中国とインド、パキスタンの関係

                             

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インドとパキスタンはもともと一つの国であった。1858年、南アジア大陸はヨーロッパ

人の侵略によって、インドがイギリスの植民地になった。第二次世界大戦以降、南アジア地域における民族独立運動が高まったため、イギリスは分けて治まるという方針を採用した。ついに「モンパッドン法案」は1947年6月に登場され、かつてのインドは宗教の違いに従って二つの自治領に分けられてしまった。そして、同年の8月インドとパキスタンは相次いで独立を宣告した。新たな二つの国は別々として誕生した。

中国と本来のインドの間2000年間を渡った伝統的なつながりがあった。両方とも経済や、文化、宗教、そして芸術など各分野で密接的に交流したことがあった。しかし、イギリスの南アジア侵入によって、約2000年わたって落ち着いてきた中国とインドのつながりは一時的に中断した。1949年、中華人民共和国が成立したまでおよそ100年間かつての交流が止まってしまった。しかし、インドとパキスタンは真っ先に中華人民共和国を認めた国であった。中国とインド、パキスタンの関係といえば、大体戦後の50年間の出来事と指すものであろう。過去の50年間、中国とインド、パキスタンの関係には幾多の曲折があった。要するにその中で、アメリカとソ連(今のロシア)、あるいは東と西の両陣営の冷戦動向を微妙に反映していた。また中国は80年代からの改革開放政策によって自らの変革を興った。この時期を境目として、中国とインド、パキスタンの関係を二つに分けて順を追って述べよう。

PartT 1980年代以前の中国とインド、パキスタンの関係

 

    中国とインド:友好と国境紛

1950年代における中国とインドはしばらく友好的な雰囲気を醸成した経緯があった。特に1955年に開かれたバンドン会議で両国が密接に提携していた。バンドン会議の間に、中国とインドの首相による「平和五原則」に関する共同声明が発表され、新興アジア諸国の主導権による“平和”への期待が高まった。47年に独立したインドの首相に就任したネルー氏は首相と外相を兼務し、国家開発計画などを打ち出して社会主義型の国づくりを指導、米ソ冷戦の時代にあって「非同盟・平和共存政策」を提唱した。また、当時の中国首相周恩来氏も56年11月末から12月の頭にかけて二度とインドを訪問した。インド首相のネルー氏も54年に中国を訪問した。その時代には、中国とインドの人民は兄弟であるといようなスローガンは両国の空に響き渡っていたそうだ。一方、国境問題やチベット問題をめぐって、中国とインドの対立も芽生えていた。

植民地・半植民地という共通点を持ち、発展を求めるという志向がある中国とインドは、両方とも帝国主義の遺物として残されたものを全部捨てて新たの基礎に基づいて、両国の外交関係を立ち上げようという主張を唱えた。言わば、以前イギリスがこの地域でやったものはすべてを否認するわけである。

一方、インドの場合は、イギリスから残された国境の主張をそのまま相続しようとし、チベットはあくまでインドの勢力範囲と見なした。少なくともチベットは中国とインドの間の緩衝地帯として考えた。チベットは中国総面積の8分の1を占め、ヒマラヤ、崑崙、タングラの各山脈に囲まれて平均標高4000メトル以上に達し、世界の屋根と呼ばれている。中国はチベットが天然の障壁として西からの侵入を防ぐため、ずっと昔からチベットの主権を手に握っていた。

1950年、中国の軍隊によるチベット解放はインドから幾多の障害を与えられた。また、56年3月、チベットで寺院や貴族が独立を求める反乱が勃発したが、結局中国軍に鎮圧され、ダライラマ14世はインドに亡命した。インドに受け入れられたダライラマは、インド国内で反中国の政治行動を許された。チベット動乱を勃発した直後、インドは中国に領土要求をし始めた。インドに占領された中国とインドの国境の東部分に限らず、西部分の中国領土も要求した。さらに、何度も軍事行動を用いて武力的に要求を実現しようとした。その上、中ソ関係の悪化や、インドとソ連が接近する中で、中国とインドの友好関係が急速に悪化させたあげく、大規模な国境武力衝突が勃発した。

 

1.    境界線の相違

中国とインドの間は約2000キロの境界線がある。この境界線は従来正式的に定められたことがない。だが、両国政府の管轄範囲に従って、伝統的な習慣による境界線がすでに存在し、東、中、西三つの部分に分かれていた。東の部分は中国、ミャンマ、インド三国の接するところからヒマラヤ山脈の南麓に沿って中国、ブータン、インド三国の接するところまでの部分を指す。真中の部分はヒマラヤ山脈そのままである。西の部分は中国の新疆、チベットとカシミールに属するカラコロム山脈に接する部分を指す。

19世紀半ば頃までは問題がなかったが、イギリスはインドを完全に統治した後、19世紀の後半から20世紀の頭にかけて中国のチベットと新疆に手を出し始めた。1911年中国では辛亥革命が勃発、イギリスは当時の中国が西南国境に手が回らない状態を利用して、チベットを中国から分裂しようとし、チベットが鼓吹した中国はチベットに対して主権を有しでないことを承認した。1914年シムラ会議を開かれ、いわゆるマクマホウ・ラインをでっち上げた。でも、中国政府に完全に拒否された

インドが独立後、インド政府はイギリス侵入者によって占領されたまたは占領したい中国の領土をインドの領域に組み入れるつもりだった。50年代初め、朝鮮戦争が勃発して中国も巻き込まれた。また、新中国は成立したばかりで、国境まで面倒を見る余裕がなかった。そのチャンスを利用し、インドは中国政府が一度も認めたことのなかった、いわゆるマクマホウ・ラインによって分断された北部の中国領土にいた中国のチベット地方政府の職員をインド軍の武力によって追い出した。1959年8月25日、中国とインドの国境で第一次武力衝突が発生した。

 

2.    平和交渉の決裂

 中国側は、平和五原則に基づいて国境事件問題についてインドと交渉しようと主張した。しかし、インド側は何の返事をしなかった上に、59年10月21日に中国とインドの伝統的な国境を超えてさらに厳重な流血事件を起こした。60年4月、中国首相周恩来はインドに到着、インドのネルー首相と国境紛争の問題について平和交渉を始めた。4月20日から25日にかけて、周恩来とネルーは7回にわたる困難な交渉を行った。

周恩来は、国境問題は平等の原則、合理を基礎として平和的に解決するべきである;一時的に解決できないことは、既に形成された国境をそのまま維持しよう;また、衝突を避けるため双方の軍隊を完全に引き離すこと、といった三つの主張を再三説明した。一方、ネルー氏は中国とインドの国境が既に定められた、定められていないといえば、ただ地面に表記されていなかっただけである、中国側は問題にならないことを問題にしたことで論議を引き起こした;中国の地図とインドの地図が違う、中国側は自分の地図をやり直すべきだ;中国側は国境を定められてないことを理由にインドに領土を請求したことは、インド、特にネルー氏本人をびっくりさせた、と強調した。双方はそれぞれの意見を出張し、平行線に辿った。結局、今回の交渉は1960年6月と9月の間に双方の政府関係者は会談を行うことが決められた以外、何も成果がないままに幕を閉じた。その後、双方の政府関係者による会談が行われ、同じ結果に終わってしまった。

 

3.    全面的な国境紛争へ

 何度も交渉したあげく、何も合意をしなかったうえ、1962年10月20日、中国とインドの全面的な国境紛争が勃発した。なぜ武力衝突まで至ったのか、ネルー氏による当時の国際情勢の判断ミスがあった。ネルー氏の判断は大雑把に言うと三つがあった。1、当時の中国は国内経済情勢が非常に困難な時期にあり、また国際的には、ソ連との溝が深まるばかりで、孤立状態に置かれている。2、中国軍の主力は台湾海峡でアメリカに牽制され、中国は西南の国境までかまう力がない。3、以上二つの判断を総合して、インドの軍事行動は、アメリカとソ連両方から支持がもらえる。

従って、ネルー氏は中国の平和交渉の提案を拒否しながら、戦争準備に拍車をかけた。

今回の衝突はインドによって挑発されたが、結果的には中国側の大勝利に終わった。1962年11月22日零時から、中国とインドの国境紛争はその前日に発表された中国政府の声明によって停戦が実現できた。この声明により、中国政府は四つのことを強調した。

1、       中国は従来から武力によって国境問題の解決を望んでいない。

2、       中国の軍隊は自己防衛のためにやむをえなく反撃に出た。

3、       中国は勝利者を気取るつもりはなく、如何なる不合理な要求、あるいはインドの尊厳を損害させるような主張をインドに無理に押しつけることはない。

4、       中国は一貫に平和的な手段で国境問題を解決することを主張し、大規模な武力衝突を勃発する前であろうと後であろうと、中国は平和五原則を忠実に守って、絶対に他国を侵略しない、他国による中国を侵略することも絶対に許さない。

以上の四つの意思をよく表した停戦声明は世界中で好評であった。インドは軍事的面だけではなく、政治的にも中国に負けた。

 その後、中国とインドの国境は相対的に静かになった。各国による調停の努力にもかかわらず、さまざまな原因で双方の交渉も続けられなかった。64年5月27日、ネルー氏は病気で逝去した。ちょうどこの頃中国の文化大革命の時期であった。中国とインドの関係は国境衝突以降、しばらく長いこと対峙している状態におかれていた。

 

敵から味方へ:中国とパキスタンの関係

 パキスタンは最初に中国と外交関係を結んだ国の一つである。1956年に両国首相の相互訪問が実現した。しかし、パキスタンはアメリカによって作られたマニラ条約組織に加入、アメリカと「共同防衛協定」を締結した。更にアメリカと共に、台湾問題、チベット問題、及び中国の国連復帰問題について中国に反対した。したがって、50年代における中国とパキスタンの関係は比較的冷却状態にあった。

60年代に入ると中国とインドの国境紛争をめぐってソ連はインドを支持した。またアメリカも中国を抑制するためにパキスタンの安全を配慮せず、全面的にインドを支持した。パキスタンは自身も安全を考えながら、対中国の態度は一遍に変わった。61年12月、パキスタンは中国の国連復帰を支持、さらに中国の国連安保理常任理事国入りのために奔走した。またチベット問題及び中国とインドの国境紛争に関しては中国を支持した。

65年に第ニ次インド、パキスタン戦争が勃発したが、翌年ソ連のコスイギン首相の調停で停戦した。その後、パキスタンはインドに対抗するために一層中国に接近した。かくして、この地域のいわゆる「愛憎相関図」が完成していった。「敵の敵は味方」「敵の味方は敵」という戦国の世さながらの戦略が、この地域の平和の条件作りを難しくしていった。一方、1960年代、毛沢東の「自力更生」路線で国際的に孤立政策をとっていた中国にとっては、パキスタンは国連およびその他の国際機関で中国の主張をしばしば代弁してくれる「世界に開かれた唯一の窓」だった。79年のソ連によるアフガニスタン侵攻を機に、アメリカがソ連の防波堤としてパキスタンを支援したが、中国とパキスタンの緊密な関係が更に強化された。63年から80年まで中国はパキスタンに対して広範囲にわたる軍事援助を行い、その総額は15億ドルにも達した。こういうように、国際情勢とくに南アジア情勢が著しく変化した中で、中国とパキスタンの関係はは60年代から敵から味方に変わってきた。

 

・国境協定の締結

62年初めから、中国とインドの国境にめぐる対立関係一層悪化した。インドが中国と戦うことに集中できるように、アメリカやイギリス諸国は、パキスタンとインドの和解をパキスタン側に要求した。だが、ちょうどその時期に、パキスタンと中国は国境をめぐる交渉が合意に達した。63年3月2日、中国とパキスタンは公式的に国境協定を締結した。

 

・中国からの支持

国境協定を締結した後、中国とパキスタンの関係は急に発展した。それと同時に、ソ連がインドへの支援を増やした結果、インドとパキスタンの軍事バランスが崩れた。65年8月 インドとパキスタンはカシミールで戦争を起こした。アメリカはパキスタンの同盟国にもかかわらず、パキスタンへの軍事援助を停止した。その代わりに、中国はパキスタンに大量な軍事物資を提供した。同時に中国は中印国境に兵力の配置を行った。中国の行動はアメリカ及びソ連に緊張感をさせた。9月20日 国連緊急会議が行われ、三日間のうちにインドとパキスタンの停戦覚えに関する議案が通った。9月22日双方は停戦争を公式に発表した。パキスタンは完敗だった。

 

・バングラデシュの成立

パキスタンの領土は東パキスタンと西パキスタンに分かれている。真中の部分はインドに隔てられて東西の間には1600キロの距離がある。東パキスタンの面積は14.3万平方キロであり、パキスタンの面積の16%しか占めてあるが、人口は全国の56%を占めてある。パキスタンが成立した以来、東パキスタンと西パキスタンは地理、及び民族、言葉、文化などの面における相違があるにも限らず、政治及び経済の面では不平等な状況にあった。ゆえに、71年3月6日、東パキスタンの人民連盟はバングラデシュの成立を宣告した。当日、パキスタン政府は軍事行動を起こしてこれを鎮圧し、人民連盟のリーダを逮捕した。

パキスタン政府の軍事行動は国際社会の強烈な反響を呼んだ。ソ連とアメリカはパキスタン政府の軍事行動を非難、インドは完全に東パキスタンを支持する姿勢を見られた。同時に、インドは国境に軍隊を集結し、インドに逃げた人民連盟のメンバーを受け入れて改組した。4月17日、人民連盟もメンバーたちはインドで「バングラデシュ臨時政府」の成立を宣告した。一方、中国は平和五原則基づいてパキスタンの内政に干渉しない立場を表明し、同時に、インドとソ連はパキスタンの内政を干渉する行為を非難、パキスタンに対する支持を表示した。

71年11月21日、インドの軍隊は東パキスタンに進攻、12月3日 国境を越えて西パキスタンにも侵入した。中国は軍事物資の援助だけではなく政治及び外交の面でパキスタンを支持した。戦争は2年以上続いたが 結局、パキスタンはソ連の支持を受けたインドにかなわなかった。インドの強引な押し付けによりで1974年2月22日、パキスタンはバングラデシュを一つの国として承認した。6月10日、中国も国連大会でバングラデシュの国連加盟について賛成票を投じた。中国はあくまでもパキスタンを支持していた。

 

・パキスタン経路

パキスタンは中国とアメリカの国交正常化に関して重要な役割を演じた。中ソ間の珍宝島での武力衝突によって、中ソ関係は更に悪化した。自然に中国とアメリカは対立から緩和に向かっていた。当時アメリカの大統領ニクソンは「方法を考えて中国に接近する」という外交方針を決めたが、この方法はパキスタンにあった。アメリカの意向はパキスタンの大統領に通じて伝えられた。中国もパキスタンに通じてアメリカ側に返事した。71年のキッシンジャーによる有名な中国極密訪問の橋渡し役はパキスタンであった。パキスタンルートのおかげて20年もの間ほど中断された中米関係は再び新しい軌道を歩みに重なった。

 78年には、中国の新疆ウイグル自治区とパキスタンのイスラマバードを結ぶ「カラコルム・ハイウエー」が、パキスタン陸軍と中国人民解放軍との共同作業によって完成され、中国はパキスタン経由でインド洋への出口を確保した。

 

PartU:1980年代以降の中国とインド、パキスタンの関係

 

・中国とインド:関係の改善とその限界

中国とインドの関係は1962年の国境紛争以来ずっとにらみ合って対立してきた。76年、双方は大使級外交関係を回復したが、中国とベトナムの戦争の際にインドはベトナムを支持したため、中国とインドの関係は再び苦しい立場に追い込まれた。79年ソ連はアフガニスタンに侵入し、それに対して南アジア諸国は脅威を感じた。インドはソ連の南下を恐れ、隣国に対して改善策を打ち出した。そのことは中国とインドの関係に新しい転機をもたらした。81年6日に中国外交部長の黄華はインドを訪問した。それを受けて、中国とインドの関係はだんだん友好的な雰囲気に変わってきた。しかし、インドにとって中国は相変わらず侵略国であり、冷戦時代は「インドの最大な敵国」パキスタンを援助した盟友であった。

 インドは、米国の対パ援助同様、中国の対パ援助に常に神経をとがらせてきた。冷戦終結後の現在でも、インドは、核兵器化(秘密原子炉の建設協力、核兵器設計技術の移転、高濃縮ウランの生産を可能にするリング・マグネットの供給など)と核兵器運搬システムの開発(M-2中距離ミサイルの輸出)の分野における、中国の対パ援助に敏感に反応している。インド人の多くは、心の中では中国のチベット占領を許していない。インド政府はチベットを「中国の問題」であると認めているが、インドと中国のチベットに対する見方には、微妙に違ったものがあるような気がする。というのは、インドがチベットを「中国内の独立した自治地域」と見ているのに対して、中国はチベットを「中国の不可分の一部分」と見ているからである。

 キッシンジャー補佐官の訪中と、ニクソン大統領の訪中による米中関係改善の仲立ちをしたのが、パキスタンだったことをインド人は忘れていない。それでもラジブ・ガンジー首相の時代になると、インドは、中国側が関係改善を希望する信号に応えて大使交換を再開するなど、対中関係の改善について一定の範囲内で努力してきた。冷戦の終焉が中印関係の方程式を基本的に変化させた。インドの有識者は、中国が経済改革と経済成長においてインドに大きく先行していることを認めはするが、インドのリベラルな民主主義国家体制の優位性とインド体制の最終的な勝利を信じて疑わないのである。

 96年11月の江沢民主席のインド訪問は、中印関係の新しい時代の到来を告げる「歴史的な出来事」だった。この訪問は、中印関係の紛れもない現実として三つの点を明確にしたといわれている。第一は、中印関係がもはや中印国境問題の人質になっていないことである。第二は、中印関係においてパキスタンが必ずしも決定的な要素ではないということである。第三に、インドと中国の双方において両国間の関係を推進するという強い政治的な後押しさえあれば、両国の間に互恵的な協力関係の構築には制限がない、と思うことである。

 カシミール問題に対する中国の態度は、過去に比べて大きな変化を見せた。中印関係が悪化していた60年代と70年代には、中国は「カシミール人民の自立のための公正な闘争」を強く支持していたが、80年代に中印関係を改善し始めると、中国は「インドとパキスタンの間の二国間交渉と国連の関係諸決議」を強調した。80年末以降、中国は国連諸決議に対して言及する態度を後退させ、インドとパキスタンの二国間の交渉を前面に出すようになった。

 90年代になって、西側で人権問題、特にチベットにおける人権問題を取り上げられるようになると、カシミール問題の国際化に対する中国の反対が目立ち始めた。94年と95年には国連において、パキスタンに対して、カシミールにおける人権の問題に関する決議(反インド決議)を撤回するように説得さえしている。96年12月、江沢民は、パキスタン訪問中に、パキスタンに対してカシミール問題を棚上げしてインドとの関係を正常化させるように説得している。江沢民は、南アジア諸国「全部」と中国との友好協力関係を強調した。それは、インドをその他の南アジア諸国とかけ合わせるという、中国の過去の南アジア政策(域内諸国の間の勢力均衡政策)からの決別を意味している。

 昔、中国が南アジアにおいて勢力均衡政策をとっていたために、南アジアの小国としては、インドに対して「中国カード」を行使することが可能だったのである。現在の中国は、南アジア諸国が、厄介な域内紛争を棚上げして、外部勢力の覇権支配と介入に対抗するため、域内の内部結束を固め、域内協力を推進するようにたきつけているのである。

 中国は南アジアにおけるアメリカの「覇権支配」を念頭において物を言っていることはいうまでもない。中国の路線変更は今後の中印両国間関係だけではなく、インド亜大陸における国家間のパワー方程式にも重要なインパクトを与えずにはおかない。しかし、そうはいっても、インドの核兵器計画(核兵器オプション)における第一義的な標的はあくまでも中国であってパキスタンではないのである。

 

・中国とパキスタン:「全天候方の友好関係」

一方、三次にわたる印パ戦争で、いずれにも敗北を喫したパキスタンにとっての仮想敵は、一貫してインドである。パキスタンの国家安全保障戦略は、いかにして隣の大国・インドの脅威に対抗して国家としての「生存」を図るかにある。インドの脅威に対抗するために、パキスタンは核兵器開発、通常戦力の充実による自己防衛力を強化する一方で、米国をはじめ西側諸国との友好協力関係を維持、特に中国(インドの仮想敵)との友好協力関係は40年ほど安定的に継続している。両国ともがそれぞれ国境に接しているインドを「共通の脅威」とみなし、「敵の敵は味方」の関係にあることがその背景にある。

その見返りにパキスタンは、イラン、サウジアラビアなど中東イスラム諸国と中国との関係作りの橋渡し役を果たし、88年の中国製ミサイルのサウジ輸出に道を開いた。パキスタンは中国にとって、「中東イスラム世界に開かれた窓」の役割も果たしたのだ。89年の天安門事件で中国が国際的非難を浴びでいる中にあっても、パキスタンは外務次官を訪中させて「中国支持」を表明した。中国はこれに感謝し、89年11月に李鵬首相がパキスタンを訪問、300メガワッドの原子力発電所のパキスタンへの売却を発表した。こうした中国とパキスタンとの40年ほどにわたる極めて安定した緊密な戦略的関係は、「全天候型友好関係」と呼ばれ、隣の大国・インドに対抗する上で、欠くことのできない柱として、パキスタンの安全保障・外交政策の中に位置づけられている。

 

・インドにとって中国脅威なのか

 1998年5月、インドとパキスタンが相次いで地下核実験を実施した。冷戦が終結し、膨大な核兵器を保有した米ソの軍事対決が終焉を迎え、いよいよ「経済重視」の平和な国際社会が実現されるという期待か日増しに高まりつつある中だっただけに、世界中が驚愕し、大きなショックをうけた。とくに、核兵器のこれ以上の拡散に歯止めをかけることをめざした「核拡散防止条約」(NPT)の無期限延長が1995年5月に決定され、翌96年9月にはすべての核実験を禁止した「包括的核実験禁止条約」(CTBT)が国連総会に圧倒的多数で採択されて、国際社会の核不拡散体制作りが順調に進展していたと皆が考えていただけに、インドとパキスタンの核実験は、こうした世界の流れに真っ向から挑戦する行動として国際社会の激しい非難を浴びた。

 98年5月、インドは24年ぶりに核実験を行った。その直後にインドのバジパイ首相は、クリントン大統領や橋本竜太郎首相など主要国の指導者にあてて書簡を送った。この中でバジパイ首相は、インドは核実験に踏み切らざるを得なかった理由として、次の三点を挙げた。

1、              インドは公然たる核保有国(中国を指す)に国境を接しており、その国は1962年にインドに軍事侵攻した。

2、              この国(すなわち中国)とインドの関係はここ10年間、改善が進んでいるが、国境線問題のために不信感が続いているうえに、わが国のもう一つの隣国(パキスタンと指す)による秘密裏の核兵器開発を物理的に支援したことで、この不信感は増幅された。

3、              インドはこの隣国(すなわちパキスタン)との間では、過去50年間に三度も侵略をこうむっており、この10年間でもパンジャーブとカシミールなど数ヶ所でこの隣国に支援されたテロと軍事行動の被害を受けている。

 以上、インドが今回の核実験を合理化する理由としてあげている三点のうち、二点までもが「中国の核の脅威」に言及しているのだ。では、その保有している核兵器が果たして、インドが主張しているように「インド向け」に配備されているのだろうか。

 中国の安全保障戦略は「冷戦期」と「ポスト冷戦期」で大きく異なっている。冷戦期においては、中国にとっての「主敵」はソ連と位置づけ、次いで米国を「潜在敵国」と位置づけてきた。なぜ、「主敵」は米国ではなくソ連なのかの理由は、60年代の文化大革命期に、ソ連が米国に対し「中国の核戦力が強大になる前に、今のうちに中国の核基地を叩いておこう」と提案したことにあった。米国はこれを通報した結果、中国のICBM(長距離の大陸間弾道ミサイル)の大部分がモスクワなどソ連の大都市に照準をあてた配備に変更された。こうして、冷戦期の中国の核戦略は以下の三本柱で構成されてきた。

1、米ソからの「核による威嚇」を抑止する。

2、ソ連による核攻撃に対する報復能力を維持する。

3、大国の威信として核兵器を維持する。

 この後、89年12月の米ソ首脳マルタ会談で東西冷戦の終結が正式に宣言され、91年にはソ連が崩壊したことで中国にとっての長年の「北の脅威」は大幅に減少した。この結果、現在では中国の核ミサイルの多くは米国に指向していると見られている。

 以上が、中国の核戦略の概観だが、インドは中国の核ミサイルが中射程ミサイル(すなわちインド全土を射程内に入れることができる)に重点が置かれ続けていることを挙げ、あくまで「中国の核はインドに向けられている」と主張しているのだ。それに加えてインドが挙げていたのが、中国が近年、IRBM(中距離弾道ミサイル)の射程のさらなる延伸と、弾頭の個別誘導多弾頭化および小型化、推進ロケットの燃料を従来の液体から固形燃料への切り替えなどを進めている点で、これらの近代化努力はインドに対する核攻撃能力の向上を目指したものだ、と主張している。

 もひとつ、インドが「中国脅威」の理由として挙げているのが、中国が冷戦終結を受けて新しく採用した軍事戦略だ。中国はそれまで、米ソ対決下で一度戦争が起きれば、それは核兵器の使用を含む世界戦争となるのは必至であるから、中国はこれに備えねばならないとする、「世界戦争戦略」をとってきた。だが、冷戦終結によって米ソ対決状態は終焉した。そこで中国は、こうした情勢変化を受けて新しい軍事戦略を採用した。それが「国内の地域戦争(台湾を指す)および、国外の地域戦争(地区性戦争)を勝つ戦略」はインドへの進攻が含意されているというのだ。

 しかし、ポスト冷戦期の中国にとって最大の脅威はあくまでも米国であることはいうまでもない。他方、かつては「主敵」だった旧ソ連(ロシア)は、順位5番目に落ち、日本、ベトナムに対する警戒心を高めてきた。インドについては順位4番目にランクされ、インドが「中国脅威」を強調しているわりには、当の相手の中国には、インドをそれほどの脅威とは見ていないはずだ。

 その理由は中国軍の総兵力は290万人で、インドの115万人に対し圧倒的な優位にあることが第一だ。また、62年の中印国境紛争では終始中国側が主導権をとり、現在も「中国優位」の状態のまま一応の安定を見せていることが第二の理由だった。中国としては、チベット独立運動への外国からの直接支援ルートは断たれた状態となっており、これ以上、中印国境であえて事を構える必要に迫られていない状態にあるといえる。

 想定されるインドによる中国攻撃は、チベット問題を利用してチベット自治区を分裂させることであろう。中印紛争再発の可能性を完全には否定しない中国は、中印国境紛争が再発したとしても、インド軍を十分に撃退できるとの自信をもっている。「中印国境には高い山脈が連なっており、中国は山岳部隊だけで十分守れる。したがって、中印国境を進攻してくるインド軍に対して中国が核兵器を使う場面はまったく想定していないし、ありえない」と中国側が断言した。

 

・パキスタンの恐怖心

 インドが核実験をした後、パキスタンが国際社会から懸命な自制働きかけを振り切って、なぜ核実験を踏み切った。その原因の究明するには背後にあるインドとの宿命的な敵対関係は必要がある。両国間の衝突の「発火点」として常にカシミール紛争がマスコミにとりあげられてきたが、現地の実情は、カシミール紛争は実は二義的要素でしかなく、イギリス植民地からの分離・独立時の熾烈な内部闘争に起因した「インドは必ずパキスタンを吸収・併合する拳に出る」というパキスタン側の強烈な恐怖心が根底にある。今回のパキスタンによるインド追随の核実験もまた、パキスタン国民の心の奥深くに刻み込まれている恐怖心が駆り立てたものだったのだ。

 パキスタンの核実験の成功は「自主開発」によるものといっていたが、米国側はパキスタンの核開発は中国からの輸出を受けるはずだと疑惑をもっていていた。95年7月3日日付米紙「ワシントン・ポスト」は、「偵察衛星写真やその他の情報に基づいて米情報機関はこのほど、パキスタンの大都市、ラホールの西にあるサルゴダ空軍基地に30基以上の中国製ミサイルが存在している結論に達した」と報じた。中国の外務省スポークスマンはロイター通信に対し、「ポスト紙の報道は、事実無根だ」と否定した。パキスタンのシェイク外務次官は「パキスタンはMTCRに違反するような取引は、一切していない」と、ややニュアンスを残したコメントをした。ワシントンからの情報により、ミサイルの本体を格納しているとみられる「運搬用ケース」が、中国国内のミサイル製造工場から運び出され、海路ではなく陸路でパキスタンに運びこまれたことを示す偵察衛星情報を米国は握っている、とのことだった。

 

・むすびにかえて 

 ここまで、延々に述べた中国とインド、パキスタンの関係はいよいよ幕を閉じようとしている。中国、インドそしてパキスタン、いずれの国も長い西欧諸国による支配・植民地の屈辱を受けた歴史を持っている。黄河文明もしかり、インダス文明もしかり。4000年以上にわたる高度な文明国として世界をリードしてきた誇り高き民族心が、被支配・植民地による屈辱感とないまぜになり、米欧がリードする国際社会に対する挑戦的な態度となって噴出する場面に何度も出くわした。20世紀半ばの第2次世界大戦をきっかけに長い被支配の歴史からようやく解放されたこれらのアジアの大国、誇り高き民族は今、内部からあふれ出る熱い思いに突き動かされて、長い屈辱の歴史を埋め合わせる過程に入ったのかもしれない。そのような大きな歴史の流れを感じずにはいられなかった。

 

 

 参考文献:『新中国外交50年』 北京出版社