宋家の三姉妹 
靄齢(AiLing)、慶齢(QingLing)、美齢(MeiLing)

『激動の中国を生きぬいた三姉妹』

小川 佑子ogawa.jpg (2991 バイト)

一人は金を愛し、一人は権力を愛し、一人は中国を愛した。
「金を愛した」と言われる長女靄齢は,孔子の子孫を称し、金融で巨富をなした山西省の富豪の息子、孔祥熙の妻となった。靄齢は金銭的な抜け目のなさで悪名高い。しかし多くの人々は、彼女が宋一族の運命の操縦者でもあったことを知らない。「もし彼女が男に生まれていたら、きっと中国を支配しただろう」とまでいわれたことがある。
「中国を愛した」とされる次女慶齢は、辛亥革命の指導者で、国父と称される孫文の伴侶となった。慶齢は、夫・孫文の理想に忠実に生き抜いた。彼女は、後に、毛沢東の人民共和国の副主席となった。
「権力を愛した」と言われる三女美齢は、革命指導者として頭角を現し権力を握った蒋介石と結婚した。美齢は歴史上最も有名で最も権力を握った女性の一人となった。彼女が中華民国の元首を背後で操る権力者であったことは公知の事実である。

宋王朝のはじまり
 三姉妹の父親、宋嘉樹は、"チャールズ・ジョーンズ・スン"として知られている。通称、"チャーリー"と呼ばれている。
彼は、海南島の貧農韓家に生まれたが、少年時代に、ボストンで茶や絹を商っていた移民の親類の養子となり、渡米した。この時から宋姓を名乗った少年は商人以外の道を志して家出、潜入した船の船長の厚意により、教会と実業家の援助を受け、神学を修め、牧師となって帰国した。上海で偶然ボストン時代の知人に再会したチャーリーは、彼の義妹に当たる名門の娘倪桂珍と結婚した。倪家は、明代の高官で西欧科学の紹介者であり、また中国で最初にキリスト教信仰を受容したとも言われる徐光啓の子孫であった。宋家の始まりである。
家庭をもったチャーリーは、聖書の出版を手始めに実業家に転身した。宋家には、三姉妹を含め、6人の子供が生まれた。
 特にチャーリーのお気に入りだったのは靄齢であった。彼女はおてんばで、木の切り株のようにずんぐりと、そして素朴であった。しかし同時に頭がきれ、機敏で、さらに自然の洞察力をそなえていた。それはチャーリーがどこへでもつれていき、出版社や製粉工場、
煙草工場、繊維工場の内部を見せ、またボディガード兼務の車夫が曳く人力車で街を走る際には、上海という都市、その弱肉強食の裏面を教えこんだことによって、養われたものであった。彼女は父親の事務所にいりびたるようになり、商売人たちがやってきて父親から金をだましとろうとしたり、いかがわしい投資に誘いこもうとするのを、うしろに座って、フライパンのような顔の表情も変えずに、冷静に眺めていた。
宋家の子供たちは皆、丸い顔にずんぐりした体つきだが、慶齢だけはかけ値なしの美人だった。容姿は繊細で弱々しく、憂いに沈みがち、下唇は心持ち突き出し、目もとは柔和だが、ややよそよそしかった。中世の塔に幽閉された人質のように、遠くから人の世を悲しげに眺めるといった風情であった。頭髪にしても、ビジネスライクな靄齢や完全に甘えん坊の美齢が、そそくさと後ろにとかすだけであったのに、慶齢は前髪を眉の上に垂らし、後ろはうなじで丸くまとめてリボンでとめていた。そして姉や妹のような傲慢さは彼女には無縁で、慶齢は優しく親切で人に好かれた。ひとことで表すなら、真面目であった。
家のなかを支配していたのは美齢だった。丸々として"小燈籠"と呼ばれた彼女は虚栄心が強く、また誰も彼女に逆らおうとしなかったから、自分の力を過信していた。外見的な美しさとはかけ離れた性格だった。しかし、三女らしく、活発で元気がよく、好奇心旺盛でもあった。

三姉妹アメリカへ
1904年、靄齢が15歳のとき、中国初の女子留学生として渡米し、ジョージア州のウェストレアン・カレッジに入学した。靄齢は米国で数奇な運命を冒険的に切り開き、リンカーンを尊敬し、祖国の近代化を渇望して、孫文の革命運動を援助する父親の教育を直接受け、意志が強く、行動力もあった。渡米途中の事、同伴者の米国人牧師が出航後まもなく、動向の妻の死去にあい前途靄齢に付き添えないという事になった。彼女は祖国に戻る事を承知せず一人で渡航することを選んだ。そのため、サンフランシスコでの入国の際許可が下りず、拘留された。真相は、中国人移民制限法によるものであったが、入国管理官の態度は靄齢にとって屈辱的で彼女を傷つけた。留学生活も2年を経た頃、靄齢は清国教育視察団を率いて米国に来た伯父に連れられホワイトハウスを訪問した。この時、彼女は、T・ルーズベルト大統領から米国の印象を尋ねられた。彼女は臆することなく入国時の人種差別など不快な体験を述べ、自由と民主を誇る米国でこのような事があって良いものかと詰問したと伝えられている。
靄齢は、2年後、慶齢、美齢の留学と入れ替わりに帰国し、1912年の中華民国成立式典には臨時大総統孫文の英文秘書として、父親と共に列席していた。
 1911年 辛亥革命により最後の王朝が滅び中華民国が成立した事を慶齢が父親からの便りで知った時、彼女は自室の壁から清朝の旗を引きはがし、中華民国の旗を貼り付け、祖国が共和国になったことを狂喜した。彼女はカレッジを卒業すると、母親代わりに面倒をみていた4歳年下の美齢をハーバード大学在学中の弟、宋子文に託し祖国に向かった。
ところが、途上、第2革命の失敗を聞き、日本に亡命中の家族と孫文に合流するために
横浜に上陸したのである。

靄齢の結婚  
ある日、チャーリーは亡命中国人たちがよく会合に使う、東京の中国人YMCAを訪れ、そこで山西省出身の孔祥熙という33歳の青年を紹介された。孔家は孔子の直系として際だった家系を誇っており、さらに重要なことに大変な富豪であった。 ある日、チャーリーは孔祥熙を自宅での夕食に招いた。その夜、自分の冒険譚を面白おかしく語って、宋家の家族を喜ばせた後、孔祥熙は靄齢のとりこになってしまった自分に気づいたのだった。
靄齢のほうでも、孔は願ったりかなったりの人物であった。ずんぐりして子供っぽく、態度はひかえ目で、会ったとたんに好印象を与えるというタイプとは正反対であった。しかし、いわゆる魅力的でないという点では、靄齢とて同様であった。祖国を離れた根なし草の人間たちが政治的空論を弄ぶなかで、彼だけは現実にしっかりと根を下ろしていた。
人びとが性急なユートピア計画に酔っているなかで、彼は金銭の問題を口にした。靄齢にとっても、理想主義はケーキにまぶされた砂糖のごときものであり、ケーキは燃料がなければ焼くことはできず、燃料はお金がなければ買えないのであった。彼女はそのことを十分に見てきた。ジュリアン・カーに力をくわえたのもお金であったし、チャーリー宋を旅がらすの説教者から上海実業界の新興勢力に変えたのも、やはりお金であった。靄齢と祥熙は、金銭について思う存分に論じ合った。
そして、1913年春、二人は結婚したのである。結婚式は横浜であげた。

慶齢の結婚   
慶齢は、結婚した靄齢に代わり、孫文の英文秘書になった。このころの孫文は、袁政権を打倒し、共和国を再建しようとして、革命化の強化・再編に余念がなかった。
慶齢は、孫分の傍らで秘書として働くうちに、彼の革命事業の先に自らの描く中国を重ねてみるようになった。中国を救えるのは彼しかいない、そんな彼と人生をともに生きたいと慶齢は思うようになったのである。
 しかし、慶齢の両親は、孫文との結婚に大反対であった。孫文には当時妻も子供もいたのである。また、孫文には富がないから、快適な生活はおろか、日々の生活も欠くことになる。両親は革命家として孫文をおおいに尊敬していたけれども、彼の生活はまったく危険で、困難だったので、娘を嫁がせるわけにはいかなかったのである。しかし、慶齢は孫博士を除いては誰とも結婚しないと宣言し、駆け落ち同然で家を出た。
 1915年、両親の反対をおしきり、二人は結婚した。結婚の世話をしたのは、孫文の1897年以来の友人、梅屋庄吉とその妻であった。そして、二人の結婚披露宴は、新宿大久保の梅屋庄吉邸で催された。
この間、宋家で唯一美齢だけが慶齢に同情と理解を示したという。
慶齢と美齢との相互の絆はとても強かった。慶齢は、若い頃には美齢をとてもかわいがり、いつも一緒に遊んでいた。また、アメリカ留学中では慶齢が美齢の母親代わりとなって面倒をみていた。二人は親友のように仲良しであったのである。
 孫文と慶齢の結婚における革命への情熱は、1922年の広州事件で証されることになる。当時北伐前線から戻って滞在していた総統府が反乱軍によって突如襲撃され絶望的危機に陥った時、慶齢は、ともに脱出する事を強く求める孫文に対して「中国には私がいなくても、貴方はいなくてなりません」と再三説得して、孫文をまず脱出させたと伝えられている。孫文は彼の50名の護衛兵全員を身長の妻に残して、反撃の指揮をとるため、艦上に逃れた。このあと慶齢は激しい銃撃と追跡の中を逃れ、夫と再会した時には行商人に扮した護衛一人を伴うだけで新しい生命までも失っていた。その永豊艦上で孫文の指示のもと目立って活躍していた将校が蒋介石だった。

革命いまだ成らず  −孫文の死−
 孫文は、晩年、国民党と共産党の合作、ソ連との連携と労働者・農民運動への援助を三大政策として革命運動の基本路線とした。慶齢はこれを支持し、このために積極的に働いた。
しかし、1925年、肝臓ガンのため他界。慶齢が32歳のときであった。
気持ちのうえで彼女はとても大きな痛手を受けた。ほぼ10年間の結婚生活の中で、二人は一体となって、苦難と絶え間ない革命活動をともに担い、一方、楽しい家庭生活を育んできた。死は、夫であり、指導者であり、教師であり、父親代わりでもあるその人、そのすべてを一度に彼女から引き離してしまった。
 死別後何週間かのあいだに、新たな民族的危機の中で、宋慶齢に対する人びとのイメージは変わってきた。悲しみでうちひしがれていたこの若い未亡人は、これまでの孫文の革命を継承するために、勇ましい、人びとを奮いたたせる闘士として、新しい試練に立ち向かうことになる。
 このあと数十年間にわたり継承する宋慶齢の活動は、じつにまれに見る決心と勇気を見せてくれる。孫文の「革命はいまだ成功していない。同志は努力しなければならない」という遺嘱は、彼女を絶え間なく鼓舞することになる。

慶齢と蒋介石の対立
孫文の次に国民党で実権を握ったのは蒋介石だったが、国内統一をめざし、共産党打倒を主張する蒋介石と、孫文の遺志を継ぎ、共産党と協力して日本の侵略と闘おうと主張する慶齢は真っ向から対立した。
蒋介石は、我こそは後継者だと思っているが、実際は、孫文の政策を180度変えてしまった。蒋介石は、革命を断念し、独裁者としての道を歩み始めていた。
 蒋介石を中心とする国民党右派の勢力は南京に政府を樹立した。また武漢において、慶齢や弟の宋子文ら国民党左派をメンバーとする、国民政府が成立した。
慶齢は、孫文の三大政策を堅く守って、蒋介石政権の反共弾圧に抗議した。蒋介石は、慶齢も仲間にしようとした。しかし慶齢は、孫博士の意志に背いたものに協力できないと宣言。一族との決別ととれる声明文を発表した。
一路モスクワへ
1927年7月、武漢政府に裏切られた慶齢は、モスクワ行きを決断した。それは、国民党の名を掲げながら、孫文が発展させた「三大政策」の実を棄て去り、そむいた人びとに対する抗議の姿勢を鮮明にしたものだった。慶齢は、中国の現状を説明した声明文を発表した。それは、ソ連にて共産党の支援を仰ぐためのものであり、慶齢の祖国への思い、革命成功を願ってのことであった。
モスクワにいるあいだ、慶齢はいくつかのできごとに苦しめられた。まず、根も葉もないスキャンダルである。それは、慶齢が再婚し、新しい革命を開始するために、中国に渡るといった内容であった。慶齢はショックのあまり3週間も寝こんでしまった。中国では未亡人は再婚したとたんに、その徳を失うとされている。実は、これは姉の靄齢が慶齢の信用を傷つけようとして仕組んだものであった。
また親友の死。さらには、美齢と蒋介石の結婚である。

権力に魅せられた女  −美齢の結婚−
 慶齢は以前から、美齢と蒋介石との結婚に反対していたのでこれを知って衝撃を受けた。慶齢はかつて―彼の政治的正体がはっきりする前でさえ、彼の性格や素行の悪さがわかっていたので―美齢がこの男と結婚するくらいなら、彼女は死んだほうがましとまで言ったまさにその男に、美齢の運命を託したのである。美齢は、中国の「ファースト・レディ」になる誘惑には抵抗できなかった。蒋介石は孫文の後継者を自称していたので、孫家と親戚関係になることを求めていた。
 この結婚の仕掛け人は靄齢であった。孫文と直接のつながりを持ち、宋子文と孔祥熙という金融の手腕家を擁して、外国からの資金援助をも手に入れうる宋一族が、さらに蒋介石に婚姻関係を提供して、南京政権に対する影響力を確固たるものとすることは、靄齢にとってはきわめて自然なことであった。ある人びとは靄齢にすっかり気を許し、彼女を優しい人間と考えているが、靄齢こそがすべてのことがらの支配者であった。

孤立した慶齢
 ブリュッセルで開かれる国際反帝国主義大会を口実に、モスクワを抜け出し、旅の最後にベルリンに到着した。ベルリンでも、モスクワ滞在中と同じように、慶齢は、中国や世界の共産主義運動内部での分裂の衝撃を受け、また西欧や中国の反動派からの圧力にさらされた。しかし彼女は一貫して自分の立場を保ちつづけ、原則制、政治的判断力や諸事に対処する能力を示した。
一方、南京では、慶齢をうまく誘って帰国させ、蒋介石の網に取り込んでしまおうとする動きが始まっていた。孫文の遺体を北京郊外の西山の安置場所から、南京郊外の紫金山の恒久的な墓所に移す式典を催すという計画である。
慶齢には蒋介石の真の目的がわかっていたので、ドイツを発つ前に、蒋および彼の政府とはいっさい関係をもたない旨の声明を発表した。
慶齢は、結局、式典には参加したものの、なるべく人々と接触しないようにし、国民党関連の行事には一切参加しなかった。また、彼らが蒋介石を支持しているという理由で、彼女は家族とも会わなかった。慶齢は、一度正しい道と信じたらそれを曲げない性格の持ち主であった。

慶齢の攻撃
高温多湿な南京に着いて、長い儀式に疲れ、さらに苦痛をおして紫金山に上り、夫の柩がようやく安置されるのを見届けた彼女は、逃れるように上海へ、そしてモリエール路の自宅に戻った。
八月一日に慶齢は彼女自身の行動を起こした。「国際反帝大同盟」の要請に応えて、彼女は、蒋介石に対し、鋭い攻撃の一弾を放った。
「反革命の国民党指導者の性格が、今日のように恥知らずな形で暴露されたことはこれまでになかった。国民革命を裏切った後、彼らは必然的に帝国主義の道具になりさがり、ロシアとの戦争を誘発すべく企んだ。……彼らのテロリズムは、さらに広大な大衆を動員することになり、現在の流血の反動に打ち勝たねばならないという私たちの決心を強くするだけのことである」
当然のように、腹をたてた蒋介石は、これまでとは違って、威嚇をもって慶齢に対応するようになった。そして、慶齢をだまらせるために、古くから慶齢を知っている戴季陶が蒋に遣われて、モリエールにやってきた。
しばらくの間、話し合いがおこなわれたが、結局、慶齢は、言うことを聞かなかった。慶齢は戴季陶に、私をだまらせるには、私を銃殺するか牢獄につなぐかです、と言い切った。彼は、諦めて帰ったのであった。
1932年 満州事変勃発
母親の危篤で帰国した慶齢は、まもなく満州事変が勃発したため、日本の侵略に抵抗する抗日運動と反共弾圧による政治犯救済に奔走する事になった。蒋介石は、"抗日"よりも"反共"を主張。
 そのため、彼女は銃弾を送りつけられるなど自身にもテロの脅迫にさらされるようにもなった。
 慶齢は、この時以来再度出国しなかった。
西安事件と宋美齢
1936年12月、督戦に行った蒋介石が、西安で、張学良に、共産党撲滅作戦より一致団結して抗日に当たるべしとの要求を突きつけられ軟禁されたのである。
上海でこの知らせを聞いた宋美齢は、ショックのあまり気をうしなってしまった。しかし、即刻西安に飛ぶ決意をした。政治的にも軍事的にも複雑な思惑と動きが交錯する中で、美齢は夫の救出だけでなく、国家の危機への対処に関わることと認識して一直線に動いた。慶齢も蒋の政治手法は許し難いがいま彼を死なせると国内が混乱し、却って一致抗日の術を失うと判断した。
美齢は自身の身を案じてまでして、反共第一だった蒋介石を抗日のため、国共合作にするよう説得した。
この時の、美齢の行動について、アメリカの外交官ジョン・ペイント・デービスは「昔なら皇帝の玉座にみずからを押し上げるほどの気骨」を中国のファーストレディは持っていることを示した、と称賛している。
また、美齢と蒋介石を乗せた飛行機が南京に戻ってくる際、その飛行機の着陸を妨害しようとするのを、靄齢が機知と財力で救ったのである。彼女は単に、金を愛しただけの女性ではなかった。

第二次国共合作
西安事件における美齢の協力もあり、国民党と共産党が協力して抗日戦に当たることになった。姉妹は世界に向かって「中国をたすけよ!」と呼びかけ、三姉妹揃って募金、孤児救済等の先頭にたった。
美齢は、アメリカを訪問し、得意の英語を使って、アメリカ人に抗日への協力を求めた。1943年のカイロ会談は、美齢の政治生活の絶頂であり、蒋介石の没落の始まりであった。美齢はF・ルーズベルト大統領、チャーチル首相を相手に通訳以上の活躍をした。
三姉妹が公式の場で会うのは、実に10年ぶりのことであった。

ばらばらの道を行く姉妹
1948年、靄齢は、ニューヨークに移住。
靄齢は4人の子女に恵まれ、その子達が彼女の妹にも可愛がられていたので家庭も賑やかであったが、他方財を集めるのも、使うのも上手で、そのことが彼女の社会生活も賑やかにした。1950年の米上院議員選挙のとき、彼女は百万ドルをニクソンの選挙資金に寄付し、自らカリフォルニア州の華僑の票をまとめ、ニクソンの当選に貢献し、そのことが彼女や夫の銀行業他の活動を有利に発展させる事になったと伝えられている。
日本敗戦後、再び国共内戦が勃発。
1949年、蒋介石と美齢は共産党に追われて、国民党と共に台湾に撤退した。
以後、二度と大陸の地を踏むことはなかった。
宋家の中で、唯一慶齢だけが、中国にとどまった。
1949年、中華人民共和国が成立。慶齢は、中央人民政府副主席に迎えられ、新中国の建設に参加する傍ら荒廃からの子供たちの救済と育成に奔走、少年児童のための数々のモデル事業を興した。彼女はどんな時でも一人でも多くの人が幸せになるように心を砕いた。彼女の立つ処に中国の良心があるとも言われた。

宋三姉妹について
三者三様の生き方をし、時には絶縁の状態にまで陥っていたが、そのような時でも三姉妹は、お互いを思う気持ちを失わなかった。これはすばらしいことだと思う。また、家族と決別をしてまで、自身の信じた道を曲げなかった慶齢の意志の強さには感銘を受けたものである。

参考文献
『 宋王朝 上・下 』 スターリング・シーグレーブ サイマル出版会 1985年版
『 宋慶齢 −中国の良心・その全生涯− 上・下 』
イスラエル・エプシュタイン 久保田 博子 訳 1993、1995年版
映画 「宋家の三姉妹」 シナリオ