三銭=銭学森(Qian Xuesen)・銭偉長(Qian
Weichang)・銭三強(Qian Sanqiang)
『「核大国」を支えた物理学者たち』
97E2518 徐
慧菲
中国の西昌にある衛星発射基地は観光地として対外開放されていることが報道された。これで普通の人間に神密化されていた「核」を触れるチャンスがあたえられた。近年、中国の核ミサイル試験は世騒となり、中国は核大国であることが認められてきた。中国の核を語るには
80年代前、80年代後に分ける。80年代前に核というのは軍事秘密として密かに研究されていたが、80年代後さらに大きな進展が見られ、表に出されるようになったのである。中国は「核大国」と呼ばれる今日に至るまで歴史変遷の中でかなり難しい道を歩んできたが、ここでは核研究の土台となる人物なしには語られない。それは“三銭”と呼ばれる「中国科学界の泰斗」の銭学森、力学者銭偉長、物理学者銭三強である。
銭学森の履歴
銭学森は1911年12月11日に上海生まれ、1934年上海交通大学機械工学系卒業後アメリカに留学。生まれた時の動乱不安な社会大環境と安定した家庭小環境のなか、留日し教育に献身していた父の影響で自分の人生を送り出したのである。不安定な社会にもかかわらず、銭学森が優れた教育に恵められており、中学校は北京師範大学附属中学校であった。そこには厳しい教育制度の中で学生の自主的な勉強意欲を重視し、非常に民主的、活発的な校風であった。天才資質を持つ銭学森はこの豊饒な土地の中で根気強く成長し始め、1934年に上海交通大学を卒業後アメリカへ留学した。1935年、もっと多くの知識、よりよく技能を身につける為、母国に対しての愛を胸に置き、銭学森がアメリカへの船に乗った。将来、国に貢献する為である。
経済面や技術が発達していない中国は遅れていたため、銭学森は先進技術を代表する飛行機の製造を学ぶことを決めた。36年米国の最先端技術を代表する米マサチューセッツ工科大(MIT)で航空工学修士を修了、39年カリフォルニア工科大学(CIT)博士号を取得。そこで指導教官の近代力学者創始者Th.Von
Karmanを尋ね、研究を航空工程から航空理論すなわち力学にかえた。Th.Von Karmanの影響でミサイル開発研究を始めた。第二次世界大戦が始まり、銭学森はCITのジェット推進研究所の要職につき、アメリカのミサイル研究開発部門の重要な人員であった。これは後日祖国のミサイル開発の先駆となり、帰国の障害でもあった。しかし、銭学森は科学研究に対する熱意が国境なく、アメリカのミサイル開発の設立と発展に重要な役割を果たした。直ちに認められ、アメリカでの地位も承認された。初心忘れるべからず、成功すると同時に銭学森は自分の夢、目的、祖国を忘れずに、やはり帰国して祖国に貢献すべきであることを認識した。しかし、アメリカ当局に足止めされ、やっと中華人民共和国成立後の
55年に帰国できた。銭学森はロケット工学の権威であり、戦略弾ミサイル、人工衛星の研究開発を指導、中国の航空宇宙研究の発展にも貢献、広い領域で活躍していた。。
銭三強の履歴
1950年6月の朝鮮戦争で最初の空中戦にあった中国軍が軍事力の現代化、科学化を痛感した。中国の核兵器の開発は1955年1月に決意された。当時担当していたのは核物理者銭三強等三人であった。銭三強は浙江省紹興生まれ、本名は徐進。核物理学の権威、ウラン原子核の3分裂・4分裂現象の発見で有名。また、中国の原子爆弾開発に貢献した。36年清華大学物理系卒業後フランスに留学、パリでジョリオ・キュリー夫婦のもとで原子核物理学を学び、同時に共同で原子力を研究していた。48年帰国後、清華大学の教授となり、1956年中国科学院のしたに設立された原子力研究所の所長となった。中国の原子力開発もこの時期から始めたのである。最初研究開発予算として、1600万ドルにしかすぎなかった。その時は、旧ソ連の援助で核兵器開発を進めたいった。しかし旧ソ連は消極的であったため、中国は自国だけによる原子力開発計画に重点が移っていくと自覚していた。1960年7月旧ソ連は単方的に核兵器開発援助協定を破り、中ソ合作のハーネモン時期をおわらせた。それからは中国本格的な自力開発を始めた。その時多くの科学者たちは海外から帰国し、寝食さえ忘れ、母国に命かけ献身的であった。各地域、大都市、自治区に研究所支所や研究機関を作った。当時に国内のウラン資源開発、原子炉建設を推し進めていた。
銭偉長の履歴
「1912.10.9生まれ、力学者、中国民主同盟の指導者。長期にわたり力学研究に従事し、中国のロケット工学の発展に貢献。江蘇省無錫出身。35年清華大学物理系卒業後、カナダに留学42年トロント大学応用数学博士号取得。その後、米国カリフォルニア工科大学ジェット推進研究所技師として勤務。46年帰国後、清華大学、燕京大学、北京大学教授を歴任。建国後、清華大学教授、同副校長、中国科学院力学研究所副所長、上海工業大学教授、同校長。中国科学院物理学数学部委員、上海大学校長などを歴任。中国民主同盟中央委員、同副主席、5−6期全国政協常務委員、7期同副主席、1,4期全人代代表。」(
注『現代中国事典』岩波書店)
銭偉長は1943年〜1946年、アメリカのカリフォルニア工科大学で勤務している間にもTh.Von
Karmanに教わり、さらに銭学森と一緒に遠距離ロケット開発を研究し、 Von Karmanの研究所( J.P.L)で働いていた。この三年半にはおもに固体と液体燃料のロケット研究を従事していた。銭緯長は多くの秘密研究報告を完成し、ロケットの関する一系列な計算も算定した。ここでの仕事はだいたい純学術的な理論研究であった。帰国後の彼も母国に対して重大な貢献した。1985年4月17日〜19日、北京に開かれた中国第一回「交叉科学学術討論会」で、科学泰斗の三銭は非常に珍しく同時に出席して各自の発表をした。このことから見ても中国はますます科学技術に重視するようになったのである。
銭学森、国外においての貢献
第二次世界大戦中、ファシストは実用核兵器の開発に走った。アメリカ当局は脅威を感じ反ファシストの為に戦争用ミサイル開発を決定し、Von
Karmanに任務を与えた。その時に銭学森が選ばれ、ドイツのV−2ロケットに対しての遠距離ロケットの開発を始めた。また中国の留学生の林家喬、銭偉長らも共同研究し始めた。このように銭学森らアメリカにおいて核武器開発競争に参加し、大きな役割を果たしていた。結果、米国のミサイル開発が成功し、日本の長崎、広島に投下したことで、第二次世界大戦の終止符が打たれた。もし当時ドイツ・ファシスト研究していた遠距離3000マイルのロケットに成功していたら、原爆を被爆されたのはアメリカのニューヨクとイギリスのロンドンになり、歴史も変わっていたに違いない。大戦後、銭学森はまたもナチスの原爆開発施設接収へ参加された。行った場所はドイツの秘密ロケット研究所で、研究所所長空気動力学の典基人のフラントを含め数千名の有名な科学者が働いていたところであった。当時、銭学森は米国空軍科学諮問団の一人として、団長のVon
Karmanを随行しファシストミサイル技術の発展状況を考査した。アメリカへ帰国後、軍事司令部へ素晴らしい報告した。後日もアメリカは銭学森がロケット開発にも反ファシスト戦争にも巨大な不可欠な貢献をしたと評価。さらに1947年2月、Von
Karmanは銭学森をMITの正教授に推薦した。わずか 36歳の銭学森はMITの中で最も若かった。
「銭学森はMITのロケット組の元老であり、二次世界大戦中にアメリカの核研究開発に重大な貢献した。また彼の仕事は高速空気動力学と噴気推進科学の発展を促進した。これらの理由で彼を科学顧問組の候補者と指名した。」―Von
Karman。(『銭学森在美国』紅色中国的博士)
銭学森の帰国が阻止された
銭学森はアメリカの最先端技術領域に活躍し、アメリカに尽くしていたにもかかわらず、母国に帰ろうとするとき、阻止された。当時米国当局はあらゆる理由で銭学森を足止めした。ある米国海軍次長が「銭学森はどこへ行っても五個師に等しい力を持つ」、「返すなら無論殺した方がましだ」と評価した。帰国する為に本人を含め、中国側も力を出したがなかなか難しかった。周恩来総理が50十年代中期の中米大使会談でこう述べていた「たった一人の銭学森が帰国することだけに会談する必要があり、会談する価値もある」。五年間を費やして、やっと56年に帰国できた。後、「銭学森が五つのアメリカ飛行士と交換された。」というようなうわさもよくされていた。銭学森の能力を無視することができない。
国内においての貢献
1956年10月8日、中国の第一号のミサイル研究機関
― 国防部第五研究院が成立され、銭学森は院長を勤めた。その時の研究はあまりにも公開されなかったが、確かに大量な核実験が実行され、58年に自力で核潜艇動力積などの研究をし、核開発の道を歩んだ。戦争などがあり、周囲の各大国から見ると中国は核武器が先導的な役割を果たしている点にきつき、中国にも核が不可欠だと目覚めた。当時の中国は工業技術基盤そのものがまだまだ貧弱な農業国で、国民には満足な消費物資すら配給できていない状態だった。もちろん技術人員も少なく、核開発に必要な基礎力さえ欠けていたが、
銭学森は非常に熱意を持ち、たくさんの講習会を行い、核人材の培養に力を尽くした。1956年彼は『噴気とロケット技術の設立』の計画を出し、“1963年〜1969年の間に中国の独自な設計を進み、国防上に必要な当時の先進性に達するミサイルを製造”と決めた。これは実際に銭学森が主導した中国のミサイル開発事業の先端であった。銭学森達が非常に研究費用も少ない厳しい状況にもかかわらず、中国の兵器と技術的装備の現代化を目指して働いていた。2年あまりの血と汗を流した結果1960年11月5日寂しい風景の中で、“東風一号”と命名されたロケットが打ち上げられた。空に飛んでいくロケットを見ながら心の中に波浪がおきていたに違いない。周恩来総理にも最高の軍事元帥にも注目され、これは中国にとって初めての試験であり、歴史に記録すべきことである。“東風一号”が目標に命中したと伝えられてきたとたんに銭学森が涙を溢れた。これは成功の涙であり、喜びの涙であり、夢を実現できたことである。これは中国科学技術史上に新たな1ページを描いた。
1962年3月2日中国は完全に自力で第一号のミサイルを作ったが、発射に失敗した。多くの科学者達はショックを受け落ち込んでいた。銭学森ももちろん心痛むが、総設計師としての彼は広い度胸で皆を励ました。そこで“大量の失敗を土台としての得られる結果は最高の正確な結果である。”とはなした。専門家の口から出たこの普通の言葉はすごく影響力があった。当時の陳毅外相が日本人記者団の会見で、「中国はズボンを履かなくても核兵器を持ってみせる」と豪語したこともあった。その2年後の64年10月16日にその第一号の原爆、大気圏内核爆発実験が成功した。これらが中国のミサイル核武器を現実化へのみちを縮め、超大国による核の独占を打ち破った。
「科学技術こそ第一の生産力」
中国が建国以来、銭学森・銭三強らの科学技術者たちを母国へ呼びかけ、非常に大きな実績が上げられた。この成功した事例から中国は科学に対する認識が高まり、科学者を特別扱いした。文化大革命の中で過ちをおこしたが、“四人組”の後にまた“科学の春天”を迎えた。1978年に全国科学大会が開かされ、ケ小平は「四つの現代化建設の中心は科学技術の現代化である」と指した。さらに1981年「科学技術こそ第一の生産力」と言い出した。1983年、中国側はアメリカのスター・ウオーズ計画、フランスのユリカ計画などに対して“863計画”(国家高科技研究発展計画綱要)を実施し、外国の戦略性高科技への随行を重視するようになった。現在に至って、98年に“300人計画”を提出し、すなわち普通の
300倍の収入となる10万元でトップ科学技術者を採用することである。
軍事用を民間化へ転換していくハイテク工業
当時の中国にとっての軍用核開発・核兵器とはいずれにも第三世界の大国としての独自の地位を確保するためであった。自力更生で一から全てを開発した結果、晴れてNPT(核不拡散条約)の公式な核保有国の一員となった。今日に至って、中国は朱鎔基首相の「兵器・設備を優先的に発展させハイテク防衛戦闘能力を高めよう」との号令の下で軍の近代化にまい推している。発展途上国として、核を持つことの意義を明確し、中国ハイテクの象徴として宇宙開発事業の国際化へ進み、もっぱら軍事用に開発された原子力は民間化へ転換し始めた。ハイテク推進の「863計画」に盛り込まれた重要プロジェクトの一つとして、原子能科学院では高速増殖炉の研究開発も始まっていた。“原子力アレルギー”の日本と違って、中国は国民に原子力の安全性やエネルギー需要を見越した原子力発電の役割などを宣伝し、理解を得ながら計画を進めている。例を挙げて、秦山原発一号機の起動もこの軍事から民生へ転換しつつであることの証である。
展望
もともと宇宙・軍事用として開発されたといっても良いハイテクはいまや民用に大きく転換し、ビジネス化なっていくのである。これは現実であり、それにちなんで宇宙・軍事技術そのものが、民間向けに転換してくる。1986年1月に中国の宇宙工業部はスウェーデンの企業と長征2号ロケットによる郵政衛星の打ち上げ契約を結んだ。つづいて長城工業公司はアメリカのテレサット社と、長征3号による静止衛星の打ち上げ契約を結んだ。中国はアメリカやソビエトと並んで常任理事国であり、核大国といわれている。第七次五ヶ年計画に入って、中国も国際的な宇宙ビジネスに参入した。
中国国内では既に1984年からウルムチ、フフホト、ラサ、広州においてそれぞれ衛星通信地上局の建設がつづいており、インテルサットのインド洋上空の通信衛星を利用しての国内衛星通信網計画が推進していたのであり、同年の7月8日に開通した。電話、電報、データ、テレビ放送、ファクシミリなどの通信が中国全土にわたって行われるようになったのである。これからも中国の宇宙ビジネスが世界の先進国に伍して、このように展開していき、宇宙開発も国際競争の中で進んでいくに違いない。
[附]
中国暦次核試験簡況(『当代中国科学技術発展史』) |
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表11ー5 |
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序号 |
時間 |
備注 |
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1 |
1964年10月16日15時 |
第一次核試験 |
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2 |
1965年5月14日 |
第2次核試験 |
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3 |
1966年5月9日 |
熱核燃料を含む核試験 |
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4 |
1966年10月27日 |
ミサイル核武器試験 |
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5 |
1966年12月28日 |
第5次核試験 |
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6 |
1967年6月17日 |
第一号水素爆弾爆発試験 |
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7 |
1967年12月24日 |
第7次核試験 |
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8 |
1968年12月27日 |
新たな熱核試験 |
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9 |
1969年9月23日 |
初めの地下核試験 |
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10 |
1969年9月29日 |
水素爆発試験 |
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11 |
1970年10月14日 |
第11次核試験 |
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12 |
1971年11月18日 |
第12次核試験 |
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13 |
1973年1月7日 |
第13次核試験 |
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14 |
1972年3月18日 |
第14次核試験 |
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15 |
1973年6月27日 |
水素爆発試験 |
|
16 |
1974年6月17日 |
第16次核試験 |
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17 |
1975年10月27日 |
第17次核試験 |
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18 |
1976年1月23日 |
第18次核試験 |
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19 |
1976年9月26日 |
第19次核試験 |
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20 |
1976年10月27日 |
地下核試験 |
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21 |
1976年11月17日 |
新たな水素爆発試験 |
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22 |
1977年9月17日 |
第22次核試験 |
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23 |
1978年3月15日 |
第23次核試験 |
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24 |
1978年10月14日 |
第24次核試験 |
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25 |
1978年12月14日 |
第25次核試験 |
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26 |
1979年9月13日 |
第26次核試験 |
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27 |
1980年10月16日 |
第27次核試験 |
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28 |
1982年10月5日 |
地下核試験 |
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29 |
1983年5月4日 |
地下核試験 |
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30 |
1983年10月6日 |
地下核試験 |
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31 |
1984年10月3日 |
地下核試験 |
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32 |
1984年12月9日 |
地下核試験 |
<参考文献>
『現代中国事典』
1999年 岩波書店
『銭学森』 胡士弘著 1997年中国青年出版社出版
『銭学森在美国』
文洋 1984年人民出版社出
『技術と政治』 星野芳郎著 1933年日本評論社
『中国の核戦力』
昭和42年朝日新聞社
『当代中国科学技術発展史』 湖北出版社
『日本経済新聞』
1999年10月12日版
『銭偉長科学論文選集』
1989年福建教育出版社
『中国863』 李鳴生著
山西教育出版社
◆◆99年最後のゼミは一本締めで締めくくりました(笑)◆◆
◆4年の先輩達で◆