第1部    歴史篇

1章 日中国交正常化への道程

歴史の回顧と展望〜恒久的平和友好を願って〜』

 

                   00E2236 川口裕史

                                   

はじめに

今年2002年は、日中両国にとって国交正常化30周年という両国関係史の上でも記念すべき重要な年となり、日本では『中国年』、中国では『日本年』と位置づけ、各地で様々な記念行事が行われた。これを節目とし、これまでの日中関係を振り返ることは、これからも続くであろう両国の安定した友好関係を維持、推進していく上で非常に重要な意味を持つのではないかと思いこのテーマを選んだ。

 

1節 日中国交正常化

.日中共同声明

 日本と中国の両国が国交を正常化し、外交関係を樹立する『日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明』の調印式が1972年(昭和47年)9月29日、北京の人民大会堂で行われた。共同声明は日本側の田中角栄首相、大平正芳外相、中国側の周恩来首相、姫鵬飛外相によって調印された。

 声明は『前文』『本文』の9項目。前文と本文第1項では戦争終結問題について『戦争状態の終結と日中国交正常化という両国国民の課題の実現』とし、『戦争状態が終結していない』とする中国側の主張と『日華平和条約で戦争状態は終結している』とする日本側の認識のズレから生じた対立を、両国が譲り合って政治的判断によって処理した。

続いて『日本は過去の戦争責任を反省し、中国の復交3原則を十分理解して平和友好関係を樹立すること』を表明した。

本文では中華人民共和国政府を唯一の合法政府と承認し、台湾が領土不可分の一部であるという中華人民共和国政府の主張を理解し、尊重することとした。外交関係を樹立し、日本側は『戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省をする』と述べ、中国側は日本に対する戦争賠償請求の放棄を宣言した。

また、この日中共同声明により、日華平和条約は失効し、20年間続いた台湾との国交を断絶することとなった。

 

.日中共同声明(一部抜粋)

 (前文)

  「日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな1ページを開くこととなろう。

 日本側は、過去において日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した『復交三原則』を十分理解する立場に立って国交正常化の実現を図るという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。

 

 (本文)

1.日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。

2.日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。

3.中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基く立場を堅持する。

4.日本国政府及び中華人民共和国政府は、1972年9月29日から外交関係を樹立することを決定した。両政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置及びその任務の遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。

5.中華人民共和国政府は、日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。 

8.日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。

 

復交三原則(一部抜粋)

1.世界には一つの中国しかなく、それは中華人民共和国である。中華人民共和国は中国人民を代表する唯一の合法政府である。『二つの中国』、『一つの中国、一つの台湾』、『一つの中国、二つの政府』など荒唐無稽な主張に断固反対する。

2. 台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であり、しかもすでに中国に返還されたものである。台湾問題は、純然たる中国の内政問題であり、外国の干渉を許さない。『台湾地位未定論』と『台湾独立』を画策する陰謀に断固反対する。

3.『日台条約』は不法であり、無効であって、破棄されなければならない。

 双方は、上記の諸原則は中日国交回復の前提であり、断固として貫徹しなければばらないと認めた。」[1]

 

2節 波乱に満ちた道程

.終戦からサンフランシスコ講和条約まで

1−1.日中戦争・第二次世界大戦

 「1937年7月7日夜半、北京の慮構橋付近で夜間演習中だった日本軍と中国軍が衝突する事件が起きた。俗に言う慮構橋事件である。中国側の要請で一時停戦したがその後も小競り合いが続発し戦闘は拡大、本格的な日中戦争が始まり、両国は戦闘状態へと突入していく。

 また、1941年以降、日本はドイツ・イタリアとの連携のもとに世界戦争へ突入していく。そしてまた、緒戦における太平洋での勝利も束の間、アメリカ軍に圧倒されて次第に後退を余儀なくされ、中国大陸での泥沼状態ともあいまって、絶体絶命の窮地に追い込まれていく。その結果、日本は1945年ポツダム宣言を受諾、日本は敗戦し、同時に日中戦争も終結した。

1−2.中華人民共和国の成立

 戦争終結後の中国では、日本との戦いの中で解放区を拡大した共産党と、統一政権の確立を目指す国民党との間の主導権争いが頂点に達し、大戦後の平和ムードから一変、内戦が始まった。数、装備などで劣る共産党軍は開戦当初から劣勢で、1946年には国民党のみからなる国民大会で中華民国憲法が制定され、翌年には蒋介石が相総統に選出された。

 1947年3月には、共産党の中央機関が置かれていた延安が占領された。それに対し共産党軍は9月に農村から反抗を開始し形勢を逆転させ、1949年末までにチベット・台湾を除く地域が共産党側の支配下に入った。

 1949年9月、北京で中国人民政治協商会議が開催され、臨時憲法が制定されて、毛沢東が主席、周恩来が総理の地位についた。10月1日、天安門広場に30万人の民衆を集め、毛沢東は中華人民共和国の成立を宣言した。 また、1951年にはチベットが軍事征服されたことにより、同地方は中華人民共和国に組み込まれた。

 一方、敗北した蒋介石は台湾に脱出し、国民政府(中華民国政府)は、重慶、成都、広州を経て、同年12月に台北に落ち着いた。

1−3.日本との関係

 この頃の世界情勢は、米ソ対立いわゆる『冷戦』が激しさを増してきていた。中華人民共和国が成立してから毛沢東はアメリカと日本の脅威に対抗するため、ソ連を後ろ盾にした安全保障の確保を望んだ。1950年中ソ友好相互援助条約が結ばれ、1953年以降中国はソ連式の経済建設が試みられていく。ソ連が中国との結びつきを強めていくことを懸念したアメリカは、朝鮮戦争もあいまって、対日講和条約を急いだ。日本が台湾との関係を結ぶことによりソ連を牽制しようと考え、日本もその意向に従い、1952年サンフランシスコ平和条約と同じ日に日華平和条約が結ばれた。これにより、日本は台湾国民政府が大陸を含む全中国を代表するという構図を事実上、受け入れたことになった。

しかし、この条約はその後約20年間にわたり日中関係を拘束するものとなり、国交を正常化する上での大きな問題となった。中華民国を中国唯一の合法政府と認め、『二つの中国』という不正常な関係が続くことになったが、これは平和と友好を求める日本国民の本意ではなかった。」[2]

 

.民間交流の時代

2−1.民間交流の開始

 「1952年、第1次日中民間貿易協定が結ばれた。これによって民間レベルではあるが人的・経済的な交流が開始された。これは、日本人民の中国人民に対する感情がいかなる政治力でもってしても左右できるものではないことを説明している。

 その後も第2次第3次と協定が結ばれることになる。1958年には第4次日中民間貿易協定が結ばれた。民間の交流はたえず拡大、前進し、友好往来の発展は日中国交正常化への国民運動の発展へとつながっていく。

2−2.交流の中断

交流は前進、拡大していったが、それは条約関係上国交関係を持つ台湾国民政府から激しい反発を呼び起こす結果となった。日本が台湾の要求を受け入れたために中国は対外強硬政策のもとで態度を硬化させ、一時的に日中貿易が中断する事態へと進展していってしまう。

そしてちょうどその時期、日本では1957年岸信介内閣が成立したことによって、同じく日中関係は危機を迎えることになった。岸信介は反ソ反共・親米派であり、日本をアジアにおける反ソ反共の防波堤にしたいという米国の期待を一身に担って行動した。一例をあげると、台湾・アメリカ・インド訪問の際の『中共非難』や『長崎国旗事件』などである。

陳毅副総理は『岸内閣の中国敵視はもはや我慢できない。この結果についての責任は全て日本政府にある。』と宣言し、この声明が合図となって、貿易関係機関は一斉に日本側との契約を破棄し、ここ数年来民間方式によって積み重ねられてきた諸交流は基本的に中断される事態となった。

2−3.交流の再開

 しかし、石橋湛山、松村謙三らの人々の努力によって日中関係は次第に回復し、2年後には交流が再開した。友好商社は増加し、1962年には松村謙三と周恩来首相の会談が行われ、これをうけてLT貿易(寥承志のLと高碕達之助のTをとった半官半民の貿易協定。二人が関ったことからそう呼ばれる。)が発足されることとなった。

 これに対してアメリカは、『中国は膨張主義好戦的共産主義権力である』と罵り、『これを封じ込めるための日米の合作が必要である』と日本側の協力を求め、LT貿易などもってのほかであると内政干渉してきた。しかし池田内閣は『倉敷』ビニロンプラント輸出に輸出入銀行の資金を使い、中国が日本から輸入する最初のプラントとなることを正式に諒承し、アメリカの干渉に打ち勝ってLT貿易は順調に発足し、また1964年には中国の対資本主義国貿易の中で日中貿易が第1位を占めるまでに至った。

 『日中国交正常化せよ』という声は日増しに高まるばかりであった。」[3]

 

3.対立の時代

3−1.日中関係の危機

 「しかし、1964年佐藤栄作内閣が成立すると事態は一変した。佐藤栄作は岸信介の実の弟で、兄と同じく、大の反ソ反共のやり手だった。佐藤首相は1965年にアメリカを訪問し、米大統領ジョンソンと会談の際、日本が台湾の中華民国を支持することを求められると、佐藤首相は即座にこれに応じ、台湾と正規の外交関係を保持し、『中共に対しては政経分離の政策をとる』ことを明言した。さらに同年2月には、LT貿易への輸出入銀行融資による延べ払いの道を閉ざしてしまった。『LT貿易などつぶしても構わぬ』と佐藤首相は公言してはばからず、中国敵視政策を明確にした。1967年に入ると、佐藤首相の中国敵視の言動はさらにエスカレートしていった。9月に佐藤首相は岸信介に倣って台湾を訪問した。そして、このことはさらに日中関係を悪化させた。1969年ニクソン米大統領と佐藤首相との日米共同声明が『沖縄返還』をうたいあげた反面には、日本がアメリカから背負い込まれた思い荷物が隠されていた。それは、70年代において、日本がアメリカのもとで、米帝国主義の忠実な助手として、そのアジア支配の軍事的・経済的肩代わりを義務付けるものだった。

3−2.中国国内の様相

 この頃の中国は、毛沢東の指導の下で1958年『大躍進』という急進的な総路線を打ち出した。しかし、農村の人民公社化、土法高炉に代表される農村工業の建設、作物の深耕密植などの経済的合理性を無視した、精神主義的な経済政策は、時同じくして起こった異常気象ともあいまって、完全に失敗した。2000万人もの餓死者を出して、大躍進運動は悲惨な結末で幕を閉じることとなったのである。毛沢東の革命路線は、平和共存を求めるソ連との食い違いを広げ、両国は次第に対立するようになっていった。1959年に劉少奇が国家主席に就任し、1965年まで現実路線に戻り、経済調整政策が行われたが、それも長くは続かなかった。大躍進の失敗で労働者や農民の支持を失った毛沢東が、最後の拠所にしたのが、社会主義教育の下で育ってきた青年達であった。建国後に積もり積もった社会矛盾、ベトナム戦争、中ソ対立などの困難が山積するなかで、『資本主義の道を歩む党内の実権派(走資派)を打倒せねばならない』として、『紅衛兵』と名づけた青年を動員する大衆運動を組織し、既存の諸システム、党組織を破壊し、自分を最高指導者として位置付け、中国を統率する体勢を作り上げた。これを、『文化大革命』という。

 その間に劉少奇、ケ小平など『走資派』は失脚し、また1971年には毛沢東の盟友の林彪が武装クーデターに失敗して死亡する事件(林彪事件)も起こった。

 林彪事件後、周恩来は秩序の回復と経済の回復に努め、その過程でケ小平ら旧幹部が復活した。そして、毛沢東の権威を背景に権力を握った『四人組』(王洪文・張春橋・江青・挑文元)の勢力と周恩来・ケ小平ら走資派との対立が激しくなっていった。

3−3.水面下の動き

 佐藤内閣が『沖縄返還』を機に軍備拡張、アジアにおけるアメリカの肩代わりと中国敵視政策でアメリカに取り入れられようと懸命だった頃、アメリカは密に中国との接近を進めていた。1968年、大統領に当選したニクソンは大統領補佐官に任命したキッシンジャーと図ってベトナム戦争の泥沼から抜け出す道を探し求めていた。アメリカは、予想外に長期化しているベトナムでの戦争につまづいていて、他の世界・地域でのアメリカの影響力が小さくなることを懸念していた。アメリカは中ソ対立を利用して米中接近を図り、ベトナム戦争の解決に有利な条件を作りたいと考えていたのである。1971年4月中国はピンポン外交を展開し、アメリカの卓球チームの訪中を歓迎した。これが米中接近のきっかけとなり、7月にはニクソン大統領の意を受けてキッシンジャー補佐官が極秘訪中した。同年11月には中華人民共和国は国連に復帰した。代わって、台湾国民政府は脱退する。中国が国連の合法的地位を回復したことは、中国の平和共存の外交背策がますます多くの国々の支持を得ていることを示すものだった。」[4]

 

10.急転直下

 「1972年2月、ニクソン大統領は中国を訪問し、共同声明を発表した。

 ニクソン訪中と共同声明の発表は日本政府に大きな衝撃を与えた。佐藤首相らが忠実にアメリカに追随して中国敵視政策をとってきたにもかかわらず、米政府が日本政府を親しいパートナーと見なさず、“頭越し外交”によって、日本と事前協議することなく突然中米関係改善の行動をとったことは日本にとっては大きなショックだった。

 アメリカにべったり追随していても、日中国交正常化にはなんの利益もなく、かえって自分自身が孤立してしまうと認識したのであった。一刻も早い国交正常化に向けて努力することを日本は強く決心し、事態は急速に進展していく。[5]

 

11.日中国交正常化

 「そうした世界情勢の波にのるかのように、同年、日中友好を強く主張する田中角栄内閣が成立した。田中角栄は、同年9月大平外相とともに北京を訪れ周恩来首相らと会談し、9月29日、共同声明を発表した。戦争状態の終結を宣言し、日中国交正常化がこの時現実のものとなったのである。

共同声明では、『日中双方が平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した』とあり、共同声明の精神に基づき、両国は締結に向けた交渉へと進んでいった。」[6]

 

3節 日中平和友好条約

1.日中国交正常化から現代まで

1−1.『反覇権』をめぐって

 「条約の交渉は1974年に開始されていたが、『反覇権』条項をめぐって長引いた。中国は米ソ両大国の覇権主義を強く非難していたが、米中接近により、この覇権主義批判は実質的にはもっぱらソ連に向けられるようになっていた。中国は日本との国交を反ソ活動の一環として位置づけ、条約に覇権主義条項を入れるように強硬に主張、日本は反覇権が反ソを意味することが明らかである以上、同意はできないという立場を当初はとっていた。

 1976年、中国の政局は大きく動いた。この年、周恩来、毛沢東といった人物が相次いで世を去り、文化大革命を推進した『四人組』が逮捕され、華国鋒政権が成立し、ケ小平が復活した。

 日中平和友好条約はアメリカの中国政策にも合致するものであり、日本の財界も中国との関係の深化を期待した。四つの現代化の道を模索する中国も日本との経済関係の緊密化を期待していた。このような双方の一致した要求により、『反覇権』問題でも妥協が成立し、1978年8月12日、『反覇権』条項が書き込まれた平和友好条約が調印された。

東アジアにおける冷戦の基本構造であった日米―中ソという対抗関係において、中ソ間は1960年頃から対立が表面化していたが、ここにいたって米中日―ソという基本的対抗関係に決定的に転換した。そして、翌79年1月1日、米中は国交を樹立した。

 また、平和友好条約批准書交換のため78年10月に来日したケ小平は、日米安保条約及び日本の自衛隊増強に理解を示し、昭和天皇と会見した。日本における天皇の役割を見据えた上での政治的リアリズムに基づく国益外交であった。

1−2.日中平和友好条約

日中平和友好条約は5条からなり、日中両国は、平和5原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を発展させること、また、国連憲章の原則に基づき、紛争を平和的手段により解決し、武力または武力による威嚇に訴えないこと、両国はアジア・太平洋地域においても、または他のいずれの地域においても覇権を求めるべきでなく、また、このような覇権を確立しようとする他の国の試みにも反対すること、両国は善隣友好の精神に基づき、両国間の経済的関係及び文化的関係の一層の発展と両国民の交流の促進に努力することなどを約した。

 

日中平和友好条約(一部抜粋)

第1条
1.両締約国は,主権及び領土保全の相互尊重,相互不可侵,内政に対する相互不干渉,平等及び互恵並びに平和共存の緒原則の基礎の上に,両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする。
2.両締約国は,前記の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき,相互の関係において,すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
第2条
 両締約国は,そのいずれも,アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく,また,このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する。
第3条
 両締約国は,善隣友好の精神に基づき,かつ,平等及び互恵並びに内政に対する相互不干渉の原則に従い,両国間の経済関係及び文化関係の一層の発展並びに両国民の交流の促進のために努力する。
第4条
 この条約は,第三国との関係に関する各締約国との立場に影響を及ぼすものではない。
第5条
1.この条約は,批准されるものとし,東京で行われる批准書の交換の日に効力を生ずる。この条約は,10年間効力を有するものとし,その後は,2の規定に定めるところによって終了するまで効力を存続する。
2.いずれの一方の締約国も,1年前に他方の締約国に対して文書による予告を与えることにより,最初の10年の期間の満了の際又はその後いつでもこの条約を終了させることができる。

1−3.現代

 日中間の交流は、めまぐるしいほどの経済発展にも関らず、政治面では摩擦が絶えない状況になっている。

1998年、江沢民は日本政府の招きに応じて中国の元首としてはじめて日本を公式訪問した。この時江沢民は中国国内の世論を意識して歴史問題で日本の反省を迫り、圧力をかけた。これに対し日本国内では、中国はまだ歴史問題を外交カードに使うのかという超えが高まり、中国への政府開発援助(ODA)の見直し論が高まった。

 そして2002年、日中国交正常化から30年という節目の年であった今年も摩擦の絶えない年であった。日中両国各地で様々な記念行事が行われたが、歴史教科書問題、小泉首相の2年連続となる靖国神社参拝などが問題となり、更なる日中友好を推し進めるせっかくの機会であったが、人と人との交流は若干冷めたものとなってしまった。」[7]

 

将来展望と感想

 戦後、日本は類まれなスピードで経済発展をとげ、アジア地域のリーダーとなった。しかし、その構図はもはや変わってしまおうとしている。中国の経済発展は日本のそれを近い将来上回る、というような話は最近どんな方面からでも聞くことができる。日本と中国は隣同士であり、数千年の昔から幾度となくか関わりをもってきた。しかし、残念なことにここ数十年の両国の歴史は両国関係史上もっとも暗い数十年間だったに違いないと思う。自分がここで取り上げたのはその数十年間。正直、書くことがつらかったがそれでも一日本国民として、知っておかねばならない負の事実、これと向き合うことができたのでそれだけでも十分よかったと思う。1972年9月29日、暗いままであった両国間の関係に明かりが見え始めた。その明かりを頼りに、日中両国は再び友好の道を模索しつづけてきた。今日、両国間の関係はいたって友好的ではあるが、その影には様々な問題が潜んでいる。過去に起きてしまった事実は消すことができない。ただ、それに正面から向き合っていくことができなければこの先日中間に真の友好は訪れないだろうと思う。

 

年表

1937年

慮構橋事件 日中全面戦争始まる

1945年

終戦 日本は敗戦国に

1949年

中華人民共和国成立 国民政府は台湾へ

1950年

朝鮮戦争勃発

1952年

日華平和条約締結

1958年

長崎国旗事件 日中貿易全面中断

1962年

LT貿易発足

1971年

林彪事件勃発 

 

キッシンジャー極秘訪中

 

中華人民共和国国連復帰 台湾脱退

1972年

ニクソン大統領訪中

 

日中共同声明 日中国交正常化

1976年

周恩来死去 

 

天安門事件

 

毛沢東死去

 

四人組逮捕 華国鋒政権 ケ小平復活

1978年

日中平和友好条約締結

1979年

米中国交樹立

1998年

江沢民訪日

2002年

日中国交正常化30周年 

 

 

 

 

参考文献

・宮崎正勝著 『早分かり東洋史』 日本実業出版社 1999年

・池田誠編著 『世界の中の日中関係』 法律文化社 1996年

・姫田光義編著 『中国20世紀史』 東京大学出版会 1993年

・家近亮子著 『中国近現代政治史年表』 晃洋書房 2002年

・『李春利ゼミH.P.』

http://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/ronsyu3/kyugaku.htm

・『冷戦の解消と国際関係の悪化』

http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/genndai/84-beityu.html

・『日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明』

http://list.room.ne.jp/lawtext/1972japan-china.html

・『日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約』

http://list.room.ne.jp/lawtext/1978t019.html

 

 

 

 

00E 2236 川口裕史


 
まず、李春利先生のゼミの内容紹介を読みいくつかの興味がわきました。それらの興味をまとめて思ったのは、このゼミはやる気のある人達の集まりで、全員が協力し合って研究に込んでいく、ゼミの運営自体も学生主導でとても活気にあふれているというような事でした。ゼミ論集を発行したり、ホームページを持っていたり、他のゼミと比べても、とてもやりがいがありそうです。
 また、僕は歴史上の観点から見て、日本と中国や世界と中国の関わり合いにも関心をもっています。そのような自分の興味のあることを研究し、後々の自分の進む道にも生かすことができたら、という思いも志望理由の一つです。僕は地域経済コースで中国についての知識も特に多くは持っておらず、李春利先生の講義も受けたことはありませんが、このゼミなら専門コース、予備知識の無さの壁も「やる気」で乗り越えられることができると思い志望しました。
 僕の趣味は旅行をすることです。日本以外は行ったことがありませんが、日本国内なら他の誰にも負けないくらい色々な所へ行ったことがあります。とりわけ一人旅が好きで、一人なら事前に計画を立てなくても、その日その日でどこへ行くのか、何を見るのか全て自分自身で決めることができるのです。
 しかし、自由に何かをするという権利には義務も生じます。与えられた自由な時間、それをどのようにして使うのか、それは各人の考えによって様々だと思います。僕は、自分の自由な時間は目いっぱい旅行に費やしてきました。ある程度は計画も立てますが、その日の気分で行き先を変える事などしょっちゅうでした。僕の旅のスタイルは、自転車にたくさんの荷物を積んで長時間走る。といったものです。高校生のころからそういった旅をしています。大学一年生の夏には東北、関東甲信越の全ての都県を一ヶ月かけて回りました。春には近畿、中国、四国地方を、そして今年の夏には、九州は鹿児島の最南端から北海道の宗谷岬まで全て自転車で走って回り日本縦断を完成させました。そしてそれらの旅のほとんどは一人旅でした。毎日自分でどこまで行くのかを決め、その日の目的地に到着したら適当な場所にテントをはり、自分で食事を作り、時には温泉に入り、日が沈めば寝袋にもぐりこみ一日の疲れを癒し、また日が昇れば自然と目を覚まし、次の目的地まで走り続けるそんな日々単調な旅だったが、その旅から得たものは驚くほど多く、旅先で出会った人達の親切、同じように旅をしている人達との交流、風光明媚な自然、何一つ忘れることはないでしょう。目を背けたくなる現実もありますが、自分が見たり聞いたり感じたりした事が自分を成長させてくれた糧になっていると思います。

 



[1] 日中共同声明・復興三原則は

(http://list.room.ne.jp/lawtext/1972Japan-China.html)から引用。

[2] 「終戦からサンフランシスコ講和条約まで」は

(宮崎正勝著、『早分かり東洋史』第九章、P288P294、日本実業出版社)

(日本と中国http://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/ronsyu3/kyugaku.htm)を参考にした。

[3] 「民間交流の時代」については

(日本と中国http://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/ronsyu3/kyugaku.htm)

(池田誠編、『世界の中の日中関係』、法律文化社、1996)

を参考にした。

[4] 「対立の時代」については

(池田誠編、『世界の中の日中関係』、第九章、P180P184、法律文化社、1996)

(冷戦の解消と国際関係の悪化http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/genndai/84-beityu.html)

(日本と中国http://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/ronsyu3/kyugaku.htm)

(宮崎正勝著、『早分かり東洋史』第九章、P294P307、日本実業出版社、1999)

を参考にした。

[5] 「急転直下」については

(日本と中国http://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/ronsyu3/kyugaku.htm)

を参考にした。

[6] 「日中国交正常化」については

(冷戦の解消と国際関係の悪化http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/genndai/84-beityu.html)

(日本と中国http://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/ronsyu3/kyugaku.htm)

を参考にした。

[7] 「日中平和友好条約」については

(池田誠編、『世界の中の日中関係』、第九章、P201P205、法律文化社、1996)

(宮崎正勝著、『早分かり東洋史』第九章、P306P307、日本実業出版社、1999)

(日本と中国http://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/ronsyu3/kyugaku.htm)

(冷戦の解消と国際関係の悪化http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/genndai/84-beityu.html)

を参考にした。

日中平和友好条約の本文については

(日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約

http://list.room.ne.jp/lawtext/1978t019.html)

を引用。