インドシナ                            

『中国と東南アジア諸国』                         

                                        

  沈 旭

1.はじめに

 

東南アジアは、ひとつの未完成な「地域」である。あらゆる「地域」が、それをそうと認識するものの政治的な権力的思考の所産賭して区画されがちだが、東南アジア地域もその例外ではない。特に、第二次世界大戦後、相次いで主権独立を遂げる国が現れる。1946年7月、米領植民地から独立を遂げて主権国家になったフィリピン共和国を魁として、ビルマ連邦(1949年1月)、インドネシア連邦共和国(1949年12月)などに独立完了する。アジア地域における「冷戦」の主要な舞台の一つとなったことから、この「東南アジア」という概念は、単に地理学的区分であるにとどまらず、関係各国による外交政策の組み立てに際しての重要なライトモチープになり、「東南アジア政策」という発想は一般化することになった。

2.第一次ベトナム戦争

 第二次世界大戦末期の1945年3月、インドシナにおけるフランスの植民地支配機構は、日本軍のクーデターによっていったん解体された。そして45年8月、日本の敗戦とともにべトミン勢力が総蜂起を開始し、共産主義者ホーチミンに率いられたベトミン(ベトナム独立同盟会)が、ベトナム独立を宣言した。ラオスでも民族主義者の王族ペサラート首相の政府が独立を宣言、カンボジアでもシアヌーク国王が独立を宣言した。しかし、この3ヵ国の独立は旧宗主国フランスの承認を得られず、フランスは各国で独立派の武力鎮圧に乗り出した。1945年9月下旬、フランスは最初に軍を進駐させた南ベトナムで共産勢力を攻撃、次いで10月中旬にはカンボジアに入り、独立派のソン・ゴク・タン政権を打倒、シアヌーク国王にフランスヘの忠誠を誓わせた。

 1949年3月、フランスは親仏派のベトナム政権強化のために「独立ベトナム中央政府」元首に前アンナン皇帝バオダイを引き出すことに成功し、6月14日、ベトナム中央政府に仏連合内での独立を認めた。しかし、親仏政権の独立はベトミンの反発を強めただけであった。1950年5月19日、ベトミン指導者ホーチミンは、対フランス総反攻の開始を宣言、対仏軍攻勢を強めた。朝鮮戦争の開始は、西側勢力の力を分散させるという意味でも、共産勢力にとってインドシナ戦争の重要性を高めた。雨期が明けた1950年9月以降、ベトミンの攻勢は北部ベトナムの中国国境方面で激化した。中国軍からの迫撃砲などの武器援助が初めてベトミンの手元に届いたこともあって、ベトミンの攻撃力は強化されていた。10月18日、北ベトナムの中国国境の拠点ランソンがベトミンの手に落ち、1950年中には、北ベトナムの北部一帯がベトミンの支配下に入った。1951年3月3日、ベトナムの共産勢力は「革命代表者会議」を開き、インドシナ共産党の名称をベトナム労働党と改めることを決定した。なお1951年3月上旬、ベトミンと、自由クメール、パテト・ラオはインドシナ民族統一戦線を結成、対仏統一反攻への姿勢を固めている。

1953年4月から5月にかけて、ベトミンはラオスに進入、ジャール高原やルアンプラバン方面など各地で仏軍を包囲、大打撃を与えた。スファヌボン殿下率いる自由ラオ(パテト・ラオ)のゲリラたちがベトナム軍の案内役となった。仏軍は北西ベトナムとラオスを結ぶ地域で攻勢に出て、1953年11月20日、ベトナム・ラオス国境から10マイルの、低い山々に囲まれた盆地にある少数民族タイ族の村、デイエン・ビエン・フーを占領した。仏軍はこの村をラオス防衝の拠点と位置づけたのである。1953年7月7日、朝鮮戦争で休戦協定が結ばれた。朝鮮休戦は、中国が余剰となった兵器を大量にベトナムの同志たちに提供するという結果をもたらすことになった。その兵器の大部分は、デイエン・ビエン・フーに立てこもった仏軍への攻撃に使われることになったのである。1954年1月下旬には、大砲など重火器を持ったベトミン4個師団約4万人が、盆地のなかの仏軍を完全に包囲した。仏軍は追加投入された降下部隊6個大隊を含め12個大隊、約一万数千人であった。そして第一次インドシナ戦争の決着をつけた攻防戦は、1954年3月13日夜から始まり、5月7日、仏軍約一万人の投降により終わった。〔注1〕

フランスとの戦いには、中国はベトナムに軍事顧問団を秘密裏に派遣し、顧問団のリーダーを務めたには、中国軍きって猛将の陳庚大将とベトナムと国境を接する広西チワン出身の偉国清上将であった。

3.ジュネーブ会議

ベトナムにおけるフランス軍の苦戦は、フランス世論と政界にインドシナ戦争の話し合い解決を求める声を高めることになった。一方ソ連、中国を中心とする共産主義諸国も、1953年7月の朝鮮戦争休戦実現にみられるように、アメリカに率いられた西側諸国との軍事対決に決着をつける方向に向かっていた。1953年3月5日のスターリンの死でソ連指導者たちが内向きになったことが大きな要因であった。中国も社会主義国家として、早期に経済建設に全力を挙げることを望んでいた。

 このような状況のなかで、1954年1月から2月にかけて、ベルリンで米英仏とソ連による4カ国外相会議が開催され、4月26日から朝鮮問題とインドシナ問題の解決をめざすジュネーブ会議が、4大国と中国、および関係諸国を集めて開かれることが決定された。インドシナ問題に関する3加国は、英ソ両国を議長国とし、米、仏、中国、およびベトナム民主共和国(ベトミン)、ベトナム国(バオダイ政権)、カンボジア王国、ラオス王国の9カ国であった。

 ジュネーブでの会談は1954年4月26日から6月15日まで、まず朝鮮閉鎖の恒久的解決策をめぐって行われたが、なんらの成果も生まなかった。インドシナに関する交渉はこの間5月8日から始まっていたが、この会談開始の前日には、デイエン・ビエン・フーでフランス軍が降伏、フランスは戦争の政治解決をますます強く迫られていた。

 しかし会談では当初、共産党がカンボジアの親ベトミン政権自由クメール(クメール・イッサラ)とラオスのパテト・ラオの会談参加を要求、アメリカとカンボジア王国政府がこれに猛反対して、早々と行き詰まった。この行き詰まりは、中国代表周恩来首相と米国代表ダレスが、ベトミンとアメリカがラオス、カンボジアに軍事基地を置かないという条件の下で、ラオス、カンボジアの親仏政権を国際的に承認するとし、妥協案を出し、解決に向かった。結局ラオスとカンボジアに関するジュネーブ協定は、@ベトミン軍のカンボジアからの90日内撤兵、ラオスからの120日内撤兵、A1955年中に両国で総選挙、Bラオスではパテト・ラオに北部のサムネワとフォンサリ両州を軍の集結地として認める、というものとなった。カンボジアの由由クメールは国内での拠点を認められず、約5000人と准定された党員と兵士のうち、約1000人は北ベトナムに移動し、残りは合法政党「人民党」に結集、国内でシアヌーク政権との政治闘争を継続することになった。ベトナムについて協定は、@親仏政権とベトミンとの停戦、A国土を北緯17度線で分割、北側を共産政権、南を親仏政権が支配すること、B住民の南北両地域への自由移動の許可、C1956年7月に南北統一のための選挙を実施すること、などを取り決めた。しかしこの最後の統一選挙に関する部分は、アメリカとベトナム親仏政権が署名を拒否、実効のないものとなつた。このようにして、インドシナに和平をもたらすジェネーブ協定は、1954年7月21日に調印された。〔注2〕

4.アジア・アフリカ会議(バンドン会議)

1953年7月27日の朝鮮休戦協定調印、そして1954年7月21日のジュネーブ協定調印は、第二次大戦以来、初めて世界での大規模な戦争を終わらせたという意味で、和平ムードを高めることになった。1954年4月28日、セイロンの首都(現在インドネシア)コロンボでセイロン、インドネシア、ビルマ、インド、パキスタンの5カ国首脳が、ちょうどジュネーブ会議に合わせるように首脳会談を開き、インドシナ休戦、中国の国連加盟を訴えるとともに、アジア・アフリカ諸国による国際会議の開催を呼びかけることで一致した。

 このコロンボ会議は、当然中国にとって大いに歓迎すべきものであった。中国の周恩来首相は早速1954年6月25日、インドを訪問し、ネルー首相と会談、今後の外交の基調としての、いわゆる「平和5原則」に合意した。この5原則は、@領土主権の尊重、A相互不可侵、B内政不干渉、C平等互恵、D平和共存、であった。 こうした中立主義の高まりのなかで、1954年5月に、ビルマとインドネシアが、アメリカの呼びかけを拒否して東南アジア条約機構(SEATO)に参加しなかったのは、当然の成り行きともいえた。

もちろんこうしたアジアでの中立主義の高まりは、ソ連においても歓迎すべきものであり、西側諸国との対決緩和に向けて、ソ連も独自の努力を強めていた。西ドイツや日本への接近、また発展途上国指導者への招待外交などである。このような背景のなかで、1955年4月18日、インドネシアのバンドンで、歴史的な国際会議が開かれるのである。

1954年4月28日のコロンボでのセイロン、インドネシア、ビルマ、インド、パキスタン5カ国首脳会議で一致したアジア・アフリカ諸国会議の開催地がインドネシアに決定したことはこの会議を提唱したのが、インドネシアのアリ・サストロアミジョヨ首相であったためといえる。

 さてこのインドネシア提案のアジア・アフリカ会議を具体化させるために、1954年12月末、再びコロンボに前記5カ国首脳が集まり、1955年4月末に第一回アジア・アフリカ会議をインドネシアで開くことが決定された。

1955年4月18日、インドネシア独立闘争を指導した国民党創設の地である。ジャワ島西部の町バンドンで開催されたアジア・アフリカ会議には、中国の周恩来首相、インドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、ビルマのウーヌー首相らアジア新興諸国の著名な指導者に、エジプト大統領らアフリカ諸国の代表も加え、29カ国が参加した。長年にわたり欧米植民地主義の支配に苦しんだ多くのアジア・アフリカ諸国が、新たな建国の意気に燃えて参集した大会議であった。

 会議は4月24日まで、植民地解放と世界平和のための協力などを中心に討議を続けた。参加国は、時には集団安全保障条約への加入をめぐって、それに反対するインド、ビルマ、インドネシア、中国などと、賛成派のパキスタン、タイ、フィリピンなどが激しく対立する事能収もみられたものの、最終的には先の中国・インド間の平和5原則を基礎に妥協が図られ、バンドン会議10原則がまとまることになつた。

 このバンドン10原則は次のようなものである。@基本的人権および国連憲章の尊重、A国家主権と領土保全の尊重、B人種の平等と国家の平等の承認、C内政不干渉、D国連憲章に基づく個別的、集団的自衛権の承認、E大国の特殊な利益のための集団的防衛協定と他国に対する圧力行使の防止、F侵略行為、脅威その他の実力行使の抑制、G国際紛争の平和的手段による解決、H相互の利益と協力の促進、およびI正義と国際義務の尊重である。

 バンドン会議は参加したアジア・アフリカ諸国間の団結を強め、米ソに対抗する第3のブロックの登場を世界政治に印象づけた。この会議で生まれた、いわゆるバンドン精神は、その後米ソの冷戦の論理に対抗する平和の論理として、多くの国々の外交的武器となった。いずれにせよ、バンドン会議の成功は、第二次大戦後独立した多くの国々や中国、エジプトのように新たな政治体制を発足させた国々にとって、その意気を世界に示す絶好の舞台となったのである。こうした新興諸国は、バンドン会議後、改めて自国の政治的安定化と経済建設に全力を投入することになった。

 周恩来は、中国によるチベット問題の平和的な解決、朝鮮半島への中国人「志願軍」派遣、インドシナにおけるベトミンヘの支援などの事実が示す共産主義の膨張主義に対して、不安を抱く東南アジア諸国を安堵させようと特に努力した。これらの不安は、大きな影響力をもつ華人社会が存在したり、共産主義ゲリラ組織が残存する地域の国々でとくに強かった。第一の点、すなわち華人社会に関する中華人民共和国の保証は、会議中の4月22日、バンドンの現地での中国・インドネシア条約の調印によって明らかにされた。この条約によって、中国とインドネシアの二つの国籍をもつインドネシアの中国人たちは、条約発効後二年のうちに、そのいずれかの国籍を選択することを要請された。その上、中華人民共和国はその同胞に対してインドネシアの「法律および社会習慣を尊重すること」、また「この国の政治活動に参加しないこと」を求めた。すなわち、この条約によって、中国政府は中国人の父をもつ者は皆自動的に中国国籍をもつものと見なされる、昔からの「血統主義」という中国の民族主義的しきたりを放棄したのである。既成事実によって、中華人民共和国はインドネシア人であることを表明した中国人に対するすべての権利を放棄し、インドネシアは、しばしば二重国籍を楯にとる人々を管理する法的手段を得たのである。大きな影響力をもつ華人社会が存在する東南アジア諸国にとって、このように人民中国が「居住地主義」に応じたことは、その平和的目的の顕著な表明であった。少なくともこうして周恩来は、この条約を提示することによって、タイやフィリピンに同種の協約のための交渉を提案したのである。

 第二の点、すなわち、転覆活動についても周恩来は保証しょうと努めた。したがって、中国首相は、南中国にタイ族の自治区を作ることによって、北京はタイに対する転覆の意図をまったくもっていないことをタイの外相ワン・ワイタヤコン皇子に言明した。同じく、中国への難民となった元首相ブリデイ・パノムヨンは、中国南部のタイ国境付近ではなく、北京に住んでいたが、そこではバンコクを脅かすような政治的行動は一切とっていなかった。また、インドシナについてのジュネーブ協定の尊重に関して、一方でラオスとカンボジア、他方で北ベトナムと中国との間の会談が準備されたのはネルーの排斥カによるものであったが、ビエンチャンの政府とパテト・ラオとの間で未解決であった諸懸案がベトナム民主共和国を除いたこの両者間で解決されるべきことをファン・バン・ドンが公式に承諾するには、周恩来の尽カがあったのは明白である。一年以上前にジュネーブ会議で中国が穏健な態度を示したあとだったので、そのことは中国にとっても、東南アジア諸国を安堵させるための行動にほかならなかった。周恩来の態度によって、こうして生み出された印象は、中国にとって好ましいものであったために、全体として、バンドン会議は、ニューデリー政府よりも北京政府にもたらすものが多かったと考えることができよう。なるほどネルーは「平和共存」の5原則を基礎に中国との相互理解が可能であることを表明するにまで至ったが、それによってまた、中華人民共和国の国際舞台への登場を有利なものにもしたのである。この意味でバンドン会議は、インド外交の演点を示したと同時に中国の活発な外交の出発点をも画したのである。つまり、その後の5年間、今度は中国が多くの成功を収めるようになるのであった。〔注3〕

5.インドネシア

1956年2月、インドネシアがオランダとのヘーグ協定を廃棄、オランダ人がインドネシアに持っていた経済的特権を放棄させたことは、オランダ人たちを大きな不安に陥し入れた。一方、軍合理化問題をめぐって1955年7月にアリ・サストロアミジョヨ内閣が総辞職した後、後継のハラハップ内閣の下で、陸軍3謀長にナスチオンが復帰、軍合理化を堆進した。1956年12月20日、中部スマトラの中心都市バグンで、ナスチオンの軍リストラに反発する地方駐屯軍が反乱、地方行政機関を占拠、その地域を支配した。二日後の12月22日には、北スマトラに駐屯する第一軍区司令官シンポロン大佐が反乱、北スマトラの行政権を掌握した。さらに1957年1月15日、反乱は南スマトラに波及、石油の町バレンバン駐屯の陸軍第二軍区司令官バルリアン中佐が反乱、地方政権を樹立、地方財政収入の中央への納入を拒否した。スカルノ大統領は全国に非常事態を布告した。

1958年2月以降、反乱軍と政府軍の武力対決が公然と続くなかで、インドネシアの民族主義はさらに燃え上がっていく。そしてこの民族主義の標的にはオランダ人のみならず、インドネシアの流通経済を支配する華人も含まれることになった。そして1958年10月16日、政府は当時友好的であった対中関係に配慮して、まず国民党系華人の営業禁止を打ち出している。事態をさらに深刻にしたのは、1959年5月14日、政府が59年末までに外国人の地方都市や農村部での小売業営業を禁止すると発表したことであった。これは、インドネシアの国内流通の多くが中国籍を捨てない華人商人によって動かされている状況のなかでは、国内経済の大混乱を意味した。1959年12月12日には、外国人小売り資産接収令が公布され、1960年1月1日から施行された。オランダ人に続いて、多くの華人がインドネシアから追われることになった。こうしたインドネシアの経済的民族主義の最大の結果は、生産低下と流通混乱のなかで、急速に上昇するインフレであった。たとえばインドネシアの消費者物価指数は、1953年を100として、1955年は141、1957年は150、1958年241、1959年381と、急激に上昇している。スカルノ政府軍がソ連圏からの近代的兵器支援を受けて強化されていたこともあって、政府軍の反乱軍に対する優位を急速に強めることになった。 優位を確立したスカルノ大統領は、1961年8月17日の独立記念演説で、10月5日までの反乱投降者に恩赦を与えると述べ、いっそうの投降を反乱兵士たちに呼びかけた。ハラハツプ元首相を含む反乱政権首脳のほとんどがこの呼びかけに応じて投降、いわゆる「スマトラ反乱」はスカルノ政権側の勝利に終わった。地方軍の反乱に同調して戦っていたイスラム原理派のダルル・イスラム軍も、1962年から63年にかけて、北スマトラのアチエ、南スラウエシ、西ジヤワなどで次々と政府軍に投降した。

 現代史の分水嶺となるこの事件は、1965年10月1日未明大統領親衛隊長ウントワン中佐の指揮する左派軍人の粛軍行動として始まった。彼らは自らの行動を「九月三〇日運動」と称し、「アメリカのCIA(アメリカ中央情報局)に指導される将軍評議会の反スカルノ・クーデターを抑える」という名目を掲げ、反共派の陸軍幹部六人を殺害し、中央放送局を占拠して「九月三〇日運動宣言」を発した。しかしこの「運動」は、スハルト将軍のひきいる陸軍部隊のすばやい対応によって同日夜までにほぼ鎮圧された。この事件の真相は依然謎に包まれたままである。共産党やスカルノがどの程度関与していたのか、外国の諜報機関が関与しているのか、反共の「将軍評議会」がしかけたものか、本来は陸軍内部の抗争だったのか等々。〔注4〕

1966年3月7日に開催された暫定国民協議会特別会議は、3月12日、スカルノ大統領の解任とスハルト将軍の大統領代行就任を決定した。かくして容共・中立のスカルノ時代は終わり、親西側路線のスハルト時代が正式に始まったのである。このスハルト政権の新路線を裏付けるように、中国、インドネシア両政府は1967年10月31日、北京、ジャカルタから相互に外交官を引き揚げ、事実上外交関係を断絶した。

1989年から92年にかけての時期、それはちょうどアメリカでブッシュ大統領が在任した期間に相当するが、世界、そしてアジアで米ソ冷戦体制が終結し、多くの冷戦の落とし子たちがその役割を終えていく期間となつた。1989年2月23日、インドネシアと中国が国交正常化に合意、9・30事件の傷あとの一つが消えた。両国の正式国交は1990年8月8日であった。

6.第二次ベトナム戦争 

さて1950年代後半の世界は、ハンガリー事件、スエズ危機、イラク・キューバ革命、中国をめぐる紛争、そしてタイ、ビルマ、ラオス、インドネシアなど東南アジア諸国での政状混乱などで大きく動揺し、1950年代半ばの米ソをはじめた平和共存ムードは、跡形もなく消え去ったようにみえた。米ソ両国は再び覇権の拡大を求めて争い。米ソ両国は核兵器とそれを運送する大陸間弾道ミサイルや原子力潜水艦などの開発に努め、互いに威嚇しあっていた。また混乱に陥った発展途上国に米ソ両国は競って介入、そうした国々を自国陣営に取り込むために軍事援助や経済援助をばらまいた。冷戦は完全に復活しようとしていた。

 1963年11月のゴ・ジン・ジエム打倒クーデター事件以降も、南ベトナムでの親米政権の苦境は続いた。将軍たちは権力争いを続け、南ベトナム解放民族戦線、すなわちベトコンの力は、農村から次第に都市部を包囲する形で拡大を続けていた。 1964年8月2日午後、パトロール中の北魚雷艇3隻は、「領海内」で米駆逐艦マドックス号を発見、攻撃した。この攻撃に対し、近くにいた米空母から艦載機4機が発進、北魚雷艇を攻撃し、大破させた。これが「第一次トンキン湾事件」である。

1964年8月4日、トンキン湾内でマドックス号と増援の駆逐艦ターナー・ジョイ号が、北魚雷艇4隻により攻撃された。米軍の反撃で北魚雷艇二隻が撃沈された。「第二次トンキン湾事件」である。ただ第二次トンキン湾事件は、米側が北ベトナム攻撃への理由を作るためのデッチ上げ説もあり、北ベトナムはこの事件の存在を否定している。 しかしジョンソン大統領は二つのトンキン湾事件を事実とし、北ベトナムへの報復攻撃を実行する。

1965年、ベトナムの内戦に米軍が本格的な軍事介入を開始、いわゆるベトナム戦争が始まる。1966年から1967年にかけて、在ベトナム米軍の苦戦は続いていた。投入された米軍は1966年末には38万5000人に達していた。米兵の戦死者も急増、1966年だけでも5000人余が戦死し、1961年1月から1966年末までの戦死者は6644人となった。北爆で撃墜される飛行機も増加し、1965、66年の二年間でベトナム全体での米航空機の損失は1700機を超え、ヘリコプターも600機以上が破壊され。米軍の揖害激増は、米軍の本格介入を受けて北ベトナム正規軍の南ベトナム戦場への出撃が増加、戦争がゲリラ戦から混戦へと変化してきたことも一因であった。また、ソ連が対空兵器や戦闘機など新鋭兵器を北ベトナムに援助、中国も対空防衛兵力を北ベトナムに派遣するなど、中ソのベトナム共産勢力支援が本格化したことも、米軍の被害を増加させた。

1966年末までに米軍に450機の揖失を出させた北爆作戦も、前述したように成果を生まなかった。1966年8月29日の米国防総省の報告書は、同年7月の時点で、北爆は南ベトナムヘのハノイの軍事支援能力になんらの影響も及ぼしていないと指摘している。理由は、北ベトナムは軍需品を生産せず、兵器類はソ連、中国から供給され、少量ずつ南へ輸送されていることにあったとされている。総合300億元に達した。

 さて、米軍のベトナムでの行き詰まりを全世界に証明してみせる出来事が、1968年1月末に発生する。1968年1月30日、南ベトナムの全共産軍は、53万人の米地上軍とアメリカを支援するため参戦していた韓国軍など同盟国軍、そして南ベトナム政府軍の基地に対して、全面的な攻撃をかけたのである。

 この南ベトナムの旧正月(テト) に合わせて、1月30日深夜から翌朝にかけ、約6万人の共産軍が首都サイゴンをはじめユエ、ダナンなど主要都市および全土の飛行場や米軍基地などを攻撃した。サイゴンでは米大使館が一時占拠され、大統領邸にもベトコン部隊が突入した。大攻勢は一週間に及び、同年2月6日の米軍発表では米兵546人が戦死、3800人が負傷、南ベトナム政府兵1169人が死亡した。 

 もちろん共産軍の損害も大きく、ベトコンのベテラン兵士や幹部の3分の1が戦死、南ベトナムの共産勢力はその後北ベトナム正規軍の支援にますます依存するようになった。しかしこのテト大攻勢は、もはや米軍はベトナムで軍事的に勝てないとの印象を多くの人々に与えるとともに、アメリカとその軍隊の威信を東南アジアのみならず、全世界的に傷つけることになった。

 南ベトナム内部では、将軍たちの権力闘争に勝ち抜き、1967年9月の大統領選挙にも勝利したグエン・バン・チユー大統領率いる親米政権が、その基盤を大きく弱体化させ、全土でベトコンの支配カが高まった。1975年4月30日に、ベトナム人民軍によってサイゴンが陥落され、第二次ベトナム戦争が終結に迎えた。

1979年2月17日に始まる中越戦争は、その二カ月前に強行されたベトナムのカンボジア侵攻に対する武力制裁(兵罰)として、中国側から火ぶたを切った。中国は17個師、22万5千の兵力をもってベトナム北部6省11県に侵入したが、ベトナム側の抵抗は激しく、わずか20~30キロ程度、南進しただけで、数万の死傷者を出し、3月15日には撤退した。

中越間には中越国境の領土問題、南沙群島をめぐる領海問題など、懸案が多く、その後も南沙群島沖などで散発的に小規模の海戦が起きた。

1986年12月、ベトナムの新指導者となつたグエン・バン・リン共産党書記長は、経済の抜本的改革を打ち出す。この政策がベトナム語で「刷新」を意味するドイモイ政策である。中ソ和解ムードのなかで、ドイモイ政策を実施したベトナムにとっても、経済建設に専念し、中国や西側との経済交流を発展させるうえで、カンボジア戦争の解決、対中和解は不可欠であった。ベトナムはカンボジアからのベトナム軍撤兵に踏み切り、1989年9月26日、カンボジアからの全ベトナム軍の撤兵を完了する。カンボジア和平協定調印後まもない1991年11月5日、ベトナム首脳が訪中、中国・ベトナム関係の正常化を宣言、インドシナ半島の戦乱がここに終結した。

〔注5〕

七.結論

1949年以後、中国の対外政策の展開は様々な様子であった。50年代積極的に様々な手段を通じて新しい中国が国際に地位を築き上げる。その後、文化大革命のせいでと周辺の諸国の関係が悪くなった。文化大革命の終わりと伴に、バンドン会議で発表された平和5原則の外交政策の復活のために、1979年後、新外交の基礎を確立し、中国と東南アジア諸国の関係が緩和になってきた。

注1.        続東南アジア現代史から43−44引用する。

注2.        続東南アジア現代史から54−57引用する。

注3.        続東南アジア現代史から59−60引用する。

注4.        もっと知りたいインドネシアから41−42引用する。

注5.  続東南アジア現代史から224−230引用する

参考文献:

   講座 東南アジア学  弘文堂    

 第四巻 東南アジアの歴史 石井米雄   223.Y58(4)

    第七巻 東南アジアの政治 矢野暢     223.Y58(7)

    第九巻 東南アジアの国際関係 矢野暢 223.Y58(9)

   東南アジア現代史  今川瑛一      亜紀書房 223.142.1

    続東南アジア現代史  今川瑛一      亜紀書房 223.142.2

    インドネシア歴史と現在 ジョン・D・レッグ 中村光男訳 サイマル出版会 224.12

   中国の外交  フランソワ・ジョワイヨー  白水社

東南アジア現代史略年表

1930

210日 ベトナム国民党、イエン・パイ蜂起

 

1222日 ビルマ、サヤ・サンの反乱

1932

624日 シャム、軍クーデター、立憲革命

1939

9月3日シャム、国名をタイに変更

1941

5月ベトナム独立同盟会(ベトミン)結成

1945

817日 スカルノ、インドネシア独立を宣言

 

92日ベトナム民主共和国独立宣言

 

105日インドネシア国民軍結成、独立戦争へ

1946

74日 フィリピン独立

 

1219日 仏・ベトナム軍、全面交戦

1949

1227日 インドネシア連邦共和国が誕生

1954

57日 ベトナム軍、デイエンビエンフー奪回

 

721日 ジュネーブでインドシナ休戦協定調印

1955

418日 バンドンでアジア・アフリカ会議

1960

1220日 南ベトナム解放民族戦線結成

1964

82日 ベトナムでトンキン湾事件発生

1965

930日インドネシア共産党クーデターが失敗

1967

29日 インドネシア国会でスカルノ解任決議

 

312日 スハルト将軍、大統領代行に就任

 

85日 東南アジア五カ国、ASEAN設立宣言

1973

127日 ベトナム和平パリ協定調印

1975

417日 カンボジア共産勢力、プノンペン占領

 

430日 ベトナム共産軍、サイゴン解放

1976

71日 南北ベトナム統一

1979

217日 中国軍、ベトナム国境全域で侵攻

1980

410日インドネシアのウジュンパンダンで反華人暴動

1986

1217日ベトナム共産党書記長にグエン・バン・リン

1989

926日 カンボジアからベトナム軍撤兵完了

1990

88日.インドネシア・中国、国交再開

1991

1023日 パリでカンボジア和平協定調印

 

115日 ベトナム首脳訪中、関係正常化を宣言

1993

523日 カンボジア総選挙投票始まる

 

924日 シアヌーク、カンボジア国王に就任

1994

1120日 中越首脳、領土問題は対語解決で一致

1998

521日 スハルト辞任、ハビビ大統領就任

 

726日 カンボジア総選挙、人民党勝利