講評と解説・その三 [経済編 ]

         「経済成長の牽引車たち その光と影」
      ──香港・マカオ・福建省・広東省・海南省・上海市──

1. 香港:
 白井元道の香港に関するレポートは、「レッセフェール」とよばれる香港経済の基本システム、「ドルペッグ制」を中心とする通貨・金融の問題、さらに香港経済を支えている第三次産業の現状、といった経済諸問題に関する論述を踏まえ、彼自身の四つの提案をまとめた。つまり、金融都市化の推進、ハイテク産業の育成、オフィース化と観光業の促進である。香港経済に関する最近の代表的な意見を総括しているレポートである。
 香港は中国復帰後、これまで以上に中国経済の中に組み込まれたため、中国の経済改革との関係に関する視点が不可欠であると思う。人民元引き下げはもちろんのこと、例えば、中国の国有企業改革の重要な一環である香港株式相場への上場を通じての資金調達は、現在香港株式市場の下落と金融市場全般の萎縮により、ほとんど期待できなくなっている。それに加えて、中国では国家財政の逼迫や外国直接投資の鈍化により、国有企業改革の原資を捻出するところが益々限られてきており、もともと競争力の低い国有企業はいっそう経営不振に陥り、昨今の大量失業と「下崗」(レイオフ、一時帰休)をまねいてしまった。いいかえれば、香港経済の不振は同時に中国の国有企業改革の総合プランとスケジュールを狂わしてしまった。これはほんの一例にすぎないが、要するに中国経済をぬきにして香港経済が語れなくなってきたのである。
 経済問題とは別に、香港返還そのものについて、当時「私の1997」と題した小論をまとめたことがある。せっかく香港の議論になったので、一人の中国人から見た香港復帰の感想として、ここであえてその一節を引用したい。

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七月一日:香港復帰 

 1997年6月30日昼過ぎから私はテレビの前に釘付けになった。NHK衛星放送はイギリスのBBCと中国のCCTVと提携し、香港、北京、ロンドンと東京を中継で結び、リアルタイムで各地の現場の模様や各局の特集を放映した。それらを最大限にビデオを収めようとしてがんばったが、7月1日深夜になってみたら、なんと18時間も録画してしまった。155年ぶりの香港復帰は1840年のアヘン戦争に始まった中国の近代史そのものであり、いわゆる「栄光なる歴史の断絶」(中国ドキュメンタリ−『河殤』より)期間なのである。
 30日深夜11時半から始まった返還式典、ユニオン・ジャックが五星紅旗に変わった歴史的瞬間はもちろん画龍点睛の名場面である。が、私の脳裏に焼き付いたのはむしろイギリス側が主催した「お別れ式典」であった。これはおそらく関連行事の中で比較的に政治的色彩が薄い(?)催しであり、その華麗さの裏には大英帝国の意地を窺うことさえできた。式典では英国人のノスタルジアと貴族的伝統美がエレガントに演出され、「滅びの美学」と酷評したキャスターさえいた。もちろん、こういう舞台設定自体は極めて政治的なものであった。
 式典の主軸は音楽であった。なかでもとりわけ選曲に細心の工夫が凝らされていた。中国の伝統音楽や舞踊の後、イギリス人の女性ソプラノ歌手が登場。彼女がいきなり"Memory"を歌い出した瞬間、思わず胸にジ−ンと来た。人気ミュ−ジカル"CATS"大ヒットした美しい歌である。一昨年夏、ブロ−ドウエイの劇場でこの歌を初めて聞いた時の場面が目の前に浮かんだ。瀕死にかかった老いたメスのマウス(ねずみ)が、彼女の幸せな若い頃の美しい思い出を歌に託す。真暗闇の中で月に向かって全身全霊をこめて歌っているその姿は、まるで魂が歌っているようだ。その歌は彼女の天敵・ネコたちを感動させ、やがて敵同士の和解が実現される。"Memory"はこのfarewell ceremonyの内容にピッタリの曲であるといえよう。それに"The Last Rose of Summer" (夏の最後の薔薇)が続く。なんとセンチメンタルな英国人であろう。
 ラスト・ガバナ−(最後の総督)となったクリストファ−・パッテン総督が155年間の植民地支配の象徴であった総督府をさびしげに後にした。儀仗兵によるサイレント・ドリルの披露、博物館兼観光名所になる予定の総督府。それを見つめながら、唐代の詩人・劉禹錫の名詩「烏衣巷」が頭に浮かんできた。

旧時王謝堂前燕、飛入尋常百姓家
(昔、東晋の高官・王導と謝安の大きい屋敷に巣を作っていた燕が、いまや普通の民家の軒下に飛び込んできた)。
お別れ式典ではパッテン総督の別れ演説が終わった後、感傷的な音楽が流れ、待ちに待った華やかなパレードが始まった。
 まず登場してきたのは赤と黒と白の盛装をした近衛軍楽隊。ドボルザークの「新世界」をブラス・バンドで演奏しながら行進する。そうか、イギリス側から見た香港割譲は新大陸発見なのかと初めて気がつく。それにかの有名なスコットランドゆかりのバグパイプの演奏と華麗なる演技。幻想的な光の演出と巡り合わせの雨水の反射。雰囲気は一気にハイライトへと盛り上がる。そして、チャールズ皇太子によるロイヤル陸・海・空三軍の閲兵セレモニ−とエリザベス女王に託されたお別れのスピ−チ。最後にもの寂しげな夜空のトランペットの中で、155年間にわたり香港の空をひるがえっていたユニオン・ジャックが徐々に降ろされていく。
 「天上影は替らねど栄枯は移る世の姿」と、武士の没落を詠った日本の名曲「荒城の月」がある。日本の若き天才・滝廉太郎が残した明治維新後の士族への挽歌であった。
春高楼の花の宴、めぐる盃かげさして、
千代の松が枝わけいでし、むかしの光いまいずこ。

                 (司馬遼太郎『「明治」という国家』、1989年より)

土井晩翠の歌詞に描かれた風景さながらの東洋的な切なさが、百年後の香港の夜空にも漂っていた。翌朝のロンドンタイムズは「雨と涙の中での撤退」というトップ・タイトルを掲載し、これを酷評した。しかし、見る人々の心に英国の貴族文化に対するノスタルジアを宿しておくという演出者の狙いは、功を奏したといってよかろう。名誉を重んじる大英帝国の意地だったのだ。

 「車椅子に乗ってでもいいから、一歩たりとも返還された香港の地を踏みたい。」
 これは大英帝国にその意地を見せさせた故トウ小平氏の宿願だった。が、ゴールを直前にして力尽きて倒れた彼は、かえってある種の男の美学を人々に感じさせた。彼は改革開放と「一国二制度」という二つの遺産を残し、この1997年2月19日に静かに逝っていった。その業績に対して、香港のある識者が、改革開放を日本の明治維新に喩え、そして今回の香港復帰を「江戸の無血開城」に喩えている。次元が若干異なっているが、興味深い比較である。
 中国の近代史を50年ごとに切って、三段階に分けて見たほうが分かりやすい。その三段階とはすなわち、150年前のアヘン戦争、100年前の日清戦争、そして50年前に終わった日中戦争のことを指している。香港復帰はアヘン戦争の産物であり、日清戦争は台湾問題を生じさせた。「一国二制度」はアヘン戦争と日清戦争の一括処理を狙ったコンセプトと位置づけてよかろう。そのアヘン戦争は中国だけではなく、日本にも大きな衝撃を与えた。砲艦外交に端的に代表された西洋文明からのインパクトを如何に受け止めたかは、日中近代化の岐れ道を作った。
 アヘン戦争からわずか四半世紀、日本の維新派は尊王攘夷派を押さえ、当事者の中国以上に改革開放を断行し、政治・経済・社会の大変革を成し遂げて、脱亜入欧をめざした。もしトウ平氏の業績を日本の明治維新のプロセスと比較するならば、私は彼を勝海舟と西郷隆盛の合体に喩える。三田会談によって実現できた江戸の無血開城は、対立の立場にありながら日本という国の将来に憂いを持ったこの両者の傑作であった。しかし、旧勢力を歴史の舞台から退かせた表と陰の風雲児であったこの二人は、いずれも旧体制に属しているといったところに共通していた。つまり、革新と保守を内面に混在させたところにその限界を見出すことができる。トウ小平氏の限界もまさにここにあった。
 近代国家としての日本の骨格を築き上げたのは、大久保利通である。第二の革命とよばれた廃藩置県を断行したのも彼であった。革命世代がいなくなった後、政治と社会の大改革をひかえた中国にも果たして大久保利通に匹敵できるぐらいの力量とビジョンを持つ人物が現れるのであろうか。それが21世紀の中国の行方を左右している。
           (日本生命財団『交流』Vol.7、1997年11月)

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2. マカオ:
 田中典子のマカオ論は面白いサブタイトルがついている。「アジアの小さなヨーロッパ」。どれぐらい小さいかというと、わずか東京の新宿区と同じぐらいだという。南蛮船と種子島の鉄砲の伝来に注目した議論は、日本との接点をもち、一気に親しみやすくなる。実は、日本でいう南蛮船は英語では”Chinese junk”(中国のぼろ船)とよばれ、いまでもシンガポールでベ−・クルーズ用に使われている。それは特別な船でもなく、昔ながらの木造の漁船が転用されているだけ。"Chinese junk"はヨーロッパ人の間でかなり人気がある。大航海時代への名残りなのか、冒険心旺盛な彼等には、このノスタルジックで汚い呼び名は魅惑的でたまらなかったようだ。西洋人の時代遅れの空想的なオリエンタリズムにピッタリあてはまった絶好のアイデアである。このようなアイデアが生まれたこと自体、現地人の商魂が冴えていることの印しである。
 愛知県では2008年に万国博覧会を開催されるが、それに先立って1998年に、ポルトガルのリスボンで万博が開かれた。ポルトガル人のコスタ・ダ・ガマによるインド航路の発見を記念するために、海がテーマになっている。ここで妙な形をしたマカオ館が建てられた。正面から見て、玄関は立派なカトリック教会だが、屋根は中国式であり、その両サイドから龍が一匹ずつ首を伸ばしている。アジアなのかヨーロッパなのか分からないような混合体である。
 カジノ頼りの経済はマカオだけではない。有名なモナコなど小さな都市国家はカジノ収入に頼ることで歳入のかなりの部分をカバーしている。アメリカのラスベガスもモナコの影響を受けて建てられたという。ウォ−レン・ビ−ティ主演のハリウッド映画「バグジー」の中で、ラスベガスができたプロセスが詳しく描かれている。ラスベガスでもアジア系の人が多い。カジノに支えられているマカオが返還された後、経済はどうなるのか、その行方を見守りたい。
 マカオの中国復帰は今年の12月20日。2000年前の最後のビッグ・イベントだ。


3. 福建省:
 世界中に散らばっている民族は二つある。ひとつはユダヤ人、もうひとつは華僑だ。 ユダヤ人は一致団結して金融・宝石など派手なビッグ・ビジネスを営んでいるのに対して、華僑はファミリー・ビジネス、不動産業、サービス業をやっているのが多い。その極致ともいうべき業種は中華料理である。中華民族の先祖はこのすばらしい技術を生み出したお蔭で、その子孫たちは世界中でその恩恵を享受するようになった。地球上、どこへ行っても見つかる店はおそらくマクドナルドか中華レストランだろう。前者は近代的な大企業であり、後者は中小、いや零細企業である。東南アジアを除けば、産業資本に手を出す華僑は少ない。地縁・血縁を紐帯にできた世界規模の華僑のつながりは、最近になって「バンブ−・ネットワ−ク」というよばれるようになった。バンブ−(竹)は細いが、強靭であるうえ柔軟性もあるので、簡単には折れない。中国の経済発展にともない、台湾・香港、そして華僑による経済活動を視野に入れた「グレ−タ−・チャイナ」説(大中華圏)が急速に台頭し、脚光を浴びている。
 その華僑の故郷を取りあげたのは幅岸智美の僑郷・福建省レポ−トである。広東省に次いで、華僑の多い省である。この幅岸レポートも現地調査の結果を踏まえたものである。
 幅岸レポートによれば、中国では戦乱に陥る時や自然災害が起こる時は、海外への移民が加速するという法則まがいのものがあるとの指摘は、なかなか説得力がある。例えば、元代、清代、アヘン戦争以降の列強支配の時代、日中戦争の時などはそうであった。歴史的に見れば、中国の人たちは土地に対する執着心があるものの、国境に対する考え方が比較的希薄である。特に南方系の人々にはその傾向が強い。例えば、東南アジアには海から比較的簡単に行けるし、その自然条件も広東や福建とさほど変わらない。さかのぼれば、大体13世紀・元の時代から中国の人は国境を突破し、国家の固定観念に束縛されないようになった。700年前からボ−ダ−レスの考え方になったといえよう。
 現在、華僑総人口2800万人のうち、その90%の2500万人がアジアに住んでいるということは、多少意外なデータである。
 また、欧米方式、日本方式と並んで、香港・台湾・シンガポールの成功体験から華人方式とでもいうべきビジネス手法の確立が進み、それが中国にに自信を与えているという指摘は興味深い。
 「中国では現在、華僑・華人企業が共産主義社会に欠ける必要三大要素を提供している。それは起業精神、危険を伴う資本投資、ビジネス・マネージメントの能力である。」多少おおげさのように聞こえるが、こうした新しい社会勢力の出現とその価値観の伝播は、案外市場経済をうたう中国を変えていく原動力のひとつになるかもしれない。

4. 広東省:
1978年からはじまった改革開放の中で、福建省とともに全国に先駆けて「弾力的措置」、――いいかえれば経済運営に関する大幅な自主権――が与えられたのは広東省であった。その象徴としては中国最初の4つの経済特区のうち、3つが広東におかれた。4つの経済特区とは、深セン、珠海、汕頭、厦門のことを指している。内藤圭一の広東省レポートによれば、改革開放の急先鋒を務めた広東省は、1980年代末までにGDPの成長率も規模も全国トップに躍進、外国直接投資の受入額、輸出額でもトップになったという。
その改革開放のフロンティアである広東省は、昨今のアジア経済危機からの影響を真正面から受けている。人民元を切り下げないという中国政府の国際的な公約は、輸出基地としての広東省の経済に大きな打撃を与えている。広東国際信託公司(GITIC)の不良債権処理問題は、中国の金融システムに対する外国金融機関の不信をまねくおそれがある。一方、上海の台頭は広東省がこれまでもっていた中国経済の牽引車としての役割を奪う可能性が高まってきている(本編6の上海レポート参照)。市場開放が中国全土に広がったため、広東省の対外窓口としての優位性も薄れてきている。かつて、新しい流行は香港→広東→上海→北京といったように順次、南方から北上することで、広東省一帯は「南風窓」とよばれた。歴史上、孫文革命も広東から始まり、国民革命軍による「北伐」も広東から始まっていた。新中国が発足してからも、広東省は香港に隣接しているため、資本主義にもっとも近いフロンティアとしての役割を果たしてきた。香港発の新しい情報や新しい風は広東経由で中国大陸に伝わってきた。いまの広東は昔ほどの威力が発揮できなくなったということは、「南風窓」からの情報はそれだけ全国で均質化したことの裏返しといえよう。
「南風窓」としての広東は、香港に隣接するという独特な立地条件にくわえ、地縁・血縁で結ばれた華僑ネットワークとのつながりから、改革開放の急先鋒を務めたのは歴史の選択であった。日本の鎖国時代と比較するならば、香港を「出島」に喩えるなら、広東は長崎にほかならなかった。しかし、課題は依然として残されている。要するに、いかにしてその波及効果を全国に広げるかという問題である。

5.海南省:
「海南省は海南島を主に、西沙、南沙、中沙群島などを含む行政区域である。」このような出だしで始まった伊東政次の海南省レポートは、この地域のもつ政治的な意味合いと安全保障上の重要さを改めて認識させられた。西沙、南沙群島は周知のとおり、中国とフィリピン、ベトナムなどの国との間で領有権問題をめぐり対立をはらんでいる地域である。地下石油資源の獲得と中東への石油ルートの確保は関係諸国の本音であろう。
そもそもASEANが設立された当時でも、その集団目標はいわゆる「中国からの脅威」に対抗するためのものであった。1995年 ASEANに新規加盟したベトナムは、それまで東南アジアとインドシナ半島で中国に対抗できるパワーを保持していることを取引材料にして、しばしば旧ASEAN諸国の譲歩を引き出してきた。あるベトナムの映画で、「われわれはアメリカには50年、フランスには100年、中国には1000年以上いじめられてきた。」と声高々に言っていた。ベトナム戦争で中国が自国の支出を一生懸命削りながら莫大な額にのぼるベトナム支援(一説としては合計300億元)を行ってきたことを考えたら、中国人としてはなんとも歯がゆい思いである。やはり朝鮮戦争と同じように、行きすぎた世界主義はよくないのである(歴史編・講評二の2参照)。南中国海の地下石油資源の獲得と中東への石油ル−トの確保は、今後中国経済の発展を維持するうえで、きわめて重要である。中国は1964年に史上初めて石油の自給自足を果たしたが、30年後の1993年に再び石油純輸入国に転落した。その重要な原因は大慶油田(黒龍江省)にある。1960年代前半、大慶油田の発見は中国の石油供給の自給自足に大きく貢献したが、その大慶油田は90年代に入り、産油量が相当減少してきており、最近日本への輸出も時には途切れる状態に陥るほどであった(1999年2月)。
ところで、中国の石油生産量の約半分を占めていた大慶油田の減産は供給面の要因にすぎない。一方消費の面では、中国経済の急成長にともない、石油消費量も急速に上昇し、自動車・航空機など輸送用機器の急増、石油化学産業の急成長、電力不足から生じた火力発電量の大幅な増加など、大口石油消費産業の急速な伸びは中国の石油需給をさらに悪化させている。中国は2010年頃から本格的なモータリゼーションが始まるであろうという予測もあり、戦略資源としての石油の問題は益々国家戦略の重要な一環として浮上し、さらに安全保障問題や海洋戦略へとエスカレートしていく。例えば、日中間の懸案である釣魚島(尖閣列島)問題が深刻化したのも、歴史的な領土問題と並んで、中日という石油依存国同士の海底石油資源をめぐる経済問題でもある。広大な海洋水域をもつ海南省は、中国の石油安保体制と海洋戦略にとってきわめて戦略的な位置にあることはいうまでもない。
伊東レポートは、中国とASEANとの関係、領土・資源問題について論じられている。それによれば、海南省は中国最大を誇る経済特区(五番目)として、外資導入に依存しながら「東洋のハワイ」をめざして空港・港湾・高速道路などのインフラ整備を急ピッチで進めいる。その外資依存の開発戦略は昨今のアジア経済危機の影響を受けて見直しに直面している。その関連でアジア経済危機とはなにか、その発生要因はなにか、さらにはIMF支援や中国の対応などについて詳しい分析を加えられている。レポートは全体として広い視点から海南省と周辺のアジア諸国との関係を論じられた秀作といえよう。
あえて注文をつけるならば、前述のように、海南省の立地条件と石油安保の問題、さらには中国の海洋戦略と結びつけるならば、卒業論文に発展できる面白いテーマになるであろう。

6.上海:
昨年、ドイツのブレーメン大学と学術交流があり、その関係で夏にドイツを訪ねた。ドイツのアジア経済関係の研究者によれば、ドイツでは"Shanghai"、特に"Pudong"という言葉が広く知られているという。"Shanghai"は上海で、"Pudong"は浦東と書き、かつての深センに取ってかわり、いま中国経済を引っ張る牽引車役として世界の注目を集めている。浦東開発は中国の国家プロジェクトなのである。
朱静勝の上海レポートは国際都市・上海の風貌にふさわしい総括的な論述である。朱君の故郷・上海への旅に赴く人はこのレポートを携えるといい。その中には、昔上海で大学生活を送った評者でさえ知らない情報が多い。その地の出身者ならではのレポートであるといえよう。
その一節を引用してみよう。
「上海は租界時代の古さと経済発展による新しさが渾然一体となって成立している特異な都市である。戦前は、欧米列強の占領地をめぐる駆け引きが繰り広げられ、中国人の独立運動ともあいまって、アジアでもっとも危険な都市で『魔都』などとよばれていた。戦後も歴史の荒波に揉まれ、時代の節目に急激な変化を強いられた。そんな上海も80年代以降は中国経済の牽引車となり、現在は中国でもっともホットでエキサイティングな都市となっている。」
著者、評者のみならず、上海を訪れたことのある人はだれがこのような「上海の魅力」を否定できよう。
話しは戻るが、朱君のレポートにも出たように、浦東開発は1990年代中国の高度成長を象徴する一大プロジェクトである。「中国を制するにはまず上海を制する」という思惑は洋の東西を問わず、海外進出を狙う世界の企業にとっては共通している。そのきっかけを作ったのは、「中興のリ−ダ−」とよばれたトウ小平である。1992年の春節、87歳の高齢になったトウ小平は、天安門事件後の閉塞的な中国情勢に憂いを観じて、広東・侮框を訪問し、談話を発表した。それはすなわち、中国の改革と開放に加速の号令をかけたいわゆる「南巡講話」である。それは中国経済を高度成長へと導いた「綱領性文件」(指導的な公文書?)とよばれ、彼の南方視察は「トウ小平の最後の闘い」だと外国の新聞などに取り扱われた。「南巡講話」の中で、彼は上海について言及した。要するに、もし1980年代初期、4つの経済特区が誕生した際に上海も経済特区に指定されたら、現在中国経済の「格局」(構図)はもっと変わっていただろうに、と。
上海は現在の中国経済の牽引車役になったのは偶然ではなかった。中国大陸を横断する東西の大動脈・長江の海への入り江に位置する地理的条件、中国でもっとも豊かな地域である東部沿海地域の中間に立地する「地の利」、中国の対外の窓口としての機能と国際的な知名度、さらには中国最大の経済都市としての実績、いずれの面から見ても、上海は中国経済の牽引車役にふさわしい諸条件がそろっている。
それらの条件に加えて、今度は「天の時」がやってきる。江沢民、朱鎔基体制の誕生である。経済の必然性とは違って、政治の面では歴史の偶然ともいうべきか、1980年代の上海を牛耳ったこの二人はいま中国の命運を握ることになった。「上海閥」といわれたこの二人は実際にはいずれも上海出身者ではない。江沢民は江蘇省、朱鎔基は湖南省の出身なので、「上海閥」という言い方は必ずしも正確ではない。しかし、いずれにしても文字通りに「上海を制する者は中国を制す」ことになった。上海時代における両者の指導力が買われたことであろう。しばらく前の新聞報道では江・朱両氏に、前首相の李鵬氏をくわえ、旧ソ連の指導体制・「トロイカ」(三架馬車)に喩えられていたが、私が見るには、中国の現指導体制はソ連よりもむしろ戦後初期の旧西ドイツの指導体制に似ている。当時復興と和解を求めた西ドイツでは、政治と外交はアテウナワー首相(阿登納総理)、経済はアイハッド博士(艾哈徳経済部長)といった役割分担で、西ドイツを繁栄への道へと導いた。いまの江・朱体制の役割分担にそっくりである。
上海はそれだけ不思議を生み出す土地柄である。その江沢民氏は昨年11月、国家元首として初めて日本を訪問した。歴史編でも言及したように、歴史問題はあまりにも突出したがために、かえって日中経済協力に関する重要な議題はその影に隠れてしまった。その中の一つは、いわゆるユ−ロアシア・ランド・ブリッジ構想(欧亜大陸橋)に関する日中経済協力である。
ユ−ロアシア・ランド・ブリッジについて具体的にいえば、中国の江蘇省・連雲港を起点とする鉄道は黄河流域・新彊ウイグル地方を通って、旧シルクロードに沿って中央アジア諸国を通過し、ヨーロッパにつながり、オランダのアムステルダムを終点とする(江蘇省とシルクロードについては後出の松岡と岳のレポートを参照)。このユーラシア大陸を結ぶ鉄道は、ユ−ロアシア・ランド・ブリッジという。その鉄道に沿って光ファイバ−・石油輸送のパイプライン、さらには高速道路を整備することで、現在船輸送に頼っているヨ−ロッパとアジアの物流状況を輸送の時間とコストの面で大幅に改善することを狙いとする。
この構想の実現は同時にヨーロッパとアジアの経済地図や安全保障の構図をも一変させる。中国にとってのメリットは東部沿海地方と内陸部の経済格差の解消に役立つことであり、日本にとってのメリットは、これまで過度に頼っていたマラカ海峡を通る石油輸送と貨物輸送のル−ト、いわゆる「シ−レ−ン」の緊張を解消することである。それはまた、カスビ海(里海)や中国のタリム盆地など石油産地へのアクセス・ル−トの確保を通じて、不安要素の多い湾岸地域への過度な石油依存から脱却することを狙う。光ファイバーや高速道路などのインフラ整備のもつ将来性は改めて指摘するまでもない。しかし、関連諸国の政治的・外交的な思惑の違いや鉄道規格の不統一など政治的・技術的・資金的問題はボトルネックになっている。
(本来、ユ−ロアシア・ランド・ブリッジ構想については、民族編の新彊ウイグルのところで論じるはずだが、民族問題からは多少ずれているため、経済編の中に入れた。民族編の後藤レポートもあわせて参照されたい。)
江沢民訪日の際に、ユ−ロアシア・ランド・ブリッジ構想と並んで重要な合意事項は、環境問題における日中経済協力である。それはすなわち大連、重慶、貴陽三都市に対して環境のモデル都市となるように日本から技術と資金面で協力することである。1990年代に入ってから、四川省の成都、上海で相次いで光化学スモッグが観察され、それに象徴されたように、中国の都市環境問題は1960年代半ば以降の日本の高度成長期に彷彿させるぐらい深刻化している。国際都市・上海も都市部の自動車排出ガスに関する検査で全国ワ−スト5に入っている(その他、広州・北京も入っている)。上海―北京間の高速鉄道への協力は日本側のもう一つの期待である。江沢民訪日の際、日本側当事者はわざわざ彼の東京−仙台間の移動を新幹線にして体験してもらった。現在、上海―北京間の高速鉄道をめぐってフランスのTGV、ドイツのICE(inter-city express)と日本の新幹線が競合している。最近、ドイツとフランスは独仏連合を組んで、日本に対抗している。そのドイツは昨年ICEが大事故を起こしたことで、大きなダメ−ジを受けた。しかし、隣の韓国ではソウル−釜山間の高速鉄道プロジェクトの入札をめぐり日仏独三国の間で激しい競争が繰り広げられ、その結果、フランスのTGVに軍配があがった。韓国の例をみても分かるように、上海―北京間の高速鉄道プロジェクトは必ずしも日本に有利とはいえず、油断が許さない。
広東に代わって中国経済の牽引車になった上海は、かつての香港一辺倒の広東方式と一味違った中国独自の経済発展様式を生み出してほしいものである。
 (朱君は上海レポートの後に「東洋のマンチェスター」とよばれた大阪、「日本第2の都心」とおいう別称をもつ横浜に関する詳細なレポートを付け加えている。両都市はいずれも上海の姉妹都市である。日本の皆さんには熟知の内容かもしれないが、留学生にとっては耳新しい情報ばかりである。)