魯迅(Lu Xun)
『自己を犠牲に中国を変えようとした男』
97E2080 遠藤 恭介
「少年時代」
魯迅の本名は周樹人という。幼名は樟樹であった。字は予山といったが、これが雨傘と同じ発音で友人からからかわれていたので予才と改めてもらった。1881年の初秋9月に、浙江省紹興府の城内で生まれた。当時、清朝政府の失政は極まっていた。1840年のアヘン戦争以来、政治的経済的に次々と列強の侵略を蒙り、国民経済は窮迫し、国力は衰えていく一方であった。このような祖国の状態が後に彼の運命と大きく関わるようになる。
彼の生家は地方の地主で、祖父は旧中国の科挙の最高のグレードに合格して進士称号を得ていた。つまり彼には高級官僚としての将来が約束されていたのだ。
1893年、数え年で13才の年、周家にとっても魯迅にとっても大変な事件が起こる。 この年は科挙の地方試験が行われる年で、浙江省にも中央から試験官がやってきた。その主任試験官がたまたま魯迅の祖父と親しい人だったので、祖父は実母の喪に服するために帰省中だったこともあり、親戚や友人たちから子弟のことを頼まれ、彼は主任官に賄賂を送ってカンニングさせるように依頼した。しかし、その使者のへまから事が明るみに出て、間もなく祖父は自首し、そのまま7年間杭州の牢獄につながれた。このため魯迅の父は科挙の受験ができなくなった。祖父が連れてきた妾腹の子は、魯迅の父の弟に当たるが、魯迅よりも年が下だった。
この事件の審理期間中に祖父周福清の家では莫大な金額を費やさなければならなかった。周福清は中書官を免ぜられて杭州で7年間収監された。このことは彼と彼の家庭を、政治的にも経済的にも、一度に壊滅状態に陥れた。またそのために幼い魯迅は、世間の風の冷たさをいやというほど味あわされ、世間の人々の本当の姿を見せつけられた。またこの事件は、彼が自分の没落した封建家庭を捨てて、彼自身の道を歩き、一歩一歩と前進して、彼の出自である封建地主階級に背いて、各個不動の革命者となることを促進した。
その次の年にも、もう一つの衝撃が魯迅を襲うことになる。父の病死である。その父というのは、やり手の祖父とは違って、世間的にはあまり目立つことはなく、官吏試験も省段階の地方試験に合格することはなかったが、彼は優しい性格であった。また彼は自分の息子の中から将来西洋へひとり、東洋(日本)へひとり留学させたいという当時としては進歩的な考えの持ち主でもあった。
その父親が1894年の暮れに突然吐血した。症状は足の甲がむくみ、次に脛へ、さらには腹、胸へとむくんでいった。漢方医は最初吐血によって肺病と診断したが、そのうち様子が変だということで、今度は水腫と診断した。しかし治療の甲斐もなく、彼は2年あまり患って、1896年に亡くなった。このときの医者達の診断や治療でのあやふやな態度は、魯迅に生涯にわたる強い漢方医不信の念を植え付ける結果となった。
その時、彼の子供心には、父の病気を食い物にして、薬屋と結託して銭儲けに及々としている漢方医の姿が強く焼き付いた。後に彼が日本留学で、西洋医学を学ぼうと志した原因の大きなひとつがこの出来事である。このふたつの出来事はまだ幼かった魯迅の生活を大きく変え、その心に深い痕を残すこととなった。
また、1894年には日清戦争が起こり、その翌年に惨敗を喫した。このことは自尊心の強い中国の知識人に大変なショックを与えた。君主立憲を主張し、変法立憲を企図した改良主義者たちも、やがて魯迅に影響を与えることとなった。
「南京時代」
1898年、魯迅18歳の時に初めて南京に遊学する。一方首都北京では*ボシン政変が起きていた。この年の5月に魯迅は江南水師学堂に入学した。江南水師学堂は海軍軍人の養成を目的とし、清末の国家的運動、*洋務運動の一環として設立されたものである。この新式学校の先生方は、急遽寄せ集められていて、ずいぶんいい加減な人物が多かったらしい。それに教員同士の派閥争いやごたごたも絶えなかったようである。彼はこの学校を間もなく退学し、次の年の1月に、同じく南京の江南陸師学堂付属鉱務鉄路学堂へ入学し直した。
彼はその学校で多くの新しいものを経験した。学校の授業で接したドイツ語、世界地理、歴史、体操、さらに物理学、地学、金石学等の課目は彼に新鮮な驚きを満喫させた。しかし、これら以上に魯迅の心を捕らえ更に、深い影響を与えたものがいくつかあった。
まずは時務報。これは梁啓超が日本に亡命する以前に上海で発行していた新聞である。外国事情の紹介や説明を主とした啓蒙的な新聞であり、青年達の間に熱心な読者を獲得していた。
次に林紆による外国小説の翻案。
そして「天演論」がある。この書が魯迅に与えた影響は計り知れない。「天演論」は厳復によるトーマス・ハックスレーの「進化の倫理」の訳書である。厳復は「天演論」によって当時のヨーロッパに喧伝されていた、ハーバート・スペンサーの社会進化説を紹介しようとした。この説はダーウィンの進化説を人間社会に当てはめようとするものであり、「適者生存」「弱肉強食」などの生物学上の進化の法則によって、人間社会の「進化」を説明しようとするものであった。
「天演論」は大きな影響を呼んだ。当時の中国人にとって、アヘン戦争以来の外侮と屈辱の歴史を思えば、このままでは中国は解体されてしまうという恐怖にも似た危機感が、この時以来彼の心を捕らえてはなさなかった。やがて日本に留学するに及んでこの危機感は次第に現実的なものとして彼の中で育っていく。
卒業後に、官費留学試験を受けて合格し、日本に留学することとなった。
「日本留学時代」
1902年の2月に横浜に到着し、東京弘文学院に入学、そこでは、国民性、民族性の問題に関心を持つようになった。翌年に弁髪を切り、革命団体「光復会」の会合に出席している。
1904年9月に仙台医学専門学校に入学、解剖学の藤野厳九郎がノートを訂正していた。
仙台で魯迅は、ひとつの決定的な体験に出くわした。幻灯事件である。第二学年の細菌の授業では、細菌の形態を幻灯で見せていた。その画片の中にロシア軍のスパイを働いた中国人が捕らえられ銃殺にされる場面が混ざっていた。銃殺にされる中国人を囲んでみている群衆も中国人であり、彼らは「万歳!」と手を打って歓声を上げていた。
この幻灯によって映し出されたショッキングなイメージこそ、魯迅の心に生涯焼き付けられた民族の姿であり、また彼の精神的方向を決定づけたものであった。
後に魯迅は『吶喊』の中で書いている。
あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切なことではない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体型がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料と、その見物人になるだけではないか。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは、不幸とまではいえぬのだ。されば我々の最初になすべき任務は、彼らの精神を改造するにある。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。
一年半後の1906年1月に仙台医専を退学し、次の日に一時帰国した。母が取り決めた朱安と結婚し、次弟の周作人をともなって日本に戻った。その後、東京本郷区駒込西片町の、もと夏目漱石宅に友人5人と共に住んで文芸研究に打ち込んだ。来日した章炳麟(太炎)を歓迎。翻訳小説集『城外小説集』を周作人と翻訳、自費出版するなどした。
「文筆家として活躍する時代」
1909年6月に7年間に及ぶ日本での生活を終えて帰国する。杭州の浙江両級師範学堂の生理学科学教員となった。翌年、紹興中学堂の博物学教員兼監学となっている。1911年に辛亥革命が勃発した。彼は学生らとともに武装して隊を組み、城外に革命軍を出迎えた。1912年には『越鐸日報』を創刊した。同じ年の2月、南京に移り、中華民国政府教育部に就職した。政府の移転にともなって、5月には北京に到着し、宣武門外南半截胡同の紹興会館に住むようになった。
教育部では社会教育司第1科長、博物館、美術工作を管掌していた。1915年の9月に、通俗教育研究会の小説部会の主任になって、小説の検閲推薦にたずさわった。
1917年の7月、張勲の復辟に憤慨し、離職してしまう。しかし、復辟が失敗に終わったため復職した。1918年の5月に「狂人日記」を執筆し、発表。その時初めて魯迅の筆名を使った。以後『新青年』に文明批判的な短評を発表した。翌年には、八道湾に家を買って周作人一家とともに移り、紹興に帰省して母や妻、末弟の周建人とその妻を連れて上京した。次弟の周作人夫妻は既に上京していて、作人は北京大学に就職していた。1921年の12月から2月にかけて、「阿Q正伝」を北京『農報』に連載した。筆名は巴人であった。
「阿Q正伝」の主人公・阿Qは、小さな街の土地の神を祀った社に住んで、地主の家に日雇いで雇われてその日暮しの男である。姓はクエイだが字がわからないので「Q」を宛てたと魯迅はいっている。阿Qは、ひとにいじめられても殴られても、心の中で相手をむしけらだとか、自分の息子であると思うこと(中国では大変な侮辱である)で、自分の方が勝利したと信じた。革命が起こったという噂が伝わると、革命党になったつもりでうかれて歩き、革命騒ぎにまぎれて強盗をはたらいた一味として、銃殺に処せられてしまう。弾丸が身を貫く直前に、阿Qは見物の群衆の眼は狼の眼であると感じた。
阿Qの自己満足を魯迅は「精神勝利法」と名付けたが、やがてこれは民族的病根を指すものになった。「阿Q」、「阿Q的」という言語が中国語として定着し、否定されるべき対象となった。1918年の「狂人日記」が、「仁義道徳」を告発し「人が人を食う」社会であることを規定したのをうけて、魯迅の文学は社会批判、国民性批判として評価された。
彼は社会批判をする短文「雑文」もよく書いている。1926年、学生が国務院まえで請願デモを行ったとき、衛兵がデモ隊に発砲し、死傷者300人余りを出したと事件直後にいわれて、魯迅はそれを信じたが、じつは死者は、重傷ののちの死者を含めて47人であった。これが「3・18事件」である。
弾圧が強化され、魯迅にも逮捕状が出た。1926年の6月に北京を離れ、厦門大学の教授になったが辞職、1927年1月に広州の中山大学に就職した。その年の四月に蒋介石による共産党弾圧いわゆる「4・12クーデター」がおこなわれたため辞職し、抗議を表明した。
1927年10月に上海に到着して以後、北京女子師範の学生であった許広乎と同居し、息子の海嬰が生まれた。北京には母と朱安が一緒に暮らしていた。
創造社と協力する予定であったが、創造社が突然方針を変更したために、創造社と魯迅の間で論争が始まった。創造社側は魯迅の階級制を問題とし、魯迅は創造社のいう「芸術の武器」は国民党反動派の「武器の芸術」の前には無力であると批判した。この論争は、1928年に最もさかんであった。
魯迅への批判は1928年末か1929年上半期に終息した。これはおそらく周恩来ら上海の中央指導者の指示によるものである。
1930年、国民党のテロに反対し、魯迅が発起人の1人になって自由大同盟が成立した。また同年の3月には、中国左派作家同盟が成立した。会長職は設けなかったが、魯迅が参加したことによって、社会的影響力は大きかった。魯迅はそこで、マルクス主義文芸理論の翻訳紹介に力を注ぎ、左連に対する非難攻撃には敢然と反論を加えた。また彼は資金援助もしていた。
1930年5月、中共中央宣伝部部長の李立三がひそかに魯迅と会見し、宣言を発表する事を求めたが、魯迅は宣言は一回限りのもので、実際には効用がないとしてこれを拒絶した。このとき周恩来はモスクワにおり留守中で、李立三の独断専行は党に損害をあたえつつあった。
1931年、10数人の中国共産党員が租界警察に逮捕され、国民党に引き渡され、そして銃殺された。その中に、左連所属の柔右などの文学者5名が含まれていた。魯迅は彼らの虐殺を世界に知らしめ、記念するために、左連の機関誌『前哨』を馮雪峰とともに秘密裏に印刷し、発行した。この中に「中国プロレタリア革命文学と先駆者の血」を執筆し、掲載した。
巴金、老舎、曹禺らは加入しなかったが、当時の大部分の筆力のある文学者が左連に吸収されたため、国民政府はそれに対抗し、「民族主義文学」を提唱した。魯迅はこれに鋭い批判を加えた。
満州事変が上海にも波及して、1932年の1月に上海事変が勃発した。魯迅は国民党による逮捕、暗殺から逃れるため、始め内山書店に非難し、ついでイギリス租界にある同書店の支店に非難することになった。
1932年の夏のはじめ、瞿秋白が魯迅を訪問し、意気投合した。1933年、上海にバーナード・ショオが来たおりに、ふたりは新聞記事を編集し、『バーナード・ショオ、上海にあり』を出版した。
1932年の11月、魯迅は母親の病気見舞いのために北平にいった。じつは、ゴーリキーに10月革命の式典に招かれ、北平経由でロシアに向かうはずだったが、監視の厳しさにより実現しなかったという説もある。
同年12月、周揚らが左連反対者を歪小化した詩を機関誌にのせたことに対し、批判の手紙をよせた。このころから、周揚らとの溝が深くなっていった。
魯迅は美術に対する関心も深く、1931年8月、内山書店主内山完造の弟、内山嘉吉に頼んで版画の実技の講習会を開いて、通訳した。ソ連やヨーロッパの版画家に宣紙を送って、彼らの作品と交換するなどしてソ連版画集やケーテコルヴィッツ版画集などを出版した。全国木版画移動展に出かけていって、青年版画家と語っているときの光景が、最後の写真として残っている。
左連はモスクワの国際革命作家連盟の支部としての正確を持っており、モスクワにあった蕭三が中国左連の代表になっていた。
蕭三は魯迅は手紙で連絡した。
1935年11月、蕭三はモスクワにあった王明の指示によって、ソ連でラップが解散した前例をあげて、左連の解散を提起してきた。魯迅はこれを左連の指導部に伝えたが、解散には反対だった。周揚らは、抗日統一戦線の樹立が緊急であるとして解散の措置をとり、新しいスローガンとして「国防文学」を唱え、新しく中国文芸家協会を組織した。これに対して魯迅は「民族革命戦争の大衆文学」というスローガンを提出し胡風に発表させた。ふたつのスローガンをめぐって論争が発生し、対立した。周揚らのグループに属していた徐懋庸が私信を魯迅に送り、詰問した。魯迅は「徐懋庸に答え、あわせて抗日統一戦線の問題について」という長文の手紙を発表して反撃するとともに、統一戦線を支持する旨を明らかにした。
新中国になって、魯迅の原稿の写真版複製が発表されたが、その中にこの手紙は収録されていない。手紙を作文したのは馮雪峰であり、魯迅展などで展示される魯迅の原稿は、魯迅が集中的に訂正をした3カ所の肉筆部分のみである。馮雪峰は、上海からソヴィエト区へと脱出し、工農赤軍の「長征」に参加、陜西省北部から特別の指令を帯びて上海に潜入したが、上海の党組織とは連絡せずに魯迅を訪問した。魯迅の家に胡風が来ていて、魯迅はふたりを引き合わせた。
胡風は左連の党支部の書記であったが、周揚らと対立し、左連から遠ざかっていた。この論争の原因は根深い。明快な結論を示し論争の中止を呼びかけたのは莫文華の一文であり、莫文華とは劉少奇の筆名である。徐懋庸はのちに延安におもむき、毛沢東にこの論争について報告し、毛沢東から訓戒を受けた。
中国の近代文学は胡適、陳独秀の先駆的論文により「文学革命」が始まり、実作としてまず出現したのが魯迅の「狂人日記」である。以後、小説、散文詩、雑文と彼は、1936年の10月の死が訪れるまでその執筆活動を続けた。
魯迅という人は、幼少の頃から身の回りで起こったいろいろな屈辱的、衝撃的な事件により、中国人の本質を知り、その人々の思想を変え、よりよい中国に導くため、古今東西の文化や文学に通じ、西欧的な科学の目をもって、単に中国を客観的に観察し研究しただけでなく、自らを犠牲にし、礎となるためにねばり強く、命がけで戦ったのである。何という偉大な人物であろう。
1881年 |
浙江省紹興城内東昌坊口に生る |
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1893年 |
祖父の入獄、父の重病により家没落 |
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1896年 |
父死ぬ。家はますます困窮 |
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1898年 |
南京の江南水師学堂に入学 |
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1899年 |
江南陸師学堂付設鉱務鉄路学堂に転校 |
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余暇に『天演論』などの翻訳書や「時務報」などを読み、小説を 好む |
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1902年 |
日本に留学 |
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1904年 |
仙台医専に入学 |
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1906年 |
仙台医専において細菌学の講義のときに見た幻燈によってショッ クを受け、医学をやめ東京に移る |
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1909年 |
弟作人の結婚と母の要請により帰国。浙江両級師範学堂の教員と なる |
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1911年 |
紹興中学堂を辞職。一時失職 |
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1912年 |
南京臨時政府の蔡元培に招かれ、教育部員となる |
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1918年 |
この年より作品によって文学革命・思想革命の指導的活動を行う |
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1926年 |
廈門大学文学科系の教授になる。上海まで許広乎と同行、以後広 州に赴いた広乎と手紙を往復 |
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1927年 |
上海に行き、以後死まで上海に住み、許広乎と同棲する |
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1930年 |
「中国自由大同盟」、「左翼作家連盟」を成立し、いずれも発起 人として参加 |
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1936年 |
永眠 |
*ボシン政変…日清戦争(中国では甲午戦役と呼ぶ)の敗戦のショックで、中国の朝野が動揺している間隙を衝いて、維新派の康有為、梁啓超らの若手官僚が光緒帝を擁して、独裁女帝西太后とその官僚達に対して行った宮廷クーデター。
*洋務…外国式のやり方というほどの意味。アヘン戦争以来外国軍隊に痛めつけられ、その強さに驚き、またその強さを利用して太平天国に勝った経験から、官僚達の間には「洋務」を行う気運が高まった。
参考文献
『魯迅の生涯とその文学』高田昭二著、大明堂、1982年2月22日出版
『魯迅の思想 民族の怨念』横松宗著、河出書房新社、1981年12月25日出版
『近代中国人名辞典』 山田辰雄編、財団法人霞山会、1995年9月1日出版