毛沢東 (Mao Zedong)
『中国社会に大きな悲劇をもたらした文化大革命』
97E2101 岡村 早恵
1.文化大革命の嵐
●毛沢東の新しい国作り
1949年10月、中華人民共和国建国以来、毛沢東は独自の構想に基づいた新しい国作りを始めていた。毛沢東がまず最初に手がけたのは、農民への土地分配だった。1950年6月に「土地改革法」が公布され、全国で土地改革運動が展開された。農民たちは貧農、雇農、中農、富農に階級区分され、この区分に基づいて地主から没収した土地や農具などが分配された。
土地改革によって与えられた農地は、農民たちにとってはまさに毛沢東からの贈り物だった。農民たちは毛沢東に感謝し、そのことが人々の毛沢東への絶対的な忠誠心を形作っていった。
土地を得たことによって、以前は貧しさゆえに結婚できなかった農民の誰もが結婚し、家庭を持つことが出来るようになった。その結果、1950年代中国ではベビ−・ブームが起こる。この時代、子供はいくら生んでもよかった。毛沢東は人口の多さは経済発展の足かせではなく、自立富強のための貴重な資源であると考えたのである。
1953年から中国は、ソ連をモデルとした第一次5ヵ年計画を実行に移した。第一次5ヵ年計画は中国を工業化して社会主義改造を達成することが目標に掲げられ、工業のなかでも特に重工業が重視された。
急速な近代化を目指したこの計画は、その後期になると大型プロジェクトへの投資が過大となり、さまざまな問題が発生した。国家財政の収支や物資の需給のバランスが崩れ、労働者人口の急激な増加にともなって食糧不足も深刻になったのである。
1953年にはスタ−リンが死に、長年の重圧から解放されたこともあり、毛沢東は独自の社会主義建設の道を模索するようになる。1956年4月には「十大関係論」(*1)という論文を発表し、独自の国家建設のプランを明らかにした。
1956年6月、毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」を提唱し、知識人が共産党の政策を批判することを奨励した。しかし、予期せぬ批判の沸騰に毛沢東は反撃に出る。1957年6月8日に「反右派闘争」が始まり、55万人もの人々が右派分子として打倒されたのである。反右派闘争は、共産党を信じて口を開いた人々の心に大きな傷を残した。以後人々はどんなことがあっても本当のことは言わず、ただ共産党の言うことにひたすら追随するようになった。
●大躍進運動の展開とその破綻
1957年11月、モスクワから帰国した毛沢東は、独自の共産主義社会建設に取り組む。まず目を向けたのは、最大の関心事である農民の生活向上という課題であった。
毛沢東は農民に対して特別な感情を抱いていた。だから彼は一生の大半を革命に費やし、中国人民、特に貧苦にあえぐ農民を解放しようとしたのだ。そして毛沢東は現状に満足せず、一生絶え間なく革新を求め、進歩を追及したのである。
1958年5月、中国共産党第八回大会第二次会議は、毛沢東が提起した「大いに意気込み、高い目標を目指し、多く、早く、立派に、無駄なく社会主義を建設する」という社会主義の総路線の決議を採択する。大躍進の始まりである。大躍進とは、鉄鋼、エネルギ−、食糧など各分野での大増産を図り、15年でイギリスの経済に追いつき追い越すことを目指した大衆運動だった。毛沢東はソ連に先駆けて、中国を世界で最初の共産主義社会に到達させたいと考えたのである。
まず毛沢東が取り組んだのは、農業の大規模化だった。中国を豊かで強大な国家、人民が幸福な生活が出来る国家にするために毛沢東は人民公社を提起した。
1958年8月に毛沢東は、自分の構想にそって試験的に作られた七里営人民公社を視察した。毛沢東がこのとき語った「人民公社の名前は好い」の一言を、人民日報は「人民公社は好い」という見出しで大々的に報じたため、急激な人民公社化運動が展開されることとなった。
毛沢東は人民公社を、農業を中心とした生産組織と行政組織を合体した理想の共同体にしようと考えた。公社には学校、病院、工場、民兵組織などがあり、さながら自給自足が可能な1つの小さな国のような形をとっていた。また毛沢東は共同食堂を重視し、そこでは社員は公社の収穫から供給される食糧によってただで食事ができた。そしてそれは「飯を喰う問題」に長年取り組んできた毛沢東の夢を実現させることでもあった。
人民公社を基礎単位として、全国で大躍進運動が華々しく展開され、人々は大規模水利工事に参加し、鉄鋼、エネルギー、食糧の大増産に取り組んだ。
農業では「試験田」というものが作られ、品種改良や耕作技術の改良よって食糧の増産をはかる運動が展開された。やがて全国からこの「試験田」で著しい増産が勝ち取られたという報告が相次ぐようになる。しかし、その数字は次第に何倍、何十倍といった現実離れしたものになっていった。これらは明らかに虚偽の報告であった。
食糧生産に負けず劣らず、鉄鋼生産も大増産が目指された。1957年には535万トンだった鉄鋼生産を、58年には2倍の1070万トンにするという目標が掲げられたのである。
人々はノルマをはたすために、鉄製の農器具や、家庭の鍋釜の類まで土法炉に注ぎ込んだ。その結果目標は達成されたが、土法炉で生産された鉄鋼はそのほとんどが粗悪品で使い物にならなかった。毛沢東の政策は徐々に現実から遊離していった。
農村では、農民たちが鉄鋼増産運動に人手をとられて、秋の収穫が思うにまかせず、また共同食堂での食糧の消費がひどく、人々の間には徐々に不満が募っていった。
1959年7月、江西省の景勝地廬山で政治局拡大会議が開かれた。会議の主題は、行き過ぎた大躍進によってもたらされた歪みの問題を、どのように解決するかであった。大躍進と人民公社にさまざまな問題が起こっていることを、この時期、毛沢東もかなり自覚していた。
しかし、大躍進と人民公社こそが目指す共産主義への確かな道であるという毛沢東の自負は、いささかも揺らいでいなかった。
毛沢東は、三面紅旗、すなわち人民公社、大躍進、総路線はすべて正しく、いくらかの誤差を生じたのは、実際の状況にきちんと依拠しなかったためで、だんだんと誤りを正せばよい、と考えていた。
しかし、廬山会議は当初から波乱含みで進行する。自らの農村視察によって大躍進の誤りを痛感していた彭徳懐が、会議で厳しい発言を繰り返したのである。大躍進の歪みの原因は、プチブル的熱狂によって、実情に合わない目標や過大な成果が掲げられたためだと彭徳懐は考えていた。
7月23日に政治局拡大会議第二回全体会議が開かれた。彭徳懐が自分の考えをまとめて毛沢東に送った書簡が会議の重要議題として扱われ、毛沢東はその書簡を三面紅旗、そして自分の指導性への重大な挑戦だと捉えた。
廬山会議の結果、彭徳懐は国防部部長を解任され、大躍進の誤りは正されることはなかった。1959年には中国各地の農村で飢饉が広まっていた。60年になるとそれに自然災害が追い討ちをかけた。中国各地の農村では、食糧を食べ尽くした農民が食べ物を求めて彷徨い歩き、そして餓死していった。農民の生活向上を目指して始められた毛沢東の大躍進が、農民を飢えさせるという皮肉な結果を招いたのだった。
全国に広がった深刻な飢饉に直面して、毛沢東も公の場で自分の政策の過ちを認めざるを得なくなる。1962年1月に開かれた七千人大会で、毛沢東は「社会主義建設における経験が不足していた」と自己批判した。
これと前後して、周恩来、劉少奇らは農民の巨大化した人民公社の規模を縮小し、自留地や副業を認め、余剰作物を自由市場で販売することなどを許した。農民の自由意志の尊重、共同食堂の廃止、食糧供出量の削減などが進められた。こうした調整政策により経済危機は徐々に克服されていったのである。
●プロレタリア文化大革命の発動
1965年になるとアメリカは北爆を開始し、ベトナム戦争(*2)は激化していった。この年の8月
に毛沢東は、帝国主義が引き起こすであろう侵略戦争に備えるために、大都市と沿海地帯に集中している工場を内陸へ移動するよう指示を出した。
これ以後、四川、貴州、甘粛などの西南、西北を中心とした内陸建設と国防関連工業の建設が進められた。
激しさを増すベトナム戦争、深刻化するソ連との対立。国内では劉少奇らいわゆる「実権派」が、社会主義に逆行すると思われる政策を進めているように思われた。もし戦争が起これば、今の中国ではそれに立ち向かうことが出来ない。もし劉少奇がソ連と結託して修正主義に陥れば、中国は内部にも敵を抱えることになる。そうなる前に実権派を打倒し、体制を刷新しなければならない。毛沢東は再び革命をする決心をしたのだった。
1966年8月5日、毛沢東は「司令部を砲撃せよ」と題する大字報(壁新聞)を発表し、劉少奇の
主導のもとに行われた1962年の七千人大会の大躍進に対する否定的な総括とその後の調整政策を激しく非難する。会議は、8日には毛沢東が書いた「プロレタリア文化大革命(*3)に関する決定」を採択した。
そして、毛沢東に「造反有理(造反には道理がある)」と激励された紅衛兵たちは、町中から階級の敵と思われる人物を探し出し、三角帽をかぶせて引き回し、批判集会でつるし上げた。その対象は、一般民衆から共産党や政府機関の幹部にまで及んだ。
1967年1月、上海の文革派が激しい武装闘争の末、上海市共産党委員会を打倒し、権力を奪うという事件が起こった。「実権派」を打倒するという文化大革命の目的が、いよいよ実行されたのである。
1967年2月16日、中南海の懐仁堂で開かれた会議で譚震林、陳毅らが、陳伯達、江青、張春橋ら文革派を批判し、議論となった。後に「二月逆流」と呼ばれる事件である。
この会議の模様を知った毛沢東は、2月19日、この問題について話し合う政治局会議を招集した。会議では譚震林、陳毅といった元老たちが、「幹部への迫害は目に余る」と文革派を批判したのに対し、毛沢東は却って彼らへの不満を爆発させた。
「二月逆流」で毛沢東が文革派を支持したことによって、地方の奪権闘争は一挙に進行した。各地には文革派の革命委員会が次々に成立し、共産党委員会に取って代わった。毛沢東は自らが築き上げた権力機構を、その根底から破壊していったのである。
文革派は次の打倒の目標を、国家主席の劉少奇と総書記のケ小平に向けた。
紅衛兵も劉少奇への批判を強め、7月18日には劉少奇と王光美の批判集会が開かれ、集会の後二人は幽閉された。そして1968年10月、劉少奇は、「裏切り者、敵のまわし者」として党から正式に除名された。ここに実権派を打倒するという文化大革命の目的は達成されたのである。
文化大革命では、全国で大勢の幹部や一般市民が批判、投獄、殺害され、多くの悲劇が生まれた。
●アメリカへのシグナル
中ソが緊張した1969年4月に開かれた中国共産党第九回党大会では、林彪を「毛沢東同
志の親密な戦友であり後継者」とする党規約が採択された。またこの大会では、毛沢東夫人の江青、張春橋、姚文元、王洪文ら、後に「四人組」と呼ばれる人々が勢力を伸ばす。
中ソ国境にはソ連軍が大集結し、中ソの全線は避けられない情勢に見えた。中国の各都
市ではソ連からの核攻撃に備えて、防空壕が作られた。ソ連との戦争を覚悟した毛沢東は、外交政策の大転換を判断する。それまで一番の敵とみなしていたアメリカへの接近である。
スイスに住んでいたアメリカ人ジャ−ナリスト、エドガ−・スノ−に中国訪問の許可が下りたのは、そうした時のことだった。
1970年10月1日、国慶節を祝う天安門の楼上にエドガ−・スノ−の姿があった。毛沢東とエドガ−・スノ−が並んで立つ写真は、世界に大きな驚きとともに伝わった。
毛沢東はこのとき、彼と会談し、「ニクソン大統領の訪中を歓迎する」と伝えた。
アメリカとの関係改善に向けての作業が進む中、毛沢東と林彪との対立が表面化していた。林彪は、自分の後継者としての地位を確かなものにするために、国家主席になることをもくろんでいた。こうした林彪の野心を知った毛沢東は、周恩来と協力して林彪グル−プの批判を始める。追い詰められた林彪は、ク−デタ−によって権力を奪おうと計画した。1971年9月8日、毛沢東を乗せた列車を爆破しようとしたが失敗し、陰謀の発覚を恐れた林彪は、トライデント機でソ連に逃亡しようとした。しかし、トライデント機はモンゴル人民共和国(当時)の領土内に墜落し、林彪は死亡した。
この事件によって林彪グル−プが失脚し、周恩来を中心とした実務派が力を取り戻したことによって、米中関係改善に向けての動きは順調に進むことになる。
1972年2月ニクソン大統領が北京を訪問し、中国とアメリカの長年の敵対関係に終止符が打たれたのである。同年9月には日中国交正常化が実現した。
●文化大革命の終焉
晩年の毛沢東の健康状態は極めて悪く、1971年以降は心臓や肺を患い、歩くことも難
しくなった。こうした体調の衰えと孤独のなかで、心情的に周恩来ら実務派に回帰し、江
青ら「四人組」には批判的になっていったように見受けられる。毛沢東は政治局会議などの場で、面と向かって江青を批判し始めた。
1976年1月8日、長年にわたり毛沢東の政治を支え続けた宰相、周恩来が癌で死去した。
1月15日に行われた追悼式に、毛沢東の姿はなかった。このことはさまざまな憶測を呼んだ。
しかし、そのときの毛沢東は、数度にわたる応急手当によってようやく回復したが、動くことはできず、もし動けば危険な状態だった。
盟友周恩来の死から8か月後の1976年9月9日、毛沢東は波瀾に満ちた人生を閉じた。83歳であった。
毛沢東の死後1か月も経たない10月6日、江青たち四人組が突然逮捕され、ここに文化大革命は事実上の終焉を迎える。新しい主席には華国鋒が就任するが、中国はまもなくケ小平の時代へと移っていく。
2.毛沢東の性格
●同心円の拡大
毛沢東の生涯を眺めると、右、左へのゆれはない。「百花斉放、百家争鳴」から、一転して反右派闘争など、政策の急激な変化はみられるが、これは彼にとって転向を意味しないように思われる。あたかも、コンパスを立てて、その立脚点は動かさず、次々に大きな円を描いたような生涯であった。左へのゆれとみえることがあったとしても、それはこの同心円の拡大であった。
新しい円は前の円よりも大きくなるが、中心の一点は不変であった。その一点は、彼の表現をかりるなら「本源」であって、彼はここに「階級闘争」をはめこんだ。
コンパスの足はしだいに拡大して、長沙市内の労働運動から農民運動へ、ゲリラ戦へ、土地改革へ、ソビエト区建設へ、整風運動へ、新国家建設へ、ソ連との論争、訣別へ、文化大革命へと大きくなったが、この立脚点の針の先は、しっかりとささっていて、動かなかった。
彼の不動不変の本源は、いっぽうで実行の世界における無限の世界を生んだが、この拡大生成をささえたのは、彼の休むことを嫌う性格であった。一篇の文章を書くとき、完結するまで眠らずに執筆をつづけた。
毎日の仕事のあとも、寝つかれず、催眠薬を常用していた。寝ているところを起こされると、あとずっと眠ることができないので、彼が寝ついたと知ると、側近は物音をたてないよう、細心の注意をはらった。
●無法無天
アメリカ人の記者エドガ−・スノ−と最後に会談したとき、会談が終わって送りだしな
がら、「わたしは『和尚が傘をさす』なのだよ」と一言、ささやいた。
湖南の農民がよく使う駄じゃれだった。後半は、わざといわない。おちは、「無髪無天」。和尚はつるつるあたま。傘をさせば空が見えない。「髪」は同音の「法」におきかえる。「‘法律も天も怕れない’無法者なのだよ」
無限に拡大をつづける結果は、無拘束である。収拾がつかなくなる。頑固である。いったんいいだしたことは、まげない。暴風で荒れている海にとびこみ、うちかっかってきた大波によって岸の砂地にほうりだされたことがある。避暑地の北戴河で、悪天候にもかかわらず、泳ぐといいだし、護衛たちが前後左右を取り囲んで、海岸へ行ったあげくのことであった。
同僚ともいうべき、上層部の人間でさえ、彼の前に出ると緊張し、自由に意見をいわない傾向があった。
それらの人たちは、説得がきかない性格を知っていたのであろう。古典の知識が豊富で厖大な読書量をもっていた彼を、尊敬してもいたのであろう。しかし、無法無天の境地に立ち入っては、民衆の被害は甚大であった。被害は同志として草創の苦労をともにした人たちにも及んだ。彼らは、本来毛沢東に対して説得を試みるべき人たちであったが、晩年の毛沢東にたいしては、もはや説得は不可能であったろう。
3.詩人・毛沢東
毛沢東がなみなみならぬ詩心の持ち主であることを、「毛沢東選集」に収められた論文を通じて感じていた人は多いと思われる。それは政治論文でありながら、普通に想像されるように無味乾燥ではなく、生き生きとした比喩や形容詞を駆使して、力強く文脈を展開していく。用語や事例ばかりでなく、文体から発する匂いが、この人の文学的能力、中国古典についての深い素養をうかがわせた。
〇沁園春 長沙 <1925年>
独立寒秋 独り 寒き秋に立てば
湘江北去 湘江 北に去る
橘子洲頭 橘子洲頭
看 万山紅遍 看よ 万山に紅あまねく
層林尽染 層れる林 尽く染りたり
漫江碧透 みはるかす江 碧く透り
百舸争流 百しき舸 流れに争う
鷹撃長空 鷹 長けき空を撃ち
魚翔浅底 魚 浅き底をを翔ぶ
万類霜天競自由 万類 霜ふりし天に自由を競うかな
悵寥廓 寥廓たるにおいて 悵き
問 蒼茫大地 問う 蒼茫たる大地よ
誰主沈浮 誰か沈浮を主どる
携来百侶曾游 百の侶を携え来りて 曾て游びき
憶往昔崢 歳月稠 往きし昔を憶えば 崢 たる歳月 稠れり
恰 同学少年 ときもよし 同学の少年
風華正茂 風華 正を茂りに
書生意気 書生の意気
揮斥方遒 揮斥にして方に遒かりき
指点江山 江山を指点い
激揚文字 激むると揚むる文字もて
糞土当年万戸侯 当年の万戸の侯を 糞土とせり
曾記否 曾て 記えてありゃ 否や
到 中流激水 中流に到りて 水を撃ち
浪遏飛舟 浪 飛ぶがごとき舟を 遏めしこと
〇沁園春 雪 <1936年2月>
北国風光 北国の風光
千里冰封 千里 氷に封され
万里雪飄 万里 雪飄える
望 長城内外 長城の内外を望めば
惟余 惟だ たるを余すのみ
大河上下 大河の上下は
頓失滔滔 頓に滔滔たるを失う
山舞銀蛇 山には銀蛇舞い
原馳 象 原には 象馳せ
欲与天公試比高 天公と高さを比ぶるを試んと欲す
須晴日 晴日を須って
看 紅装素裏 紅く装い素く裏めるを看ば
分外妖 分外に妖 たらん
江山如此多 江山は此の如く多だ めかしく
引無数英雄競折腰 無数の英雄を引いて競って腰を折らしむ
惜 秦皇漢武 惜むらくは秦皇と漢武は
略輸文采 略文采に輸り
唐宗宋祖 唐宗と宋祖は
稍遜風騒 稍風騒に遜る
一代天驕 一代の天驕
成吉思汗 成吉思汗も
只識彎弓射大雕 只だ弓を彎いて大雕を射るを識るのみ
倶往矣 倶に往きぬ
数 風流人物 風流の人物を数えんには
還看今朝 還お今朝を看よ
4.毛沢東の死後
毛沢東の死後、毛沢東の評価をめぐって中国は激しく揺れ動いた。毛沢東をどう評価するかは、20世紀の中国の革命をどう評価するかという問題でもあり、その後の中国政治の行方を指し示す羅針盤でもあったからだ。毛沢東の時代を生きた中国人にとって、毛沢東は過去の歴史ではなく、重い現実でありつつづけていた。10年にわたって中国社会を混乱の渦に投げ込んだ文化大革命の痛手はあまりにも大きく、人々はまだそこから立ち直ってはいなかった。
毛沢東の死から5年を経た1981年6月、中国共産党は、文化大革命はいかなる意味でも革命ではないという全面否定の評価を下した。
そして毛沢東に対しては、次のような評価がなされている。
「毛沢東同志は偉大なマルクス主義者であり、偉大なプロレタリア革命家、戦略家、理論家である。毛沢東同志は10年にわたる文化大革命で重大な誤りを犯したとはいえ、その全生涯からみると、中国革命に対する功績は、過ちをはるかにしのいでいる。毛沢東同志にあっては、功績が第一義的であり、誤りは第二義的である」
中国共産党は今もこの評価を変えていない。
毛沢東は、貧困にあえいでいた中国に統一と独立をもたらした中国革命の偉大な指導者である。しかしその反面、10年にわたる文化大革命は、中国社会に大きな悲劇をもたらした。なぜなら、文化大革命はある種の主観的願望に基づいた誤った思想だったからである。そして、自分が決めた路線の問題に対して他人と妥協することができなかった毛沢東は、晩年のスタ−リンのようであるといえるかもしれない。
しかし、私も中国共産党が下した毛沢東に対する評価に同意見で、今日の中国の基礎を築いた毛沢東の功績を第一に評価したい。
そして、毛沢東もまた歴史上の人物たちと同じく時代に翻弄された人である。
<注>
(*1)十大関係論:毛沢東はこの論文の中で重工業と農業・軽工業、内地工業と沿海
工業、国防建設と経済建設、中央と地方が、どちらか一方に偏ることなく、均
衡的に発展すべきだと述べた。
(*2)ベトナム戦争:中ソ対立が激しさを増していた1964年、アメリカはベトナム
への武力介入を本格化させていた。毛沢東はアメリカの本当の目的は中国攻撃
にあるのではないか、との脅威を感じていた。毛沢東はアメリカと戦うベトナ
ムを支援することを決定、のべ32万人余りをベトナムに派遣するとともに、
大量の軍需物資を援助したとされている。
(*3)プロレタリア文化大革命:ブルジョア(資産)階級の思想を消滅し、プロレタリ
リア(無産)階級の思想を樹立することであり、人々の魂を改造し、人々の思想
の革命化を実現し、修正主義を掘り出し、社会主義制度を強化し発展させること。
<参考文献>
「毛沢東とその時代」 NHK取材班 恒文社(1996)
「毛沢東」 竹内 実 岩波書店(1989)
「毛沢東 その詩と人生」 武田泰淳,竹内実 文藝春秋新社(1965)
<毛沢東略年表>
[ ]内は満年齢。ただし、誕生日が年末であるのに注意。
1893 |
12月26日、湖南省湘潭県韶山沖に生まれる。 |
1901 |
[8歳]私塾に通う。 |
1906 |
[13歳]私塾をやめ、野良仕事に従事。 |
1911 |
[18歳]長沙にゆき、中学(湘郷中学)に入学。「辛亥革命」が起こり、「革命軍」に入る。 |
1913 |
[20歳]第一師範学校に入学。 |
1918 |
[25歳]新民学会を組織。第一師範学校を卒業。北京に行く。楊昌済の家に寄寓、北京大学図書館で働く。 |
1919 |
[26歳]湖南学生連合会を組織。母が死去。 |
1920 |
[27歳]父が死去。陣独秀に会う。 |
1921 |
[28歳]中国共産党の創立に参加。楊開慧と結婚。 |
1927 |
[34歳]蒋介石、上海でク−デタ−、共産党弾圧。隆起を指導、失敗して井岡山へ。「三項の紀律」を公布。以後ゲリラ戦を展開。 |
1930 |
[37歳]朱徳とともに南昌を攻撃、成功せず。国民党軍、ソビエト区に侵入、第一回の包囲討伐をうける。 |
1931 |
[38歳]中華ソビエト共和国成立、主席に就任。 |
1934 |
[41歳]党中央から観察処分を受ける。「長征」はじまる。 |
1935 |
[42歳]貴州省遵義で中央政治局拡大会議。 |
1936 |
[43歳]保安でアメリカ人記者エドガ−・スノ−と談話。 |
1942 |
[49歳]「党の作風を整頓せよ」の演説。整風運動はじまる。 |
1943 |
[50歳]<コミンテルン解散> |
1945 |
[52歳]中国共産党第七回大会。「若干の歴史問題にかんする決議」採択。党規約に「毛沢東思想」がはいる。中央委員会主席。<日本敗戦> |
1949 |
[56歳]10,北京、天安門上において、中華人民共和国の成立を宣言。 |
1950 |
[57歳]2,「中ソ友好同盟相互援助条約」に調印(有効期間30年)。 |
1954 |
[61歳]9,国家主席。 |
1956 |
[63歳]4,「十大関係」演説。「百花斉放、百家争鳴」を唱える。 |
1957 |
[64歳]6,反右派闘争を発動。 |
1958 |
[65歳]8,人民公社を肯定、大躍進はじまる。 |
1959 |
[66歳]4,国家主席に再選を辞退、劉少奇、国家主席。7,廬山会議で彭規約に「毛沢東思想」がはいる。中央委員会主席。<日本敗戦> |
1960 |
[67歳]7,ソ連、中国で協力の技術者をひきあげ。 |
1962 |
[69歳]1,七千人大会で自己批判。 |
1966 |
[73歳]8,「プロレタリア文化大革命にかんする決定」を採択。文化大革命始まる。 |
1967 |
[74歳]2,軍の長老による文革非難(二月逆流)。 |
1969 |
[76歳]11,劉少奇、死去。 |
1970 |
[77歳]10,エドガ−・スノ−と会談。 |
1971 |
[78歳]9,林彪、モンゴルで墜死。 |
1972 |
[79歳]2,ニクソン・アメリカ大統領と会談。9,田中角栄首相と会談。日中国交正常化。 |
1973 |
[80歳]3,ケ小平を復活させる。 |
1974 |
[81歳]1,大平正芳外務大臣と会見。 |
1976 |
[82歳]1,周恩来死去。4,周を悼み、群集天安門広場に集まり騒動発生。ケ小平を解任、華国鋒を党第一副主席,国務院総理に昇格させる。9月9日0時10分毛沢東死去。享年82歳。10,華国鋒、江青夫人らを逮捕、党主席、中央軍事委主席に就任。 |