蒋介石と蒋経国(JiangJieshi and JiangJingguo)

『「独裁と民主」の狭間を彷徨う親子』

星野 博昭hoshino.jpg (3057 バイト)

「蒋介石の一生」
 蒋介石は1887年、浙江省渓口に生まれた。彼は、15歳の時に4歳年上の毛福梅と結婚し、長男経国をもうけた。1906年から日本留学も経験し、1922年の陳炯明のクーデターで孫文と辛苦を共にして初めて、身内にいれてもらえた。1924年には黄埔軍校の校長となり、学生を指揮し、東征を行った。後に、この軍は蒋介石直属の第一軍と呼ばれるようになった。彼は、広東軍政府内で徐々に力をつけ、1926年3月20日の中山艦事件(注1)を契機に国民革命軍総司令と中央委員会常務会議主席に任命され、党、政、軍の権力を一身に集めた。そして、同年7月1日、北伐を開始し、1928年6月に北京を占領し、北伐を終えた。年末には張学良が東北でえきし易幟を行い、全国に青天白日旗(中華民国の国旗)が掲揚され中国統一を果たした。1936年12月に西安事件が発生し、彼は張学良らに捕らわれ、第二次国共合作が結ばれた。抗日戦後、彼は国共内戦に敗れ、1949年12月に台湾へ移り、台湾を拠点に「大陸反攻、失地回復」、「1年準備、2年進攻、3年掃討、5年成功」を叫び続けたが、夢かなわず1975年4月6日、享年89歳で世を去った。

「蒋介石の性格」
 彼は、現実主義者である。彼自身、自分の性格と行動を「狂・直・愚・拙であるため、人事に対してまったく警戒心がなく、疑惑もない」と述べている。そして、頑固者で蒋宋美齢夫人でも完全に心服させられなかった。彼が曽国藩(清代末期の名臣)を敬慕したのは、「聖賢とならずんば、禽獣とならん。収穫を問うなかれ、ただ耕耘を問え」という曽国藩の根気強さからである。政治も曽国藩に学び、彼を中国第一の政治家と評価した。そして、台湾に遁走した後も、曽国藩を聖賢と崇めるように国民に広めた。彼は王陽明(明代の思想家)の思想傾向を含め、人類の思想傾向を操作する手腕はなかなかであった。彼は日本陸軍・海軍の将校士官が王陽明の「伝習禄」を読んでいるのを知り、これをまねた。台北北部の草山を陽明山と改名し、王陽明の銅像を建てたのも、王陽明を敬慕していたからである。

「北伐」
 蒋介石は近代中国史において、最も重要な人物の一人である。彼の権力者への道の過程であり、権力をより強固にした北伐について特筆したい。
 前述したように北伐とは、中国統一を果たすために行われた戦争の事を指す。
 1926年7月1日、国民革命軍(北伐軍)に動員令が下り、国民革命軍は10月10日に武昌を、11月9日に南昌を攻め落とし、呉佩孚と孫伝芳の主力軍を消滅させた。こうして北伐の開始からわずか4ヶ月で、湖南・湖北・広西3省の省城を手中に収めた。国民革命軍は、捕虜を収容・編入した事によって、原軍の2倍以上に上った。長江中流域の主要都市を制圧し、何応欽の部隊は広東から福健・浙江に兵を進め、東南地域が平定されると予想されていた。しかし、蒋介石は京滬(南京・上海)地域の占領に危機感を覚えていた。彼が動員の1年前に作成した「軍政意見書」では、広東の建設に重点が置かれており、省外への発展は、四川から陜西(西南から西北)へと伸びる方法が提案されていた。長江沿いの沿海地域への発展を憂慮したのは、イギリスの干渉を恐れたからである。彼は他国の革命を根拠に「トルコ革命はイスタンブールでは成功せず、アンカラで成功。ロシア革命は帝国主義列強の封鎖を受けてレニングラード(現サンクトぺテルブルグ)を首都にできず、モスクワを首都にした」と述べている。
 1927年の清党以後、国民政府が南京に首都を定めてから、排斥され辞職した。そして、9月29日から35日間、日本に滞在した。目的は、日本の首相である田中義一との会談であった。会談では、蒋介石は自己の計画が日本人の支持を受け、すくなくとも侵略と干渉をうけないように強く希望したが、田中首相は軍部の侵略的性格を代表する軍部出身であり、中国のおける領土拡大を主張する外務大臣も兼任していたため、会談は失敗に終わった。
 帰国後、汪精衛(汪兆銘)が党・政の実権を握ると思われたが、広州で張発奎の政変が起こり、広州を占領した。それに乗じて共産党の暴動が起こり、赤色テロを行った。わずか3日間で鎮圧されたが、報復的な白色テロも行われ、一連の暴動すべては張発奎の責任となった。彼のために汪精衛は責任を被り、しかも連ソ・容共の継続は過ちであるという談話を発表し、辞職した。
 6月に北伐を完了した後、10月に国民政府は改組を実施し、蒋介石は国民政府主席兼陸海空軍総司令に就任し、名義上も、国民党の党・政・軍の最高責任者となった。
 北伐を成功させていくうちに、北伐軍は中国統一を嫌う日本の中国における権益に触れ、1928年に田中内閣は山東出兵を行って北伐軍の北上を阻止したので、済南事件が発生した。北伐軍は日本に口実を与えないためと北伐の目的を果たすために、屈辱に耐え、済南城から撤退し、回り道して北上し、6月北京を占領し北伐を完了させた。急進的な日本の将校は張作霖を利用価値なしとみなし陰謀で爆殺した。その結果、張学良の東北易幟を招き、中国はついに統一された。

「当時の軍閥」
 当時の軍閥は、江蘇・安徽・江西・浙江・福建を支配する直隷派の孫伝芳、山東には奉天派の張宗昌、華中には直隷派の呉佩孚、西北には馮玉祥の国民軍、東北と内蒙古には奉天派の張作霖、山西には閻錫山がいた。国民革命軍は、地盤の拡大を図る軍閥の覇権争いを利用し、軍閥の仲介をして漁夫の利を得て勢力を拡大した。方法は敵の将校に昇進を餌に買収するやり方は、軍閥の常套手段であり、革命軍もこの方法に則っただけであった。

「北伐時の財政」
 北伐を行うにあたり、財政面での苦労が絶えなかった。北伐前に広州で準備した軍事費は2ヶ月分の500万元であり、もし10万の編成なら、毎月兵士一人あたり最低でも10元が必要で、将校の手当と装備補充費は20元かかり、軍事予算は逼迫するとされていた。そのため、彼は国民政府に、新たに占領した地域の収入を担保にして広州の中央銀行に将来の現金化を承認してもらい、軍中で「中央銀行兌換券」500万元を印刷、発行する許可を願い出た。しかし、広州の「五省流通券」や「公債券」、広東・広西の「亳洋」紙幣、湖北・湖南の「大元」は流通地域が抵触しあった。しかも、通貨の切り下げもあり、常に頭を悩ませていた。
 国民革命軍は接収した都市と解放を待つ都市で、借入式の募援金を募る事が珍しくなく、彼が総司令の名義で軍閥部隊を買収し、手当を発給したこともあったほど状況は切迫していた。

「直系部隊の屈辱」
 彼は自身の直系である第一軍を分割して、戦場と後方の要地すべてに総司令の親衛隊がいるようにいた。しかし、親衛隊であるからといって特権があった訳でない。それは、常に最も困難な任務を担当させたからである。恐らく他の部隊は動かしにくかったのと、側近の指揮官に圧力をかける事により各軍を統制したかったのと思われる。傍系部隊に気を配るために、直系部隊に困難な任務を担当させた屈辱は耐えがたいものがあった。

「蒋介石の仕事ぶり」
 北伐期間中、彼は自ら多くの重要文章を起草し、軍事作戦中も、1日に100通以上の公文書を裁可した事もある。だから、遅くとも6時には起床し、病気であっても執務と接見に努めた。しかも、各軍の手当、報奨金も自ら定めた。軍費、武器、弾薬も彼の「決済」で支給され、砲弾100発、黄埔軍校の人事まで彼なしでは事が進まなかった。黄埔軍校第4期生の卒業生は南昌で、校長蒋介石の点呼と訓話を受けてから、各部隊に配属された。
 彼はソ連視察時、空軍に興味を持ち北伐の際、飛行機6機、パイロット10人を雇った。その後、自ら各地の飛行場建設、航空機材の整備、陸・空の連絡信号と飛行機の派遣を指示した。南昌作戦後、包囲作戦には無線連絡が重要と感じたため、種類・数量まで詳しく指示し、訓練を行う人材も物色した。

「国民党の清党運動」
 北伐と清党は事実上不可分である。国民党と共産党の指導する2種類の大衆運動を判別し、2種類の政治思想を引き出し、2種類の外交政策を採り、2種類の異なる生活様式を完成させるために清党は不可欠であった。北伐により江浙地域でかなりの成功を収めた初期的な財政の集中が実現し、「国民革命」はソ連とコミンテルンのコントロールを離れ、英米と結びついた外交路線を採ることが可能となった。1927年の国民党の「清党運動」と以降の残虐な行動は、まさに革命の過程における悲劇である。1927年3月、国民革命軍は京滬地域に進入し、4月12日には上海で清党を展開する。いわゆる「上海クーデター」である。この事件は反共の蒋介石、上海の青幇、反共・反労働組合の銀行家・商人の3者の利害が一致して起こった。まず、上海の青幇のボスである黄金栄が蒋介石に幇会(秘密結社)の力で労働組合に打撃を与えるという陰謀をもちかけた。蒋介石はこの話にのり、銀行家と商人は、彼が労働組合と共産党員に打撃を与える事を条件に計1150万元の資金援助を承諾した。それと同時に、黄金栄と杜月笙は左派の労働組合に敵対する右派の労働組合を組織した。4月12日の明け方4時に計画は実行された。当時、上海にいた周恩来は間一髪、脱出した。この日に死亡した労働者はほぼ400人とされている。
  
「蒋経国の一生」
 蒋経国は、1910年4月27日、中国大陸は浙江省奉化県渓口鎮に生まれた。幼名を健豊といった。母は毛福梅。蒋介石が15歳の時に、祖母の王太夫人が娶わせた4歳年上の妻だった。経国は、上海の浦東中学校に進学するが、「5・30事件」(注2)のために勉強らしい勉強をする暇がなかった。ここで、デモに参加し、退学処分となる。北京の学校でも反軍閥デモに参加し、逮捕されている。その後、1925年10月、1917年に「ロシア革命」を成功させたソ連に新しい誘惑と好奇心を持って、モスクワの中山大学に留学した。中山大学は、実際はコミンテルンの共産主義者が指導する革命養成学校であった。経国は、ロシア風の名前が与えられ、「同志ニコラ」と呼ばれた。経国は、27年4月、中山大学の課程を終了し、帰国の申請をしたが、父蒋介石が行った「上海クーデター」の影響で受理されず、拘束こそされなかったが、スターリンの人質となった。経国は、モスクワ郊外の工場やアルタイ金鉱やウラル重機械工場で働いた。ウラル重機械工場ではファニーナ(帰国後、中国名蒋方良)と知り合い、1935年3月結婚した。12月に長男、翌年長女が生まれた。1936年12月、西安事件が起こり、抗日のための第二次国共合作が結ばれ、1937年3月、帰国を許可された。帰国後、江西省南昌で省政府保安部隊の訓練の担当を皮切りに、行政督察専員兼 県県長、1944年1月、三民主義青年団中央幹部学校教育長に任命され地方から中央に上ったが、いままでのように順風満帆といかなかった。戦後の1945年9月、国民政府軍事委員会東北行営外交部特派員に任命され、ソ連との接収交渉に失敗し、本格化する内戦の重大な敗因の1つとなった。1946年4月、中央政治大学の教務長に任命されたが、CC派(注3)の反対で辞職した。国共内戦において、徐々に共産党が優勢となり、国民党支配地域では、天文学的インフレに陥った。これをおさえるために、経国は上海経済監督員に任命されたが、物価統制の維持等を強引な警察的手法のみでは収まるはずもなく、あえなく失敗した。(上海虎刈り)その後、国民党は内戦に敗れ、台湾に遁走した。台湾で滅亡を待っていた国民党だが、1950年6月に起こった朝鮮戦争の影響で息を吹き返した。敗戦により、蒋介石は派閥のしがらみから解放され、息子経国に「特務」機関を任せた。50年3月、陳誠の行政院長(首相)就任と共に台湾省主席に任じられた。72年5月、蒋介石が5期目の総統職に就くと、経国は行政院長に就任した。1971年ついに国連の議席を失い、国連付属機関や政府参加の主要国際機関のメンバーズシップを次々と失っていった。日本も1972年9月、田中角栄が北京を訪問し、「日中共同声明」を発表し国交を樹立し、中華民国と断交した。経国は、後継者争いの敵であった陳誠が死亡するという幸運にも恵まれ、1975年父蒋介石の死去に伴い、国民党主席となった。1978年に総統に就任した。1979年元旦をもって、アメリカは北京と国交を樹立し、中華民国と断交。北京側は、「平和統一」、「三通」(通郵、通航、通商)を呼びかけたが、国府は「(中共とは)妥協せず、接触せず、交渉せず」の「三不政策」をとった。経国は、80年代に入って、糖尿病が悪化していった。84年2月、副総統候補に李登輝を指名し、選出された。84年10月、サンフランシスコで『蒋経国伝』の著者である江南が暗殺され、この事件の黒幕が経国の息子である孝武と報道されたため、蒋家から総統職を継ぐ者がいないことを言明した。87年7月1日をもって、38年間続いた戒厳令を解除した。87年9月、李登輝を召集人として「大陸政策小組」を設け、高まる外省人(戦後台湾に移住した大陸出身者)の中国大陸帰省要求に対する方針を検討させ、同年11月3日からの大陸帰り、大陸旅行解除を実現させた。これは、40年近い台湾海峡両岸の分断状況を変える歴史的決定であった。経国は、87年の双十節(10月10日)には、車椅子で登場し、急速に視力が失われていった。そして、ついに1988年1月13日、この世を去った。享年77歳だった。

「経国の性格」
 経国は15歳にもかかわらず、デモに積極的に参加し、中山大学で「上海クーデター」糾弾の集会で激しく父蒋介石を非難した事を考えれば、熱血漢であろう。経国の性格はソ連時代に作られたと言ってよい。経国は、誰も信用せず、西側の思想形態を無視し、英米の大学卒業者に冷たく、自分の仲間しか目の内にない。事情に通じた学識者など相手にせず、ソ連式の宣伝に長け、健全な企画性に欠ける。しかし、清廉で、金銭に汚い役人は嫌っていた。権力争いにおいても闘争を楽しむ、ヒステリー性もあった。経国は人を信用せず、側近はソ連留学時代、 南時代の同級生等に限られていた。ただ、総統就任後は、特務機関のボスという黒のイメージを払拭させるためか、国民と触れ合う機会が多くなった。

「特務機関の監視の理由」
 陳誠台湾省主席は1949年5月20日より、全省で戒厳令を施行した。これは、国民政府を台湾に受け入れるための準備と無制限な難民流入を防ぐためであった。それと、中華民国政府はあくまでも「中国の正統政府」を主張し、「大陸反攻」をめざし、依然反乱を平定しなければならない「動員戡乱時期」がつづいているとし、その臨時条項の自動延長を宣言した。さきに施行された戒厳令は、集会と結社の自由を制限するとともに新たな政党の結成の禁止「党禁」、報道の自由も制限し、新たなマスコミ機関の設立の禁止「報禁」があった。
 中華民国政府の実効支配地域は、台湾とその周辺諸嶼および福建省の金門島と馬祖島のみであったが、行政組織はあくまでも全中国を代表した中華民国体制である。地方行政は、台湾省、福建省、台北市、高雄市であり、中央と地方の担当行政地域がまったく一緒であった。
 前述した戒厳体制と行政体制は、国民党の外来政権としての矛盾点であった。これは、中華民国を「中国唯一の合法政府」として「大陸反攻」を国家の最大目標としていたため、この国家目標を否定する運動は、政府の存在価値を否定する訳でもあった。したがって、党、政府により台湾社会に対する監視機構は徹底していた。

「経国の権力基盤」
 経国は、「政治行動委員会」を統括することで特務系統の掌握を果たしていった。この委員会は、国防部保密局(「軍統」の後身。現在の国防部軍事情報局)、内政部調査局(「中統」の後身。現在法務部管轄)、憲兵司令部、国防部第二庁、台湾省警務処、台湾省保安司令部(戒厳令実施機関)などの情報、治安機構の長または次長を委員会とし、特務工作の一元的指揮をはかろうとしたものであった。実権は経国にあった。この委員会は秘密組織であったが、指揮・連絡の上で公文を発する必要から「総統府機要室資料組」の名称を用いた。この公文は、ただの木彫りの小さな判一つか経国の判が押されているゴーサインが出るため、どの部署も一目おかざるをえない仕組みになっていた。50年代、経国は「資料組」を通じて党・行政院・軍にまたがって計24の単位をそのコントロール下に置いており、あたかも「小型の行政院」「地下の小朝廷」の如くであった。 
 その後、「総統府機要室資料組」は、1954年アメリカの国家安全保障会議に似せて設けられた国防会議の下の国家安全局として正規化され、1967年、国防会議は、名前を国家安全会議と変更した。

「特務機関の監視方法」
 特務機関の任務は、大陸時代は共産党対策であったが、台湾では「2・28事件」(注4)後、本省人(台湾出身者)に芽生えた台湾独立思想の監視と摘発に向けられた。
 市民生活に直接関与したのは、内政部警政署、法務部調査局、警備総司令部、憲兵司令部、それに国民党の社会工作委員会である。特に、国民党の場合、各地に住民サービスと思想指導のために設置された「民衆服務処」がその拠点となった。そして、それらが二重三重の市民監視と摘発機構となった。

「白色テロ」
 国内の独立派の人間が、選挙に立候補する際、言葉を選び演説会場で政府批判をした。その場合、発言は録音され、尾行がつき、家には脅迫状が舞い込んだり銃弾を打ち込まれるといった嫌がらせを受け、または放火されたり、本人が殺害されたりする場合があった。これらの人々は、戒厳令で党禁が施行されていることから「無党派」と呼ばれた。また逮捕によって裁判が行われたとしても、「共産党への利敵行為」、「中共スパイの隠匿」、「政府転覆陰謀」などの罪がかぶせられ、緑島に送られた。白色テロは李登輝総統の登場する80年代半ばまで続いた。僕の知り合いが80年代半ば、学生運動をしていたとき、よく周囲から冗談半分で「緑島に行くぞ」といわれたことがあるらしい。それだけ、白色テロが国民に知られていたということである。

「経国の経済手腕」
 経国は、台湾建設のために大規模国家投資「十大建設」を推進して、移民や資本の外部流出など、海外逃避に傾きがちな人心の挽回を図った。
 「十大建設」とは、蒋経国内閣が推進した産業基盤の整備と重化学工業の振興を目的とする10項目の国家プロジェクトのことである。1973年11月、?南北高速道路(基隆―鳳山間)、?西部縦貫鉄道電化(基隆―高雄間)、?北回り鉄道敷設(宜蘭県新城―花蓮県田埔間)、?桃園国際空港(新規建設)、?台中港築港(取り扱い能力、1200万トン)、?蘇澳港拡張(取り扱い能力、650万トン)、?鉄鋼一貫メーカー、中国鉄鋼の創設(高雄臨海工業区)、?造船メーカー、中国造船の創設(高雄)、?石油化学プラントの創設(高雄)の9項目プロジェクトを78年までの5年間で建設する計画が発表され、まもなく発電所建設(原発含む)が加えられ、「十大建設」と称されることとなった。総額58億ドルだった。
 これらのインフラ整備は、「米援」で農業基盤整備や電力供給網の復旧整備が行われていたが、「大陸反攻」のスローガンのもと、軍事関連施設の建設が優先されていた。特に南北高速道路や桃園国際空港は画期的な成功を収めた。
 

「まとめ」
 蒋介石は知っていたが、蒋経国は知らなかった。始めの印象としては、蒋介石が悪、蒋経国が善だったが、最後には2人とも両方を持っていたと感じた。
 蒋介石は、中国統一を果たした偉人である。しかし、彼の革命の基本路線である「資本主義」いわゆるブルジョワ主義は農民主体の中国では受け入れられなかった。もう少し、民族資本が成長していれば、彼の革命は受け入れられたはずであるが、中国は明清代の社会体制から脱皮しえていなかった。数百年続いた体制を一気に変革するのに、彼の登場は早すぎた。時代に合っていたのは、毛沢東で、彼はその後に登場すべきだったと思う。
 蒋経国は、蒋介石の長男として生まれたため、政治の舞台に上がった。彼が活躍するのは、台湾移転後である。国共内戦に敗れ疲弊していた国民党を立て直し、独裁政権を作り上げた。父蒋介石死後、総統となり、現在の台湾経済を築き上げた。本省人の反体制運動盛り上がりのため、徐々にではあるが、民主化したのは評価できる。昨年の夏、台湾に短期留学したが、中正記念堂(蒋介石を祭ったもの)、国父記念館(孫文を祭ったもの)を見たが、経国のは見なかった。これは、彼が彼自身への個人崇拝を禁止したからであるし、本省人との対立点を作りたくなかったのではないだろうか。
 現在の旅行者が台湾を旅行するとき、利用する空港等は経国が築き上げたものである。ほとんどの来台者は桃園国際空港を利用し、台北市街に向かうのに、南北高速道路を使う。台北は一国の首都として、発展を続けている。この一国の首都という表現は正しいかどうか分からないが。
 台北には地下鉄がない。理由としては?地盤が軟弱?軍事費優先だった?「大陸反攻」のスローガンなのに、台北に地下鉄を作ると定住するイメージが付いてしまうからが考えられる。地下鉄の代わりに発展を遂げたのが、バスである。台北市内を網羅し、市民の足となっている。ただ、運転が荒く、急な車線変更・急発進・急停車が当たり前で、けがをしないようにするのに必死である。上車する時、バスが来たら、とにかく手を大きく振り、運転手にアピールしなければ、停まってくれない。ちょっと危険で旅行者にとっては使いにくいかもしれない。
 中国の乗り物と言えば「自転車」、台湾では「原付」である。信号に停まった時は、数十台並び、一斉にスタートする。車に乗っていても、原付の横暴な運転にいつもヒヤヒヤさせられた。運転しながら携帯で電話している奴を見たときは、尊敬のまなざしで見てしまった。恐るべし台湾。台湾にいる間に、2度ほど原付の後ろに乗せてもらう機会があり、知り合った台湾大学の学生たちと台北北西部の淡水という町に1時間ほどかけて行った。初の2人乗りで、渋滞も関係なく、信号では常にポール・ポジションを取り、原付の特徴である小回りの良さををいかんなく発揮した小旅行は、格別だった。
 慢性的な渋滞を減らすために、新交通システム「MRT」という高架鉄道、モノレール、地下鉄を台北市中に張り巡らすプロジェクトが進んでいる。何度か乗った事があるが、なかなかの乗り心地である。後は、バス専用車線が作られ、バスのスピードアップを図っている。
 台湾人は親日的である。これは、反日より反共の教育を進めてきたからである。日本人だと分かると非常に親切にしてくれ、片言の日本語で話してくれたものだった。日本語を勉強している人達ほとんどから、「文法が難しすぎる。活用形が分からん。敬語が分からん。助詞が分からん。」と言われ、挫折した人も多いと聞いた。そして、中国の簡体字は記号みたいで文化破壊だとよく言われた。確かに、繁体字で中国語を勉強すると、簡体字は記号に見え、読みにくかった。台湾の方が漢字!!って気がする。
 台湾には徴兵制度があり、2年弱の兵役の義務がある。知り合った人も卒業後、兵役に就くと言っていたが、嫌がっていた。
 台湾では7月に李登輝総統が中台関係を「特殊な国と国の関係」と発言してから、中台関係は冷え込んでいる。そして、9月に起こった台湾の震災で、中国は「台湾省への災害支援に感謝」と国連で発言し、関係はより冷え込んだ。
 2000年3月に中華民国総統選挙が行われるため,ポスト李登輝をめぐって、与党・国民党の連戦副総統、野党・民進党の陳水扁前台北市長、国民党の有力者で無所属で立候補を決めた宋楚瑜前台湾省長が争っている。台湾独立を主張してきたはずの民進党は現実路線をとり始め、国民党との相違点があいまいになり始めている。だから、誰が総統になっても、現状維持であろう。間違っても、独立宣言はしないはずである。僕はこの歴史的瞬間を見るため、3月に台湾に行こうと思っている。
 蒋介石も蒋経国も台湾に来てから台湾人になれたのか??経国は、台湾建設のため尽力を尽くし、台湾人と成り得たと思う。しかし、蒋介石は、大陸への夢を捨てきれず、世を去ったので台湾人にはなれなかったと思う。
 李登輝以後、台湾はどのように変化し、国際社会に受け入れられるのかが、注目すべき点であろう。


(注1) 中山艦事件  汪精衛が国民党所有の中山艦を使い、蒋介石をウラジオストクへ拉致しようとしたとされる事件。蒋介石は計画を知り、戒厳令を敷き、中山艦を奪い返した。
(注2) 5・30事件  1925.5.30に発生。上海大学の学生らが、租界に入りこみ、ビラをまき、デモ行進をして逮捕された。これを聞きつけた上海市民は抗議のため、集まったが、一斉射撃をあびせられ、死者13人をだす大惨事となった。この事件を契機に運動は、大衆的で全国的な規模に拡大し、反帝国主義的ナショナリズムと反軍閥的革命運動を結合させた。
(注3) CC派    中国国民党の最右翼を代表する政治結社。中心人物は陳果夫・陳立夫の兄弟であり、CCの名の起りは、彼らの姓を連ねた、彼らが上海で作ったセントラル・クラブの頭文字、または、Counter Communistの頭文字をとったものだと言われている。彼らは国民党中央調査統計局という名の特務機関で「天下は蒋家のもの、党は陳家のもの」と言われるほど勢力を伸ばしたが、国共内戦に敗れ国府の台湾移転と共に瓦解した。
(注4) 2・28事件  1947.2.28に発生。2月27日の夕刻、闇タバコ摘発のため、外省人官吏が本省人を殺害し、翌日から本省人による抗議が行われた。抗議の大群に憲兵隊が銃を乱射し、数十人の死傷者が出て、全省でゼネストが行われた。台湾省長陳儀は、本省人知識人らで結成された「全省処理委員会」と交渉しながらも、蒋介石に「共産党分子の反乱」と報告し、援軍を要請した。陳儀は援軍到着後、態度を一変させ、戒厳令を敷き、本省人を殺戮していった3月20日より、社会治安を名目に全島で逮捕、処刑が行われ、事件とまったく関係ない大学教授、弁護士、医師、作家らの知識人が殺され、本省人の政治勢力に空白が生じた。2.28事件は口にすることもタブーとされてきたが、李登輝時代になって、やっと語る人が出てきた。事件の犠牲者は2万8千人といわれているが、暗黒裁判で処刑された人数はなお不明である。この事件は、本省人と外省人の対立として長い間、台湾社会に影を落とした。

参考文献
『蒋介石』 マクロヒストリー史観から読む蒋介石日記  黄仁宇著 北村稔、永井英美、細井和彦訳 東方書店 1997.12
『蒋経国伝』 江南著 川上奈穂訳 同成社 1989.8
『蒋経国と李登輝』 「大陸国家」からの離陸? 若林正丈著 岩波書店 1997.6 
『台湾の歴史』 古代から李登輝体制まで  喜安幸夫著 原書房 1997・6