中国とシルクロード
『中国の歴史の現在と過去を結ぶ大道』
98E2464 篠塚 正
「シルクロードとは」
そもそもシルクロードとは何のことを指すのか。シルクロードの定義とは?「シルク」ロードというくらいなのだから、やはり中国発祥の絹織物が大いに関係している。
中国は世界で絹を織った最も早い国である。その歴史は約5000年にも前にさかのぼり、殷、周(約3000年前)の時代にはすでに室内で山蚕を飼い、あざやかな刺繍をほどこした美しい絹織物を織っていた。「韓非子、喩老篇」の中にも殷の最後の皇帝、紂王が「錦衣九重」、つまり九重にもなる錦の衣を着ていたことが記載されている。この美しい絹織物は、中央アジア、そしてギリシャ、ローマに運ばれ、大いに珍重された。貴族たちの間では、絹を身につけることがステータスとなり、絹への需要は増すばかりで価格も高騰していった。これに商人達が注目しないわけはなく、彼らはキャラバンをつくり、競って東方を目指した。こうしてできた絹を結ぶ商路は、単に商路としてだけではなく、東西を行き来する主要な交通路として次第に使われるようになった。これがアジア、ヨーロッパ、さらに北アフリカをも結ぶユーラシア大陸の大道、すなわち現在言われているシルクロードとなったわけである。それも、紀元前という驚くべき早い段階で。
さて、では実際シルクロードはどこから始まりどこを通りどこまでつづいているのだろうか。実は、この「シルクロード」と言う名がついたのはそんな昔のことではないのである。初めてこの名を用いたのは、19世紀後半のドイツの地理学者リヒトホ−フェンであると言われている。彼は19世紀半ばに東アジアを訪れ、その際中国各地を旅行した。この時の彼の見聞が、後の彼の著作「中国(ヒナ)」となって刊行され、その中でかれは東西間の通商路に「ザイデンシュトラーセン」という単語を用いた(ドイツでは絹のことを「ザイデ」、道のことを「シュトラーセ」と言う)。これを英訳した「シルクロード」という言葉が次第に使われるようになったわけだ。今から100年前のことである。リヒトホーフェンが表したシルクロードとは、長安をスタートとして、一つは楼蘭〜アクス〜カシュガルをへてサマルカンドまでと、もう一つは敦煌〜ホータン〜バルフまでの二本の道である。
しかしそれから後に、同じドイツの学者アルベルト・ヘルマンが、
「絹の通商路をザイデンシュトラーセン(シルクロード)とするのであれば、ローマまで確かに運ばれていたので、最大の通商路の一つであるシリアまで延長するべきだ。」
と提唱した。実際、シリアのパルミュラからは数多くの漢錦が発見されたのである。ヘルマンは、このシリアからさらに海路でコンスタンチノープルやローマに運ばれたのではないか、と論じている。今から70年前のことである。
そしてさらに近年、このシルクロードはさらに発展した。それは、
「絹の通商路をシルクロードと言うのならば、リヒトホーフェンやヘルマンが主張した中央アジアを通る道(オアシス路)のほかに、北方の草原地帯、いわゆるステップ地帯を通る道(ステップ路)、南方のインド洋をへて紅海、ペルシア湾方面と中国を結ぶ海上路(南海路)、これら三つの道をすべてひっくるめてシルクロードというべきではないのか。」
と考えられるようになったのである。この三つに少々説明を加えると、まず、北緯50度線付近のユーラシア大陸の草原地帯を東西に横断するのがステップ路で、古来さまざまな遊牧民が去来し、盛んに利用された。次に、北緯40度線付近を横断するのがオアシス路である。ここは世界の屋根と呼ばれるパミール高原があり、ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、アラビア砂漠など、その全行程がほとんど砂漠である。しかし、周辺の山脈の雪どけ水によるオアシスが散在しているためこれらのオアシスを点綴して交通路として利用したのである。この道は、ソグド人・ペルシア人・ウイグル人などの中央アジア人が利用し、史上最もよく利用された道であって、普通シルクロードというと多くはこのオアシス路を指す。三つ目は、紅海またはペルシア湾からアラビア海を横断し、インド・東南アジアをへて華南へと達する南海路である。このルートは特に中世以降航海貿易で活躍し、世界の東西貿易の主流を独占したため、海のシルクロードと呼ばれている。
この他にも、この主要3ルートを南北に結ぶいくつものルートが存在する。例えば、ステップ路の東端のカラコルムと長安(現在の西安)または幽州(現在の北京)を結ぶ道、あるいは長安と広州、四川をへてビルマとを結ぶ道(有名なビルマルート)などがこれにあたる。他にもインドとソグディア地方とを結ぶ、バルフ〜サマルカンド〜カザフスタンの道など、数え上げたらきりがない。このように、「シルクロード」という言葉は歴史的な名称であって、最初に使ったのはリヒトホーフェンであるが、だんだんと歴史的にその範囲が広がってきた名称である、と考えていいだろう。[1]
「張騫 〜アジアのコロンブスが残した偉大な足跡〜」
中国と西域との関係は、紀元前2世紀まではその実体はよく分からなかった。というのは、パミール高原以東の交通路は途中にある荒れはてた砂漠地帯がきわめて広大であったことが大きな原因としてあげられるが、秦朝の後をうけて中国を統一した前漢(前202〜後8C)が、中央アジアに強大な勢力を誇っていた匈奴のために西域との交通路を確立する余裕をまったくなくしていた、というのも一つの重要な原因である。文化を持たず、粗暴で、内地に侵入しては略奪を繰り返す匈奴は、漢の民にとって恐怖そのものの蛮族だったのである。
そんな中で、前140年、武帝が前漢の六代皇帝に即位する。武帝は匈奴の捕虜から、
「われわれの北方にいる月氏は、かつて匈奴に滅ぼされて王の頭蓋骨を酒盃にされたことをとても嘆いていて、どこかの国と共同して匈奴を討ちたいと言っている。」
という話を聞き、たいへん喜んで、月氏に使者を送って同盟を結ぼうと考える。この使者に応募したのが張騫である。
張騫の旅については、「史記」の大苑伝に詳しい記録が残っている。
騫以郎応募、使月氏、與堂邑氏胡奴甘父倶出隴西。経匈奴、匈奴得之、傅詣單于。單于留之、曰「月氏在吾北、漢何以得往使?吾欲使越、漢肯聴我乎?」留騫十餘歳、與妻、有子、然騫持漢節不失。 〜史記「大苑伝」より〜
簡単に訳すと、張騫は郎という官の身分で募集に応じ、月氏の使いとなることになった。そして、匈奴の開放奴隷の甘父ら(約100人)とともに隴西郡を出発した。その先にある河西地方は匈奴の勢力圏だったので、早速匈奴は彼らを捉えて単于のところに連れて行った。単于は彼らに、「どうして我々か漢の使者を北の月氏に行くことを許すだろうか。」と言う。もちろん、挟み撃ちにされるのを恐れたのである。また、「我々が越(華南地方)に使者を送ろうとすれば、この使者が通るのを許さないだろう。」と言った。そして単于は張騫を捕虜として国内にとどめておき、安全を考えて匈奴の女性を妻に与えた。結局、張騫は10年余りもの捕虜生活を強いられたのだが、その間も自分の使命は決して忘れなかった。
居匈奴中u寛、騫因與其屬亡郷月氏西走数十日至大宛………
……騫従月氏至大夏竟不能得月氏要領留歳餘、…………還並南山、欲従羌中帰復為匈奴所得。留歳餘単于死、左谷蠡王政其太子自立、国内乱騫與胡妻及堂邑父倶亡帰漢……… 〜史記「大苑伝」より〜
ついに彼は、部下と共に匈奴の王庭から脱出することに成功する。そしてさらに西へと進み、大苑に到着する。大苑の国王は張騫の一行にとても友好的で、丁重にもてなし、彼らが大苑を発つ際も使者を遣わせて康居国まで見送り、さらに康居国も友好的だったので、月氏まで送ってもらうことになり、彼らは月氏までの旅路を安全に進むことができたのである。やっとのことで月氏にたどり着いた張騫であったが、なんと月氏は匈奴と争うなどという気は全く失せていたのであった。月氏はすでに平和で豊かな土地に移住していたため、事を荒立てるのを避けたかったのである。こうして張騫は自らの使命を果たすことができなかったのである。その後張騫は大夏に至り1年あまり滞在し、来た時とは違った道を通って南に向かい、チベットを通り抜けようとしたが、そこで再び匈奴に捕らえられてしまう。今度こそ殺されると覚悟したが、幸いなことに1年も経たないうちに脱出することができた。匈奴のリーダー単于が病死し、王位継承をめぐって内乱が起こったのである。その隙に張騫は妻や甘父とともに長安に脱出したのである。帰国後、彼は結局使命を果たせなかったが、皇帝はその功績を認め、数々の名誉を与えた。また彼の持ち帰った情報は大変価値のあるものだった。漢にとっては、張騫の旅によりはじめて西アジアの国々が明確になり西へと向かうルートもほぼ確立されたのである。
その後の張騫はというと、実はそれほど安定した人生ではなかった。彼は匈奴征討を指揮したが失敗し、このために死刑を宣告されてしまう。なんとか死刑は免れたが、彼は一切の名誉と称号を剥奪された。しかし数年後、匈奴にいささかの敬意を抱かせるようになると、武帝は再び西方へ勢力を広げることを考えだした。武帝は張騫を呼び、彼を筆頭に遊牧民の烏孫への使節団を編成した。部下300人を連れて出発した張騫は、かつて月氏に求めたのと同じ同盟を彼らに提案しようと考えていた。しかし烏孫はこれを月氏と同じ理由で断るのであった。結局張騫は烏孫王の遣わせた何人かの使節と武帝への贈り物とともに長安に帰ることになる。帰国後彼はその功績によって再び恩賞と名誉を授けられる。そしてそれから1年後、張騫は永眠する。彼の西域への旅は「鑿空の行動」と現在でも称えられている。その意味は、のみで石に穴を穿つように、隔絶していた西域へ一本の道を開けた、第一番目の先駆者、という意味である。[2]
「仏教の伝来〜法顕と玄奘の偉大な功績〜」
仏教がいつ中国に伝来したのかは、実は定かではない。というのも、あまりにも数多くの説があるからである。これは、熱心な信者達が仏教の起源をできるだけ古くしようとした結果と思われる。この多くの説のほとんどは、仏教が盛んに信仰された六朝〜唐代にかけて唱えられたものである。
さて、こうした熱心な信者や僧侶がふえてくると、ある問題が生じてきた。それは、経典の不足である。当時、サンスクリットの経典を漢文に訳す作業はとても難しかった。それならば、「自分がインドへ行き、経典を集め、かつサンスクリットを勉強しよう。」という僧が次々と現れた。いわゆる入竺求法僧である。
その入竺求法僧のなかで有名なのが、法顕と玄奘の二人である。彼らが有名な理由としては、天竺まで行って経典を持ち帰ったという功績ももちろんだが、それ以上に自らの旅行記を残したということがあげられる。
法顕は10人ほどの同輩とともに4世紀の終わり399年に中国を出発する。当時は、ちゃんとした旅の装備などあるはずもなく、彼らの旅はまさに命がけであったのである。その命がけの旅を表している一節が、彼が著した「仏国記(法顕伝)」のなかにある。
遍望極目、欲求度處、則莫知所擬。唯以死人枯骨、為標識耳。……
(……悪鬼、熱風あること多し。遇えば則ちみな死す。一も全き者無し。上に飛鳥なく、下に走獣無し。遍望極目、度る処を求めんと欲して、則ち擬する所を知る莫し。唯死人の枯骨を以て標識と為すのみ。……) 〜「仏国記」より〜
法顕がとったルートは、長安をスタートとして、鄯善〜カラシャール〜ホータンと進み、インド各地(王舎城、霊鷲山、華氏城など)を回ってサンスクリットを習い自ら多くの経典を書き写し、帰りは南海路を用いて中国に帰ったと考えられている。出発から実に15年の歳月が流れていたわけだ。そして、数々の書き写した経典と帰国後著した「仏国記」は、彼の偉大な功績を現代に伝えている。
さて、もう一人の玄奘だが、入竺求法僧としてはこちらの方が有名だろう。彼は唐の貞観三年(629年)に出発する。[3]しかし当時、唐は成立したばかりで、庶民が西域に旅することは固く禁じられていた。そのため、昼間は隠れ日が暮れてから夜行する、ということを彼はたびたび強いられた。こうした苦しくつらい密行の末、約二年の歳月をへて彼はついにインドのナーランダ寺院にたどり着いた。そこで彼はとても歓迎され、5年間の留学中にナーランダ寺の副主講に昇進し、また、各地をまわり説教し「大乗天」というとても高い栄誉を与えられインド第一流の学者として認められた。その後、玄奘は貞観十九年(645年)に帰国し、長安の弘福寺に数々の経典と仏像をとどけた。17年かけて旅したその範囲は、現在のインド、パキスタン、バングラデシュ、ネパールなどの国、および当時その一帯にあった110以上もの国を回った。特にインドは地図で見られる三角形の土地をほとんど一周したのには驚かされる。
玄奘はその生涯をおもに学者、旅行家、翻訳家として過ごした。彼が口述して門徒に執筆させた「大唐西域記」は、玄奘自身が見聞した地理、歴史、気候、風俗、習慣などかとても詳しく記録されており、また、英語、フランス語、日本語など多くの外国語に翻訳されていて、世界的にも有名な名作である。[4]
「モンゴル帝国の大躍進とマルコ・ポーロ」
12〜13世紀のアジアで圧倒的な勢力を誇ったのが、チンギス・ハン率いるモンゴル帝国である。その領土は最大ユーラシア大陸のほぼ全土まで広がり、さらに余力を駆って日本やジャワにまで勢力をのばしたほどだ。このことは「元寇」として日本の歴史に名を残している。
チンギス・ハンの西征は13世紀はじめ、シル・ダリヤ河畔のオトラルの太守イナルチェクがチンギス・ハンの送ったホラズム帝国への使節団を虐殺し、その首をホラズム国王ムハンマドに献上したことから始まる。これに激怒した彼はホラズム帝国を滅ぼすため、1219年にカラコルムを出発する。彼はまずオトラルを攻め落とし、ここから隊を分け、別働隊はホラズム帝国の首都ウルゲンジを攻略し、チンギス・ハン率いる本隊はブハラ〜サマルカンド〜バルフ〜バーミャンと進む。その後、別働隊が南ロシアのプロシア連合軍を破って本隊と合流し1225年モンゴルに帰ってきた。
チンギス・ハンの死後も、オゴタイ・ハンの甥のバトゥがヨーロッパに、モンケ・ハンの弟フラグがペルシア地方にそれぞれ遠征し、結局全3回の遠征によってユーラシア大陸のほぼ全域を支配することとなったのである。詳細を説明すると、まずチンギス・ハンの生前に次男チャガタイ、三男フビライが北方および中央アジアの領土をそれぞれ与えられ、チャガタイ・ハン国、オゴタイ・ハン国が成立する。さらにオゴタイ・ハンの命により派遣されたバトゥがキプチャク・ハン国を建て、モンケ・ハンの命により派遣されたフラグがイル・ハン国を建てた。こうしてできあがった四つのハン国に加えて、フビライがその後に中国本土で建てた元朝をあわせると、ユーラシア大陸ほぼ全域が統治されたことになるわけだ。
このことは、東西を貫く道路を切り開き、往来を便利にするという結果をもたらした。13世紀はシルクロードに沿っての旅行活動がきわめて活発だった時期なのである。チンギス・ハンの遠征に従った耶律楚材、長春真人が当時の地理、歴史を詳細に記した旅行記を残し、またローマからはカルピニが中国にキリスト教を布教しようとカラコルムまで訪れた。
そして、当時の旅行者で世界的に最も有名な人物はやはりマルコ・ポーロだろう。マルコ・ポーロは1254年イタリアのベニスに生まれる。1271年の夏、彼は父と叔父に従って地中海の東岸アッコ城から出発し、イラン、パミール高原を乗り越えて3年余り後にモンゴル帝国の上都にたどり着き、フビライの歓迎をうけた。滞在中のマルコ・ポーロは学問に励み、中国各地を遍歴した。かれは使節としても活躍しベトナム、ジャワ、スマトラなど各地を訪れ、その行く先々で各国の民情風俗と経済状況を広く考察した。こうして彼は、14年もの年月を中国で過ごしたのである。
ベニスに帰国後しばらく彼は東方貿易に従事していたが1298年、商業上の衝突によって起こったジェノバとの戦いに参加し、これに敗北して捕虜となってしまった。獄中で彼はルスティチャンという作家と出会い、彼がマルコ・ポーロの広い見聞に非常に興味を持ったので、彼にこの見聞を筆記させた。これが有名な『東方見聞録』(マルコ・ポーロ旅行記)である。東方見聞録は東方に来る途中に通過した数々の国々や地域、また元の初期の政事が記されており、当時の北京、西安等の都市の繁栄ぶりが描かれている。
これ以後のマルコ・ポーロの行方は不明となっているが、彼が残したこの「東方見聞録」はヨーロッパの人々の東方への憧れを掻き立て、また知識界にも大きな影響を与えることとなった。この記述によって、初めてヨーロッパ人は中国の印刷術、火薬、羅針盤、石炭などを知り、ヨーロッパ以外の高度な文明の存在が明らかとなったのである。この著書はさまざまな言語に翻訳され、世界稀有の大作と称されている。[5]
「康熙帝、乾隆帝〜清の準回遠征〜」
14世紀〜17世紀前半のシルクロードの動きは、中国大陸よりも西部の動きが目立つ。まず、14世紀後半には、東チャガタイ・ハン国から現れたトゥグルク・チムールがサマルカンドを首都としてチムール帝国を形成し、中央アジア一帯を支配した。彼は明への遠征を試みたが、熱病にかかり志半ばにして永眠する。
13世紀にモンゴルに追われ小アジアに入ったオスマンは、バルカン半島にオスマン帝国を形成、その後も領土を拡大し続けた。最盛期である16世紀のスレイマン1世の時代にはハンガリーを征服しウィーンに迫り、海上ではスペイン・ベネチアの連合艦隊を破ってアフリカのナイジェリアまで征服した。また、オスマン帝国は中近東の要地を独占していたことから、アジアとヨーロッパの中継貿易国家として繁栄した。そしてこのことはシルクロードの海上路の発達を大いに促進したと思われる。
こうした情勢の仲で17世紀前半、中国大陸では明朝に代わり清朝が成立する。ここで清朝について少々説明を補足すると、清朝は女真(=満州)族が関外、東北の地で建国したのち、北京に遷都して中国全土を支配した最後の専政王朝である。その支配は単に中国内地の農耕地域だけにとどまるものではなく、現在の中国東北部、台湾、内・外モンゴル、新疆、チベットなど広範囲に及ぶ、中国史上、未曾有の国家領域をつくりあげた。この意味で一般に、清朝は中国最後の征服王朝として考えられている。[6]
そして清朝の権威の最盛期となったのが康熙帝、乾隆帝の時代である。その権威を象徴するのが、一般的に言われている清の準回遠征である。準回遠征の「準回」とは、当時東トルキスタンに強大な勢力を誇っていたジュンガル王国の中心部ジュンガリアを「準部」、そのジュンガル王国の支配下にあったタリム盆地を、回教(イスラム教)のホージャが統治していたことから「回部」とそれぞれ呼んでいたのが由来である。
最初の遠征は康熙帝の時代の1696年、ジュンガル王国の王ガルダンが外モンゴルに侵入したことから始まった。これに対抗して康熙帝はウルガに親征し、見事ガルダンを打ち破った。
その後康熙帝は外部に関心を示さず遠征をすることはなかったが、代わった乾隆帝は準部と回部を制圧するため再び遠征を始めた。乾隆帝は1755年と1757年の2回準部に遠征し、ジュンガル王国を滅ぼした。そしてさらに1758年、回部にも遠征しカシュガル、ヤルカンドを次々と占領、1760年に準部と回部の併合に成功した。そしてこのタリム盆地周辺を新しい疆土という意味を込めて「新疆」と呼ばれるようになった。こうして東トルキスタン地方は清朝の支配下となり、適切な施政のおかげで約60年間平和な時代を迎えることとなった。またこの新疆を上手く統治するために西域の調査が次々と行われ、西域関係の図書が数多く出版された。[7]
「現代のシルクロード〜東トルキスタンの独立運動〜」
さて、いろいろとシルクロードの過去の出来事を見てきたが、ここからは近〜現代のシルクロードに注目してみる。
近年、シルクロード周辺で起こっている重要な問題は、やはり中国新疆ウイグル自治区での東トルキスタン民族独立問題だろう。独立運動は指導者を代えながらも引き継がれ、今日まで至っている。
第一次東トルキスタン民族独立運動が最初に現れたのは、1933年のことである。この独立運動の発端は、1931年の「ハミ蜂起」であった。これは、当時新疆省政府主席だった金樹仁がウイグル人の王制を廃止しウイグル農民を一般官使によって管理するシステムに変更するという「改土帰流」政策をとったのが引き金となり、ウイグル王府、農民が「反漢」を合言葉に立ち上がった事件である。その後、新疆南部各地で次々と独立運動が起こり1933年11月、ついに「東トルキスタン・イスラム共和国」が成立する。
これら一連の背景には、イスラムを通じて民族の政治的統合を図ろうという動きがみられ、事実、「東トルキスタン・イスラム共和国」の建国綱領にも「コーランを謹んで遵守する」ことが明記されている。しかしこの共和国は翌年、新疆省政府と妥協し、総理のサウド・ダームッラと司法部長を拘禁して省政府に引き渡したことで終わりを告げる。
第二次東トルキスタン民族独立運動が起こったのは1944年だった。10月、トルコ系イスラム住民による反政府武装ゲリラグループがニリカの町を陥落させ、「クルジャ蜂起」が勃発。その直後の11月にクルジャ市内で「東トルキスタン共和国」が樹立した。
第一次東トルキスタン独立運動と最も異なる点は、ソ連の支援である。ウイグル人の指導グループはソ連と手を組み、ソ連の援助を受けていたのである。クルジャ蜂起の際も、ソ連軍隊は中国国内に出動し、戦車、大砲、飛行機などを動員し中国政府軍に壊滅的な打撃を与えた。しかし名目上はイスラム聖戦という形で行われた。より多くのトルコ系イスラム住民を動員するためである。その後も東トルキスタン共和国は順調に勢力を拡大していったが、第二次世界大戦が終わった直後、ソ連は態度を一変し、新疆問題は中国の内政問題であるとし、中国に東トルキスタン共和国側に対する援助を取り下げることを約束した。この背景には、ソ連の中国への利権拡大に対する懐柔工作であると考えられる。こうして東トルキスタン共和国は中国国民政府との和平交渉に臨まざるをえず、和平協定に調印して独立国家の夢をすてることを余儀なくされたのであった。
そして現在、またも新疆ウイグル自治区への関心が高まりつつある。1988年、新疆南部のタリム盆地で油田が次々と発見されたのだ。その埋蔵量は未開発の油田では世界最大級とも言われており(油質はあまりよくないといわれているが)、経済発展と工業化を進めた結果、電力、石炭、石油などのエネルギー資源不足が深刻化した中国にとって、この新疆ウイグル自治区の重要性はますます大きくなっている。そして、新疆ウイグル自治区の重要性が増すにつれて、新疆のトルコ系イスラム民族の高揚がみられ、「東トルキスタン民族独立運動」が再燃した。最近の例では、1990年4月に起こった20人以上の死者を出したアクト県バリン郷の暴動や、1996年5月の新疆ウイグル自治区政治協商会議副主席アロンハン・アジ氏暗殺未遂事件などがあげられる。これに対して中国側の対応は、1996年に中国江沢民主席とロシアのエリツィン大統領、カザフスタン、キルギス、タジキスタンの中央アジア3カ国首脳、合わせて5ヶ国が上海で首脳会議を開き、国境地帯での武力行使や軍事演習の事前通告などを取り決めた。[8]以後年1回開催され、現在も国境兵力削減協定の調印などの協力関係が進んでいるが、経済協力の拡大や自由貿易地帯、非核化地帯構想など、議題は多岐にわたっている。こうして、60年にもわたる独立運動は現在も続いている。[9]
シルクロード関係史年表
前139年 |
張騫、百余人の部下を率いて長安を出発 |
399年 |
法顕、中国を出発 |
629(?)年 |
玄奘、中国を出発 |
1219年〜 |
チンギス・ハン、ホラズム帝国を滅ぼすためカラコルムを出発 |
1271年〜 |
マルコ・ポーロ、父と叔父とともに中国へ出発。 |
1696年 |
康熙帝、外モンゴルに親征 |
1755年〜 |
乾隆帝、準部、回部に遠征 |
1931年 |
東トルキスタン独立運動の発端「ハミ蜂起」勃発 |
1944年 |
第二次東トルキスタン運動の発端「クルジャ蜂起」勃発 |
参考文献
長澤和俊 『シルクロード文化史 T〜V』 白水社
『シルクロード 歴史と文化』 角川書店
陳舜臣 『シルクロードの旅』 平凡社
リュセット=ブルノア 『シルクロード「絹」文化の起源をさぐる』 河出書房新社
石橋崇雄 『大清帝国』 講談社選書メチエ
王柯 『東トルキスタン共和国研究』 東京大学出版会
[1] シルクロードの定義については長澤和俊『シルクロード文化史 T』を参照とした。
[2] 張騫の西域紀行についてはリュセット=ブルノア『シルクロード「絹」文化の起源をさぐる』、陳舜臣『シルクロードの旅』など参照。
[3] 628年という説もある。
[4] 仏教の伝来についての記述は、長澤和俊『シルクロード文化史 U』、陳舜臣『シルクロードの旅』など参照。
[5] モンゴル帝国とマルコ・ポーロについての記述は、長澤和俊『シルクロード文化史 V』、陳舜臣『シルクロードの旅』など参照。
[6] 石橋崇雄『大清帝国』p24から抜粋。
[7] 康熙帝と乾隆帝についての記述は長澤和俊『シルクロード文化史 V』、『シルクロード 歴史と文化』を参照。
[8] 「上海ファイブ」と呼ばれている。
[9] 東トルキスタン独立運動についての記述は、王柯『東トルキスタン共和国研究』など参照。