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『三国志と蜀の国』


木全 浩子

四川省の別称は、「蜀」という。四川省の省都である成都は、今から約1750年前、ある国の首都だった。その国を作ったのは、民衆を愛する群雄だった。その国の名前は、「蜀」または「蜀漢」。「蜀漢」は、現在の四川省より大きい。王様の名前は、「劉備」、彼の片腕とも言うべき軍師は、「諸葛孔明」という。現在の四川省は、日本の国土面積の約1.5倍ある。しかし、「蜀漢」は、四川省を中心に貴州省、雲南省を含む日本人の想像を越えた巨大な国だ。私は、1750年前にあったこの国の歴史から四川省をとらえようと思う。

1.三国志の概要

 184年、華北で張角が起こした黄巾の乱により、後漢が220年に滅ぶ。この混乱のなかから、華北を根拠地として後漢にかわった魏220年から265年(曹操、曹丕)、江南の呉222年から280年(孫権)、四川の蜀221年から263年(劉備)がおこり、中国を3分して争う三国時代となった。やがて魏は蜀を滅ぼす。しかし、その魏も臣下によって滅ぼされ、呉も滅びていく。
 三国志の物語は、劉備が関羽と張飛と共に、黄巾の乱で荒れた世の中を、再び漢王朝による平安の世の中にするために立ち上がるところから始まる。劉備は、決して人を裏切らない人情家だ。関羽と張飛は、荒削りな軍人タイプの人物。孔明は劉備達より、20才くらい若い天才肌の人物で、劉備が「三顧の礼」(*1)を尽くして味方になってもらった。敵である曹操は、人を使うのが上手く、人間的にも出来た人だが、冷酷な一面もある人物。孫権は、どちらかといえば堅実で、攻めるより守る性格。三国志は、これらの英雄達が活躍する物語だ。
 
*1「三顧の礼」.....三度も訪ねて礼を尽くし、賢人を臣下に招くこと。(旺文社国語辞典第八版より)

2.何故、劉備と孔明が蜀の国(四川省)を手に入れようと考えたか?

 1つ目の理由は、昔から豊かな地方だったからだ。下記は、蜀の国の説明だ。

  (前略)...「天府」(*2)の美称があった。蜀の桟道の険によって、中原とへだてられ、三峡 の険によって長江流域ともへだてられ、自給自足できるので、いざとなれば自立できた。前漢末、 王莽の出現で天下が乱れると、ここに公孫述の独立政権が誕生している。のちにもしばしばこの地に独立政権が樹てられた。抗日戦争時代の中国が、この地を抗戦の基地としたことは記憶に新しい。(注1)

 現在でも四川は、気候が温和なため農産物の生産に適している。特に食糧、油類、綿、麻、サトウキビ、桑、茶、果物、薬草、たばこなどが多い。中国で取れるほとんどの農産物の生産高ベスト10に入っている。全国の5代牧畜区の1つと言われるほどに牧畜も盛んだ。
 2つ目の理由は、当時の状況から考えて手に入れやすかったからだ。当時、蜀の国を治めていたのは、劉璋という人だった。下記の文章は、張松という蜀の国の外交官が劉備に会い、語った言葉と彼がとった行動だ。

  「(前略)...元来、劉璋は、暗弱の太守、無能の善人、いかにこの時代の大きな変革期を乗り切りましょうや。現状のままでは、明日にも漢中の張魯に侵されて五斗米の邪教軍に蹂躙されてしまうしかありません。...(中略)...皇叔(*3)、決して、おだてるのではありません。媚びるのでもありません。どうかご自重、また大志を抱き、かつ天下万民のため、小義にとらわれないで下さい」
  張松は従者を呼んだ。
  そして馬の背の荷物のうちから一箇のはこを取り寄せた。
  蓋を開いて、これを展じれば、千山万水、峨々たる山道、沃野都市部落、一望のうちに観ることができる。すなわち、彼が蜀を立つときから携え歩いていた「西蜀四十一州図」(*4)の一巻だった。(注2)
 
 つまり張松は、劉璋を裏切り蜀を劉備に売ろうと画策した。張松は、最終的には劉璋にこのことを知られ、殺されるが、劉備はこのことをきっかけにして蜀を手に入れることができた。

*2「天府」...天国の意。成都平野は干ばつもなく安定した農業を営めることから「天府」と呼ばれ、「天府の国」は四川省の代名詞にもなった。
*3「皇叔」...劉備のこと。劉備は、「劉皇叔」と呼ばれることもあった。
*4「西蜀四十一州図」...この当時自分の国の地図を渡すということは、自分の国を相手に差出すという意味も含まれていた。       



3.劉備達が蜀の国を手に入れるための難関

 蜀の国は、天然の要害に囲まれていた。下記は、蜀の国の地形が攻めるのにいかに困難なのかを説明している。

  (前略)...この地方の交通の不便は言語に絶するものがある。北方、陜西省へ出るには有名な剣閣の山路を越えねばならず、南は巴山山脈にさえぎられ、関中に出る四道、巴蜀へ通ずる三道も、険峻魏峨たる谷あいに、橋梁をかけ蔦葛の岩根を拳じ、わずかに人馬の通れる程度なので、世にこれを、
「蜀の桟道」と呼ばれている。(注3)

  周囲を峻険な山並に囲まれ、国土の東方を大河・長江が流れる蜀の大地は、まさに守るに易く攻めるに難い国であった。そのため、劉備軍が蜀に侵攻したときも、この天然の要害に拠る劉璋軍に頑強な抵抗を受けたのである。(注4)

 蜀の国に進軍することは、容易ではなかった。結局、蜀の国へ進軍するために孔明が考え出した作戦は、妻の綬が作り出した「水引餅」という器械にヒントを得たものだった。下記に孔明が考え出した作戦を紹介する。

  狭い桟道の真ん中に、一筋、深い溝をつくる。そして、一輪車を用いるのだ。荷台はできるだけ広くして、大量の輸送ができるようにする。車輪をいれる溝が深ければ深いほど、車は安定するだろう。
 「これまでの車輪ではだめだな。.....車輪を改良しなければならない。....」
  孔明は、天井から床に視線をおとして、ひとりごちた。(注5)

 劉備は、蜀の国を手に入れることができた。劉備は、ここで皇帝を名乗るようになる。蜀漢の成立だ。しかし、蜀漢の平和は、危うい均衡の上に成立していた。孔明の考えた「天下三分の計」とは、まず中国(当時の中国は現在の中国とは少しちがう)を魏・呉・蜀と3つの国に分け、その3国の力のバランスによって平安の世の中を作るというものだった。しかし、この3国のうちどこかの力が弱まればたちまち均衡は崩れてしまう。この考え方は、少し安易すぎたかもしれない。劉備は、年をとりすぎていたし、後継者(*5)には恵まれなかったからだ。

*5「後継者」...劉備には、劉禅という息子がいたが、彼は暗愚だといわれている。


4.「蜀漢」が滅びていく課程

 最初のつまずきは、呉に攻められたことが原因で関羽が死んだことから始まった。そして、その次に張飛が部下に殺された。劉備の性格は、政治家というより人情家だった。彼は、当時呉に復讐することが失策だということを理性ではわかっていた。しかし、感情では割り切れなかった。劉備は、呉に関羽の復讐戦を挑んだ。「蜀漢」は、呉に大敗した。この戦いで「蜀漢」にいた良き人材を失い、国力を低下させた。そして、そのことが間接的原因になり年老いた劉備も、死んでしまった。
 孔明だけが残ったが、劉備とともに入蜀した家来は、全員年をとりすぎており有能な家臣もほとんど亡くなっていた。蜀の国の人材が、まだ育たないうちに呉が南の国を従えるなど外からの圧力も加わった。孔明は、攻めることが最大の防御だと考えたのだろうか、北伐(*6)に踏み切った。しかし、孔明はこの頃から病気に冒されはじめていた。その上、北伐を指揮する将軍の人選を誤った(というよりも、その他に妥当な人物がいなかった)。そのため、北伐は失敗に終わり孔明は、その途中で亡くなる。
 孔明が亡くなった後、暗愚と言われた劉備の息子、劉禅だけが残った。劉禅は、よい色にも悪い色にも染まってしまう性格だった。そのせいで、「蜀漢」では黄皓という宦官が政治を腐敗させ、また一方では姜維という孔明の後を継いだ将軍が北伐を続けたせいで、蜀の国の民衆は重税に苦しみ蜀の国は荒れた。そして、下記のようにして蜀漢は、終わった。

  蜀漢は諸葛孔明亡きあと、三十年維持することができたが、二六三年、魏の大軍を迎えて降伏し、劉禅は魏の安楽公に封ぜられた。(注6)

 蜀漢が、滅びた原因の一つは、いい人材がいなかったからだ。劉禅は、「いい人」というだけだったらしい。やはり、民衆がついて来なくなったら、国の存続は難しい。

*6「北伐」...魏と戦うこと

5.三国志における日本の立場
 
 三国志は、3世紀に晋の陳寿によって編纂された。三国志の一つに「魏書」というものがある。その中の東夷伝倭人の条(「魏志」倭人伝)がある。それによると、倭(日本)では2世紀後半に大きな戦乱がおこったが、3世紀になって邪馬台国の女王卑弥呼をたてることによっておさまり、卑弥呼を中心として30ばかりの小国の統合体が生まれたという。卑弥呼は239年に、魏の皇帝に使いを送り、「親魏倭王」の称号と銅鏡などを受け取った。
 どうやら、この頃の日本の代表を名乗っていた卑弥呼は三国のうちの魏の陣営に属していたらしい。三国志において大和民族は、魏の国に属していた海の向こうの少数民族の1つにすぎなかった。

6.現在の四川省

 四川省は、3世紀半ばにはどの群雄も、手に入るなら手に入れたいと思ったほど、裕福だったはずだ。蜀漢が、蜀漢の面積よりはるかに大きい魏や呉と張り合うことができた理由の1つは、蜀の国が豊かだったからだ。
 現在、四川省は中国全体から見て貧しい部類に入る。四川省は、人口が約11104万人と中国で一番多い。しかし、一人あたりの年間賃金は2960元(515ドル)で、中国国内では低い側から数えて9番目だ。農村人口は、中国第5位。しかし、農業従業者1人あたりの平均所得は、中国第27位。広東省などに出稼ぎに行く労働者も多く、「川軍」と呼ばれ他の省の出稼ぎ労働者と区別されている。つまり、それだけ数が多いということなのだろう。
 農業や土地に密着した産業で得る収入は、大量生産された工業製品より安くなってしまう。このことが、四川省で農業などを生業にする人を貧しくさせる。四川省でも、都市部に住む人や工業に従事する人は中国の平均より豊かな人が多い。
改革開放の20年は、2000年来の中国における四川省の地位をガラリと変えたらしい。


X.引用と参考文献

1.引用文献

注1...「諸葛孔明 下」 陳舜臣著 中央公論社 1991年発行
      54ページ2行目から6行目まで引用 
注2...「三国志(六)」 吉川英治著 講談社文庫 1981年発行
      99ページ8行目から100ページ7行目まで引用
注3...「三国志(六)」 吉川英治著 講談社文庫 1981年発行
      81ページ13行目から17行目まで引用
注4...「三国志 諸葛孔明ー『天下三分の計』と蜀帝国の栄光」
      株式会社世界文化社 1994年発行
      16ページの一部 引用
注5...「諸葛孔明 下」 陳舜臣著 中央公論社 1991年発行
      45ページ10行目から14行目まで引用
注6...「諸葛孔明 下」 陳舜臣著 中央公論社 1991年発行
      350ページ18行目から351ページ1行目まで引用

2.その他参考文献

・ 「三国志 諸葛孔明ー『天下三分の計』と蜀帝国の栄光」
      株式会社世界文化社 1994年発行
・ 「中国ガイドブック」
・ 「97年版 中国富力」(株)NECクリエイテイブ
・ 「三国志(一)」から「三国志(八)」 吉川英治著
・ 「諸葛孔明 上」と「諸葛孔明 下」 陳舜臣著
・ 「諸葛孔明の世界」 加地伸行編 新人物往来社      
・ 「詳説 世界史」山川出版社 文部省検定教科書
・ 「詳説 日本史」山川出版社 文部省検定教科書