国は文化大革命のため、この件に関してまだ何も決まっていなかった。中国チームを大会へ参加させるため日本から後藤二が中国へと旅立った。
1−2 中国の主張
後藤は中国へ着くと用意してきた会談紀要草案を宋中に手渡した。日本側の紀要草案は簡潔だったが、『日中関係政治三原則』を順守するという記述が目を引いた。これは、周恩来総理が1958年7月に日本社会党代表団と会見したときに提起した三つの原則のことをいう。即ち、@中国を敵視する政策をとらないA二つの中国≠つくりだす陰謀に加わらないB日中両国の関係正常化を妨げない。ということである。この紀要草案を検討した数人の日本問題専門家は、「これなら会議は順調に進むだろう」とほっとしていた。
しかし、当時はまだ文化大革命が中国全土にもたらした極左思想が根強く残っていたため、その影響がこの会談にも及んだ。中国側のメンバーから「やはり台湾は中国の一つの省であり、台湾は中国の神聖な領土である≠ニいう字句を会談紀要に書き込んでもらわないと困ります」という意見が出た。中国側はこの字句にこだわり続けた。もっとも、文化大革命中だった当時としては、これにこだわらなければ、自らの身を焼くことになりかねなかった。しかし後藤も卓球交流の問題を超える内容を紀要に盛り込まない。と言い続けた。
1−3 日中卓球会談紀要
そんな中、周恩来は後藤氏を高く評価し、支持するべきだとしていた。中国側の左翼的な考えに周恩来がついに「そんな左≠ノなるな!」と一喝した。日本卓球協会の会長に台湾問題という難題を吹きかけるのは良くない。形式的な論争はやめにしたい。などという周恩来の気持ちがこの言葉に込められていた。この言葉のおかげで行き詰まっていた会談は、次第に解消していった。皆は、ほっとした表情で周恩来を見詰めた。後藤に「あなたの提案をすべて受け入れる」と宋中が告げると、会談紀要は調印へと加速度をあげることになった。
1971年2月1日、日中卓球会談紀要は調印された。その骨子は次のようなものだった。
@ 日本卓球協会は、国際卓球連盟の規約を順守し、国際卓球スポーツの発展をはかり、特に国際卓球連盟の規約に基づき、アジア卓球連盟を整頓することを求める。
A 日本卓球協会は、日中関係三原則に基づき、日中両国卓球界の友好交流を発展させる意向を表明した。中国卓球協会は、これに敬意と支持の意を表明した。
B 日本卓球協会は、右の原則にのっとり、本年3月28日から4月7日にかけ日本の名古屋で開催される第31回世界卓球選手権大会に中国チームを招請する。中国卓球協会は招請を受け入れ、チームを派遣する。
これにより中国の第31回世界卓球選手権大会参加が決定したのである。ここで中国の大会参加決定に日本の後藤二が大きく貢献したということを忘れてはいけない。中国チームが日本(名古屋)に来ることによって日中だけでなく米中の関係まで接近させることになるとは、このとき誰が気づいていただろう。
1−4 名古屋入り
3月21日午後、中国卓球代表団員は東京へと向かった。中国代表団はしばらく東京に滞在したあと名古屋に到着した。大会開催を目前に控え、中国チームは公開練習を行った。ライバルとされていたユーゴスラビア、ハンガリーの選手などはコートに入り、しばらく中国選手と打ち合った。この公開練習は友好第一≠フ精神の表れとして、人々に評判が良かった。ただし中国側は、アメリカ人にたいしとても敏感だった。義務付けられていた1日3回の報告(国際電話)はアメリカ選手・アメリカチームのことが大半だったであろう。
3月28日午後、第31回世界卓球選手権大会が開幕し、50を超える国と地域の選手およそ300人が戦いに入った。
1−5 アメリカチームの中国訪問希望
国際卓球連盟総会の後、宋中が会場を出るとスティンホーベン(アメリカ卓球協会会長)がついて来た。そのそばにはラフォード・ハリソン(アメリカ代表団副団長)がいた。ここで「中国の卓球のレベルは非常に高いから、アメリカ選手が中国へ行けば、いろいろと勉強になりましょう。中国の卓球選手がアメリカに来ることも希望します」などという会話がなされた。この後、宋中は他の役員に伝えたが、まったくの偶然なのか、裏に意味があるのか、そのときのアメリカ人の表情はどうだったのか、などのたくさんの疑問が出るだけだった。彼らはこの重要問題をよく討議し決定していた。このことは偶然だったとしても、あまりにも偶然すぎた。ただ試合などを通じてアメリカ人はなかなか友好的だという感じはだれにでもあった。そこで彼らは結論を出した。「アメリカ卓球チームは友好的であり、彼らは訪中を望んでいる」と。
このことは当然、周恩来、毛沢東の耳に入ることになった。米中関係にまつわる情報が伝わったあと、毛沢東は名古屋からの通話を1日3回から5回に増やすよう指示してきた。
1−6 千載一遇のチャンス
これに関して中国側で意見の食い違いがみられた。多くは、アメリカチーム招請は時期尚早だという意見であった。同時に、少数ながら、逆の意見を持つ者もいた。時期尚早ではない、アメリカチームを呼ぶことで、米中両国人民間の友好往来の潮流をつくり出せるだろう、というのがその考えだった。意見の多数を前者が占めた。そして最初の決定が打ち出されつつあった。「……アメリカチームに対し、中国訪問の機はまだ熟していない、今後、機会があると信じると伝えるように」報告は周恩来のもとに送られた。この報告のついて周恩来は非常に慎重な態度をとった。周恩来は報告の中に、「彼らの連絡先を聞いておくこと。彼らの代表と接する際には、われわれ中国人民は二つの中国∞一つの中国、一つの台湾≠フ陰謀に断固反対することを表明すること」というくだりを書き加えていた。文書の上端には、「同意したい」という周恩来の文字が書かれていた。彼は自分では最終決定を下さず、毛沢東に送ったのである。毛沢東は報告を読んだあと、深く考え込んだに違いない。彼は、米中関係の最近年数の変化、発展をよく把握していた。あらゆる重要な決定は、彼自身が決定ないし承認したものだったからだ。既に4月7日に入っていた。第31回世界卓球選手権大会の最後の日だ。明日になれば、各国選手団は名古屋からそれぞれ帰国してしまう。時は流れる。時が運んできた好機は、時とともに失われてしまう。深い思索を重ねて、毛沢東はふっきれた。なぜ、「アメリカチームの中国訪問の機はまだ熟していない」と言えるのか。いやその逆だ、今こそ千載一遇のチャンス≠ナはないのかと。
毛沢東は最後の決断を下した『アメリカチームを直ちに中国に招請する』世界を揺るがすことになる決定が下された一瞬だった。
1−7 荘則棟とグレン・コーワン
4月4日、その日に試合を控えていたコーワン選手は、気持ちが落ち着かず、あれこれ考えているうちにトレーニング用の体育館にやって来た。彼が練習していると、体育館のドアが開き中国チームが入ってきた。中国選手の練習時間になっていたのだ。コーワンは、中国の選手にも練習の相手をしてもらい練習を終えた。彼は会場へ戻ろうとしたが、自分が来るときに乗ってきた車がどれだったか、分からなくなってしまった。すると、世界卓球選手権の標識をつけたマイクロバスが走ってきた。コーワンはとっさに手を振りバスを止めた。彼は車に乗った。しかしコーワンは、あたりを見渡して驚いた。乗っていたのは全部中国人だった。驚いたのはコーワンだけではなかった。バスに乗っていた中国選手と役員もまた驚いていた。だれも話しかける者もなく、車の中は静かだった。
だれも話しかけようとしないので、コーワンも体裁が悪くなってきた。そのとき、1人の中国選手が立ち上がりコーワンに歩み寄った。「ミスター・荘!」荘則棟はうなずいた。「今日、君がこの車に乗り合わせて、皆とてもうれしい。選手一同、君を歓迎する。その気持ちとして君に記念品を贈りたい……」と語った。当時、名古屋に来るにあたり、選手たちは自分の方からアメリカ人と接触してはならないことになっていたので、他の選手に引き戻されそうになったが、それでも荘はバッグから記念品を取り出し、コーワンに手渡した。コーワンは喜んだ。彼は荘を知っていた。というのも荘はかつて3回連続も男子シングルの世界チャンピオンだったからだ。コーワンは感謝の言葉もそこそこに慌てて自分のバッグを探ったが何も見つからなかった。バスを降りると記者たちが待ち構えていた。2人は並んでポーズをとり、握手をして別れた。
翌日、コーワンは荘にTシャツを贈った。言葉は通じないが2人は笑顔で応じあった。地元、名古屋の中日新聞は、米中両国選手のこの接触を詳しく報じた。
この2人の出会いは、卓球が結びつけたものだろう。この2人のように米中両国の関係も結びついてくれれば。と彼らは思ったに違いない。
1−8 アメリカ卓球チーム訪中
毛沢東の決断をニクソン米大統領もすぐに反応した。ニクソンはすぐにアメリカ卓球チームが北京へ行った方がよいと答えた。アメリカチームが中国を訪問するというニュースは、日本の各界を驚かせた。「中米関係の発展は中日関係を追い越すかも知れない」という周恩来の言葉を日本の外務省は思い出していた。
1971年4月10日、アメリカ卓球代表団は中国へ訪れた。そのとき、周恩来は「いま、とびらは開かれました」と言葉を残している。繰り返すようだが中国とアメリカの関係改善には中米両国の大勢の人々の力があってこそだと思うが、交流するきっかけを作り出したのは、日本卓球協会である。すなわち私は、後藤二の勇気と行動力に敬意を表したいのである。
周恩来と中国外務省の幹部たちは、アメリカ卓球チーム訪中後を分析していた。周恩来は言った。「ひところは政治運動に力を集中しなければならず、外交がおろそかになった。続いて極左の誤りを正すのに力を取られた。今は外交攻勢を展開すべきときだ。ピンポン外交は、われわれの外交攻勢の一環だ。ピンポン球が弾んで世界を揺り動かした。小さな白い球が地球を動かしたのだ」周恩来の目は、はるかかなたに向けられていた。[1]
表1(卓球関係の歴史)
1969年 |
10月 |
周恩来、卓球選手に練習開始を指示 |
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1970年 |
6月 |
中国卓球チーム、ネパールへ(文革後初の外国訪問) |
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11月 |
中国卓球チーム、スカンジナビア大会参加。 |
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1971年 |
1・25 |
後藤二日本卓球協会会長訪中 2・1「日中卓球会談紀要」調印 中国、第31回世界卓球選手権大会(名古屋)に参加決定 |
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2・7 |
後藤氏、アジア卓球連盟臨時総会で同連盟整頓案を提出し否決される。アジア卓球連盟会長辞任 |
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3・14 |
中国卓球代表団会議、世界選手権参加問題で不参加論が多数、周恩来が説得 |
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3・15 |
毛沢東、世界選手権参加を承認 |
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3・21 |
中国卓球代表団来日 |
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3・26 |
国際卓球連盟(ITTF)諮問委で中国などカンボジア、南ベトナム・チームの資格取り消し提案、否決される。台湾の加盟案も通過せず |
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3・27 |
ITTFパーティーで米中選手初めて接触 |
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3・28 |
世界卓球選手権大会開幕 |
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3・30 |
ITTF総会、米中代表団幹部が接触。 中国代表団臨時委、米チームの訪中の希望を本国に報告 |
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4・4〜5 |
荘則棟、グレン・コーワン両選手の交流 |
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4・5 |
ITTF総会、後藤氏を会長代理に選出。 宋中中国卓球協会主席代理が評議員に |
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4・6 |
中国外務省「米チーム訪中は機熟さず」と指示 |
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4・7 |
毛沢東、米チーム訪中招待を決定。 宋中がハリソン米副団長に通告 |
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4・10〜17 |
米など5ヶ国チーム訪中 (米国・英国・カナダ・コロンビア・ナイジェリア) |
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11月 |
アジア・アフリカ卓球友好招待試合 |
1972年 |
4月 |
中国卓球チーム訪米 |
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5月 |
日、中などの「アジア卓球連合」成立 |
第2節
米中関係の歴史
1、キッシンジャーの秘密訪中
中国とアメリカ。両国が、一切の交流をしなくなってから、もう22年になろうとしていた。全世界は、かたずをのんで名古屋の卓球台の上を行き交う白球を見守り、この予想外の事件がもたらすかもしれないあらゆる事態に思いを凝らしていた。
1971年4月、周恩来は人民大会堂でアメリカ卓球チームの一行と会っていた。それから7日後、訪中を終えて帰国したアメリカ卓球代表団のスティンホーベン団長は、ホワイトハウスに入り、大統領執務室に案内された。スティンホーベンは中国訪問の模様をニクソン大統領に語り、「中国卓球チームをアメリカに招待した」などのことを伝えた。それに対して「(中国チームがアメリカに来たら)君たちが中国で受けた待遇と全く同じにする」というのがニクソンの答えだった。
これを契機に米中双方のパキスタン・ルート≠通ずる接触が大幅に加速された。1971年4月27日、周恩来のメッセージがパキスタンのヤヒア・カーン大統領を通じてもたらした書簡がホワイトハウスへと届く。その書簡には「中国政府は、直接の交渉と会談のため、アメリカ大統領の特使、あるいはアメリカ国務長官、さらにはまたアメリカ大統領自身をも公に北京に迎えることを希望する旨を重ねて声明する」とあった。
そしてニクソンは、キッシンジャー(大統領補佐官)を特使として派遣し、パキスタンを経てひそかに北京に行かせることを決めた。
これがピンポン外交≠ニ呼ばれる歴史のひとこまである。
2、林彪事件
1969年4月より開催された第九回全国代表大会では、林彪が毛沢東の後継者として、党規約の総鋼に明記されるなど、解放軍の影響力を如実に示す大会となった。しかし党内は、毛沢東に盲従する江青らの文革派、毛沢東を賛美しながらも人民解放軍を後ろ盾にして独自の基盤をもつ林彪、そして周恩来らの脱文革派に分かれていた。
この対立は、71年に林彪のクーデターという衝撃的なかたちとなって表面化する。「林彪事件」の経緯としては、毛の後継者としての地位を得た林彪があえてクーデターを計画した背景として、70年の九期二中全会後における毛との対立の表面化や、69年におきたソ連との武力衝突後に急速に対米接近を図りはじめた 毛と周の路線と、依然として対米対ソ二正面対決路線をとる林彪との間にしだいに認識のずれが生じていたことが考えられる。
1971年、彼らは毛沢東の暗殺をはかったが、毛沢東は林彪の陰謀活動を察知し、彼らのクーデター計画を粉砕した。9月13日、林彪らは飛行機に乗ってあわてふためき逃走したが、飛行機はモンゴル人民共和国のウンデルハンで墜落した。[3]
表2−1(米中関係の歴史 〜1970)
1949年 |
10・1 |
中華人民共和国成立 |
1950年 |
6・25 |
朝鮮戦争開始 |
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10・25 |
中国人民義勇軍参戦 |
1958年 |
8・23 |
中国軍、金門・馬祖砲撃(台湾海峡緊張) |
1960年 |
4・16 |
「紅旗」誌「レーニン主義萬歳」論文、中ソ論争表面化 |
1963年 |
7・5 〜20 |
中ソ両党会談、成果なく終わる |
1965年 |
2・7 |
米軍、北ベトナム爆撃開始(ベトナム戦争) |
1966年 |
5・16 |
中国文化大革命始まる |
1968年 |
5・13 |
米、北ベトナム、パリ和平会談開始 |
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8・20 |
ソ連、東欧軍、チェコ侵入 |
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8・23 |
周恩来、「ソ連社会帝国主義」と断罪 |
1969年 |
1・20 |
ニクソン米大統領就任 |
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3・2 |
中ソ両軍、珍宝島(ダマンスキー島)で衝突(以後、衝突事件頻発) |
1969年 |
4・1 〜24 |
中米第9回党大会、米ソ対決路線。林彪を毛沢東の後継者に |
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7・21 |
米、対中貿易・旅行制限の一部緩和 |
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7・25 |
ニクソン大統領、世界旅行の途中に「グアム・ドクトリン」を発表。パキスタン、ルーマニア訪問で両国首脳に対中メッセージ仲介を依頼 |
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9・11 |
周恩来首相、北京空港でコスイギン・ソ連首相と会談 |
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12・19 |
米、再び対中貿易制限緩和 |
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12・24 |
米第7艦隊台湾海峡パトロール縮小発表 |
1970年 |
1・20 |
米中大使級会談(ワルシャワ)二年ぶり再開 (135回。2月21日に136回) |
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5・1 |
米・南ベトナム軍、カンボジア侵攻(中国、137回ワルシャワ大使級会談中止を通告) |
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5・20 |
毛沢東声明「米侵略者とその手先を打ち破ろう」 |
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8・23〜9・8 |
中共9期2中全会(対米接近を決定か) |
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10・26 |
ニクソン、チャウシェスク・ルーマニア大統領歓迎宴会で中国を正式名で呼ぶ |
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11・10〜15 |
ヤヒア・カーン・パキスタン大統領が訪中、米の対中和解の意向伝達→12・9米特使派遣受諾とのニクソンあて周恩来回答が米側に届けられる |
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12・18 |
毛沢東、エドガー・スノーと会見、ニクソン訪中を歓迎 |
表2−2(米中関係の歴史 1971〜)
1971年 |
1・11 |
中国、ルーマニア通じ特使に加えニクソン訪中も歓迎と伝える |
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2・8 |
米、南ベトナム軍、ラオス侵攻作戦 |
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2・25 |
ニクソン、外交報告で対中改善の希望を正式表明 |
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3・5 〜8 |
周恩来、ハノイ訪問 |
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3・15 |
米・対中旅行制限撤廃 |
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3・22 |
林彪、反毛沢東クーデター計画(「五七一工程紀要」)作成 |
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4・14 |
米、非戦略物資の対中直接貿易など5項目設置 |
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4・16 |
ニクソン、訪中の希望表明 |
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4・27 |
周恩来メッセージ、パキスタン・ルートを通じて米に届く |
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7・6 |
ニクソン、カンザスシティー演説で中国の孤立化阻止と言明 |
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7・9 〜11 |
キッシンジャー米大統領補佐官、秘密裏に訪中 |
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7・16 |
キッシンジャー訪中の事実とニクソン訪中計画公表 |
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9・13 |
林彪事件(林彪、クーデターに失敗して死亡) |
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10・25 |
中華人民共和国、国連で議席を回復(蒋介石政権は国連から脱退) |
1972年 |
2・21 〜27 |
ニクソン訪中、27日「共同コミュニケ(上海コミュニケ)」を発表。中国は72年末までに41ヶ国と国交回復 |
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9・25 〜30 |
田中角栄訪中。27日、中日国交回復 |
1973年 |
1・27 |
ベトナム和平協定調印 |
1974年 |
8・8 |
ニクソン辞任演説 |
1975年 |
4・30 |
南北ベトナム統一 |
1976年 |
1・8 |
周恩来死去 |
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4・5 |
天安門事件(ケ小平党副主席・副首相失脚) |
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9・9 |
毛沢東死去 |
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10・6 |
四人組事件(→華国鋒体制) |
1978年 |
7・3 |
中国、ベトナム援助全面停止 |
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12・16 |
米中両国、翌年1月1日付で国交樹立と発表 |
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12・18〜22 |
中共第11期3中全会。ケ小平体制発足、近代化路線展開へ (文化大革命およびそれ以前の誤りの全面的な訂正を開始) |
1979年 |
1・1 |
米中国交樹立 |
第3節 三極関係
1、中ソ関係
1−1 中国人民共和国と中ソ同盟
中華人民共和国が成立してから毛沢東がまっ先に実行したのは、ソ連を後ろ盾とする安全保障の確保であった。アメリカと日本の脅威に対抗するため、毛沢東は1949年12月から3ヶ月もの間ソ連に滞在して、スターリンと軍事同盟の締結を急いだ。このとき締結した「中ソ友好同盟相互援助条約」は強固な攻守同盟であった。これはたしかに中華人民共和国存立の軍事的保証と政治的安定、疲弊した経済再建のための資金の確保を約束するものであったが、すでにヨーロッパで先鋭化していた東西冷戦構造のまっただなかに中国も組みこまれることになり、アジアにおける東西対立を激化させる結果となった。
1−2 冷戦体制形成下の中ソ関係
中ソ関係は、「友好と同盟の時代」と「対立と対決の20年」と「和解への道のり」とに区分できる。その区分には、「中ソ友好時代になにがあったのか、中国とソ連はおなじ社会主義国でありながらなぜあれほど激しく対立したのか、中ソ和解のうらにはどんな論理があるのか」(毛利和子『中国とソ連』)という問題が含まれている。さらに、このような中ソ関係の展開する背景には冷戦体制形成時に原因があった。「第一に、コミンテルンの、いいかえればスターリンのソ連のよる中国革命に対する誤った指導であり、干渉だった。第二には、四七年からヨーロッパを中心に表面化する冷戦構造の形成だった。第一については、毛沢東はこれと争い、革命の完全な遂行を目指した。第二は、国共内戦にさいし、アメリカが国民政府に軍事援助、経済援助を与えて支援したこともあって、中国共産党が新しい国家を建設するにあたって、選択すべき外交政策の幅を狭めさせていた」(太田勝洪『毛沢東型外交の展開』)からである。ソ連首脳部が中国共産党を信頼していないことをアメリカに利用され、ヤルタ協定にもとづいて締結された一連の国民政府とソ連との条約・協定で、ソ連が国民政府を中国の合法的な政府としたことは、中国共産党との関係を悪化させた。
1946年春、中国は国共内戦に入った。のちの1949年スターリンは中国革命に干渉しすぎたと表明し、徐々にではあるが中国とソ連との距離は縮まっていった。
2、米ソ対立の本格化まで
アメリカは第二次世界大戦中「戦争が終わったらソ連にも国際秩序作りに協力してもらいたい」と考えていた。アメリカは植民地支配から独立した国々で選挙を行い「民主主義を世界に広める指導者」であるアメリカに親しみを持ってくれる国々が多くなることでアメリカが「間接支配」できる世界をつくるのが理想であった。しかし、現実には戦争が終わって選挙が行われると共産党が勝ってしまうことに気づく。当時、社会主義は貧しい人々を救ってくれるものとして多くの人々に支持を受けていたのだ。45年にドイツが負け、東ヨーロッパでドイツに支配されていた国々に新政権ができたがそれらはすべて社会主義政権だった。48年、分割統治していたドイツ戦領政策を巡って対立。「ベルリン封鎖」で冷戦は本格化していくことになる。
3、朝鮮戦争
3−1 戦争の動向
アメリカの援助を受けて大韓民国を成立させ、武力による「北進統一」を高唱する李承晩(イスンマン)政権に対して、ソ連の軍事的経済的支援をあおぐ金日成は、電撃作戦によって朝鮮半島の統一にのりだした。ソ連製の武器による圧倒的な軍事力によって、わずか1ヶ月で韓国軍を釜山周辺地域に押し込んだのである。安全保障理事会は、ただちに国連軍の派遣を決定し、仁川(インチョン)上陸作戦の成功以後は逆に38度線を突破して北朝鮮側に侵攻した。これに先立ち中国首脳はインド大使と会見して、国連軍が38度線を超える場合には中国も参戦する用意があることを表明してアメリカを牽制していた。当時、米中間には国交がなかったために間接的な伝え方をしたのだが、アメリカはこれを無視してしまった。1950年10月19日、中国義勇軍(人民解放軍)が人海戦術によってアメリカを中心とする国連軍を38度線の南に押し戻すことに成功したが、決定力に欠け、戦線はやがて膠着した。
3−2 朝鮮戦争の影響
この戦争は中国に次のような影響を及ぼした。まずは、超大国アメリカに対して建国直後の中国軍が互角にわたりあったことから、その人的被害は甚大であったが、勝利に等しいものと考えられた。そして、的確な政策判断を下した毛沢東への個人崇拝がさらに強まった。次に、朝鮮の防衛を成功したことにより、中国の国際的な発言力が増大した。さらに、中国空軍の援助の要請をスターリンが拒絶したことや、提供された軍事物資の代金支払いをソ連が要求してきたことにより、ソ連に対する失望と反発が芽生え、のちの中ソ対立の遠因となった。
4、ピンポン外交と三極関係
60年代末、中ソ国境に緊迫した空気が現れたため、毛沢東は、中国が直面している国際問題について一層熟慮することになった。60年代末期、中国の東北、西北の国境の空気は険悪で、国境線の向こう側には100万のソ連の大軍が配置されており、南でも中国はアメリカの侵略に抵抗するインドシナ諸国を支援していた。中国はまさに南北両面から圧力を受けていた。1969年1月20日ニクソンがアメリカ大統領に就任すると、アメリカの対中政策に一連の微妙な変化が現れた。ニクソンは中国との対話を望み、毛沢東もこれに関心をよせていた。このような背景のなか行われた第31回世界卓球選手権大会は、米中の関係を近づける大きなきっかけとなった。選手の交流、役員の交流など全世界の人々が驚くような出来事がそこには起こった。またその裏では、キッシンジャーが秘密裏に中国を訪問するなど着実に、米中の関係は距離を縮めていった。そしてついに
1979年に米中国交樹立となった。同年、中国はアメリカだけでなくソ連とも対立から和解へと向かうことになる。
持論だが、三極構造のなか米・中・ソは互いに意識し合ってきたと思う。アメリカにしてみれば中国とソ連が手を組んだら、とても大きな脅威となるだろうし、残り2国にもそれは当てはまると思う。米ソ冷戦の状態で中国と手を組んだ国は、中国の場所からみても有利に立つことは間違いなかったと思う。そこでアメリカは、世界卓球大会の場を借りて、中国へ接近したのではないかと私は考える。ピンポン外交とは、スポーツの交流だけではなく、国と国同士が真剣に臨んだ外交の手段なのではないだろうかと。[6]
将来展望と感想
ピンポン外交などを経て、米とアメリカは関係を築き上げていくこととなった。2002年、中国で江沢民主席とブッシュ大統領との会談が開かれ、その際、次期国家主席と目されていた胡錦涛副主席(現・主席)とも短い会話を交わした。この会談で江主席の10月訪米と胡錦涛副主席の早期訪米が合意された。台湾問題で、ブッシュ大統領は、「一つの中国」の原則を確認し、米国の「台湾関係法」に従って台湾の安全に関与する意向を表明しながら、「中国の将来は中国の人々が決めるべきだ」として、対話による「平和的な問題解決」に期待した。
江沢民主席が訪米する前、中国の米国駐在大使は江沢民主席訪米の重大な意味及び米中両国関係についての見方を示した。同大使の話によると、中米両国関係が重大な改善と進展を遂げたことを背景に、両国指導者が両国関係及び地域問題について意見を交わすのは相互理解を深め、両国の建設的な協力関係の一層の発展を進め、国際情勢にも有利な影響をもたらす。ということである。また台湾問題について中国が「一つの中国」の原則を堅持し、「台湾独立」を支持せず、「台湾独立」勢力の発展を支持しないことをアメリカ側に重ねて言明したとしている。このことをアメリカが守るということは、中米関係の安定と発展にとって極めて重要である。
今日、中国とアメリカは友好の道のりを築いている。そのきっかけとなったのがやはりピンポン外交ではないのか。と私は思う。ピンポン外交には、三極構造など複雑な要因が組み込まれていると思うが、両国関係の友好的な発展につながったのは、両国の国民の交流や協力のおかげだと思う。今後、更なる積極的な発展と交流を期待して両国の言動を見ていきたい。
00E2395 鈴木 宏実
専門ゼミを選ぶにあたり、「専門ゼミ内容紹介」をよく読みそれぞれの先生方のゼミの内容、運営方法を見させてもらい、李春利先生のゼミに最も興味をひかれたので、このゼミを選ぶことにしました。私は、大学に入り、中国語を学びはじめました。中国に関する授業をうけだしたら、今まで以上に中国のことに興味・関心を持つようになりました。大学に入るまでは、日本の歴史、文化、経済については深く学ぶことができましたが、他の国のことについては、広く浅く学んだような気がします。愛知大学は中国との交流が盛んなので、中国について学ぶには、素晴らしい環境だと思います。このようなことから、私はゼミに入ったら、中国のことを取り上げている先生のもとで、ゼミに参加していきたいと考えていました。同じアジアの中の国のことをもっと知りたいし、特に中国は、近年、目覚しい程の経済成長を遂げているので、中国のことをいま学んでおきたいと最近思うからです。ゼミを通じて自分の意見をしっかりと述べることや、普段なかなかすることのない、仲間との討論など、いつもの授業ではなかなか出来ないことを、積極的に取り組んでいきたいと思っています。
私は、大学に入り友人たちとサッカーのチームを組んで、練習や試合をしています。体を動かすことが好きなので、授業で体育がなくなったいま、体を動かす機会がうんと減ってしまい残念に思っています。このゼミでは「たんぽぽ」とよばれるスポーツクラブがあるそうなので、とても楽しみにしています。
私は、昨年の暮れに、車の免許を取得しました。自分の車は、まだ持っていないけれど、実家に帰ると、親の車を借りて、友人と遠くに出掛けたりします。免許をとったばかりなので、運転するのがとても楽しいです。今年の夏には伊豆の弓ヶ浜という海水浴場まで、車で行ってきました。行くだけで半日かかりましたが、とてもよい体験ができました。でも、当分の間は半日もかかるところへは、車で行きたくはありません。他にも大阪、横浜など車ではないけれど、電車、バスなどを利用し旅行に出掛けたことがあります。いつもは写真などでしか見ることのない建物などを間近で見たり、大きさに圧倒されたりするので、旅行に行くのはとても楽しいです。まだ行っていない場所や、実際に見たことのない建物などが、数多く残っています。時間のある内に、そのようなものに是非、会いに行きたいものです。私は、今まで一度も海外旅行をしたことがありません。きっと国内旅行とは違った雰囲気があり、また見ぬものを見たり、感じたりすることができるだろうと思います。何年後になるかは分からないけれど、海外にも足を運べたらいいなと思っています。その時は、充分に相手の国のことを理解し、その土地のことを目一杯、吸収してきたいです。
[1]参考 銭江 『米中外交秘録』 東方書店 1988年
[2]銭江 『米中外交秘録』 P209−210 東方書店 1988年より引用
[3]参考 銭江 『米中外交秘録』 東方書店 1988年
歴史教育者協議会 『知っておきたい 中国U』 青木書店 1996年
[4]参考 銭江 『米中外交秘録』 P205−208 東方書店 1988年
[5]参考 銭江 『米中外交秘録』 P205−208 東方書店 1988年
[6] ヘンリー・キッシンジャー 『キッシンジャー秘録 第三巻 北京へ飛ぶ』
小学館 1980年
歴史教育者協議会 『知っておきたい 中国U』 青木書店 1996年
http://202.84.17.83/1023090126.htm 新華通信網日本株式会社
http://www.come.or.jp/hshy/j2002/2002_02d.html#2 華声和語=第393号=