朱鎔基 (Zhu Rongji)

『「鉄腕」宰相の苦悩とその統率力を問う』

 

 

97E2066 岩井 昭仁

 

 私たち日本人にとって、おそらく朱鎔基といってもなじみが薄いと思う。しかし、中国国内や欧米ではとても高い人気を得ている。その背景には、朱鎔基の首相就任以前からの功績や、かつての中国首相にはない独自のスタイルと、今後の期待の大きさによるものである。以前、ケ小平は彼を「理想、主張、胆力があり、経済がわかる人」と評価し、また、欧米のマスメディアでは「中国のゴルバチョフ」「エコノミック・ツァー(経済覇王)」などのあだなをつけ、「英語が堪能で、経済に強い首相」と評価している。現在においても中国が海外から注目されているのは、この朱鎔基の登場および、彼の主導した改革政策と関連しているのである。

 

朱鎔基スタイル

 一九九八年三月、日本で言うところの国会にあたる、第九期全国人民代表大会(全人代)第一回全体会議で、江沢民を国家主席に再選し、李鵬前首相を全人代常務委員長に、朱鎔基全副首長を後任の新首相に選出した。朱鎔基の投票結果は賛成二八九〇、反対二九、棄権三一。実に九八%という驚異的な得票率である。政治体制こそ違うものの、現在の日本ではまず考えられないことであろう。

 朱鎔基の独特のスタイルはその後の記者会見で見てとれる。ここでは「一つの確保、三つの実行、五つの改革」(注1)にまとめることのできる公約を発表したのだが、この記者会見で、第一に彼はかなりの自信家であることがわかる。「三つの実行」の中の赤字国有企業の改革を2000年までに解決すると断言したのもそうだし、海外で自分が「中国のゴルバチョフ」とか「エコノミック・ツァー」と呼ばれていることは気に入らないと述べたのも、自分は中国の朱鎔基であるという独自性に対する自身とプライドの表れと見ることができる。第二に、中国が直面している問題を隠すことのない率直さである。たとえば、科学技術の改革が進んでいないことを認め、その原因は政府機関が肥大し、お金が科学技術の研究に十分回っていないからと述べた。この率直さはいままでの中国首脳にはなかったものといってよい。第三に、国際協調を前面に打ち出したこと、第四に、各指導者の役割分担をはっきりさせたことである。

 また、この記者会見で朱鎔基は新しい風を吹きこんだ。これまでも中国は通常国会後に定例の記者会見を開いていたが、李鵬前首相はテレビ中継を許可せず、事前に外国人記者から質問内容を外交部担当者に聞き出させ、答えやすいものだけを選び質問させていた。一種の「やらせ」である。しかし朱鎔基は、外交部担当者を通じ「会見は一時間。何を質問してもよいし、事前のチェックもしない」と事前説明した(実際は一時間半以上おこなわれた)。

 新首相の初の記者会見には内外の多くの記者が詰めかけ、緊迫した空気が漂っていた。最初の質問者、アメリカの『タイム』の記者は、単刀直入に政治改革問題について質問した。これに対し朱鎔基は、「数日前の『ニューズウィーク』と『タイム』に自分の写真が掲載されたが、『タイム』のほうがよく映っていた。『ニューズウィーク』がだめだというわけではない。私の見栄えが悪いのだから」と冗談で切り出した。会場からどっと笑いがおき、雰囲気は一気に和らいだ。そしてデリケートな政治改革問題についても回避せず、率直に答えた。

 

朱鎔基人気の理由

 ここで朱鎔基のユニークなエピソードをいくつかあげようと思う。英仏訪問中、サッチャー元首相と会談した時の話である。「私は首相に就任してまだ一週間ですから、まだ小学生のようなものです。一方、あなたはすでに博士号を取得されました」と話して、このジョークの効果で会談はきわめて和やかに行われた。会見後、朱鎔基の印象を尋ねられたサッチャー元首相は「very very good」と答えたという。また、グリニッジ天文台を訪ねたとき、朱鎔基は地球を東半球と西半球に分かつ境界線を跨いでみせる茶目っ気をみせ、そこで、報道陣から「東西関係をどう思うか」という質問が飛ぶと、「いまの東西関係は非常にいい。現にいま私はこうして東西関係を結んでいるではないか」と切り返し、その場がドット沸いたという。

朱鎔基が国内外に人気が高いのはこのようなユニークさがあるだけではない。首相就任後、「新官上任三把火」(注2)と中国の諺が言うように彼も最初の閣議で、副首相と大臣に「五つの要求」と「三つの約束」を守るように求めた。「五つの要求」とは、@公僕意識をしっかり持つこと、A勇気を持って真実を話すこと、B他人の機嫌を損ねてでも厳格に職務を果たすこと、C清廉さを貫き腐敗を避けること、D勤勉に学び働くこと、である。「三つの約束」とは、「力のすべてを重大問題の処理に充てるため」に、新内閣の閣僚が守るべき三つの戒めのことで、@国内各地を視察する際、随員を減らし接待を簡素化し、送迎と宴会をしないこと、A会議の回数、時間と参加者を減らし、観光名勝地や高級ホテルで会議を開かないこと、B公式活動以外で所属部門・地方の会議出席、記念撮影、テープカット、などをしないことである。

これは、人間関係を円滑にするための役人同志の付き合い、高官の地位に応じて満足感を味わってもらうための接待儀式は中国官僚社会二千年の歴史だが、この伝統こそが、いま国民から批判を受けている温床にほかならない。部下の役人にとっては特権と利権を奪われ、官僚であるからこそ得られる「楽しみ」を失うようなもので、大変な衝動であったようだ。

これによって朱鎔基は、腐敗分子や既得権益者から恨みをもたれても、一般民衆の間では好評であり、このころから「朱総理」と呼ばれるようになった。名字に「総理」を組み合わせた呼び方は、中国では最大の敬意の表し方で、これまででも「周(恩来)総理」にしか使われなかった。

しかし、「言うはやすく、実行は難し」いうように、問題は実行力であるが、朱鎔基は初の閣僚会議当日の午後、すぐに東北地方の長春に飛ぶことになったのだが、随行員を数人の大臣だけに限定し、省政府直属のホテルに泊まり、会議もそこで開き、宴会を断った。中国では有力者との記念撮影は大変名誉なことで頻繁に行われてきたのだが、東北の地方幹部と係員も記念撮影を望んだが、新首相の「三つの約束」を思い出し、ついにあきらめたという。九七年春に「贅沢と浪費行為の禁止に関する若干の規定」を公表されたが、朱鎔基の「三つの約束」がそれを促進する形になり、この春以降、各省庁が召集する会議数は三から五割減り、多くの省庁は三年以内は本庁ビル拡張しなと約束し、公費を使う携帯電話の制限も始まった。これらのことが、朱鎔基が国内外、特に国内の一般庶民に人気を得た理由であろう。

 

朱鎔基の人格形成

朱鎔基は生まれる前に父親が死ぬという「遺腹の子」であった。九歳の時に母親も病滅してしまう。彼の幼いころは、伯父の証言によると、読書好きで、まず「三字経」「百家姓」などの啓蒙書、次に「論語」「孟子」を学び暗記した。無口な性格でけんかもせず、小学生になってから古典小説、古代名著や漢詩を読みあさり、「水滸伝」のストーリーとそのなかの百八人の主役の号や名前も暗証できた。勉強に専念できる性格で、いとこが周りでどんなに騒いでも影響を受けずに本を読んだという。そして、ふつうの子供とは違い、初級小学校で勉強した後ミッションスクールへ進み、ここで英語力の基礎が築かれた。後の朱鎔基は、人生の早い時期に両親を失うという逆境の中で「独立思考(何でも自分の頭で考えた上で行動する)」という性格を形成したと述懐している。

中学に入ってからも朱鎔基は熱心に勉強し、今残っている中三の成績表をみると、一回だけは全学年三位だが、ほかはすべて学年トップの成績で、卒業試験も十一科目中七科目が満点であった。その後一時毛沢東も勉強した高校で勉強し、翌年には地元の高校で勉学に励んだ。高校時代には、アレクサンドル・デュマの『モンテクリスト伯』、スタンダールの『赤と黒』、ロランの『ジャン・クリストフ』などの西洋文学に興味を持ち、シェイクスピアの十四行詩に影響を受け、大学時代まで多くの詩を書いた。朱鎔基は後に「青少年時代にたくさんの優れた文学作品を読んだが、それは自分に積極的な影響を及ぼし、革命の道に向かわせた一因でもあった」と振り返っている。

大学は名門の北京清華大学に入学した。清華大学は英語教育を徹底して行っており、ここでの教育が朱鎔基の堪能な英語力を培ったと思われる。このころは学生運動の渦の中にあり、朱鎔基も入学三ヶ月で共産党指導の講義デモに参加し、学生運動のリーダーの一人にもなった。そして大学三年のときには共産党の党員になり、大学自治会の主席にもなった。当時のことを振り返り、「演説と組織の能力もみな、大学時代に鍛えられた」と述べている。朱鎔基とほかの学生との違いをいえば、学生運動に参加し、大学自治会の幹部になっても学業を怠らなかった。授業と実験の欠席がほとんどなく、成績はいつも三位以内であった。また、子供のころから好きだった京劇にも凝り、大学の京劇演奏チームの一員としても活躍した。

 

紆余曲折の青年時代

 大学を卒業してからの朱鎔基は、五一年に東北(旧満州)の東北工業省計画課生産計画室に勤務することとなった。当時の東北は全国の九割の工業が集中し、ソ連の援助を受けて計画経済に転向するためのモデル実験地域でもあり、大量の知識人と技術幹部が必要であった。そのことが朱鎔基が東北に配属された理由であったが、東北は耐えがたく寒く、また物資に乏しいにもかかわらず、そこに自分の発展の道を進んで選んだという一面もあっただろう。実際に彼は現地の職場につくと、早速、ソ連版計画経済も研究してその中身も理解し、計画経済の業務表作りや生産指導に熟達し、わずか半年後には同計画室の副主任(副係長)に抜擢された。その間、彼は恩師である馬洪(当時は党の東北局副書記長)と出会うこととなる。

 その後、毛沢東は各地に駐在していた軍首脳の軍閥化を防ぐため、東北地域の首脳、ケ小平ら、各地の首脳を北京に呼び寄せ副首相以上の幹部に任命した。高崗は特に中央人民政府副主任兼新設の国家計画委員会(略称:国家計委)主任になったので、本拠地の東北から大量の幹部を引き抜いたが、朱鎔基も馬洪の指名で北京に移動し、国家計委燃料動力局に勤め、その翌年には、同局の総合組組長に任命された。新しい職場での朱鎔基の調査研究への取り組みはやはり目を見張るものがあり、国家計委の第1四半期業務報告の執筆に参加し、計画経済の分析モデルを建国後初めて導入した。この報告書が毛沢東の高い評価を得て、その理論分析の部分を担当した朱鎔基は国民経済第一次五ヵ年計画案の作成にも加わることとなった。

 しかし、順風満帆に見えた朱鎔基の出世コースにも初めて影が射した。高崗と劉少奇・周恩来とのあいだで権力闘争が起こり高崗が自殺し、そのグループは「反党集団」とされ、恩師の馬洪も国家計委副秘書長のポストから失脚したのである。これで政治の上昇気流には乗れなくなったが、幸いにしてまだ「小幹部」だったため、直接の影響はあまり受けなっかった。その後、五四年には地方担当のチームに参加し、そして国家計委主任弁公室副主任(副課長)兼次官の秘書を務めることになった。この間に、夫人と結婚することとなる。労安は高校の後輩にあたり、北京清華大学に入学し、朱鎔基と同じ専攻で勉強することとなった女性である。五七年、張啓が病気療養のためソ連に行ったため、朱鎔基は国家計委機会局総合課副課長となり再び出世コースに乗り始めたが、思わぬことで人生最大の危機を迎えることとなる。

 ソ連のスターリン批判の影響を受け、国内における官僚主義の蔓延を問題視した毛沢東は五七年五月、党の欠点に対する批判をするよう呼びかけた。ところが共産党の正当性まで問う激しい批判が大量に出てくると、毛沢東はそれを「社会主義と共産党を心から憎む右派からの攻撃」ときめつけ、「反右派闘争」を発動した。その運動の中で五五〇万人(ほとんどは政治宣伝に追従せず自分の見解を持つ知識人層)が右派分子のレッテルを貼られ、公職を追放された。朱鎔基もこの政治の迫害を免れなっかった。本人の後の説明によれば、あるキャンペーンで同僚に促され約三分間の批判的発言をした。しかし、彼が行った国家計委と地方の計画委員会の「官僚主義」「主観主義」を批判した発言は、その場では賞賛されたが、「反右派闘争」が始まるやその発言が問題にされ、数ヶ月間自己批判書を書かされることになった。

 公職追放、刑務所入りや、家族が離散した多くの人たちと比べれば、朱鎔基はまだ幸運なほうだったかもしれない。従来の清潔さと仕事ぶりが同情を誘い、彼はしばらく職場で自己批判書を書き、批判にさらされた後、国家計委所属の古参幹部に基本的教育を行う幹部業余学校教員になることが決まった。朱鎔基はこれで出世コースにつまずくことになるのだが、今日に立って考えると、それは社会の最低辺を見る機会を得、また充電する時期にもなった。彼はこの間、マルクスの『資本論』を読破し、さらにアダム・スミスの『国富論』、デビッド・リカードの『経済学及び課税の原理』、マルサスの『人口論』など多くの経済学原典を原文で、また『尚書・禹貢』『史記・貨殖列伝』『漢書・食貨志』などの中国古典にある経済学文書を読んだ。それまで彼は計画経済の具体的な運営に従事していたが、経済学原理を勉強しながらその問題点と改革方法を考えることになったこの時期は、朱鎔基の「経済通」に鍛えていく重要なステップとなったと思われる。逆境の中で多くの人は沈んでいくが、中国でいう本当の偉人はそこで「韓信の股くぐり」(注3)を堪え、それをバネに自分を鍛え、再跳躍の土台を作っていくことになる。ケ小平も三度の失脚ののちに中国を変える最高地位についたが、朱鎔基もそのための受難と試練の時期に差しかかっていたのである。毛沢東が死去し、六二年には大躍進政策の失敗で劉少奇・ケ小平らの実務派が巻き返し、一部の右派分子に対してもレッテルをはずす作業が行われ、朱鎔基もそれによって国家計委の国民経済総合局に復帰した。その後、朱鎔基は一段と無口になり業務に没頭したが、その内心はあくまでも中国の未来を見つめ、どうやってその欠陥を矯正していくかを思索しつづけていたと想像される。

 しかし次にもっと大きな政治の嵐、文化大革命が始まる。国家計委のほとんどの幹部が失脚し、業務そのものがストップしたが、朱鎔基もまた様々な大衆批判に遭遇した。ただ、彼よりもっと上級の役人に対する批判のほうが多かったため、朱鎔基は文革の混乱中でも自分なりに本を読み、世の中を冷ややかなめで見ることができた。だが朱鎔基は湖北省にある国家計委所属の「五七幹部学校」に飛ばされることになる。そこでは、植物の栽培から、家畜の養殖などの重労働を経験し、腰痛が持病になってしまったが、相変わらず人との付き合いも少なく、数十人も泊まる大部屋でイヤホンをつけて辺りかまわず英語を大声で朗読するなど、志を捨てることはなかった。そして、朱鎔基はここでケ小平との心理的な距離を縮めることになった。二人はまだ出会っていないが、ケ小平が文革中に再度の失脚をしたことによって毛沢東型政治を徹底的に改革する決意を決めたように、朱鎔基も農村生活で、毛沢東型の経済を変える意思を持ち、改革の手順・方法を思索していたと思われる。七五年、恩師の馬洪の働きかけにより農場から離れた朱鎔基は、石油工業省管道(パイプ)局電力通信工程公司で働くことになる。

 毛沢東の死去(七六年)以後、中国の政治も雪解けが始まった七八年、朱鎔基は運命の転換点を迎えた。馬洪に要請され、馬洪が所長を務める新設の中国社会科学院工業経済研究所で研究室主任(課長級)に就任し、同年、党指導部は全右派分子に対する名誉回復を決定し、朱鎔基も党籍を回復された。また、ケ小平は思想解放運動を進め、党の十一期三中全会で「改革・開放」路線をスタートさせ、朱鎔基とケ小平の軌道は急速に接近していくことになる。

 その後、朱鎔基はトントン拍子で出世し、七九年から国家経済委員会(略称:国家経委)の課長、総合局副局長を務めた。国家委は日本の経済企画庁にほぼ相当し、計画の編成に業務の重点をおくが、国家委は具体的な経済運営に対する指導と監督、インフラと鉄道交通の整備および工業・財政・貿易など各部門に責任を負うものである。朱鎔基はマクロ経済に関する情勢判断、実務指導および理論研究に堪能ではあったが、具体的な経済運営と部門間の調整およびその問題点をまだ把握していなかった。その意味で、国家経委での経歴は彼が後に経済の最高責任者になるための恰好の訓練期間となった。

 八二年、趙紫陽首相は国務院機構改革案を発表し、十余りの機関を併合させ新しい国家経委として再発足させ、その設立大会で朱鎔基は、国家経委委員兼新設の技術改造局局長に任命された。翌八三年、彼は国家経委副主任(次官)兼党組(党指導グループ)委員に抜擢され、翌年には国家経委党組の副書記(党内でも次官級)になり、党と国家レベルの高級幹部に仲間入りした。八五年には初めてケ小平の自宅を訪れ、経済状況や問題点と対策などの業務報告を行った。その後、定期的にケ小平に業務報告をするようになり、中国の政治・経済の核心部分にさらに一歩接近することになった。

 

新首相への道

 八七年十月、第十三期党大会が開かれ、趙紫陽が胡燿邦に代わり正式に総書記に就任し、朱鎔基は中央候補委員に選ばれた。新しい首相になった李鵬は国務院の機構改革を行い、計画委員会と経済委員会を撤廃してその機能を合併させた新しい国家計委を設立し、それにともなって実質的に元国家経委のメンバーは首を切られることになった。朱鎔基も香港新華社に行くという話も一時あったが、ふたを開けてみると上海市長に内定していた。それまでの上海市党書                                 と市長の江沢民との関係がうまくいってなかったため、趙紫陽は親しい  杏文を党中央書記局長に格上げし、江沢民を上海市党書記に転任させ、空席になった上海市市長に朱鎔基を要請したのである。上海市長のポストはそれまで少なくとも大臣クラスの幹部が務めていたが、朱鎔基の経験が評価され、次官級の彼が充てられることとなった。朱鎔基にとっては、かねて考えてきた根本的な経済改革構想を最大の工業都市・上海で試し、それを通じて全中国を変える実験を行うための大舞台となったのである。

 朱鎔基は所信演説で、持ち時間十分のところを一時間五十分も熱っぽく語った。その演説の中で、清廉で能率の高い政府の改革、市政府の業務は人民代表大会と市民の監督を受けること、市政建設と市民生活の改善、教育を重視すること、産業構造のレベルアップ、など七項目の努力目標を明らかにした。

 この演説は、首相当選後の記者会見の内容とよく似ている。汚職腐敗を防ぎ、政府の能率を高めるための行政機構改革・権力の下部移譲・国有企業の活性化・外資導入などの構想は、この上海市長就任演説で示されているのである。また、最初の市政府会議で、宴会とテープカットに参加しないこと、土産を受け取らないことなどを細かく要求した(三つの約束)が、これも首相就任後の初閣議で要求したのと同じである。朱鎔基の体系的な改革構想は遅くとも上海市長になる前に既に形成され、そして上海の実験結果を持って今度は全国の改革に自信を持って臨んでいるようである。

 上海時代での朱鎔基の最大の試練は、天安門事件のときに訪れた。上海でも北京の運動に呼応して学生と一部の市民が街に出てバスを倒しバリケードを作り、交通は麻痺し、生産も半ば低下した。彼はテレビで学生と市民に直訴することにし、テレビ演説の中で、朱鎔基は「暴乱」「動乱」といった表現はいっさい使わず、「北京で起きた事件」と称して、「歴史の真相は誰にも隠すことはできず、いずれ明らかになるだろう」とし、「九九・九%の市民と学生は善良なもので、軍隊を導入する必要はない」と表明し、「今でも学生諸君の愛国心に燃えた熱意はすばらしいと思っている」、しかし市政を混乱に陥れる行動は「君らの望む方向と反対に行く」と忠告し、直ちにキャンパスに戻るように呼びかけた。翌日から市内の秩序は回復に向かい、町にあふれ出た学生は全部キャンパスに戻ったのである。

 上海での実績が評価された朱鎔基は、九一年第七期全人代第四回会議で副首相に追加選出された。しかし当時の首相李鵬は、朱鎔基の副首相就任にあまりいい気持ちがしなかったようで、なかなか担当分野が割り当てられなかった。ようやく工業部門担当が決まると、朱鎔基は難題を見事に解決し、李鵬も朱鎔基の手腕を認めざるを得なくなった。新設された大きな権限を持つ国務院経済貿易弁公室の主任に朱鎔基があてられた。九二年の十四回党大会では、ケ小平の強力な推挙と江沢民・喬石らの支持により党中央政治局常務委員になり、党と国家の最高指導者に仲間入りすることとなった。朱鎔基はまた、副首相である一方、おそらく世界でただ一人であろう現職教授を兼任していた。八七年、彼は国家経委副主任の在任中に、母校の清華大学で新設された経済管理学院の院長を兼任することになり、その時から同学院の教師と学生に時々講演をし、同時に博士課程の学生を指導したのである。

 朱鎔基の才能や秀才ぶりに関するエピソードを挙げれば切りがないが、このように家庭のぬくもりに浸る余裕もなく、九七年に彼は次のようにしみじみと話したという。「北京に戻ったときから髪の毛が抜け始めた。現在まで数年間副首相をやってきたあいだ、髪の毛は白くなった。私はたとえ髪の毛が全部落ちても中国経済を振興することに人生を賭けて悔いがない」。彼はまさにそのような心境で九十八年三月、新首相の座についたと思われる。

 

終わりに

 朱鎔基といっても、私は中国の首相であることぐらいしか思い浮かばなかった。しかし、朱鎔基の人間性とその卓越した能力を知り、感動し魅了された。これほどの魅力、カリスマ性があり、国民にも大歓迎される首相が現在の日本にもいるだろうか。最後に書いたような言葉を本心から言える首相がいるだろうか。これぞ国を背負い、国家を代表する人物だと感じた。

 

 

 

朱鎔基の年表

 

1928年

長沙省の農村に生まれる。

47年

清華大学電気学部電気製造専攻に入学。

 49年

中国共産党の党員となる。

 51年

大学卒業後、東北の東北工業省計画課生産計画室に勤務。

 57年

「右派分子」とされ、共産党から除名される。

 62年

国家計画委員会の国民経済局に復帰。

 70年

文革中に「五七幹部学校」に飛ばされる。

75年

石油工業省管道(パイプ)局電力通信工程公司に勤務。

78年

国家経済委員会燃料動力局に勤務。共産党の党籍復帰。

 83年

国家経委副主任兼党組(党指導グループ)委員に抜擢される。

84年

国家計委副主任になる。

 87年

上海市市長になる。

 91年

副首相に追加選出される。

98年

首相になる。

 

 

 

 注1:一つの確保とは、九八年の経済成長率八%、三%以下の物価上昇率、人民元を切り下げないことを同時に確保することである。三つの実行とは、第一に赤字の国有大中企業を苦境から抜け出させ、近代的企業制度を導入することである。第二に、金融部門を徹底的に改革すること、第三に、政府機構を改革し、四十の省庁を二九に削減し、職員も半分に削減し分散させることである。五つの改革とは、@食糧流通体制の改革、A投融資体制の改革、B住宅制度の改革、C医療制度の改革、D財政・税制の改革、である。

 注2:着任早々の役人は三つの新しいことをするの意

 注3:大志のある者は、目前の小事には忍耐して争わないという故事

 

 

 

参考文献

 朱鎔基の中国改革    著者 朱 建栄 / PHP新書

       インターネットより